まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【改訳 怪談 乳房榎】 第二講 

 

 

間與島伊惣次(まよじまいそうじ)様のご家内おきせ様は前に述べます通り柳島路考(やなぎしまろこう)という噂をされるほどのすこぶる美人でありますが、かえってこれがその身に災いを及ぼす種と後に思い当たりますが、御夫婦仲は至って睦ましいが、満ちれば欠くるとやらでお子さんがない。

 

よく例えに、金のあるお方を禄人といい、子のある人のことを福人とかいいますが、人の一心は貫くもので、おきせ様が懐妊にごなすって酸っぱいものが食べたいという。

 

重信先生は大喜びで、何でもないのにお医者を呼んで薬を飲ませる、高い所などへは絶対に登ってはならんぞと大事になされます。

 

十月満ちまして宝暦二年の正月元旦に出産なさりました。

 

しかもお生まれになったのは男の子だというので重信先生はコロコロ喜ばれまして、名を眞與太郎(まよたろう)と付けまして、蝶よ花よと慈しんで育てられ成人するのを待ちかねておいでになる。

 

ちょうどその年の三月の事で、向島の桜が真っ盛りで、とりわけ今日は十五日ゆえ梅若忌(*1)でありますから花見がてら参詣(さんけい)しようと、おきせ様は丸髷に結いまして下女と五十一になります正助という下男を供に連れて、重信先生は細身の大小に黒の羽織、浅葱博多の帯、雪駄履きで、眞與太郎を下女に背負わせましてゾロゾロと人ごみの中を、梅若へお参りなさったお帰りに寄りになりましたのは小梅の茶屋でありました。

  

この茶屋の婆さんは柳島近所の者で馴染でありますから、重信先生は店先から

  

「どうした婆さん忙しいかのぉ」

  

と、声をかけ

 

 

「おやまぁ、どなた様かと思いましたら柳島の先生様に奥様かぇ。

 

坊っちゃんをお連れないさいまして、、、、、お花見でありますか。それはまぁよくおいで、、、、チャ。これは正助さん、お花どんもお供で御苦労さま。

  

今日は梅若さまの涙雨。シテ昔からの言い伝えで雨が降るもんでございますが、まぁ降りませんでよいご都合で。もしお子様方をお連れ遊ばして、お降れなすってごらん遊ばせ、それはまぁ大変でございます。

 

おやまぁ、まだお礼を言いませんで、先だっては誠に結構なお菓子をたくさん下さいましてありがとうございます。うちのあなた、爺なんぞは、生れてからあんな結構なお菓子は見たことがないと言いまして喜びましてサ、あなた。ありがとうございました。

 

ササァお茶をひとつ、渋茶ではございますが」

 

 

と、独りでしゃべっております。

 

重信先生をはじめみな、床几へ腰をお掛けなさって眞與太郎に小便などをやらせておられましたが、重信先生は隅の方に腰をかけて、後ろ向きになって弁当を食べております。

 

そして、三十ばかりの色の黒い男に向かって声を掛けまして、

 

「チョイチョイ、そこに居るのは竹六じゃないか」

 

この竹六といいます人は、浅草田原町におります地紙折(じがみおり)(*2)でございますが、現在はそんな者は居ませんが、当時は地紙折といって扇の地紙と骨を箱へ入れて包んで背負(しょ)いましては、花見なんぞの場所へ商いに持って参りますので、これはよく人が即席に絵や書、詩歌などを扇に書きますことが流行りましたから、これをすぐにその座で折りまして骨をさして出すという、それは手際なものだそうでございます。

 

竹六が声のかかった方を見ると、重信でございますから、

 

「いやいや、これはどなたかと存じましたら柳島の先生様、奥様。坊っちゃんをお連れ遊ばしてのお花見。どうも誠にお綺麗で。いぇ、存外ご無沙汰を致しました。イョこれは、正助さん、お花さん、いつも美しいね。今日は奥様のお供で白粉(おしろい)をお付けなさって、普段とは違う。ご容貌がズッと上がるからおかしいもんで、、、、ぇ。

 

ご無沙汰致しましたのは、この三、四月はあなた、書画の会が多うございますので、どこかかしこの席上へ参って欲張面(よくばりづら)で、そばから地紙が売れますもんですから、ついついご無沙汰に相成りましてどうも恐れいります。

 

正助どん、あの節はどうもわけがない。大層酔いましたもんだからさっぱり道を忘れて、とうとうお前さんに送ってもらうなんて。そんなことだと私はちっとも知らないくらいなもんだったもんで、、、」

 

などと、如才なく下女下男にまで世辞を振りまいております。

 

「イヤ、そんなことならよいが、あれきり来(こ)んからどうしたかと思っていたよ。少々頼みたいことがあるからちょっと来てくれんか」

 

「へぃ、早速上がります。ええ、明後日にはきっと上がります」

 

「お前が来ると言うのは当てにならんが。また待ちぼうけはいかんよ」

 

「いぇ、どう致しまして。今度は大丈夫で、なに大丈夫でございます。それに先日願い置きましたあの金地の細物は、まだお認(したた)め下さいませんかナ」

 

「あ、あれかあ。あれはまだ認(したた)めんよ」

 

 

「大方まだとは存じましたが、先方でも急には出来んと思うが、その代わり上がりは先生様のだから期待しているんだと申しておりました。

 

どうもいつも奥様のお美しいこと。この砂っ埃の中をお歩きなすってもちっとも汚れないくらいなものはない。えぇ、坊っちゃん。私でございますよ竹六で、竹六爺やぁさ、えぇ先生によく似ていらっしゃるって瓜お二つで、ひとつお笑いなさいませ」

 

 

と、眞與太郎をあやしております。

 

「それじゃあ竹六、明後日はきっとで。待っとるよ。これ大きに世話であった」

  

と、茶代を幾らか遣わしまして重信主従は出てゆきました。

 

「へぇ、きっと明後日あがります。奥様お気をつけていらっしゃいまし。そこに石がありますから危ねぇよ、お花どん。そそっかしいからいけねえ。坊っちゃんを背負っているんだから気を付けなくちゃあいけません。へぇ、お静かに」

 

と、重信の影の見えなくなるまで見送っております。

 

「竹六さんやぃ、あの奥様はいつ見てもお美しいチ」

 

「美しいなんてかんて。あの奥様は、美しいを通り越しているよ」

 

と誉めておりますと、

 

「ええ、ちょっとお聞きしたい」

 

と、出し抜けに言葉を掛けられましたから竹六はびっくり致し、

 

「へ、へぇ、これはどちら様で。少しも後ろにお出なさるのを存じませんものですから失礼を致しました。何か粗相を致しましたらご免下さいまし」

 

と、何で言葉を掛けられたのだか知りませんから、しきりに謝っております。

 

その侍は、深い八丈の笠を被っておったのを、紐を解いておりました。歳の頃は二十八九くらいで、鼻筋の通った色の浅黒い痩せぎすなお人で、この頃流行りましたとかいいます五分月代(ごぶさかやき)(*3)というやつで、小髷に結って少し刷毛(はけ)を反らしたという七子かなどの紋付に御納戸献上の帯、短い大小を差しまして、

 

「お前に聞きたいと言ったのは、今あちらへ行かれた方は何と申す絵かきの先生じゃな」

 

「へぃ左様で。へぃ何あれは菱川重信先生とおっしゃるお方でほんのお内職同様になさるのでお気が向かわなければ描きなさいません。それというのも御内職でいらっしゃるからで。柳島に立派なお住まいで、絵はまず探幽(*4)をお習いなすったのですが土佐(*5)もよい、浮世絵もよいと、諸流に渡りなすったから一派の風で師宣(もろのぶ)(*6)をお慕いなさるもんですから、御自分で菱川重信とお付けなさいましたが、随分ご名人でいらっしゃいます」

 

「はぁ、左様であったか。実は手前至って絵を好むゆえ、良き師をとって習いたいと思っているが、どうもいわゆる長し短しでまだ師匠と頼むお人を見当たらぬのじゃが、只今の重信先生とやらはいずれの御浪人と見たところ、猛らず中々ご分別がありそうなお方に見受けた。我が師と頼むは重信様じゃと、先ほどからご様子を伺っておった。。。どうか手前、あのお方の弟子になりたいと思うのじゃがいかがであろうな」

 

竹六は、人品のよい人で第一金銭に困りそうもない立派な侍ですから世話しておいたら始終何かとよろしかろうと思い、如才なくすぐに承知しまして、

 

「へぇ、それじゃあなたは絵がお好きで、重信様へご入門がなさりたいって。それは良いお心がけで。なに、私が身分がらこのようなことを言いいましては変ではありますが、あのお方を師匠にお取りなさろうなんては凄いよ。あなたはお目が高いヨ。毎度重信先生もどうか片腕になるような弟子を欲しいものだとおっしゃっていて、それはご都合がいい。奥様もお美しいシ。あなたご入門なさい。先生もきっと喜びます」

 

と、余計なことをしゃべります。

 

「しかも、お内弟子ではいかがでしょうか」

 

「いやいや、内弟子に参るのではない。手前通って習いたいのじゃ。どうじゃ、お世話下さるまいかナ」

 

「それはお安いことで、雑作ございません。わけなしでございます」

 

「それは、早速の御承知でかたじけない。今これにて承ったには、明後日貴公が先生方へお出でのようじゃが、相いなるべくは、その節に私をを御同道下さるまいか」

 

と、この侍は懐中から紙入れを出して、金入れの中からジャラジャラと幾らかの小粒を出しまして紙に包み、

 

「これは甚だ些少(さしょう)じゃがお礼の印じゃ」

 

「いぇ、これは恐れ入りました。これはどうも痛み入りました訳あいで、まだお世話をしない前からお礼をいただくとは。。。。。折角の思し召しですから、、、、、へへへへ頂戴致しておきます」

 

「どうか納めて下されば手前も重畳(ちょうじょう)じゃ」

 

と、竹六は喜びまして、金の包みを懐へモジモジやってしまって、

 

「シテ、あなた様のお宅はどちらですか。手前が明後日参る出かけにちょっとお寄りましてすぐに柳島へお供を」

  

「いやいや、まずお出でには及ばん。手前がそなたのお宅に伺うからいい。手前の家はここに手札があるから差し上げておこうか」

 

と、言いながら手札をだしますから竹六は、

 

「へぇ、これはお手札を。えぇなるほど、、本所撞木橋(しゅもくばし)磯貝波江様よろしゅうございます、磯貝浪江様と、へへへよろしゅうございます。これで分かりまして、きっと明後日はご同道致します」

 

「それでは何分に頼みます。世話であったな」

 

と、茶代を置きまして浪江は立ち出で、この日は互いに別れました。

 

竹六は心の内で、まずこの人を世話しておけば地紙は売れるし、稽古のためだといってどうさ引き(*7)の美濃紙(みのがみ)(*8)の他に絵帳が売れるし、書画会などにも一人でも絵かきの増えた方が商いがあって良い。兎角氏子繁昌(とかくうちこはんじょう)だと。

 

そして、約束を致しましたその日にこの浪江を同道しまして、弟子入り致しました所が、重信も殊のほか喜びまして、早速絵手本を与えなどしましたが、浪江は少しは下地がありますから、ちょっと器用な質(たち)で、この月より毎日通います。

 

くどくどしいところは省きまして申し上げますが、この浪江は以前は谷出羽守様の藩中で百五十石を頂戴した侍の果てで、当時仔細あって浪人はしておりますが、身なりを崩しませんで、前に申し上げました通り歳は二十九で、ちょっと苦み走った男で、諸事如才なく立ち回りまして、まず師匠を大事にするのは不思議です。

 

それに眞與太郎をしきりと可愛がりまして、あの川柳にも「子ぼんのう親ぼんのうの下心」などと申して、誰も我が子の愛には溺れますもので、自然にここのおきせも、浪江さんは親切な人だと思っております。それに下女のお菊なんぞも、折々簪(かんざし)や前垂をぞと買ってやりますから、いやぁ浪江を誉めますこと、

 

「奥様、本当に浪江様の様な良いお方はおりませんなぁ」

 

と評判がよろしゅうございます。

 

今年も三月四月と過ぎまして、ちょうど五月五日のことで、御存じの通り端午の節句というので、方々で吹き流しの鯉が上がっております。

 

玄関へ二人連れでやって来た男は、小石川町萬屋新兵衛という人で今一人は、手織り縞の単物に小倉の一本独鈷(どくこ)(*9)の帯を猫じゃらしの様に締めまして、それで伊勢の壺屋の紙煙草入れを差しておりますが、紐がゆるんでおりますから歩くたんびに取れかかった金物がバタバタいって煙草の粉が出るという極質朴の人で、玄関へ来まして、

 

「へぃお頼み申します、たのもう」

 

  

 

 

【改訳 怪談 乳房榎】 第三講へ続く

 

【脚注】

梅若忌(*1)

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伝承『梅若物語』は、当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」によって描かれています。この物語が、木母寺のはじまりです。
 
平安の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房(これふさ)と美濃国野上の長者の一人娘の花御前がという夫婦がおりました。二人には子供がなく、日吉宮へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。梅若丸が5歳の時、父親の惟房が亡くなり、
梅若丸は7歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。梅若丸は三塔第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。その賢さが災いしたのか、比叡山では東門院の子若松と稚児くらべにあい、東門院の法師達に襲われます。梅若丸は山中に迷い、大津浜へと逃れます。
 
そこで信夫藤太(しのぶのとうた)という人買いに連れ去られ、東国へと向かいます。旅の途中病にかかってしまった梅若丸は、貞元元年の3月15日、隅田川の湖畔で
 
「尋ね来て 問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」
 
との句を残し、12歳という若さで命を落としてしまいました。
 
そこに通りがかった天台宗の僧である忠円阿闍梨(ちゅうえんあじゃり)は、里人と墓を築き、柳を植え弔いました。
 
 
地紙折(じがみおり)(*2) 

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扇の地紙を売り歩いた商人。地紙は扇または傘にはる紙をいい,扇地紙は扇形に切った紙で,これを折って扇にはった。滝沢馬琴の《燕石雑志》(1811)や小川顕道の《塵塚談》(1814)によると,天明(1781‐89)初年ころまで,夏になると江戸の町に見られたようである。地紙形の箱を五つ六つ肩にかつぎ,買手値段が折り合うとその場で折って売った。放蕩ほうとう)のはて親に勘当された道楽息子などが多かったらしく,はでな服装をして役者声色や物まねをして売り歩いたという。

地紙売 とは - コトバンク

 

 

五分月代(ごぶさかやき)(*3) 

 江戸時代、月代が5分ほど伸びた男の髪形。また、そのかつら歌舞伎では浪人・無宿者・病者などの風体

五分月代 とは - コトバンク

 

 

探幽(*4)

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狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日1602年3月7日) - 延宝2年10月7日1674年11月4日))は江戸時代
狩野派を代表する絵師である。狩野孝信の子で狩野永徳の孫にあたる。法号は探幽斎、は守信。早熟の天才肌の絵
師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を
適切に使い分け、画面地の余白をに生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。
 
 
土佐(*5) 

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土佐 光信(とさ みつのぶ、永享6年(1434年)? - 大永5年5月20日1525年6月10日)?)は、室町時代中期から戦国時代にかけての大和絵絵師土佐広周の嗣子で、実際は土佐光弘の子。子に土佐光茂がいる。土佐(常盤)光長土佐光起とともに土佐派三筆と称され、土佐派中興の祖とされる。官位従四位下刑部大輔

土佐光信 - Wikipedia

 

 
師宣(もろのぶ)(*6)

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菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉 - 元禄7年6月4日1694年7月25日〉)とは、近世日本画家江戸初期に活動した浮世絵師の一人。生年は寛永7-8年(1630年-1631年)ともいわれる[1]。享年64-65あるいは77。浮世絵を確立した人であり、すなわち最初の浮世絵師である。
 
 
どうさ引き(*7)
礬水引き(どうさびき)は、日本画の支持体として用いられる和紙や絵絹などのにじみ止めを行う技法です。「生(なま)」の和紙や様々な支持体となるものに礬水引きをします。礬水引きは天気の良い日に行なうのが良いとされ、雨の日や湿度の高い時は礬水がききにくくなります。温度の高い礬水液を引くと和紙の表面が光るので人肌の温度ぐらいが良いとされます。ききにくい場合は温度の高い礬水液を引きます。
 
 
美濃紙(みのがみ)(*8)
美濃和紙(みのわし)とは岐阜県で製造される和紙である。
 
 
独鈷(どくこ)(*9)

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 密教で用いる法具、金剛杵(こんごうしょ)一種鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のもの。独鈷杵(とっこしょ)。とこ。
 縦に1に模した形を連ねて、縞状に織り出した織物。また、その模様。主に帯地で用いる。