まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【吉川英治】 静御前の物語(前編)

 

文治2年(1186年)4月8日、静御前鶴岡八幡宮で白拍子の舞を奉納する。

 

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しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)

 

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)の後ろ姿が恋しい)

 

 

この舞の静御前のおもゐが今現在まで語り継がれている。

 

 

ここに吉川英治が著した静御前の物語を紹介する。

 

 

 

 

義経はもろ肌を脱いで、小冠者(こかんじゃ)に背中の灸をすえさせていた。
 
 
やや離れて、広縁を後ろに、じっと、先刻(さっき)から手をつかえているのは、夫人(おくがた)の静之前(しずかのまえ)であった。
 
 
八月の真昼である。
 
 
六条室町の町中とも思えぬほど、館は木々に囲まれている。照り映える青葉の色と匂いに内も染まりそうだった。
 
 
。。。。が、静にとって、気になるのは、二十九という良人(おっと)の若い肉体まで、そのせいか翡翠(ひすい)を削ったように蒼く見えることだった。
 
 
「・・・・・・・・」
 
 
蝉の声ばかりであった。小冠者は細心に、主君の肌へ火を点じていた。
 
 
義経は、熱いとも言わず、身もだえ一つしなかった。けれど、見ている静の方が、その一火一火に、骨のしんまで灸(や)かれる様なこらえに、締めつけられていた。
 
 
(。。。。。。お熱くはないのかしら)
 
 
と、疑うように、小冠者はそっと、主君の肩越しにその顔をのぞいてみた。
 
 
やはり、彼とて熱いには違いない。義経は、眼をふさぎ、奥歯をかんで、鼻の奥で強い息をしていた。
 
 
と、ふいに、義経は、
 
 
「静」
 
 
と振り向いて、さっきから返事を待っている妻へ、こう言った。
 
 
「通せ、景季(かげすえ)を。会ってやろう」
 
 
「えっ。。。。。では、お心を取り直して」
 
 
「そなたにも、又家臣達にも、そう心配かけてはすむまい。、、、、今は何事も忍の一字が護符よ。この九郎さえ忍びきればお許等(もとら)の心も休まろう。、、、通せ。ここで良い。義経が臆病でないことも、景季の眼に見せてくれよう」
 
 
宇治川の合戦に、名馬摺墨(するすみ)に乗って聞こえを取り、その後、頼朝にお覚えの良い梶原景季(かじわらかげすえ)であった。
 
 
その頃は、義経の幕下であったが、今日は鎌倉殿の権力を、背に負っている使者で来たのである。
 
 
「異な臭い。。。。。これは又、何の煙りか」
 
 
景季は、そこへ座るなり、天井を見回して尋ねた。義経は、脇息に寄って、苦笑しながら、灸をやっているところ故と答えると、
 
 
「そうそう、先頃から、何度訪ね申しても、御病中とのみで、追い返されたが。。。。。。時に、ご容態はいかがでござりますな」
 
 
「景季。おん身は、義経が会わぬのは、仮病ならんと、家人へ言われたそうだが、篤と、この灸のあとを見られよ」
 
 
と、襟をはだけて示し、
 
 
「兄頼朝へ、其の方どものそうした邪推や偏見を、そのまま伝えてくれるなよ。先にも義経は、兄上のおひがみや誤解を解こうものと、病態を押して下ったが、腰越にて阻められ、遂に、鎌倉へ入るも許され給わず、空しく京へ立ち戻って来たが。。。骨肉の兄と弟とが、かく心にもなく隔てられ、浅ましい相克の火を散らす事よと、世間の目にも見らるる辛さ。、、、、景季、おぬしら、家臣の者にも分かろうが」
 
 
義経は、彼の姿を見ると、言わずにはいられなかった。情熱に生き情熱に戦って来た彼は今、平家の旧勢力を一掃して、源氏という、又、鎌倉幕府という新しい組織の段階に入って来ると、もうその役割の済んだ無用の破壊者の如く扱われて、事毎に、兄頼朝から疎んぜられ、幕府の一部から曲解を受けた。
 
 
心外な!
 
 
彼は又それを、情熱の焔につつんで深刻に悩むのだった。武人の働きや武器を必要とした世情は一転して、新しい段階では、政略家が舞台に登り、政治的な整理や工作が、蔓延るものなのだという風に冷然と見ていることが出来なかった。
 
 
また、幕府を巡る北条閥や大江廣元などの、いわゆる政治家肌な人達の中では、義経が、戦時同様な威力を持って、京都守護の任にあることは、何かにつけ都合が悪かった。殊に、後白河法皇の御信任は日に厚く、九条兼実(くじょうかねざね)なども、義経を無二の者としている傾きがある。頼朝の心も又、それには穏やかであり得なかった。
 
 
「いや、お暑い折を、押してお目通り願い、恐縮でした。幕府の使いとしてなれば、御ゆるしにあずかりたい」
 
 
景季は、わざと、義経の言葉を反らし、威儀作った。
 
 
「早速ですが、かねて頼朝公から、あなたへ御内命のあった一儀、何故御引き延ばしかと、お怒りでござる。一体、いつお討ち果たしになるお心か、つかと、その儀を伺いに参った。御返答を賜りたい」
 
 
新宮十郎行家(しんぐうじゅうろうゆきいえ)どのを、討てとの、仰せつけの事であるか」
 
 
「そうです」
 
 
「行家どのは、兄頼朝にとっても、この義経にとっても、叔父御にあたる御人であろうが」
 
 
「お言葉までもありません」
 
 
「しかも、平家追討の折りには、河内より兵を引っ提げられ、摂津では、軍船や糧米(ろうまい)を奉行せられ、武功もあるお人」
 
 
「しかし、鎌倉殿には、忠誠でありません。頼朝公を甥と侮られ、根が、木曾殿の幕下にあったお方だけに」
 
 
「理屈は待て。兄上には、既に、佐々木定綱に命じて、行家どのを討てとおいいつけなされたそうだが、義経には、情において、叔父御を討つには忍びない。そんな兵馬は義経の旗下にはない」
 
 
「噂には、あなたが、行家殿を匿っておられるとも聞きますが」
 
 
「知らぬ。あの御方とて、犬死はしとうあるまい。隠れるのは当たり前ぢゃ」
 
 
「では、鎌倉殿の仇を匿われて、御命に背くお考えか」
 
 
「誰が」
 
 
「あなた様が」
 
 
「馬鹿っ。つと、帰れっ」
 
 
物陰に聞いていた家臣は肝を冷やした。簾(すだれ)の陰に案じていた静もハッとした。情熱の病人は、遂に、烈火のかたまりを、景季へ吐きつけてしまった。
 
 
こんな結果になるなら、むしろ仮病と取られても、使者の景季にお会いさせなかった方がましであったものをと、家臣たちは悔いたが、及ばなかった。
 
 
憤然と立ち帰った景季は、即日、六条油小路の旅舎を引き払って、鎌倉へ急ぎ帰って行ったという。
 
 
「さばさばした。これで、一夕立そそいで来れば、なお、清々しかろう。静、雑色に命じて庭木へ水を打たせぃ。灯ともしたら又、そなたの鼓を聞こうほどに」
 
 
義経は、夕迫る縁に立って、崩れる雲の峰を見ていた。
 
 
「はい」
 
 
彼の妻は、まだ十九だった。
 
 
十五、神泉殿の舞楽の日に、初めて義経に想われた。恋を知った十六の春と共に、眉を改めて、白拍子(しらびょうし)の群れから去り、その細い腕(かいで)で養って来た母の磯の禅師(ぜんじ)と一緒に、この館へ移った静であった。
 
 
晴れがましく輿入れした妻ではない。それだけに、妻たる女の真実を、彼女は、良人(おっと)へも召使いにも、無言の真心で示して来た。よしや鎌倉にある良人の兄君からは、まだ一片の便りにも、「弟の妻」と許された例はなくても、彼女の心には、何の不足でもなかった。
 
 
鎌倉に帰った梶原景季は、頼朝へこう復命した。
 
 
「半官殿には、病中と仰せあって、なかなかお会い下さいません。遂に、強いて御威光を以て、お目通りしました折、灸などすえておられ、御顔色も憔悴の態に見受けられましたが、一日食わず、一夜眠らず、灸などすえれば、病態は作られまする。行家追討の御諚(ごじょう)については、耳も貸さず、とく帰れとの御一言であったのみ、取り付く島もなく立ち戻りました」
 
 
それから又、都での風聞として、義経の行装の豪奢(ごうしゃ)、禁中の羽振り、日常の華奢(かしゃ)など、問われない事まで告げた。
 
 
「そんな態か」
 
 
頼朝の顔色は動いた。
 
 
「仙洞(上皇)の御気色に諂(へつら)い、武功に誇り、頼朝には計らわず、五位の尉(じょう)に昇るなど、身のほどを忘れた振る舞い、肉親とて、捨て置いては、覇業の障りになる。今のうちに、九郎冠者めを討ってとれ」
 
 
下知は、武府に伝えられた。
 
 
和田、三浦、千葉、佐々木など、誰もその討ち手は辞退した。土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)に命が下った。昌俊は、部下の藍澤次郎、眞門太郎など八十余騎を引いて、京都へ馳せ上った。
 
 
(鎌倉殿の討ち手が京へ急がれた)
 
 
街道の噂は、軍馬よりも先に、都へ聞こえて来た。洛内の庶民は、もう家財を片付け出した。義経はそれを、仙洞御所へ参院した戻り道に見て思った。
 
 
「あはれ、彼らも皆、この義経が、兄に弓引く者と思っているのか。天下、誰あって、この義経の心を知ってくれる者もない」
 
 
彼は、牛車(くるま)の中で嘆じた。そう寂しく思う時、ただひとり彼の胸には静の姿があった。
 
 
「京都守護の任にある義経を討たんとすれば、京都は当然兵火に包まれ、ひいては天下の大乱となろう。よろしく彼に先んじて、頼朝追討の院旨(いんじ)を、義経へ下し給うべきである」
 
 
大蔵卿(おおくらきょう)泰経(やすつね)は、九条兼実(くじょうかねざね)左大臣経宗(つねむね)や、内大臣実定(さねさだ)などを説き回った。後白河法皇のお心もそこに決しられてあるという。
 
 
誰も、誰も、義経の心を知らないのだ。
 
 
「京へ、鎌倉の兵を入れるな。尾張美濃の境、墨俣川へ馳せ下って、義経に、鎌倉討伐の第一矢を放たすがよい」
 
 
同意は多かった。
 
 
法皇を巡って、活発な策動が始まっていた。。。。が、何たる事か、その頃もう土佐房昌俊等の手勢は、変装して洛内に入り込んでいたのである。
 
 
十月十七日の夜だった。
 
 
堀川べりの六条室町の館へ、どっと襲(よ)せて、いきなり火を放った軍勢がある。義経は、元より何の備えもしていなかったし、その夜、郎党達は、他の所用に出っ払って、あらかた留守だった。
 
 
「殿っ。夜討ですっ」
 
 
佐藤忠信と四五の家臣が、大声で広縁から怒鳴った。バリバリと火の爆(は)ぜる音がする。庭木へ蛍の様な火の粉が散っている。
 
 
「今参る」
 
 
義経はもう身を鎧(よろ)っていた。静が傍にあって、太刀の革、鎧の緒など、結んでいた。
 
 
「忠信っ、忠信っ」
 
 
呼び返して、義経は、早口に命じた。
 
 
「そちは、築地(つきぢ)を躍り越えて、御所へ急ぎ、火の手に、お案じあらぬよう、義経あらむかぎり、都は焦土とさせませぬと、お取り次ぎを以て、聞こえ上げて参れ。その足で、出先の郎党共を集め合わせて、御所を守れ、又市中を警護せよ。義経は、京都守護の任にある者、私邸の火や、土佐房ごときの小勢の襲撃は、何ものでもない。よいかっ、急げっ」
 
 
言い終わると、静の手から長巻を受け取って、義経は、わずかの家臣と共に、表門へ斬って出た。静は、良人(おっと)を送ると、母の磯の禅師の部屋へ、
 
 
「母さまっ。あっ母さま、外へ出てはいけません」
 
 
叫びながら駈けて行った。
 
 
矢も、火の粉も、家の中まで飛んで来た。凄まじい表の武者声に、彼女の母は、耳をふさいだまま、室の外にうっ伏していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
白拍子(しらびょうし)
白拍子というのは、その扮装から来た名で最初は烏帽子に直垂(ひたたれ)(*1)を着、腰に刀を差して舞った、男装した遊女のことであった。後に直垂を水干(*2)に略し、水干が白色であったところから白拍子の名が出たと言われ、平安末期から出現し鎌倉時代が全盛期であった。平清盛を中心として集まった妓王、妓女(*3)、佛御前(*4)、源義朝の常盤(*5)、義経の静など皆白拍子の出である。
階級のやかましかった当時にあっては庶民階級の女性が権力者に近づき栄達をはかる一つの道であった故か、一時はその数も相当に多く、京都付近における容色の美しい者だけでも百人以上に及んだ程であった。
竹田菊子「黎明前の日本女性」

 

直垂(ひたたれ)(*1)

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直垂(ひたたれ)は、主に武家社会で用いられた男性用衣服、日本の装束の一つである。 

直垂 - Wikipedia

 

水干(*2)

水干(すいかん)は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なため(『続深窓秘抄』)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。

水干 - Wikipedia

 

妓王、妓女(*3)

平家の家人・江部九郎時久の娘。近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する。

母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された。『平家物語』(第一巻 6「祗王」)に登場する。干ばつで苦しむ故郷の村人を救うために、生まれ故郷の野洲に水路を作るよう清盛に頼んだ。そして、その川は祇王井川と呼ばれ現存する。その後、入道相国(清盛)の寵は仏御前に移り、祇王にはぱったりそばに召す沙汰がこなくなってしまう。仏はそもそも技量に恃んで飛び込みで芸を売込んだのだが、清盛に門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらった建前、彼女に恩義を感じ、声をかけるようにうながしたところ逆効果で、清盛は妓王を追い出せと命ずる。去り際に妓王が障子に書き残した一首が、

萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき

である。支給も止められた冷遇の末、仏御前の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る。当時21歳だったとされる。[1]

祇王寺にある碑には「性如禅尼承安二年壬辰八月十五日寂」とあるが、その「性如禅尼」は妓王の事を指すとされており、承安2年8月15日1172年9月4日)に死去したとされている。「祇王忌」は旧暦2月14日とされ、春の季語になっている。一方で、妓王がとりなし、清盛に寵愛された仏御前は承安4年(1174年)に上京したとされているため矛盾が生じている。

妓王 - Wikipedia

 

佛御前(*4)

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永暦元年1月15日1160年2月23日)、加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔の、京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇那谷寺に参詣した折、原村に感動し建立したものである。現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる。

承安4年(1174年)に京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより、清盛の前で「君を初めて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」と即興で今様を詠み、それを歌ってを見せ一気に寵愛を集めた。この物語は『平家物語』(第一巻 6「祇王」)に登場する。

安元3年 / 治承元年(1177年)に清盛の元を離れ出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王とその母・妹がおり、同じく仏門に励んだ。その後、治承2年(1178年)に故郷の加賀国に帰郷し、治承4年8月18日1180年9月14日)に死去した。墓所小松市原町にある。

仏御前 - Wikipedia

 

常盤(*5)

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源義朝側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に長寛元年(1162年)頃までには一条長成に嫁ぎ、一条能成長寛2年(1163年)生)や女子を産んだ[2]

義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明である。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われてとなり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。

やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。

常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町群馬県前橋市鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因むと伝えられる。

また、かつて東京・渋谷にあった松の老木、「常磐松」には、常盤が植えたことに由来するとの説がある。

常盤御前 - Wikipedia