まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 十七】 經濟の根元致富(ちふ)の術

【今日のこよみ】 旧暦2014年 4月23日 友引  四緑木星

         壬辰 日/庚午 月/甲午 年 月相 21.9 下弦 中潮

         小満 初候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)     

 

【今日の気象】 天気 雨 気温 16.4℃ 湿度 67% (大阪 6:00時点) 

 

 

翁曰く。
 
米は多く藏につんで少しづつ炊き、薪は多く小屋に積んで焚く事は成る丈少くし、衣服は着らるるやうに拵(こし)らへて、なる丈着ずして仕舞ひおくこそ、家を富ますの術なれ。
 
則ち國家經濟の根元なり。天下を富有にするの大道も、其の實(実)この外にあらぬなり。

 

 

 

【私的解釈】

 

尊徳翁が言う。

 

米をたくさん蔵に貯蔵し少しづつ食べ、薪をたくさん小屋に積んで少なく使い、衣服は着られるように拵(こしら)えながらなるだけ着ずに仕舞っておくということこそ、家にお金が貯まる方法である。

 

各々の家庭でこのことが実行されて、国の経済の根幹が出来上がる。世の中が富み栄えるという大道も、突き詰めればこの実行以外ないのである。

 

 

 

【雑感】

 

二宮尊徳が説く話は、極当たり前のことであり、誰が聞いても納得のいく話である。しかし、心に思うことと、実際に実行に移すこととの間の隔ては大きい。

 

先日、「あっ。ナルホド」という記述を目にしたので記録しておく。

 

今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分)、ただ箇々のこの心、この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事(人界の現象と見て可なり)によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。

 

科学のみで今日まで知れたところでは、輪廻ということはたしかにあるごときも、科学のさわること能わざる心界に輸廻行なわるるや否やという問いには、実に答えに苦しむ。

 

何となれば、小生今日悪念を生じたりとて明日別にこれがために懊悩(おうのう)せず。多くは忘れ終わるものなり。されば物界に生ずる、これこれの水をこれこれの温度にたけば、これこれの蒸気を生じてこれこれの大きさの物を動かすというとわかり、心界に生ずる現象はあるいはつねに報あらぬものにやとも思われる。(仏教徒も多少この事の変化を知りたればこそ、十二因縁等の目も出でたるなり。)

 

これをきわむるには、小生一人の心できわむるよりほか仕方ないが、右に申すごとく、心界中のみには輸廻ということは、たしかに小生には見えぬ。

(明治二十六年十二月二十一日書簡)

 

南方熊楠 の手紙である。 

 

【私的解釈】

今の学者達は、心の中(おもゐ)と現実をそれぞれ切り離して論究している者達ばかりだ。私は、心の中(おもゐ)と現実が交わって生じる現象(これがこの世の中に現れる現象と呼ぶモノだろう)を研究して、心の中(おもゐ)の世界と現実の世界の異なるところや同じところを知りたいのである。

 

科学のチカラが及ぶ現実の世界では、因果則が存在する。では、科学のチカラが及ばない心の世界に因果則が存在するのかどうかという問い掛けには、答えを窮するのが実情である。

 

例えば、今日私が心のなかで悪い考えを巡らしても、このことによって明日私がその報いに悩まされることはない。大方、明日になれば何を思い巡らしたかさえも忘れているのがオチだ。だとすれば、現実の世界では、これこれの水をこれこれの温度で熱すれば、これこれの蒸気を生じさせ、これこれの大きさの物体を動かすことが出来るという因果則を理解することが出来るけれども、心の世界で起こる現象には、因果則が通用しないのかもしれない。(仏教徒は、このような感覚を実感したからこそ、十二因縁という思想を編み出したのだろう。)

 

このことを探究するには、私ひとりの心の中で探究しなければならないが、前述の通り、心の世界の中で因果則が通用するということが、私の目には到底見ることが出来ないのだ。

(明治二十六年十二月二十一日付けの手紙の内容)

 

 

確かに心の中では因果則が通じないようだ。もし、この法則が通じるならば、念じるだけでどんな成果も得ることが出来ることとなり、肉体を持ってわざわざこの世の中に生まれて来る必要もなくなる。

 

もしかしたら、よく言われるように死後の世界というのは念じるだけで全てが実現する世界なのかも知れない。

 

これに対して、純粋にただ「心」だけを切り離したもの、純粋にただ「物」だけを切り離したもの、というのは、この人間世界にとっては意味を持たず、あらゆるものが「心」と「物」の交わり合うところに生まれる「事」として、現象しているようである。

 

言い換えれば、「感情」と「論理」の交じわりによって生じる現象でこの世の中は創られているのだ。だから、このような腑に落ちることのない事件が、世の中をにぎわすこととなるのだろう。

片山被告「すべて自分がやったと話す」

5月21日 17時57分

パソコンの遠隔操作事件で、これまでの無罪主張を翻した元会社員の片山祐輔被告が、21日接見した弁護士に、「裁判で、すべて自分がやったと話す」と伝えたことが、分かりました。
片山被告の裁判は、22日東京地方裁判所で行われます。

パソコンの遠隔操作事件では、インターネット関連会社の元社員、片山祐輔被告(32)が、無罪を主張してきましたが、一転して一連の事件が、自分の犯行だと認め、保釈も取り消されて、東京拘置所に20日再び勾留されました。
裁判は、22日東京地方裁判所で開かれ、改めて認否の確認が行われますが、弁護団によりますと、21日接見した際に片山被告が「裁判では、『すべて自分がやりました。長い間否定していてすみません』と話します」などと伝えたということです。
また、片山被告は「これまで会見に出席したあとに、インターネットで会見を見た人の反応をチェックして、演技をしていた」などと話したということです。
弁護団は、今後「被告の言動には理解できない部分が多い」として、精神鑑定を行うよう求めることも検討しています。

片山被告「すべて自分がやったと話す」 NHKニュース

 

しかも、「心界」における運動は、「物界」の運動をつかさどっているものとは、ちがう流れと原理にしたがっているという。だから、心に思うことと、実際に実行に移すこととの間の隔てを大きく感じる感覚は当然なのだ。

 

違う運動法則を持つ「心界(心の世界)」と「物界(現実世界)」を結びつける原理を自分の言葉で説明できる者が、悟りを開いた者なのだろう。

 

南方熊楠曼荼羅(*1)を使いこの原理を説明している。また、数学者の岡潔が、「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と言ったのもこの原理がありありと見えていたからなのだろうと思う。

 

 

曼荼羅(*1)

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熊楠は、これらの線は事理を現しているという。事理とはものごとの筋道と言った程度の意味に考えてよい。この世界と言うものは様々な事理からなっている。それらの事理は互いに交差しあったり、あるいは相互に離れていたり、もつれあったり、絡みあったりしている。図でいえば、各々の線の配置が様々な事理の布置を現しているわけだ。

たとえば図の(イ)という点では、多くの線が交叉している。熊楠はこれを萃点(すいてん)と呼んだ。萃点は多くの事理が重なる点だから、我々の目につきやすい。それに対して(ハ)の点は二つの事理が交わるところだから、萃点ほど目立たぬが、それでも目にはつきやすい。(ロ)の点は(チ)、(リ)二点の解明を待って、その意義が初めて明らかになる。(ヌ)はほかの線から離れていて、その限りで人間の推理が及び難いが、それでも(オ)と(ワ)の二点でかろうじて他の線に接しているところから、まったく手掛かりがないわけではない。だが(ル)に至っては、ほかの線から完全に孤立している。したがって既に解明済みの事柄から推論によって到達するということが困難なわけである。

このように熊楠は、世の中の成り立ちを事理の組み合わせと見、それを人間の認識能力とのかかわりにおいて、体系づけたのであった。

さてその事理であるが、熊楠はこれを不思議とよんだ。そして不思議には五つあると熊楠はいった。物不思議、心不思議、事不思議、理不思議そして大日如来の大不思議である。

物不思議とは、物の道理のことである。それは自然科学の対象となる世界である。また心不思議とは心をめぐる現象世界のことである。とりあえずは心理学の対象となる世界だが、今日の心理学は、心を物のように取り扱っている点で十分だとは言えない。心には物とは違った世界が成り立ちうるのだ、そう熊楠は考えている。

心が物にはたらきかけて成立するのが事である。事不思議とはだから人間の働きかけの結果として成立するものだ。熊楠は事不思議を学問的に展開したものとして、数学や論理学をあげる。この二つの学問とも、物としての対象的な世界を、人間の認識の枠組みを通してとらえる過程を主題にしたものだ。熊楠はそう考えて、このようにいうのだと思う。

理不思議とは、以上三者を超えたところに成立する世界のようである。これは目前の目に見える現象とは異なり、人間が知性を行使して作り上げた世界である。つまり理性が純粋に理念的な推論を重ねて紡ぎあげた観念的な創造物といってもよい。それは西洋哲学が対象としてきた形而上学的な世界に似ているともいえる。上の曼荼羅の図でいえば(ル)がそれにあたるだろう。それは物や心や事と言った我々に見える世界で展開される事理に比べ、一段高くかつ独立した事理なのである。

さて、では大日如来の大不思議とはいかなるものか。それはこの図でいえば、図からはみ出た部分、図を超越したところにある世界とでもいうことになる。つまり人間のすべての認識、それが対象とするすべての対象世界、そういったすべてを超えたところに成立してあるもの、それが大日如来の大不思議だということになる。

だがこれは消極的な定義であって、積極的には何も言っていないというに等しい。そこで熊楠は別の書簡のなかで改めて大日如来を取り上げるのであるが、そこで熊楠は大日如来を物や心を生ぜしむる根本的な原因であるという。つまり、世界の根源として、大日如来の大不思議を位置づけるわけなのだ。もしそういうのならば、それは世界の創造主、つまり神であると考えてよい。ここに至って熊楠は、大日如来を本尊とする真言密教の奥儀にたどりつくわけである。

南方曼荼羅