何家業でも人に名人だ上手だといわれますほどの人は、その致します事にも魂、真心が入ると申すことで、とりわけまして絵師などは描いたものに魂が入ったということは、まま聞きますところで、古法眼元信(こほうげんもとのぶ)の描きました馬は夜な夜な脱(ぬ)け出しまして萩を食べたの、誰彼が心をこめて描いた龍は水を飲みに出かけたなどと古来から言い伝えますが、そのうちでも圓山(まるやま)派という一派を広めました、圓山應挙(*2)などという人は名人でございます。
この應挙先生がふだん呑みに出なさる京都のある所に茶店がございましたが、この店は老人夫婦に娘が一人あるというごく真面目に甘味物ばかり食わせる随分流行っている店でござりましたが、ものには盛衰(せいすい)があるもので、近頃はさっぱり客が来ない。
「今日は何かイイ甘味物があるかの。一杯出してくれろ、ナンカ」
とおいでになります。
寂(さび)れたもんですから建物の修繕もろくろくに致しませんから、柱が腐って歪みが出て、ふすまや障子の開け閉めを思うように出来ない。畳はというと一昨年の七月に裏返したっきりで真っ黒になって、ところどころへ未練がましく薬袋(やくたい)なんかを桜の花の形に切って貼り付けて破れをごまかしてある。
先生は娘に酌をさせてお酒を召しあがっておいでだ。そこへ下から上がって参りました主人は、手をつきまして
「先生様、毎度ご贔屓においで下さいましてありがとうございます。こんなむさ苦しい所へ」
「いょっ、、、、誰かと思へばご亭主か。今日のひと皿もうまいわぁ。まぁ一つ呑まんか」
などなど、ものに頓着なさらぬ應挙先生。
主人の老人は盃を受けまして、お店が寂れていることを話しまして、
「どうか先生様、元の様に繁昌するご知恵はございませぬか」
と水っ鼻と涙を交ぜて垂らしておりますと、
「それは気の毒じゃ、、、が心配せんでもいいぞぉ。おれが今度来る時に元の通り店が繁盛するように何か認(したた)めて持ってきてやるからナ」
「それはマァ。ありがとうございます。」
「今度来る時にきっと持って来るゾ」
と、その日はお帰りになった。
四、五日おきまして、先生は風呂敷へ包んだものをご持参しておいでになった。
「サァ、約束だからしたためて持って来た。大げさなのも迷惑であろうと思って、床へかけられるようにして持って来たゾヨ」
と、すぐにその掛け軸を床へ掛けさせまして、その日も相変わらずお酒を飲んでお帰りになった。
後で主人夫婦は喜んでどんなものを描いて下すったかと、例の掛け軸の絵を見ますと、
幅の広い絹地へ、二十歳か十九歳ばかりの美人が、病み上がりと見えまして、髪が乱れてそれが、、、、顔へかかって立て膝をして、右の手で抜けた髪の毛をつかみまして、左の手でこう、、、、、その毛を思わず絞っておりますと、その手へ血が滴っておりまして、そばにぼんやりした薄っ暗い角行燈があるという、このそばに座っておる。
この女が美しいから一層ものすごく、もう四谷怪談のお岩(*3)が洗い場にいるっていうようなもんで、よくは出来ておりますが、潰れかかって今日は店を仕舞うか、明日は戸を締めようかと考えているところへ、この忌(いまは)しい絵でございますから、主人の爺さんは、怒ることまいことか、大層怒りました。
主人夫婦が恐ろしく怒っておりますところへ、應挙先生はいつもの通りやってお出でなさいました。
「どうだな。今日は珍しいものがあるかな。一杯飲ませてくりゃあ」
と、トントン二階へあ上がりになると昨日の掛け軸が床に掛けてある。日ごろ贔屓にして下さる大切なお客様だからいつもは婆さんと娘が飛び出して来て世辞を言うのだが、今日はどうしたものか無愛想で店の空気が悪い。
やがて主人の爺さんが二階へやって参りまして、
「旦那さま、昨日はありがとうございます」
と、礼を言います。
「イヤ、これはご亭主。昨日の掛け軸を早速掛けてくれて喜ばしい。何とよくできたもんだ」
と、少し自慢げにおっしゃると、主人は変な塩梅で。。。。。
「へぃ、、、、、ですが先生様、昨日くださいました掛け軸の絵がどうもちょっと。。。」
と、一旦腹が立ちましたが、さすがに面と向かっては言われませんで、口ごもっておりますのを、早くも見てとった先生、
「あぁそうか、、、、スゴイのを描いてやったたから絵柄が悪いと言うのじゃな」
「へぃ、何でございますかのぉ何で、、実はあのぉ、、ご存じの通り商売が暇でこんなに寂れましたもんだから絵を願いましたので、そこにあんな女の病人なんぞの縁起の悪いもの淋しい絵ではいよいよお客様が来なくなりますから、、、、あれはまぁ真っ平ご免下さいます」
と、額へ汗をたらして手拭で拭きながら拭きながら言います。
先生はお笑いなすって、
「ははは、いかにも亭主、お前が気にかけるのはもっともじゃ。うんうん無理はない。おれが今来た時にいつもと違って、いらっしゃいとも何とも言わないから、どうしたのかなと案じておったところじゃ。
これこれ拙者が言うことをよく聞くがよいぞ。その前に酒を持って来な。コレッ、そう真面目でいてはイカンナ、困るよ、、、。
あれは、こういう訳じゃ。陰は陽に返るといって何事も極限まで行ってしまえば又元に戻るのが自然の道理で、お前の店も同じじゃ。このように寂れ果て今日にも廃業休業やとまで決心するのは、これすなわち陰の極限まで行き着いたのじゃ、この上は元の陽に向かって返るより道はない。
おれが昨日認めてあげた絵もその通りじゃ。女が病に苦しんで死にたい死にたいと思いつめる忌まわしい絵じゃが、これは陰の極限で、もうここまで来たらこれからそろそろ陽気に返るより仕方がないもので、お前の商売もこのように寂れて陰気になったから、これからは昔の陽気に向かうのが順道じゃ。
陰気の絵ではあろうが、おれも腐っても圓山應挙じゃ。心に思うところがあって描いたあの掛け軸、外さずに掛けておけよ。陰が陽に返るきっかけとなろうぞ」
と、いつもの通りお酒を召しあがって先生はお帰りになりました。
後で爺さんと婆さんは額をくっつけて相談しましたが、まあ、ご贔屓の先生があれほどまでに仰ったし、家の掛け軸もみんな売っ払ってしまい何も無いところだからそのまま掛けっ放しにしておきました。
そうすると、たちまちこの評判が京都中に広まって、
「お前、あそこの幽霊の絵を見なすっったか。應挙はえらいモンじゃな。あの女がこう、、、、やっている髪の毛から血がタラタラ滴っているスゴサ。ワシなんぞ夜な夜な夢にうなされたヨ」
「イヤイヤ、ワシはまだ見に行けん。二朱ばかり使って呑みに行って、その掛け軸を見て来るわぃ」
「ほんに、見に行きや。えらいもんじゃゾ」
と、わいわいと市中で噂が飛び交う。
さぁ、繁昌しましたのはこの茶店で、一年ばかりの間に、この掛け軸の絵を見たいとやって来る客で思いがけなく商売が盛んで、二年目の春には壊れかけておりました建物を改修して、元の通り立派な店になったという。
また、應挙先生のお腕前の優れたところも諸人が知りまして、高名の上にさらにまた高名な先生になりまして、諸大名より幽霊の極スゴイのを絹地に描いてくれ、またこっちからは、
「唐紙半切れでいいからちょっと小粋な幽霊なんぞを」
と、山のように御注文があって、現在もっても應挙の幽霊の絵というのは高価なものとなっております。
この應挙先生の幽霊の絵はあながち魂が入って動き出したという訳ではありませんが、名人上手となりますと随分不思議なものがありますもので、高田砂利場村の
大鏡山南蔵院(だいきょうざんなんぞういん)の雌龍雄龍を墨絵で描きました菱川重信という絵書きの先生、この方は元秋元
越中守様の御家中で二百五十石をとっていました、間與嶋伊惣次(まよじまいそうじ)というお人でございましたが、生来絵がお好きで土佐
(*4)狩野(*5)はいうに及ばず應挙、光琳(*5)の技をよく飲み込んで、ちょっと浮世絵の方でも又平(*6)から師宣(もろのぶ)(*7)、宮川長春(*8)などが用いる技法を見破って、その上へ一蝶(いっちょう)の艶のあるところをよく味わって、いかにもお筆先が器用で、ちょっと描く絵が生きているようだという高名を慕いまして、絵を描いて下さいと頼みに来る人が大層あります。
家中ではしきりにこの事の噂が高くなりまして、間與嶋は、絵をよく描くそうだが絵の礼だけで楽に暮らしていける羨ましいなどと、やっかむ輩がたくさんあります。その頃は世間が開けていませんから、少し利口だとか学者だとかいいますと、すぐに公儀からお尋ねがあり、頻繁に詮議がありますから間與嶋は自然とお上に目を付けられまして、何もこれという落ち度もありませんが、ついに永(つい)の暇になりまして、柳島にある大商人がおりましたお屋敷にご縁がありまして、この地へ引き移りました。
御二百五十石もとっていた出のお人だから何不自由なくお好きな絵を描いてお暮らしなさいました。お歳は三十七というので、イイ男ではないが、元がお
武家だからどことなく立派な品の良いお人にて、このまたご家内のおきせ様というのがすこぶるの美人でいらっしゃる。
歳は二十四でございますが、容貌が良いせいか二十歳ぐらいにしか見えませんで、歌舞伎役者の女形瀬川路考(せがわろこう)(*8)にどこやら趣が似ているからというので、、、、誰ということもなく柳島路考、柳島路考と呼ばれていました。
【脚注】
大鏡山南蔵院(だいきょうざんなんぞういん)(*1)