まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【怪談牡丹灯篭 十九】 陽気ますます盛んに類を呼ぶ 之編 

 
考助は新幡随院(しんばんずいえん)にて主人の法事を仕舞い、其の帰り道に遁(のが)れ難き剣難あり、浅傷か深傷か、運がわるければ斬り殺される程の剣難ありと、新幡随院の良石和尚という名僧智識の教えに相川新五兵衞も大いに驚き、考助はまだ漸(ようや)く二十二歳、殊に可愛いい娘の養子といい、御主の敵を打つまでは大事な身の上と、いろいろ心配をしながら打ち連れ立ちて帰る。
 
考助はたとえ如何なる災があっても、それを恐れて一歩でも退くようでは大事を仕遂げる事は出来ぬと思い、刀に反を打ち、目釘を湿(しめ)し、鯉口を切り、用心堅固に身を固め、四方に心を配りて参り、相川は重箱を提げて、考助殿気を付けて行けと言いながら参りますると、向こうより薄(すすき)だたみを押し分けて、血刀を提げ飛び出して、物をも言わず孝助に斬り掛けました。
 
この者は栗橋無宿の伴藏にて、栗橋の世帯(しょたい)を代物付(しろものつき)にて売り払い、多分の金子をもって山本志丈と二人にて江戸へ立ち退き、神田佐久間町の医師何某は志丈の懇意ですから、二人はここに身を寄せて二三日逗留し、八月三日の夜二人は更けるを待ちまして忍び来たり、根津の清水に埋めて置いた金無垢の海音如来の尊像を掘り出し、伴藏は手早く懐中へ入れましたが。
 
伴藏の思うには、我が悪事を知ったは志丈ばかり、このままに生け置かば後の恐れと、伴藏は差したる刀抜くより早く飛びかかって、出し抜けに力に任して志丈に斬り付けますれば、アッと倒れる所を乗し掛り、一刀逆手に持ち直し、肋(あばら)へ突き込みこじり廻せば、山本志丈は其の儘にウンといって身を震わせて、忽ち息は絶えましたが、この志丈も伴藏に与(くみ)し、悪事をした天罰のがれ難くかかる非業を遂げました。
 
死骸を見て伴藏は後へさがり、逃げ出さんとする所、御用と声掛け、八方より取り巻かれたに、伴藏も慌てふためき必死となり、捕方へ手向いなし、死物狂いに斬り廻り、ようやく一方を切り抜けて薄(すすき)だたみへ飛び込んで、往来の広い所へ飛び出す出合いがしら、伴藏は眼もくらみ、これも同じ捕方と思いましたゆえ、ふいに孝助に斬り掛けましたが、大概の者なれば真っ二つにもなるべき所なれども、流石は飯島平左衞門の仕込みで真影流に達した腕前、殊に用意をした事ゆえ、それと見るより考助は一歩退きしが、抜き合わす間もなき事ゆえ、刀の鍔元(つばもと)にてパチリと受け流し、身を引く途端に伴藏がズルリと前へのめる所を、腕を取って逆に捻倒(ねじたお)し。
 
「やいやい曲者何と致す」
 
「へい真っ平御免下さえまし」
 
「そら出たかえ、考助怪我は無いか」
 
「へい怪我はございません、こりゃ狼藉者め何らの遺恨で我に斬り付けたか、次第を申せ」
 
「へいへい全く人違いでごぜえやす」
 
と小声にて、
 
「今この先で友達と間違いをした所が、皆が徒党をして、大勢で私を打ち殺すと言って追い掛けたものだから、一生懸命にここまでは逃げて来たが、目がくらんでいますから、殿様とも心付きませんで、とんだ粗相を致しました、どうかお見逃しを願います、そいつらに見付けられると殺されますから、早くお逃しなすって下されませ」
 
「全くそれに違いないか」
 
「へい、全く違えごぜえやせん」
 
「ああ驚いた、これ人違いにも事によるぞ、斬ってしまってから人違いで済むか、べらぼうめ、実に驚いた、良石和尚のお告げは不思議だなアおや今の騒ぎで重箱を何処かへ落としてしまった」
 
とあたりを見まわしている所へ、依田豊前守(よだぶぜんのかみ)の組下にて石子伴作、金谷藤太郎という両人の御用聞が駆けて来て、考助に向かい慇懃に、
 
「へい申し殿様、誠に有難う存じます、この者はお尋ね者にて、旧悪のある重罪な奴でござります、私共はあすこに待ち受けていまして、つい取り逃がそうとした処を、旦那様のお蔭でようやくお取り押えなされ、有難うございます、どうかお引き渡しを願いとう存じます」
 
「そうかえ、あれは賊かい」
 
「大盗賊でござります」
 
「お父様呆れた奴でございます、この不埓者め」
 
「なんだ、人違いだなぞと嘘をついて、嘘をつく者は盗賊の始りナニとうに盗賊にもうなっているのだから仕方がない、すぐに縄を掛けてお引きなさい」
 
「殿様のお蔭でようやく取り押え、誠に有り難う存じます、どうかお名前を承わりとう存じます」
 
「不浄人を取り押えたとて姓名なぞを申すには及ばん、これこれこれ重箱を落したから捜してくれ、ああこれだこれだ、危なかったのう」
 
「しかしお父様、何分悪人とは申しながら、主人の法事の帰るさに縄を掛けて引き渡すはどうも忍びない事でございます」
 
「なれども左様申してはいられない、渡してしまいなさい、早く引きなされ」
 
捕方は伴藏を受け取り、縄打って引き立て行き、その筋にて吟味の末、相当の刑に行われましたことはあとにて分ります。
 
さて相川は考助を連れて我が屋敷に帰り、互いに無事を悦び、その夜は過ぎて翌日の朝、考助は旅支度の用意の為め、小網町辺へ行っていろいろ買物をしようと家を立ち出で、神田旅籠町へ差し懸る、向うに白き幟(のぼり)に人相墨色(すみいろ)白翁堂勇齋とあるを見て、考助は
 
「ははアこれが、昨日良石和尚が教えたには今日の八ツ頃には必ず逢いたいものに逢う事が出来ると仰せあった占者だな、敵の手掛りが分かり、源次郎お國にめぐり逢う事もやあろうか、何にしろ判断して貰おう」
 
と思い、勇齋の門辺に立って見ると、名人のようではござりません。
 
竹の打ち付け窓に煤(すす)だらけの障子を建て、脇に欅(けやき)の板に人相墨色白翁堂勇齋と記して有りますが、家の前などは掃除などした事はないと見え、塵だらけゆえ、考助は足を爪(つま)立てながら中に入り、
 
「おたのみ申します。おたのみ申します
 
「なんだナ、誰だ、開けてお入り、履物をそこへ置くと盗まれるといけないから持ってお上がり」
 
「はい、御免下さいまし」
 
と言いながら障子を開けて中へ通ると、六畳ばかりの狭い所に、真っ黒になった今戸焼の火鉢の上に口のかけた土瓶をかけ、茶碗が転がっている。脇の方に小さい机を前に置き、その上に易書を五六冊積上げ、傍(かたえ)の筆立には短かき筮竹(ぜいちく)を立て、その前に丸い小さな硯を置き、勇齋はぼんやりと机の前に座しました態は、名人かは知らないが、少しも山も飾りもない。
 
じじむさくしている故、名人らしい事は更になけれども、考助はかねて良石和尚の教えもあればと思って両手を突き、
 
「白翁堂勇齋先生は貴方様でございますか」
 
「はい、始めましてお目にかかります、勇齋は私だよ、今年はもう七十だ」
 
「それは誠に御壮健な事で」
 
「まアまア達者でございます、お前は見て貰いにでも来たのか」
 
「へい手前は谷中新幡随院(しんばんずいいん)の良石和尚よりのお指図で参りましたものでございますが、先生に身の上の判断をしていただきとうございます」
 
「ははア、お前は良石和尚と心安いか、あれは名僧だよ、智識だよ、実に生き仏だ、茶はそこにあるから一人で勝手にくんでお上り、ハハアお前は侍さんだね、何歳だえ」
 
「へい、二十二歳でございます」
 
「ハア顔をお出し」
 
と天眼鏡を取出し、暫くのあいだ相を見ておりましたが、大道の易者のように高慢は言わず
 
「ハはアお前さんはマアマアの家柄の人だ、してこれまで目上に縁なくして誠にどうも一々苦労ばかり重なって来るような訳になったの」
 
「はい、仰せの通り、どうも目上に縁がございません」
 
「そこでどうもこれまでの身の上では、薄氷を蹈むが如く、剣の上を渡るような境界で、大いに千辛万苦(せんしんばんく)をした事が顕(あら)われているが、そうだろうの」
 
「誠に不思議、実によく当りました、私の身の上には危い事ばかりでございました」
 
「それでお前には望みがあるであろう」
 
「へい、ございますが、その望みは本意が遂げられましょうか如何でございましょう」
 
「望み事は近く遂げられるが、そこの所がちと危ない事で、これという場合に向いたなら、水の中でも火の中でも向こうへ突っ切る勢いがなければ、必ず大望は遂げられぬが、まず退くに利あらず進むに利あり、こういう所で、悪くすると斬り殺されるよ、どうも剣難が見えるが、旨く火の中水の中を突っ切って仕舞えば、広々とした所へ出て、何事もお前の思う様になるが、それは難かしいから気を付けなけりゃいけない、もうこれ切り見る事はないからお帰りお帰り」
 
「へい、それにつきまして、私とうより尋ねる者がございますが、これはどうしても逢えない事とは存じて居りますが、其の者の生死は如何でございましょう、御覧下さいませ」
 
「ハハア見せなさい」
 
と又相して、
 
「むむ、これは目上だね」
 
「はい、左様でございます」
 
「これは逢っているぜ」
 
「いいえ、逢いません」
 
「いや逢っています」
 
「もっとも今年より十九年以前に別れましたるゆえ、途中で逢っても顔も分らぬ位でありまするから、一緒に居りましても互いに知らずに居りましたかな」
 
「いやいや何でも逢って居ます」
 
「少さい時分に別れましたから、事に寄ったら往来で摩(す)れ違った事もございましょうが、逢った事はございません」
 
「いやいやそうじゃない、たしかに逢っている」
 
「それは少さい時分の事故」
 
「ああうるさい、いや逢っているというのに、他には何も言う事はない、人相に出ているから仕方がない、きっと逢っている」
 
「それは間違いでございましょう」
 
「間違いではない、きめた所を言ったのだ、それより外に見る所はない、昼寝をするんだから帰っておくれ」
 
とそっけなく言われ、考助は後を細かく聞きたいからもじもじしていると、また門口より入り来たるは女連れの二人にて、
 
「はい御免下さいませ」
 
「あゝ又来たか、昼寝が出来ねえヤイ、おお二人か何一人は供だと、そんならそこに待たしてこっちへお上がり」
 
「はい御免くだされませ、先生のお名を承わりまして参りました、どうか当用の身の上を御覧を願います」
 
「はいこっちへお出で」
 
と又この女の相をよくよく見て、
 
「これは悪い相だなア、お前はいくつだえ」
 
「はい四十四歳でございます」
 
「これはいかん、もう見るがものはない、ひどい相だ、一体お前は目の下にごく縁のない相だ、それに近々の内きっと死ぬよ、死ぬのだから他に何にも見る事はない」
 
と言われて驚き暫く思案を致しまして、
 
「命数は限りのあるもので、長い短かいは致し方がございませんが、私は一人尋ねるものがございますが、其の者に逢われないで死にます事でございましょうか」
 
「フウムこれは逢っている訳だ」
 
「いえ逢いません、もっとも幼年の折りに別れましたから、先でも私の顔を知らず、私も忘れたくらいな事で、すれ違ったくらいでは知れません」
 
「何でも逢っています、もうそれで他に見る所も何もない」
 
「其の者は男の子で、四つの時に別れた者でございますが」
 
という側から、考助はもしやそれかと彼の女の側に膝をすりよせ、
 
「もし、お内室様(おかみさん)へ少々伺いますが、いずれの方かは存じませんが、只今四つの時に別れたと仰しゃいます、その人は本郷丸山辺りで別れたのではございませんか、そしてあなたは越後村上の内藤紀伊守様の御家来澤田右衞門様のお妹御ではございませんか」
 
「おやまアよく知ってお出でです、誠に、はいはい」
 
「そして貴方のお名前はおりゑ様とおっしゃって、小出信濃守様の御家来黒川孝藏様へお縁附になり、其の後御離縁になったお方ではございませんか」
 
「おやまア貴方は私の名前までお当てなすって、大そうお上手様、これは先生のお弟子でございますか」
 
と言うに、考助は思わず側により、
 
「オオお母様お見忘れでございましょうが、十九年以前、手前四歳の折お別れ申した忰の考助めでございます」
 
「おやまアどうもマア、お前がアノ忰の考助かえ」
 
「それだから先刻から逢っている逢っていると云うのだ」
 
おりゑは嬉し涙を拭(ぬぐ)い、
 
「どうもマア思い掛けない、誠に夢の様な事でございます、そうして大層立派にお成りだ、こういう姿になっているのだものを、表で逢ったって知れる事じゃアありません」
 
「誠に神の引き合せでございます、お母様お懐かしゅうございました、私は昨年越後の村上へ参り、段々御様子を伺いますれば、澤田右衞門様の代も替わり、お母様のいらっしゃいます所も知れませんから、どうがなしてお目に懸りたいと存じていましたに、図らずここでお目に懸り、先ずお壮健でいらッしゃいまして、こんな嬉しい事はございません」
 
「よくマア、さぞお前は私を怨んでおいでだろう」
 
「そんな話をここでしては困るわな、しかし十九年ぶりで親子の対面、さぞ話があろうが、いらざる事だが、供に知れても宜くない事もあろうから、どこか待ち合いかどこかへ行ってするがいい」
 
「はいはい、先生お蔭様で誠に有難うございました、良石様のお言葉といい、貴方様の人相のお名人と申し、実に驚き入りました」
 
「人相が名人というわけでもあるまいが、皆こうなっている因縁だから見料はいらねえから帰りな、ナニちっとばかり置いて行くか、それも宜かろう」
 
「いろいろお世話様、有り難う存じました、考助やいろいろ話もしたい事があるからこうしよう、私は今馬喰町三丁目下野屋という宿屋に泊っているから、お前よ一ト足先へ帰り、供を買物に出すから、其の後へ供に知れないように上がっておいで」
 
「さぞ嬉しかろうのう」
 
「さようならば、これからすぐ見え隠れにお母様のお跡に付いて参りましょう、それはそうと」
 
と言いつつも懐中より何程か紙に包んで見料を置き、厚く礼を述べ白翁堂の家を立ち出で、見え隠れに跡をつけ、馬喰町へまいり、下野屋の門辺に佇(たたづ)み待って居るうちに、供の者が買いものに出て行きましたから、考助は宿屋に入り、下女に案内を頼んで奥へ通る。
 
「サアサァサァこっちへ来な、本当にマアどうもねえ」
 
と言いながら考助をつくづき見て、
 
「見忘れはしませぬ幼顔、お前の親御孝藏殿によく似ておいでだよ、そうして大層立派におなりだねえ、お前がお父様の跡を継いで、今でもお父様はお存生でいらッしゃるかえ」
 
「はい、お母様この両隣の座敷には誰も居りは致しませんか」
 
「いいえ、私も来て間もないことだが、昼の中は皆買物や見物に出かけてしまうから誰もいないよ、日暮方は大勢帰って来るが、今は留守居が昼寝でもしている位だろうよ」
 
「フウ、左様なら申上げますが、お母様は私の四つの時の二月にお離縁になりましたのも、お父様があの通りの酒乱からで、それからお父様は其の年の四月十一日、本郷三丁目の藤村屋新兵衞と申す刀屋の前で斬り殺され、無慙な死をお遂げなされました」
 
「おやまア矢張御酒ゆえで、それだから私アもうお前のお父さんでは本当に苦労を仕抜いたよ、あの時もお前という可愛い子があることだから、別れたいのではないが、兄が物堅い気性だから、あんな者へ付けては置かれん、酒ゆえに主家をお暇になるような者には添わせて置かんと、無理無体に離縁を取ったが、お行方の事はこの年月忘れた事はありませぬ、そうしてお父様が亡くなっては、跡で誰もお前の世話をする者がなかったろう」
 
 
「さアお父様の店受彌兵衞と申しまする者が育てて呉れ、私が十一の時に、お前のお父さんはこれこれで死んだと話して呉れました故、私もたとえ今は町人に成ってはいますものの、元は武家の子ですから、成人の後は必ずお父様の仇を報いたいと思い詰め、屋敷奉公をして剣術を覚えたいと思っていました。
 
縁有って昨年の三月五日、牛込軽子坂に住む飯島平左衞門とおっしゃる、お広敷番の頭をお勤めになる旗本屋敷に奉公住まいを致した所、其の主人が私をば我が子のように可愛がってくれましたゆえ、私も身の上を明かし、親の敵が討ちたいから、どうか剣術を教えて下さいと頼みましたれば、殿様は御番疲れのお厭(いと)いもなく、夜までかけて御剣術を仕込んで下されました故、思いがけなく免許を取るまでになりました」
 
 
「おやそう、フウンー」
 
「すると其の家にお國と申す召し使いがありました、これは水道端の三宅のお嬢様が殿様へ御縁組になる時に、奥様に附いて来た女でございますが、其の後奥様がお逝(かく)れになりましたものですから、このお國にお手がつき、お妾となりました所、隣家の旗本の次男宮野邊源次郎と不義を働き、内々主人を殺そうと謀(たくら)みましたが、主人は素より手者の事故、容易に殺すことは出来ないから、中川へ網船に誘い出し、船の上から突き落して殺そうという事を私が立ち聞きしましたゆえ、源次郎お國をひそかに殺し、自分は割腹してもどうか恩ある御主人を助けたいと思い、昨年の八月三日の晩に私が槍を持って庭先へ忍び込み、源次郎と心得突き懸けたは間違いで、主人平左衞門の肋(あばら)を深く突きました」
 
「おやまアとんだ事をおしだねえ」
 
 
「サア私も驚いて気が狂うばかりに成りますと、主人は庭へ下りて来て、ひそひそと私への懴悔話に、今より十八年前の事、貴様の親父を手に掛けたはこの平左衞門がまだ部屋住まいにて、平太郎と申した昔の事。
 
どうかその方の親の敵と名乗り、貴様の手に掛りて討たれたいとは思えども、主殺しの罪に落とすを不便に思い、今日までは打ち過ぎたが、今日こそ好い折りからなれば、かくわざと源次郎の態をして貴様の手にかかり、猶委細の事はこの書置に認め置いたれば、跡の始末は養父相川新五兵衞と共に相談せよ、貴様はこれにて怨を晴してくれ、然る上は仇は仇恩は恩、三世も変らぬ主従と心得、飯島の家を再興してくれろ、急いで行けと急き立てられ、養家先なる水道端の相川新五兵衞の宅へ参り、舅と共に書置を開いて見れば、主人は私を出した後にてすぐに客間へ忍び入り源次郎と槍試合をして、源次郎の手に掛り、最後をすると認めてありました書置の通りに、遂に主人は其の晩果敢なくおなりなされました。
 
又源次郎お國は必ず越後の村上へ立ち越すべしとの遺書にありますから、主の仇を報わん為め、養父相川とも申し合せ、跡を追いかけて出立致し、越後へ参り、諸方を尋ねましたが一向に見当らず、又あなたの事もお尋ね申しましたが、これも分りません故、余儀なくこの度主人の年囘(ねんかい)をせん為めに当地へ帰りました所、ふと今日御面会を致しますとは不思議な事でございます」
 
 
と聞いて驚き小声に成り、
 
 
「おやマア不思議な事じゃアないか、あの源次郎とお國は私の宅にかくまってありますよ、
 
どうもまア何たる悪縁だろう、不思議だねえ、私が二十六の時黒川の家を離縁になって国へ帰り、村上に居ると、兄がしきりに再縁しろとすすめ、不思議な縁でお出入りの町人で荒物の御用を達す樋口屋五兵衞というものの所へ縁付くと、そこに十三になる五郎三郎という男の子と、八ツになるお國という女の子がありまして、其のお國は年は行かぬが意地の悪いとも性の悪い奴で、夫婦の合中(あいなか)を突っついて仕様がないから、十一の歳江戸の屋敷奉公にやった先は、水道端の三宅という旗本でな。
 
その後奥様附で牛込の方へ行ったとばかりで後は手紙一本も寄越さぬくらい、実に酷い奴で、夫五兵衞が亡くなった時も訃音を出したに帰りもせず、返事もよこさぬ不孝もの。
 
兄の五郎三郎も大層に腹を立っていましたが、その後私共は仔細有って越後を引き払い、宇都宮の杉原町に来て、五郎三郎の名前で荒物屋の店を開いて、最早七年居ますが、つい先達てお國が源次郎という人を連れて来ていうのには、私が牛込のあるお屋敷へ奥様附で行った所が、若気の至りに源次郎様と不義私通ゆえにこのお方は御勘当となり、私故に今は路頭に迷う身の上だから、誠に済まない事だが匿まってくれろと言って、そんな人を殺した事なんぞは何とも言わないから、源次郎への義理に今は宇都宮の私の内にいるよ。
 
私はこの間五郎三郎から小遣いを貰い、江戸見物に出掛けて来て、まだこちらへ着いて間も無くお前に巡り逢って、この事が知れるとは何たら事だねえ」
 
 
「ではお國源次郎は宇都宮におりますか、つい鼻の先に居ることも知らないで、越後の方から能登へかけ尋ねあぐんで帰ったとは、誠に残念な事でございますから、どうぞお母様がお手引きをして下すって、仇を討ち、主人の家の立ち行くように致したいものでございます」
 
「それは手引きをして上げようともサ、そんなら私はすぐにこれから宇都宮へ帰るから、お前は一緒にお出で、だがここに一つ困った事があるというものは、あの供がいるから、これを聞き付け喋られると、お國源次郎を取逃がすような事になろうも知れぬから、こうと……」 
 
思案して、
 
「私は明日の朝供を連れて出立するから、今日のようにお前が見え隠れに跡を追って来て、休む所も泊る所も一つ所にして、互いに口をきかず、知らない者の様にして置いて、宇都宮の杉原町へ往ったら供を先へ遣って置いて、そうして両人で合図をしめし合わしたら宜かろうね」
 
「お母様有り難う存じます、それではどうかそういう手筈に願いとう存じます、私はこれよりすぐに宅へ帰って、舅へこの事を聞かせたならどのように悦びましょう、左様なら明朝早く参って、この家の門口に立って居りましょう、それからお母様先刻つい申し上げ残しましたが、私は相川新五兵衞と申す者の方へ主人の媒妁で養子にまいり、男の子が出来ました、貴方様には初孫の事故お見せ申したいが、この度はお取り急ぎでございますから、何れ本懐を遂げた後の事にいたしましょう」
 
「おやそうかえ、それは何にしても目出度い事です、私も早く初孫の顔が見たいよ、それについても、どうか首尾よくお國と源次郎をお前に討たせたいものだのう、これから宇都宮へ行けば私がよき手引きをして、きっと両人を討たせるから」
 
と互いに言葉を誓い考助は暇を告げて急いで水道端へ立ち帰りました。
 
「おや考助殿、大層早くお帰りだ、いろいろお買物が有ったろうね」
 
「いえ何も買いません」
 
「なんの事だ、何も買わずに来た、そんなら何か用でも出来たかえ」
 
「お父様どうも不思議な事がありました」
 
「ハハ随分世間には不思議な事も有るものでねえ、何か両国の川の上に黒気(こくけ)でも立ったのか」
 
「左ようではございませんが、昨日良石和尚が教えて下さいました人相見の所へ参りました」
 
「成程行ったかえ、そうかえ、名人だとなア、お前の身の上の判断は旨く当たったかえ」
 
「へい、良石和尚が申した通り、私の身の上は剣の上を渡る様なもので、進むに利あり退くに利あらずと申しまして、良石和尚の言葉といささか違いはござりません」
 
「違いませんか、成程智識と同じ事だ、それから、へえそれから何の事を見て貰ったか」
 
「それから私が本意を遂げられましょうかと聞くと、本意を遂げるは遠からぬうちだが、遁(のが)れ難い剣難が有ると申しました」
 
「へえ剣難が有ると言いましたか、それはごく心配になる、又昨日のような事があると大変だからねえ、その剣難はどうかして遁れるような御祈祷でもしてやると言ったか」
 
「いえ左ような事は申しませんが、貴方も御存じの通り私が四歳の時別れました母に逢えましょうか、逢えますまいかと聞くと、白翁堂は逢っていると申しますから、幼年の時に別れたる故、途中で逢っても知れない位だと申しても、何でも逢っていると申し遂に争いになりました」
 
「ハアそこの所は少し下手糞だ、しかし当たるも八卦当たらぬも八卦、そう身の上も何もかも当たりはしまいが、強情を張ってごまかそうと思ったのだろうが、そこの所は下手糞だ、なんとか言ってやりましたか、下手糞とか何とか」
 
「すると後から一人四十三四の女が参りまして、これも尋ねる者に逢えるか逢えないかと尋ねると、白翁堂は同じく逢っているというものだから、その女はなに逢いませんといえば、きっと逢っていると又争いになりました」
 
「ああ、こりゃからッぺた誠に下手だが、そう当たる訳のものではない、それには白翁堂も恥をかいたろう、お前と其の女と二人で取って押えてやったか、それからどうした」
 
「さア余り不思議な事で、私も心にそれと思い当る事もありますから、其の女にはおりゑ様と仰しゃいませんかと尋ねました所が、それが全く私の母でございまして、先でも驚きました」
 
「ハハア其の占は名人だね、驚いたねえ、成程、フム」
 
これより考助はお國源次郎両人の手懸りが知れた事から、母としめし合わせた一伍一什(いちぶしじゅう)を物語りますると、相川も驚きもいたし、又悦び、誠に天から授かった事なれば、すみやかに明日の朝遅れぬように出立して、目出度く本懐を遂げて参れという事になりました。
 
翌朝早天(早朝)に仇討に出立を致し、是より仇討は次に申上げます。
 
 
 

天網恢恢(かいかい)疎にして漏らさず(前篇) 之編に続く