【老子道徳経 第十四章 】 無が放つ後光
【今日のこよみ】 旧暦2013年10月12日先負 五黄土星
甲申 日/癸亥 月/癸巳 年 月相 11
立冬 次候 地始凍(ちはじめてこおる)
視之不見、名曰夷。
聽之不聞、名曰希。
搏之不得、名曰微。
此三者不可致詰、故混而爲一。
其上不皦、其下不昧。
繩繩不可名、復歸於無物。
是謂無状之状、無物之象、是爲惚恍。
迎之不見其首、隨之不見其後。
執古之道、以御今之有、能知古始。
是謂道紀。
【書き下し文】
これを視れども見えず、名づけて夷(い)という。
これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)という。
これを搏(とら)うるも得ず、名づけて微(び)という。
この三つの者は詰(きつ)を致すべからず、故(もと)より混(こん)じて一と為る。
その上は皦(あきら)かならず、その下は昧(くら)からず。
縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。
これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂(い)い、これを惚恍(こつこう)と謂う。
これを迎(むか)うるともその首(こうべ)を見ず、これに随(したが)うともその後(しりえ)を見ず。
古(いにし)えの道を執(と)りて、もって今の有を御(ぎょ)すれば、能(よ)く古始(こし)を知る。
これを道紀(どうき)と謂う。
【私的解釈】
見ようとしても見えないものを「夷」と名付ける。
聴こうとしても聴こえないものを「希」と名付ける。
手でつかもうとしてもつかめないものを「微」と名付ける。
見えない・聴こえない・つかめない、これらのモノを別々に捉えようとしてはいけない。なぜなら、これらのモノは元々ごちゃ混ぜになった一つのモノなのだから。
これらのモノをそれぞれに分離することは出来ないのだ。
これらのモノは複雑に絡み合っているのでそれぞれを区別することが出来ない。だから無としか言いようがない。
この無は、状態がない状態、形がないカタチであり、光り輝いているのだ。
この無に対面してもそのモノを見ることは出来ず、この無に従ってもそのモノを捉えることは出来ない。
いにしえの「おもゐ」を引き継いで今の「おもゐ」を合わせれば「おもゐ」の源を知ることが出来る。
これが「おもゐ」の起源である。
【雑感】
人は何のために生まれて来たのか?
断じて、この世で好き勝手する為に生まれて来たのではない!
この世で「見えるモノ(お金や名誉や地位)」を築き上げる為でもない!
人類が誕生してから引き継がれてきている先人の「おもゐ」を引き継ぎ、これに自分の「おもゐ」を一筆加えて、次の世代に引き渡す。これを成す為に人は生まれてくるのだ。
この決して見ることが出来ない積年の「おもゐ」がこの世の中を形作っているのである。
話変わって、
今朝のNHKの朝ドラ「ごちそうさん」の一場面
(め以子の義理の妹の学校の先生が突然家を訪れる。)
先生「希子さんのお弁当のことなんですけど。最近、希子さん、教室でお弁当を食べなくなっ
て、教室の外でひとりで食べてるんです。何回か注意したんですけど、その場では謝るんで
すけど、翌日またひとりで食べてるんです。気になって、お弁当の中身をのぞいたら、おむ
すびの形が三角やったんです。」
和枝「(むっちゃ驚いた顔で)さ、さ、三角やったんですか。。。。(お茶を出して下がろうとす
るめ以子に)ちょ、ちょ、ちょっと、こっち座り!!」
「(め以子に対して)あんさん、三角に握ってはるの?三角のおにぎりは弔事に出すモンなん
です。お葬式とか法事とか。」
め以子「ソ、ソ、ソ、そうなんですか?」
先生「ご存じなかったんですよねぇ。実は、希子さん、それをおもしろがられたみたいなんです
ょ。これからは、気をつけてあげて下さい。」
三角のおむすびが弔事用。。。。私も初めて知りました。おにぎりの形と言えば「ボール型」「俵型」「三角」とあるけど、そこでグーグル先生の出番。
日本人のファーストフードだ! おにぎりニッポン [田舎暮らし] All About
「太鼓型」っていうのもあるんですね。日本は広い。
日本は、お米の国。天皇陛下も毎年稲作をなさっている。そう、お米は神様からの授かり物。
ですから、昔から豊作に感謝しておにぎりを神様にお供えしていたと思います。
おむすび⇒「御結び」と漢字にすれば、この言葉に漂う「おもゐ」を感じることが出来ると思う。
「人が実際に握って色々なモノを結ぶ」食べ物であるからその形にまでこだわる。
日本は、このような「おもゐ」が積み重なった国なんですね。
この引き継いだ「おもゐ」に、自分たちの時代は何を付け加えて次の世代に引き渡すのか?
いろいろ考えさせられます。
ああぁ。手で握ったホカホカのおにぎりが食べたくなった。今日はおにぎり握ろや。