まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

花魁におもゐを馳せて

 【今日のこよみ】 旧暦2013年10月29日友引  五黄土星 

          辛丑 日/癸亥 月/癸巳 年 月相 27

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先日、テレビで花魁の特集をやっていた。

歴史秘話ヒストリア

 

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で、その内容が興味深かったので色々と調べてみた。

 

1603年に自称・出雲大社の巫女の阿国が始めた阿国歌舞伎が京都で大流行します。それまで男性だけだった要素集団に女性のみで構成される集団が出来、男性の人気を集めるにつれて しだいに歌舞伎を演ずる女性たちが売春をするようになりました。

 

結局 風俗を乱すとして女歌舞伎は1629年に幕府が禁止したものの、女歌舞伎流行から禁止までの間に、徳川幕府は遊女屋を認可(放置)することにしています。

 

この時 正式に認可されたのがのちの吉原である葭原よしわら遊郭です。設置されたのは1617(元和三)年。これ以降 公娼制度(ただし認可しただけで助成金などは無し)が始まり それに伴って私娼が摘発されるようになりました。

 

摘発された私娼は官許の吉原へと送られ、三年~五年の年季を勤めることとなります。彼女らは「やっこ女郎」「けいど女郎」と呼ばれ、岡場所遊里(摘発された女郎が送られる遊郭)は値段の安さもあって大変繁盛しました。

 

ただ、女衒によってある程度の容貌であると見込まれ、幼い内から教養を身に付けさせられる公娼とは違い、当然のことながら私娼は年齢・容姿・教養の有無を問いません。元私娼の素人女郎が送り込まれ またそこが人気を博することによって、それまで諸芸に通じ容姿端麗な上妓が好まれていた吉原が次第に変容していきます。

 

安値の遊女が増えるにつれて上妓は減少し、遊客の幅が広くなり、侍だけでなく町民や商家の者も多数訪れるようになりました。これによって、元私娼のいる岡場所遊里と公娼のいる遊郭との差があまりなくなっていきます。

 

最高の花魁である太夫も、吉原では1760年の玉屋・花紫を最後にいなくなります。

  遊女の歴史

 

ふむ。ふむ。

公娼として幼い内から茶道・華道・香道・三味線・琴・唄・和歌などの教養を身につけてきたのが花魁なんですね。1760年の玉屋花紫を最後に花魁は居なくなったと。

 

遊女を描いた浮世絵を通して、燈籠鬢や島田髷の髪型や化粧が庶民に伝わったみたいです。

 

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再現された勝山髷

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再現された燈籠鬢島田髷

 

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島田髷から神前結婚式で結われる文金高島田へと派生したとのこと。

 

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そして、下の浮世絵が新造出しの図。

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先頭に振袖新造(七橋、七舟)

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次に番頭新造(七濱、七政)

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そしてこの度、振袖新造から花魁に昇格した遊女(七人)と禿(かむろ)

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しんがりは前を歩く七人を花魁に育て上げた姉さん花魁(七里)と禿

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禿(かむろ) 

花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。

 

番頭新造(ばんとう しんぞう)

器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。ひそかに客を取ることもあった。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。

 

振袖新造(ふりそで しんぞう)

15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。

 

留袖新造(とめそで しんぞう)

振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ一人立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。

 

 

つまり、上の浮世絵は、七人の花魁デビューを披露する、七里一家の新造出しの様子を描いているんですね。

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花魁が、禿から振袖新造そして自分の後継者を育て上げ、花魁となることが出来なかった者も見捨てずに養う、家族のようなシステムがきちんと確立されていたようである。

 

花魁という呼び方の由来が「おいらの姉さん」からきたという説もあり、このシステムは、なかなか興味深いものがありますね。

 

 

 

しかしながら、吉原の歴史で、花魁にまで登りつめた遊女はごく少数。その他の遊女の生涯を調べてみると暗黒世界そのもの。

 

遊女の死

遊女はよっぽどの上妓でない限り、粗食や過労、性病、妊娠、折檻などに常に悩まされることになりました。また、昼夜を問わず客の相手をする心労も相当なものでした。江戸時代ではないのですが、昭和初期の遊女は一日平均して五人以上の客を取っていたようです。

 

生理中も見世側が許す休みは二日程度であり、それ以上休みたければ馴染みの客や間夫(恋人)に来てもらうか、『身上がり』といって自分で自分の玉代(花代)を支払わなければなりませんでした。借金が増えることを恐れて二日の休みも取らないで働く妓は多く、その分 体を壊すことになりました。

 

また病死だけでなく、思いつめた客に殺害されたり、心中死したり、見世側の私刑によって死亡したり、過酷な生活に耐えられなくなって自殺する遊女も多くいました。1826年の大阪では、折檻の様子を見た廓の少女四名が自殺しています。

 

折檻については歌舞伎『助六縁江戸桜』に登場する傾城・揚巻が馴染み客の意休に啖呵を切る場面にもある通り、身体に目立つ傷をつけないように小刀針を用いる責め、水責め、蚊責め、鞭打ち、拘束などがありました。主に盗みを働いたり客を怒らせてしまった遊女に対して行われましたが、時には折檻が行き過ぎて遊女がそのまま死んでしまうこともありました。

 

吉原遊女が死亡すると、俗に「投込寺」と呼ばれる共同墓地に埋葬されます。ここは無縁仏を葬る場所で、三ノ輪の浄閑寺が有名です。

 

浄閑寺には現存するだけで数千人に及ぶ遊女の記録が残っており、それを辿ってみると死亡時の平均年齢は二十二歳前後となっています。遊女の年季明けは二十八歳ですが、それ以前に死亡する者も多かったことが記録の上からも窺えます。

 

「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、浄閑寺に『~売女』という戒名で文字通り投込まれた」という説もあるが、それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっている。

 

この場合素裸にされた上に荒菰(あらごも)に包まれ、寺に投げ込まれた。「人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」という考えによったとものとされている。

 

う~ん。。。。。

 

手練手管(てれんてくだ)

あの手この手で巧みに人をだます手段や方法のこと。(主に吉原の)花魁や遊女が客を引きつけるために、嘘をついたり、他の客に嫉妬させたり、気を持たせたりとあの手この手を用いたことを指す言葉として使われていた。

 

「素見千人、客百人、間夫が十人、地色一人」などと言われるように、吉原に来る人のうち、本当に見世に上がり、お客になるのはほんの一握りでした。


なので、遊女も顧客獲得には必死です。

遊女はいかにお客からお金を取るかが商売です。
色々な方法でお客を「お、俺のことを本気で好きか?」と思わせていました。

①口説(くぜつ)
言葉でお客をその気にさせる方法です。
「もう、ずっと来ないんだから。フンッ」などと拗ねてみたり、「今日来てくれたのは運命だわ」などとお客の心をくすぐってみたり。
嘘だと思っても「もしかしたら・・」と思わせたらしめたものです。

②起請文
「私は年季が明けたらあなたと一緒になります」と書き、血判を押してお客に渡すものです。必ず熊野神社の御符(用紙)が使われました。

③髪切り
自分の髪の毛を切って誠意を示す方法です。
髪を切る時はお客にさせて、共犯的な意識を埋め込みます。

④放爪(ほうそう)
自分の爪を剥いでお客に渡す方法。
当然髪を切るよりも苦痛が伴うので、気持ちの真剣さが伴います。
でも、実は妹分の遊女見習などの伸びた爪を切って渡したりしていました。

⑤指切り
小指を詰める方法です。
だんだんとエスカレートしていきますね。
こちらも殆んどは死体の指や作り物の指を渡していたそうです。

⑥起請彫り
お客の名前を皮膚に彫る方法です。入れ墨ですね。
「文身」とも言いました。
「××さま命」を入れるのが一般的だったようです。
今の追っかけと変わりません(笑)
お客が遊女の二の腕に筆で名前を書き、その上から針で刺しながらたどると墨が皮膚に染み込んで入れ墨となります。

しかし、途中で「××さま」が変わることもあるので、その場合にはお灸で焼き消したそうです。素人が入れた墨なので、それできれいに消えたとか。

⑦心中
究極の愛情表現の心中です。
吉原の外に出られない遊女は間夫と一緒になるためには死ぬしかなかったのです。

結局は「義理を立てる」証しが手練手管となりました。
ただ、お客も遊女に本気になるのは野暮とされ、騙された振りをするのが遊び人の粋でした。

http://www.geocities.jp/pink_pink_shampagne/iran.html

 

「手練手管」や「傾城に誠なし」という慣用句や「吉原は 拍子木までが 嘘を言い」という川柳に世の中が吉原を見ていた目が現れています。

 

ただ、こういった中で紺屋高尾(こうやたかお)という落語が今日まで語り継がれてきていることに一条の救いを感じた次第です。

 

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吉原という場所でうごめいたおもゐに、しばしおもゐを遣る。

 

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「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と花又花酔に川柳に詠まれ、永井荷風も遊女の暗く悲しい生涯に思いを馳せて、しばしば訪れたという浄閑寺。一度機会があれば訪ねてみたいトコロです。

 

 

【2014/09/07追記】

 

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江戸の天明から寛政期(1781~1801)の3人のスターを描いた作品。谷風と花扇が飲み比べをし、鰕蔵が行司役をつとめるという粋な趣向の浮世絵

【参考】http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/H2402oedostarmeikan.html

 

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 扇屋の花魁 花扇

 

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 横綱 谷風

 

f:id:isegohan:20140907044139p:plain市川團十郎 (5代目) 

 

 

新吉原の場所

新吉原 | 錦絵でたのしむ江戸の名所

 

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喜多川歌麿「青楼十二時」

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子の刻(午前零時)・夜半(やはん) 青楼十二時 - 東京国立博物館 

丑の刻(午前2時)・鶏鳴(けいめい) 青楼十二時_丑ノ刻 - 東京国立博物館

寅の刻(午前4時)・平旦(へいたん) 青楼十二時_寅ノ刻 - 東京国立博物館

卯の刻(午前6時)・日出(にっしゅつ) 青楼十二時_卯ノ刻 - 東京国立博物館

辰の刻(午前8時)・食時(しょくじ) 青楼十二時_辰の刻 - 東京国立博物館

巳の刻(午前10時)・隅中(ぐうちゅう) 青楼十二時_巳ノ刻 - 東京国立博物館

午の刻(午後12時)・日中(にっちゅう) 青楼十二時_午ノ刻 - 東京国立博物館

未の刻(午後2時)・日昳(にってつ) 青楼十二時_未ノ刻 - 東京国立博物館

申の刻(午後4時)・晡時(ほじ) 青楼十二時_申ノ刻 - 東京国立博物館

酉の刻(午後6時)・日入(にちにゅう) 青楼十二時_酉ノ刻 - 東京国立博物館 

戌の刻(午後8時)・黄昏(こうこん) 青楼十二時_戌ノ刻 - 東京国立博物館

亥の刻(午後10時)・人定(にんじょう) 青楼十二時_亥ノ刻 - 東京国立博物館

 

この浮世絵によると花魁の睡眠時間は4~5時間ですね。スゴイです。

 

 

 

ゴッホの花魁

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Edmond de Goncourt 

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 Utamaro — Wikipédia