まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

スティーブ・ジョブズと岡潔の想いに馳せる

  

【今日のこよみ】 旧暦2014年 11月 13日 大安 

         己卯 日/戊寅 月/乙未 年 月相 12.1 Gibbous moon 中潮

         冬至 末候 雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)  

 

 【今日の気象】 天気 晴れ 気温 0.8℃ 湿度 55%(大阪 6:00時点)

 

 

 

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

年齢を重ねるに連れて時の流れを早く感じます。このお正月に時について考えてみた。

 

私たちは時は未来が今となってそして過去になる直線的なモノだと信じています。何故、時の流れを直線的なモノだと言い切れるのでしょうか?そもそも、時って本当に流れているのでしょうか?

 

2005年6月12日のスタンフォード大学での卒業式において、今は亡きスティーブ・ジョブズが演説を行った。時について考えていると、この演説の内容が頭に浮かんだのでここに全文引用する。

 

今日、皆が世界最高の大学の1つを卒業する場に同席できて光栄に思う。私は大学を卒業したことがない。本当のところ、これは私にとって最も大学卒業に近い体験だ。今日は皆に私の人生から3つの話をしたい。それだけだ。大したことじゃない。3つだけだ。

 

最初の話は点をつなぐことについて。

 

私はリード大学を6ヶ月で中退したが、更に1年半ほど後に完全に辞めるまで、もぐりの学生として大学に顔を出していた。ではなぜ中退したのか。

 

話は私が生まれる前に遡る。私の産みの母は若い未婚の大学院生で私を養子に出すと決めていた。生みの母は養父母は大学卒でなければととても強く思っていたので、私は生まれると同時に弁護士夫妻の養子になるよう万事整っていた。ところが、私が生まれるとその夫妻は女の子が欲しかったと言い出した。そこで待機者リストに載っていた私の両親は夜中に電話を受け、「望んでいなかった男の子が生まれました。この子を養子に欲しいですか?」と聞かれた。両親は「もちろんです」と答えた。産みの母はその後、私の母は大学を卒業していないし、私の父は高校を卒業していないことを知り、最終的な養子縁組の書類に署名することを拒んだ。何ヶ月かして私の両親が私を大学にやると約束した時点で産みの母はやっと態度を緩めた。

 

そして17年後私は実際に大学に通った。しかし、私は無邪気にもスタンフォードとほとんど同じくらいお金のかかる大学を選び、労働者階級の両親の蓄えはすべて大学の授業料に使われていた。6ヵ月後私はそれに価値が見出せなかった。私は人生で何をしたいか見当も付かなかったし、大学がそれを見つけるのにどう役に立つかも分からなかった。そして、その時点で私は両親がそれまでに貯めたすべてのお金を食いつくしつつあった。そこで中退を決意し、万事問題ないと信じることにした。その時はとても不安だったが、振り返って見ればそれはこれまでにした最良の決断の1つだった。中退した瞬間から興味を持てない必須科目の授業に出るのを止め、面白そうなものに出席し始めることができた。

 

夢のようなことばかりではなかった。寮に自分の部屋はないので友達の部屋の床で寝て、コークの瓶を何本も店に返して1本当たり5セントを受け取って食べ物を買い、クリシュナ教の寺院で1週間に1回のまともな食事をとるために毎週日曜日の夜、街を横断して7マイル歩くことも厭わなかった。そんな日々がたまらなく好きだった。そして、自分の興味と直感に従った結果出くわしたものの多くは、その後、お金に換えがたいものとなった。たとえばこうだ。

 

当時のリード大学はたぶん、この国で最高の文字芸術(calligraphy)の授業を行っていた。キャンパス中のすべてのポスター、すべての引き出しのラベルが美しく手書きされていた。私は中退していて普通の授業を受ける必要はなかったので、文字芸術の授業を取ってその手法を学んだ。セリフとサンセリフの書体について、文字の組み合わせによって文字間のスペースを変えることについて、素晴らしい印刷物は何が素晴らしいのか、を学んだ。それは美しく、歴史的で、科学では捉えられない芸術的繊細さで、私には魅力的だった。

 

これらのどれも私の人生で実際に活用する見込みはなかった。しかし10年後最初のマッキントッシュを設計しているときにそれが私に蘇ってきた。そしてそれをすべてマッキントッシュの設計に取り入れた。マッキントッシュは文字を美しく表示し印刷できる最初のコンピューターとなった。私が大学を中退してその授業を受けていなければ、マックが複数の書体やプロポーショナルフォントを持つことはなかっただろう。そしてウィンドウズはマックをコピーしただけなので、どのパソコンも持たなかっただろう。私が大学を中退しなかったら、その文字芸術の授業を受けなかっただろうし、パソコンは現在のように素晴らしい文字表示・印刷機能を備えることはなかったかも知れない。もちろん私が大学に居たときに先を見越して点をつなぐことは不可能だった。しかし10年後に振り返ると、とてもとても明白だった。

 

繰り返す。先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じなければならない。何かを信じなければならない。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、私の人生に大きな違いをもたらした。

 

2番目の話は大切なものとそれを失うことについて。

 

私は幸運だった。人生の早い時点でたまらなく好きなことを見つけた。20歳のとき私は実家の車庫でウォズといっしょにアップルを始めた。私たちは懸命に働いて、10年でアップルは車庫のたった2人から4000人以上が働く20億ドル企業になった。1年前に私たちの最高の創造物であるマッキントッシュを出したばかりで、私は30歳になったばかりだった。そして私は首になった。どうしたら自分が作った会社を首になれるかって?そう、会社が成長する過程で一緒に会社を経営するのにとても才能のあると思えた人を雇い、最初の1年ほどはうまくいった。しかしその後、将来のビジョンが分かれ始め最終的に仲たがいとなった。そうなったとき取締役会は彼の側に付いた。それで私は30歳にして失職した。しかも、とてもおおっぴらに。私は大人としての人生全体の中心だったものを失い、それは衝撃的だった。

 

何ヶ月か何をすべきか全く分からなかった。一世代前の起業家達を失望させたのではないかと感じた。私に渡されつつあったバトンを落としてしまったと。デービッド・パッカードとボブ・ノイスと会った。そして、失敗してしまったことを謝ろうとした。私はよく知られた落伍者となり、シリコンバレーから逃げることも考えた。しかし、何かが徐々に私の中で湧き上がってきた。自分がしてきたことが、まだたまらなく好きだった。アップルでの出来事はほんの少しの影響も与えなかった。私は拒絶されたが、まだたまらなく好きだった。そして私はやり直すことを決意した。

 

そのときには分からなかったが、アップルを首になることは私に起こり得る最善のことだった。成功していることによる重圧は、再び新参者となったことによる軽快さで置き換えられ、何事にも確信の度合いが減った。私は人生で最も創造性豊かな時期へと解き放たれた。

 

それから5年間、私はNeXTという会社を起こし、もう1つPixarという会社も起こし、素晴らしい女性と恋に落ち結婚した。Pixarは世界初のコンピューターアニメーションの長編映画、トイストーリーを製作するまでになり、現在最も成功しているアニメーション制作会社だ。驚くべき事態の展開により、アップルはNeXTを買収し、私はアップルに戻り、NeXTで開発された技術は現在進行中のアップルのルネッサンスの中核をなしている。そして、ローレンスと私は素晴らしい家庭を築いている。

 

私がアップルを首にならかったら、これらのことは1つも起こらなかったと私は確信している。ひどい味の薬だったが、この患者には必要だったのだと思う。人生は時にレンガで頭を殴る。信じることを止めてはいけない。私は自分がしていることがたまらなく好きだ。それが私を動かし続けている唯一のものだと堅く信じている。たまらなく好きなことを見つけなければならない。そしてそれは仕事についても愛する人についても真実だ。仕事は人生の大きな部分を占めることになり、真に満足を得る唯一の方法は偉大な仕事だと信じることだ。そして偉大な仕事をする唯一の方法は自分がしていることをたまらなく好きになることだ。まだ見つけていないなら探し続けなさい。妥協は禁物だ。核心に触れることはすべてそうであるように、それを見つければ分かる。そして素晴らしい関係は常にそうであるように、それは年を経るにつけてどんどん良くなっていく。だから見つかるまで探し続けなさい。妥協は禁物だ。

 

3番目の話は死について。

 

17歳のとき次のような一節を読んだ。「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずその通りになる」。それは印象に残り、それ以来33年間毎朝鏡を見て自問している。「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」。そしてその答えがいいえであることが長く続きすぎるたびに、私は何かを変える必要を悟った。

 

自分が間もなく死ぬことを覚えておくことは人生の重要な決断を助けてくれる私が知る限り最も重要な道具だ。なぜならほとんどすべてのこと、つまり、他の人からの期待や、あらゆる種類のプライド、恥や失敗に対するいろいろな恐れ、これらのことは死を前にしては消えてしまい、真に重要なことだけが残るからだ。いつかは死ぬということを覚えておくことは落とし穴を避けるための私が知る最善の方法である。何かを失うと考えてしまう落とし穴を。あなたはもう丸裸だ。自分の心のままに行動しない理由はない。

 

約1年前私はガンと診断された。朝7:30にスキャンを受け、膵臓にはっきりと腫瘍が映っていた。私は膵臓とは何かも知らなかった。医者達はこれはほぼ間違いなく治癒しない種類のガンだと告げ、3ヶ月から6ヶ月より長くは生きられないと覚悟するように言った。医者は家に帰って身辺整理をするように勧めた。これは医者の言葉で死の準備をせよということだ。子供にこれから10年間に教えようと思っていたことすべてをたったの数ヶ月で教えろということだ。可能な限り家族が困らないように万事準備が整っていることを確かめておけということだ。別れの言葉を言っておくようにということだ。

 

私は一日中その診断と共に過ごした。夜になって生体検査を受けた。つまり、内視鏡を喉、胃、腸を通して膵臓に針を刺し腫瘍から何個か細胞を採取したのだ。私は鎮静剤で眠っていたが妻もそこに居たのでその時の様子を教えてくれた。医者達は細胞を顕微鏡で見ると叫び出したそうだ。なぜなら非常に稀な形体の膵臓ガンで手術で治癒可能なものと判明したからだ。私は手術を受け今は全快している。

 

これはこれまでで最も死に接近した体験だ。そして何十年かに渡ってこれが最接近であり続けて欲しいと願っている。この体験を経て、死が有用ではあるが純粋に概念上のものであった時よりはより自信を持って次のように言える。

 

死を望む者はいない。天国へ行くことを望む人でさえ、そのために死にたいとは思わない。それでもなお死は我々すべてが共有する運命だ。それを免れた者はいない。そしてそうあるべきなのだ。なぜなら死はほぼ間違いなく生命による最高の発明だからだ。死は生命に変化をもたらす主体だ。古き物を消し去り新しき物に道を確保する。現在は皆が新しき物だが、いつかそう遠くない将来皆は徐々に古き物になり消し去られる。芝居がかった表現で申し訳ないが正に真実だ。

 

皆の時間は限られているから誰か他の人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない。教条主義の罠にはまってはならない。教条主義とは他の人々の思考の結果に従って生きることだ。他の人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。心と直感は本当になりたい自分をどういうわけか既に知っている。その他すべてのことは二の次だ。

 

私が若い頃、全地球カタログという驚くべき出版物があった。私の世代の必読書の一つだった。スチュアート・ブランドという人物が、ここからそう遠くないメンロ・パークで制作し、詩を思わせる作風を施して世に送り出した。1960年代後半でパソコンもそれによる印刷もなく、タイプライターとはさみとポラロイドカメラだけで作られていた。グーグル誕生の35年前のペーパーバック版グーグルのようなものだ。理想に満ちていて、巧妙な道具や偉大な概念が溢れている。

 

スチュアート達は全地球カタログの版を幾つか重ね、自然な成り行きとして最終版を迎えた。それは70年代半ばで私は皆の年齢だった。最終版の裏表紙は朝の田舎道の写真で、冒険好きがヒッチハイクをしていそうな場面だ。その下にこんな言葉がある。「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」。これはスチュアート達が活動を終えるに当たっての別れの言葉だ。ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。そして私は常にそうありたいと願ってきた。そして今、皆が卒業して新たに歩みを始めるに当たり、皆もそうあって欲しいと思う。

 

ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。

 

ご静聴どうもありがとう。

 

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式スピーチ - himazu archive 2.0

 

 


スティーブ ・ジョブズ・スタンフォード大・2005年・卒業式スピーチ - YouTube

 

 

 

繰り返す。先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じなければならない。何かを信じなければならない。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、私の人生に大きな違いをもたらした。 

 

期待と不安があざなう未来が今という刹那となり、あっという間にカチカチに固まって書き換えられることの出来ない過去となる。明るい夢と少しの不安で彩られた未来予想図が今の私の体験にスキャンされて、実績という凍結された過去となる。これが時の流れだ。時は、私がこの世の中に存在するから流れているのだ。私が抱く想いと私の経験の絶え間ない循環により私の思い出が積み重ねられて行く。

 

スティーブ・ジョブズがカルマという言葉を使っていることは特筆すべきところだ。原文はこうだ。

You have to trust in something ― your gut, destiny, life, karma, whatever.

上の訳ではgutを「直感」と訳しているが、ここは「情緒」とした方が良い。karmaは「輪廻転生」と訳する。

あなた方は信念を持たなければならない。情緒や宿命や運命、輪廻転生といった、あなた方が目に見ることの出来ない力の存在を信じなければならないのだ。

 

 

情緒について数学者の岡潔はこのように言っている。

人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。だから私は理性するとなる。これ非常に大事なことです。それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。

 

ギリシャ人や欧米人、主としてギリシャ人や欧米人を指して西洋人と云うことにしますが、西洋人は、ギリシャや欧米の文献をどんなに調べてみても、第1の心以外を知ったと云う痕跡は見当らない。だから西洋人は第1の心のあることしか知らないのだと思う。

 

ところが人には第2の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。

 

で、本当は第2の心のあることを知らないのを西洋人と云い、ほのかにでも知っているのを東洋人と云っているのです。それが定義になる訳ですね。特に日本人は第2の心のあることが非常によくわかる。もし、西洋かぶれさえしてなかったら、心が第1の心だけしかない等と、そう云うはずがないと云うことが直ぐにわかる。

 

と云うのは日本人は、大体第2の心の中に住んでて、時々第1の心が現れるだけです。例えばですね、人は本当の友情と云うものを、日本人ならば知ってるでしょ。本当の友情と云うのを感じるのは意識を通して感じるんじゃないでしょう。これは第2の心が感じるんですね。私と云うものも入らない。又私の叔父の友人に中学校の先生がありました。だから戦前の中学校の先生。この先生が歌を詠んだ。こう云う歌です。

 

むかわずば淋しむかえば笑まりけり

桜よ春のわが思い妻

 

こう云う意味の夫婦仲とか、或いは人と桜の間とかこれは意識を通さないでわかるでしょう。第2の心がわかるんですね。それから人の真心に感銘した経験を持つ日本人は多いでしょう。その時、人の真心に感銘する心は無私だったでしょう。それから人の真心に感銘する感銘の仕方は、意識と云うものを通さなかったでしょう。

 

その他芭蕉は、秋風はもの云わぬ児も涙にて、と云ってますが、秋風が吹くともの悲しいですね。このもの悲しいと云うのは私がもの悲しいんじゃないでしょう。つまり喜怒哀楽じゃないでしょう。自からもの悲しいんでしょう。又、もの悲しいと意識しないでしょう。直下にもの悲しいんでしょう。だからもの悲しさも第2の心がわかるんですね。時雨が降れば懐しい。この懐しいも又第2の心が直下にわかるんですね。

 

こんな風に、私、それを情緒と呼んでいますが、日本人は自然や人の世の情緒の中に住んでいる。そしてそこで時々喜怒哀楽し、意欲するし、理性するだけですね。住んでいるのはむしろ、自然や人の世と云いますが、自然や人の世の情緒の中に住んでるでしょう。

 

情緒とは私の入れられないもの、感情ではありません。感覚でもありません。例えば秋風がもの悲しい。それから時雨が懐しい、例えば、友と二人いると自ずから心が満たされる。こう云うの皆情緒ですね。“むかわずば淋しむかえば笑まりけり桜よ春のわが思い妻”と云うのも情緒です。

 

こんな風に、第2の心のあることがよくわかります。一番よくわかるでしょう。日本人は情緒の中に住んでいるから。情緒は第2の心の中のものだから。

 

さて、ここで東洋の先覚者の云う所を聞きますと、例えばこう云っているのです。 

 

自然は一口に云えば映像である、それから人の体も映像である。第1の心も映像である。この映像と云うのは、テレビの映像の様なあわただしく全体が変ってしまう映像ではない。しかし徐々にしか変らん部分とそれからその大切な部分は急速に変わる部分と二つ持っている。しかしながらこれはやはり映像ですね、存在ではない映像です。

 

で、自然は映像である。五尺の体も映像である。第1の心も映像である。第2の心だけが常に存在する。そう云ってるのです。普通これを五蘊皆空ごうんかいくう唯有識心ゆいうしきしんと云う風に云います。五蘊皆空と云うのは、五尺の体も物質の五原素の仮に集まったものだ、欲心と云われてる第1の心も五原素の仮に集まったものだ。唯有識心と云うのは第2の心だけが、これ識と云ったり識心と云ったり、心の原素です。これだけが常に存在するのだ。この五蘊皆空、唯有識心、と云う云い方は禅で云います。同じ様な云い方を般若心経でもしています。こういったものは少なくとも2千年前から云ってると思う。

 

それから万法唯心と云う云い方もあります。これはすべてのことの原因は心にあると云う意味です。この云い方なら釈尊の昔からあったでしょう。それから山崎弁栄上人は、一口に云えば、物質は第2の心の世界から生れて来てまたそこへ帰って行くのだ、こう云う意味になることを云ってられます。だから体は第2の心の映像だ、とそう云うことになりますね。第1の心も第2の心の映像だ。第2の心だけが常に存在する。だから本当の自分とは、第2の心だと云うことになる。そして常に存在するんだから、不死だと云うことになります。

 

第2の心を自分と自覚した人を目覚めた人と云い、そうでない人をねむっている人と云うとよいと思います。目覚めた人のことを仏教では仏、大菩薩と云い、日本では天つ神と云います。中国で聖人と云われている人には目覚めている人が多い様です。又仙人とか神仙とか云われてる人達の中にも、目覚めてる人はいると思います。

 

ギリシャには目覚めてる人は見当たらない。欧米には、キリスト教の中で目覚めた人はいただろうと思いますが、外には目覚めている人は見当らない。

 

この、第2の心の世界ですが、二つの第2の心は二つとも云える、一つとも云える。

 

不一不二と云うんです。不一不二と云ったら二つとは云えない一つとも云えないのですが、この自然と自分とは不一不二、他人と自分とも不一不二、こう云う風。

 

この第2の心の世界はその要素である第2の心は二つの第2の心が不一不二だと云うのだから数学の使えない世界です。又この世界には自分もなければ、この小さな自分ですよ、五尺の体と云う自分もなければ、空間もなければ時間もない。時はあります。現在、過去、未来、皆あります。それで時の性質、過去の性質、時は過ぎ行くと云う性質はあります。しかし時間と云う量はありません。そんな風ですね。自分もなければ空間もなければ時間もない。その上数学が使えない。物質はここから生まれて来て、又ここへ帰って行っているのだと云う意味になることを、山崎弁栄上人が云って居られる。

 

そんな風に不一不二だから目覚めた人はこんな風になる。

 

花を見れば花が笑みかけているかと思い、鳥を聞けば鳥が話しかけているかと思い、人が喜んで居れば嬉しく、人が悲しんで居れば悲しく、人の為に働くことに無上の幸福を感じ疑いなんか起こらない。こんな風です。

岡潔講演録(3):【 1】 人には心が2つある

 

 

明らかにスティーブ・ジョブズは、岡潔が言う「第二の心」の存在を自覚していた。

 

そして、

時は自分の思い通りには流れることは決してない。しかし、私に執着する科学的な論理から離れて、無私の非論理的な情緒の広がる世界の存在を勇気を持って信じてみて下さい。その瞬間にあなたは不死身となり、あなたは、時の流れを縦横無尽に行き来することが出来るのです。この手法によって、私は過去の点と点を線で繋げることが出来、結果として私の人生に違いが生じたのです。

と訴えかけている。

 

自分が間もなく死ぬことを覚えておくことは人生の重要な決断を助けてくれる私が知る限り最も重要な道具だ。なぜならほとんどすべてのこと、つまり、他の人からの期待や、あらゆる種類のプライド、恥や失敗に対するいろいろな恐れ、これらのことは死を前にしては消えてしまい、真に重要なことだけが残るからだ。いつかは死ぬということを覚えておくことは落とし穴を避けるための私が知る最善の方法である。何かを失うと考えてしまう落とし穴を。あなたはもう丸裸だ。自分の心のままに行動しない理由はない。

 

私を今悩ましている第一の心から止めどなく湧き出る感情の多くは、死とともに消え去ってしまい、第二の心が抱く想いのみが死の後に残される。この思想はこの世を生き切る知恵となる。この残された第二の心が抱く想いは不死身なので後に生きる人たちに永遠に受け継がれて行くだろう。だとしたら、死と共に消え去ってしまう感情に振り回されるという落とし穴にはまらずに、第二の心が抱く想いのままに行動しない理由はない。

 

 

死を望む者はいない。天国へ行くことを望む人でさえ、そのために死にたいとは思わない。それでもなお死は我々すべてが共有する運命だ。それを免れた者はいない。そしてそうあるべきなのだ。なぜなら死はほぼ間違いなく生命による最高の発明だからだ。死は生命に変化をもたらす主体だ。古き物を消し去り新しき物に道を確保する。現在は皆が新しき物だが、いつかそう遠くない将来皆は徐々に古き物になり消し去られる。芝居がかった表現で申し訳ないが正に真実だ。

 

死を望む者はいない。「死とは、あの世に帰ることなのだ」と考える者でさえ現世を離れる時は辛い感情が湧き出るだろう。死は肉体と私欲にまみれた第一の心と無私の第二の心を切り離す、欠くことの出来ない通過儀式なのだ。この死という生命による最高の発明により、第二の心が抱く人類にとって真に大切な無私なる想いのみが後世の人たちに受け継がれて人類の発展に寄与することとなるのだ。これこそが死の恩恵なのだ。

 

 

皆の時間は限られているから誰か他の人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない。教条主義の罠にはまってはならない。教条主義とは他の人々の思考の結果に従って生きることだ。他の人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。心と直感は本当になりたい自分をどういうわけか既に知っている。その他すべてのことは二の次だ。

 

肉体と第一の心そして第二の心の三者が備わり、私の意思を存分にこの世の中に反映出来るのは生きている間だけなのです。この貴重な時間を無駄にしてはいけない。他人の教えに従うという罠にはまってはいけない。他人の意見という雑音に自分の内なる心の声をかき消されないようにしよう。そして、最も重要なことは、自分の第二の心が抱く想いに従う勇気を持つことだ。あなたの第二の心は、人類がこの世に誕生してから生き続けている。つまり、輪廻転生を何回も経験しているのだ。だから第二の心は、本当になりたい自分というモノを漏れ無く知っている。この事実の前にその他すべてのことは二の次となるであろう。

 

 

岡潔の思想でスティーブ・ジョブズの言葉を言い換えると上のようになるだろう。

 

そして、このスティーブ・ジョブズのスピーチが日本人の多くに共感される理由も日本人ならば腑に落ちるであろう。

 

時は、直線的に流れているのではなく、螺旋状に循環しているのだ。そして、岡潔は言う。

この第2の心の世界はその要素である第2の心は二つの第2の心が不一不二だと云うのだから数学の使えない世界です。又この世界には自分もなければ、この小さな自分ですよ、五尺の体と云う自分もなければ、空間もなければ時間もない。時はあります。現在、過去、未来、皆あります。それで時の性質、過去の性質、時は過ぎ行くと云う性質はあります。しかし時間と云う量はありません。そんな風ですね。自分もなければ空間もなければ時間もない。その上数学が使えない。物質はここから生まれて来て、又ここへ帰って行っているのだと云う意味になることを、山崎弁栄上人が云って居られる。

 

そんな風に不一不二だから目覚めた人はこんな風になる。

 

花を見れば花が笑みかけているかと思い、鳥を聞けば鳥が話しかけているかと思い、人が喜んで居れば嬉しく、人が悲しんで居れば悲しく、人の為に働くことに無上の幸福を感じ疑いなんか起こらない。こんな風です。

 

上の言葉の全てを飲み込むことは、私にまだなかなか出来ないが、ここに、今の世界と対極の情緒あふれる世界が広がることとなる。

 

岡潔が最近テレビにも取り上げられた。これは、日本人の中で岡潔の思想に共感する人たちが増えていることの証左だろう。

 

日本人は戦後、スティーブ・ジョブズが言うドグマ(教条主義)に振り回されて来た。今年は戦後70年の節目である。この機会に、今一度日本人ではないスティーブ・ジョブズが遺した言葉を噛み締めてみたいと思う。

 

 


世界が驚愕した謎多き日本の天才数学者 岡潔 【林修】 - YouTube