【老子道徳経 第五十六章】 貴い者
【今日のこよみ】 旧暦2014年 3月23日 先勝 四緑木星
癸亥 日/己巳 月/甲午 年 月相 22.3 下弦
穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)
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原文知者不言、言者不知。
塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
是謂玄同。
故不可得而親、不可得而疏。
不可得而利、不可得而害。
不可得而貴、不可得而賤。
故爲天下貴。
【書き下し文】
知る者は言わず、言う者は知らず。
その兌(あな)を塞(ふさ)ぎて、その門を閉し、その鋭(えい)を挫(くじ)いて、その紛(ふん)を解(と)き、その光を和(やわら)げて、その塵(ちり)に同(おな)じくす。
これを玄同(げんどう)と謂(い)う。
故に得て親しむべからず、得て疏(うと)んずべからず。
得て利すべからず、得て害すべからず。
得て貴(たっと)ぶべからず、得て賤(いや)しむべからず。
故に天下の貴きとなる。
【私的解釈】
本当に分かっている者は語らない。語る者は何も分かっていない。
五感の穴をふさいで、知識の出入り口を閉ざし、知識への貪欲をへし折って、貪欲が招いたもつれを解きほぐし、外に輝くきらびやかさを和らげて、全ての塵クズと一つとなる。
これを玄同(不可思議な同一)という。
こういう人とは、近づいて親しむことも出来なければ、遠ざけて疎遠にすることも出来ない。
利益を与えることも出来なければ、損害を与えることも出来ない。
貴い地位に就けてやることも出来なければ、卑しい身分に突き落とすことも出来ない。
だからこそ、この世の中で最も貴い者となるのだ。
【雑感】
五感は脳を介在する感覚である。目で見た現象は、脳を通して初めて映像化され、食べた物は、脳を通して初めて味がつく。これが意識というものである。
一方で人間には脳を介在しない感覚が備わっているのだろうか?これについて、数学者の岡潔はこう述べている。
第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「有(う)」という。これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「無(む)」という。しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。何でもすべて本当に大切な部分は無である。だから日本本来のよさというのは無である。ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。戦後すっかりアメリカやソビエトに同調してしまって、言葉で云えないものはないと思っている。戦後に生まれた人達には、学校も家庭も社会も、有ばかり教えた。無を教えなかった。ところが日本というのは、一口に云えば無である。だから戦後に生まれた人には、日本というものがわからなくなってしまった。つまり、日本を知らないのである。それではもはや、日本人ではないと云ってもよい。それで世代の断層というものが出来てしまった。だがそれでも日本民族だから、日本人の頭頂葉を持って生まれてきている。これは健在なようである。だから、何んとなくそれでいけないものを感じはする。しかし、言葉で云えるものが大事なものだと思っている。それが根本的な間違いである。言葉で云えるものなどに、それほど大事なものはない。
第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。真、善、美はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。有の世界に入って後、言葉で云えるのである。
今の日本は、上の岡潔の言葉が腑に落ちる人とチンプンカンプンの人が混在している状態で、これが価値観の格差となり、社会に色々な現象の顕在化を引き起こしているのだろう。
浅い心を第1の心、深い心を第2の心ということにしますと、一切のものは、きれいな小川のせせらぎに石がつかっている、それに陽が当っている、そうします。そうすると、水の中の石は非常にきれいに見える。ところが、取り出して乾かしてみると、極つまらない石です。
人生のこと一切は、この小川のせせらぎにつかっている石のようなものです。その石が第1の心の内容、その小川のせせらぎが第2の心の働き。そんなふうなんです。そういうものだということを今の日本人は全く知らない。だいたいそんなふうです。
この『小川のせせらぎを通してみる石』こそ老子が言う玄同(不可思議な同一)に他ならない。
「にせものの 心身(かたち)ばかりを 我とおもい まことのわれを知る人もなし」
この山崎辨榮 の嘆きの和歌が今の世の中にも木霊となって響いている。