まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【山岡鉄舟 修養論】 生死何れが重きか

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 11月 9日 先勝  四緑木星

         乙亥 日/丁丑 月/甲午 年 月相 8.1 小潮

         冬至 次候 麋角解(さわしかつのおる)  

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 4.5℃ 湿度 62%(大阪 6:00時点)

 

 

 

死の軽きこと鴻毛(こうもう)の如く、義の重きこと山岳の如し、との語意を解するに、何でも角(か)でも死を軽く見る事武士道なるが様に早合点する人往々流行すれど、吾(われ)は左様に思はぬなり。

 

去りながら、一体に死を恐れるは卑怯千万の事にて云ふに足らぬ事なれど、又死を急ぐと云ふに至つては合点のゆかぬ次第なり。此輩等の考へは夜の九ツ時にて寝語(ねごと)の文句なれば、志士たるものは断じて斯の如き夢裡の床に寝込むべからず。

 

全体、俗人は智慧過ぐるが故に、死を急ぐか、死を懼(おそ)れるか、妙に困りものなり。生死に執着する人は迚(とて)も人世の大事を共にする訳にはまいらぬなり。

 

斯の如きは本来我邦の武士道にはなき筈なり。

 

然るを、戦国時代の頃、無暗に殺戮の流行したる為め、一長一短は自然の数(すじみち)にして免ぬかれ難きものと見え、一方には見事武士道の発達を来たし、他方に於いては見苦しき習俗も生じ来りしなるべし。されど、死を急ぎ死を懼(おそ)るるなどは、人生の道理に照して能事とは我れは思はぬなり。

 

生死などに執着しては到底大事は出来ざるものなり。

 

無遠慮に論ずれば、如何なる万変に酬酢するも微(こと)りとも動かず、其難に堪へ忍び、綽々(しやくしやく)として其境遇に坐を占め込んで其大事を処理すると云ふに至つては、其苦心惨澹(さんたん)の状は迚も死ぬる位な手軽では出来ざる筈なり。

 

然るを、そが苦しさに、死して其難を免るるなどは先づ先づ錬胆の実薄く、忠義仁義の誠に乏しき、畢竟、愚鈍の沙汰なりと心得可し。

 

国史を繙(ひもとき)て楠公が湊川に戦死したるの状を質すに、公は決して生死に執着して其生命を墓(はか)なく為せしとは訾られぬ事なり。公は、死を急ぎ死を懼(おそ)るる輩等と同日の論にはあらざるなり。

 

又、小松内府が、其父清盛の不忠は見るに忍びずとて熊野の社に詣で、死を祈りし事ありとて大に之を罵る人あり。最も、死を祈りし事も或はありしなるべし。去りながら、こはあまり史家として早斷議の評論にはあらざる可きか。

 

公が形に死を祈るが如くに装ひしは、果して無差別に死を急ぎしものなるか。鉄太郎は、内府の行磧前後に徴して左様には思はぬなり。吾れは内府に同情を奇するの一人なり。去りながら、以上二公の正否は必らずしも管々(くだくだ)しく案じ廻すの要なきなり。

 

以上愚感謹識

 

安政六年己未(きび)三月三日

 

山岡鐵太郎 誌

  

 

 

【私的解釈】

 

死ぬことを羽毛のように軽く考え、義を貫くことを山岳のように昇竜させて貫くべきであると言われるように、とにかく死を軽く見ることが武士道であると早合点している人が蔓延っているようであるが、私はこのようには考えない。

 

そうと言っても、死をいたずらに恐れる者は卑怯千万の事であり言うまでもないが、「死を急ぐべきである」と言われることには合点がいかないのである。このような輩達の思想は、夢中の寝言の文句であるので、志士たるものは決してこのような戯言(たわごと)の思想に浸るべきではない。

 

おおよそ、凡人は智慧が回るが故に死に急ぐか、逆に死を恐れるかと極端に振れるので困る。己の生死に執着してしまっては、自分以外のモノを大事にしようとする思いは決して湧き出ない。

 

こういう思想は、本来の我が国の武士道とは違うものである。 

 

国史を振り返ると、戦国時代の頃は、無暗(むやみ)な殺戮が当たり前のこととなっていたため、物事が陰陽という自然の道理から外れることはやはり難しいと見えて、一方では見事な武士道が発達したが、他方では見苦しい習慣も定着してしまったようである。そうと言っても、死を急ぎ死を恐れるということは、人生の法則に照らしても誉められたことだとは私は思わないのである。

 

生死なんぞに執着していては、到底大事など出来るわけがないのだ。憚らずに言えばどのような出来事に遭遇しても表情をコトリとも変えずに、そのやって来た難事を耐え忍び、泰然としてその巡り合わせを向かい入れ、この一連の出来事に遭遇して生ずる心の内で湧き出づる苦々しい思いの丈は、死んでしまえば逃れられると言った生易しいモノではないのである。例え肉体が死んでもその難事は来世まで己にまとわり付いてくるのである。

 

これを勘違いして、死ねばその難事から開放されると考える浅はかさは、全くもって肝が座っておらず、忠義仁義の誠からも程遠い。言ってしまえば馬鹿の行為だと心得ておくべきである。

 

国史を遡り、楠木正成公が神戸湊川で自刃(*1)した時の状態を鑑みれば、正成公は生死に執着してその命の灯火を自らの手で消したのだとはとても非難出来ない。正成公のこの行為と死を急ぎ死を恐れるヤカラ共の行為とは同じ次元にはないのである。 

 

また、小松内府(平重盛公)が父親清盛公の不忠な振る舞いを見るに忍びずに熊野の社に詣でて自らの死を祈り、死んで来世に逃げ込もうとしていた(*2)ではないかと言って声を大きくして罵る人がいる。確かに自らの死を祈ったこともあったかもしれない。しかしながら、この言い草は史家としては結論を先走ってはいないだろうか。

 

重盛公は表面上は死を望んで祈っていたが、果たして無暗に死に逃げ込もうとしていたのであろうか。鉄太郎は、重盛公の生き様を鑑みれば、そのようには到底思わない。私は、重盛公に思いを寄せる一人である。そうは言っても、上記の二公の生き様に対する評価の私論をここでくどくどと言葉にしようとも思わない。

 

以上、私の思うところをここに記す。

 

 

安政六年(1859年)己未(きび)3月3日

 

山岡鉄太郎 したたむ

 

 

1859年(安政6年) / 幕末年表

 

 

楠木正成公が神戸湊川で自刃(*1)

楠木正成を祀る神戸の名社|湊川神社(楠公さん)-神戸市中央区

 

 

小松内府(平重盛公)が父親清盛公の不忠な振る舞いを見るに忍びずに熊野の社に詣でて自らの死を祈り、死んで来世に逃げ込もうとしていた(*2)

平重盛(たいらのしげもり。1137~79)


清盛の嫡男。保元の乱平治の乱では父 清盛とともに奮戦。功をあげ、平家全盛の時代には正二位内大臣になりました。また熊野三山造営奉行も務めました。

 

平家物語』では、清盛のみごとな悪役振りに対して、重盛は好人物に描かれています。

 

たとえば1170年10月16日、重盛の次男 資盛(すけもり1161~1185当時、越前守五位、13歳)の一行が摂政従一位藤原基房(1144~1230)の一行と路上で行き会ったとき、当然、身分の低い資盛側が馬から降りて、行列が過ぎるのを待たなければならないのですが、資盛は下馬の礼儀を取りませんでした。基房側はその無礼に資盛らを馬から引きずり落として、辱めを与えました(史実では7月3日)。

 

これを知った清盛は報復に出ようとしますが、重盛は資盛の非礼を戒め、清盛の暴走を抑えようとします。しかし、清盛は、参内途中の基房を60余人の武士に襲撃させるという報復を実行。重盛は怒り、それに関わった武士を勘当し、資盛をしばらくの間、伊勢国に流します(史実では重盛が襲撃させたらしい。慈円の日記『愚管抄』にはそう書かれています)。

 

また、平家打倒を謀議していた後白河上皇とその近臣たちに対して、清盛は容赦ない処罰をくだそうとしますが、重盛はその制止に奔走。首謀者の藤原成親は当然、処刑にするはずでしたが、重盛の説得にあって、流罪に減刑しました。後白河上皇に対しては、鳥羽の離宮に移して軟禁しようとまで清盛は考えていましたが、やはり重盛の説得にあって、上皇についてはお咎めなしということになりました。

重盛は、清盛に対してものをいうことができる、清盛の横暴を抑えることができる唯一の人物でした。

 

さて、俊寛僧都が、鬼界ヶ島で他界した年(1179年)の5月12 日の正午頃、都をつむじ風が襲いました。凄まじい突風に、数多くの人家が吹き飛ばされ、多くの人や牛馬の命も失われました(史実としては1180年4月29日)。

 

ただごととは思われないので、神祇官陰陽寮が占ったところ、「今から100日のうちに、大臣の身に凶事が起こり、更に天下に一大事が起こる。そして仏法・王法ともに 衰微して、戦乱が相次いで起こる」その前兆だ、とのこと。


これを聞いた内大臣左大将、平重盛は、熊野に詣でます。巻第三「医師問答」。

 

小松の大臣(平重盛のこと。小松谷に屋敷があり、小松を号した)は、このような事どもをお聞きになって、何事につけ心細く思われたのだろう、その頃、熊野参詣をすることがあった。本宮証誠殿(しょうじょうでん)の御前で、夜もすがら願いごとを申し上げなさるには、

 

「父入道相国の様子を見るに、悪逆無道にして、なにかにつけて帝を悩まし奉っております。重盛は長子としてしきりに諌めをいたしておりますが、我が身不肖のため、父は私の忠告に心をとめてくれません。その振舞いを見るに、父一代の栄華もやはり危ういものです。一族が、親の名を天下に上げ、その功績を後世にとどめることは難しいでしょう。

 

このときにあたって、重盛が身分不相応にも思うことがあります。なまじっか重臣の席に列して栄枯盛衰に身をさらすことは、まったく良臣、孝子の法ではありません。名を逃れ身を退いて、今生の名望を投げ捨て、来世の菩提(死後、浄土に往生して仏果を得ること)を求める以外にはありますまい。

 

ただし煩悩に束縛され果報の劣った我が身の悲しさ、善悪の判断に迷うためにやはり出家の志を貫くことができません。南無権現金剛童子(熊野権現護法神である金剛童子)、願わくは子孫繁栄絶えることなく、仕えて朝廷にまじわることができるために、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得させてください。もし栄華が父一代限りで終わって子孫が恥を受けるのならば、重盛の寿命を縮めて、来世での苦しみを助けてください。二つの願い、ひたすら神仏の助けを仰ぎます」

 

と、心を砕いて祈念されたところ、灯籠の火のようなものが重盛の御身から出て、ばっと消えるかのように失せてしまった。たくさんの人が見申し上げていたけれども、恐れてこのことを申し上げなかった。

 

また、下向(神仏に参詣して帰ること)のとき、岩田川をお渡りになったところ、嫡子権亮(ごんのすけ)少将維盛(これもり)以下の公達が浄衣の下に薄紫色の衣を着ていて、夏のことなので、なにということもなく川の水で戯れてなさっていたところ、浄衣が濡れて下に着た衣の薄紫色が透けているのが、まったく薄炭色の喪服のように見えたので、筑後守貞能(さだよし)がこれを見とがめて、

 

「なんということでしょう。あの御浄衣がひどく不吉な様子にお見え申し上げます。お着替えなさるのがよいのではないでしょうか」

 

と申し上げたところ、重盛は、


「私の願いはすでに成就した。その浄衣はまったく改める必要はない」

 

といって、とくに岩田川から熊野へ謝意を示す御礼の幣を奉る使者を遣わされた。人々は変だとは思ったけれども、重盛の真意を理解することはできなかった。けれども、この公達は、ほどなく本当の喪服を着なさることになった。不思議なことである。

 

下向ののち、幾許の日数を経ずして、重盛は病にかかりなさった。熊野権現がすでに願いをご納受してくださったのだからといって、治療もなさらず、祈祷もされない。病の治療に清盛が宋の名医を差し向けようとすると、重盛は「異国の医師を都に入れることは国の恥だ」と断ります。

 

そして、7月28日に出家。そのわずか3日後の8月1日に亡くなります。

 

誠実・温厚な人柄で人望の厚かった重盛の死に京中の人々が嘆きあいました。清盛の横暴を抑えることができた唯一の人物が失われてしまったのです。
 

清盛も、長男の重盛に先立たれてよほど辛かったのでしょう、京都を離れて福原に下り、門を閉ざして家の中に引き篭ってしまいました。

 

同じ年の11月7日の夜、地震が起き、陰陽頭 安倍泰親(あべのたいしん。安倍晴明の五代の子孫)は大きな災難が起こる前兆だと占いました。その占いに不安になった京の人々の間で、「清盛が数千騎の軍兵を率いて都に入った」「清盛が朝廷に対し、恨みを晴らす行為に出るのだ」との噂が駆け巡りました。

 

そして、11月16日、清盛は、強権発動。関白藤原基房以下、43人の公卿・殿上人の官職を停止し、流罪に処し、新関白には、内大臣も兼任で、清盛の娘婿の藤原基通(もとみち)を就かせました。二位中将から中納言、大納言を経ずして大臣・関白にさせるという、無茶苦茶な人事でした。11月20日、とうとう、重盛という抑えを失った清盛は、後白河法皇を鳥羽の離宮に遷し、軟禁するという暴挙に出てしまったのです。 

平家物語4 平重盛の熊野詣:熊野の説話

 

 

 

【雑感】

 

ある程度の年数を生きてくると嫌でも自分のことが良く分かって来るものである。そして、思うことは難事から逃げ出しても必ずその難事は私の後を追いかけて来て今度は一段階大きくなって私の前に必ず立ちはだかる。経験上逃げても逃げても逃げられないことを知っている。恐らく死に逃げ込んでも逃げ切れないだろう。生まれ変わっても同じ難事が私の前に立ちはだかることとなるにちがいない。

 

私たちの多くは死ねば全てが終わると無邪気に信じている。死んだ後どうなるかは誰にも分からないのにだ。科学の論理をああだこうだと振りかざすヤカラもいる。科学なんてこの宇宙上のあらゆる事象のほんのほんの一塵を詳らかにしたに過ぎないのに、死の先を語ると非科学的だと言い捨てるヤカラども。

 

死ねば全てが終わると教えられてきた結果、年間の自殺者が3万人も越えるに至った。いじめに立ち向かわないで死に逃げ込む子供たち。借金や人間関係から逃れる為に死に逃げ込む大人たち。何故、周りに助けを求めないで死に逃げ込むのか。死のその先がどうなっているのかを今生きている私たちに伝えて来た人は誰一人も居ない事実があるのにもかかわらず、死んだら今ある苦から逃げられると何故思うのであろうか。残された周りの人たちの思いをズタズタに切り裂き死に逃げ込む身勝手さ。今の日本は平和を装いながらも実態は地獄そのものだ。

 

山岡鉄舟が言う死に執着しないとは、肉体が死んでも心は死なないという思想を前提としている。だからこそ、楠木正成は神戸湊川で、幕末の多くの志士は日本のそこかしこで、日清・日露戦争、先の戦争では太平洋や大陸のそこかしこで多くの戦士が死んで行ったにもかかわらず、彼等の肉体が潰えた後もその生き様が私たち日本人の心の中に鮮やかに生きている。

 

「肉体死すとも思いは死なず」

神代から日本人はこの思想を真理だと思ってきたからこそ、国や自分の周りの人たちを思い遣り、必要とあれば自分の命に執着しない生き様を当たり前とするよう日々鍛錬して来たのである。

 

 

その精神が衰えるとどのような様相を世の中が見せるのかが以下のニュースに現れている。

 


子どもを車上生活や路上生活に陥らせ白骨化し遺棄する日本社会-貧困なくす公的支出が欧州の半分もない日本(井上伸) - 個人 - Yahoo!ニュース

 


自販機の裏で暖を取り眠る子ども、車上生活のすえ座席でミイラ化し消えた子どもたちの声が届かない日本社会(井上伸) - 個人 - Yahoo!ニュース

 


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