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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【山岡鉄舟 修養論】 心胆練磨之事

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 10月 12日 先負  四緑木星

         戊申 日/丁丑 月/甲午 年 月相 10.6 長潮

         小雪 末候 橘始黄(たちばなはじめてきばむ)  

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 4.4℃ 湿度 42%(大阪 6:00時点)

 

 

 

一度思(おもひ)を決して事に臨む時は、猛火熱(もうかのねつ)をも嚴氷冷(げんぴようのれい)をも、彈雨をも白刄をも知らざるなり。

 

是れ何事なるぞと云ふに、心既に水火彈刄なきが故なり。期するところは四者の外にあり。四者既に忘る、故に生死をも亦忘るるに至るなり。此に於てか、天下を畏るるに足るものなし。唯だ手の指す所、足之に從ひ、風往雨來、一に坦途(たんと)廣路を行くが如し。

 

世俗或は斯の如きを斥(さ)して氣魂の豪なるものと思惟(しゆい)し、嘖々(さくさく)之を稱(称)して措(お)かず。成程、是れは頗(すこぶ)る豪なり。然れども餘(余)は未だ之を眞の豪なるものとは思はぬなり。

 

其理如何となれば、眞に豪なるものは未だ始ぬより決して、然る後大いに振ふにはあらざるなり。決するに先ち既に決する所あるが如し。卽ち、決すると決せざると、其心頭にあらざるなり。唯だ浩々として盈ち、活々として動く。譬へば夫の大海の忽ちにして波瀾奔騰、天を排するが如くにあるかと思へば、亦忽ちにして風凪ぎ、汪洋(おうよう)氈(もうせん)を布(し)くが樣になるなり。

 

大海、豈必らずしも風雨の至るに及びて、故に意あつて動くものならんや 。其動くの時と動かざるの時とて固より異なる所なきなり。故に、風雨至つて動き、去つて而して休む。是を以つて、眞に膽(胆)の豪なるものは時に應じ事に接して變(変)化縱(縦)橫、人其消息を知るべからざるものなり。

 

夫の決して而る後膽氣初めて豪なるものは、其決せざるの時、果して如何と思案を廻らし、假(仮)りに酒に醉ひたる者共を見るに、手足全身を無茶に動かし、水火彈刄亦敢て畏れざるの狀なり。然して、醺醉一醒(くんすいいつせい)すれば卽ち我が影に驚き狗吠(くぼう)に慄(おそ)れ、能く婦兒(児)の制する所となるものさへあるを見る。卑怯も亦甚しと云ふ可し。

 

是れ何事ぞと尋ぬるに、夫(そ)の變に會(会)し、勢逼(せま)つて決するものに髣髴(ほうふつ)たり。

 

我れ聞く、昔者、田單(単)齊に將たり。能く孤城に據(拠)つて燕の十萬の敵を斥(しりぞ)く。然れども其後十萬の兵を以て翟(てき)の孤城を拔(抜)く能はず。吳王夫差(ふさ)、嘗て越王勾踐(こうせん)を會稽(かいけい)に苦む。而して終に勾踐の爲に古蘇臺(こそだい)に燒死すと云ふを聞き及べり。

 

抑々(そもそも)二者は實に其決するの時に勝つて決せざるの時に勝たず。亦是れ酒に醉ふて狂するの類のみ。

 

然らば卽ち如何にして膽をして豪ならしむるかと尋ぬるに、先づ思を生死の閒(間)に潛め、生死は其歸(帰)一なる事を知覺する事肝要なるべし。之を知覺すれば則ち强ゐて生を求めず、甚だ死を忌まず、盈虛(えいきよ)消息總(総)て自然に任ずる事になるなり。然すれば則ち何の畏怖する事もなきなり。何の執着も亦なきなり。百萬の大敵も眼中に滅卻(却)し、十尺の猛虎も猫兒(児)の如し。

 

次は則ち經驗と鍛鍊とより入るなり。卽ち、其平生最も畏怖する所のものに近づきて之に狎(な)るるなり。其始めや、必らず肉戰(おのの)き神(しん)慄(ふる)ひて常心を失ふ事あるべし。然れども漸(ようや)くにして自克(じこく)の效(効)積み、夷然(いぜん)たるを得るに至るなり。

 

畏れ多くも、我朝、後光明天皇と申し奉る御方は甚しく雷鳴を怖れ賜ひしが、後大(おおひ)に悟る所ありて、雷鳴每に必らず露臺に出御(しゆつぎよ)遊ばし、此處(ここ)に端座し玉ひ烈響悽閃(せいせん)に接しられしかば、遂に其頑習(がんしゆう)は痕を留めずなりぬ。

 

依つて思ふに、戰國の世は少婦穉童(ちどう)も劍戰の光、吶喊(とつかん)の聲に怖れずと云ふ事あり。蓋(けだ)し、怖れざるにあらず、習慣性をなすなり。

 

故に、如何に恐怖すべきものと雖も漸次(ぜんじ)に之を矯(た)め、深く强ゆる所あらば、遂に自然に出でしが如く、之に接するも膚(はだ)撓(たわ)まず目瞬かざるに至る事を得べきなり。

 

以上二ツの道は、入る所同じからずと雖も、其得る所の結果に至つては多く同一の效を奉する事あるなり。

 

之を夫の一朝變に會し勢に逼つて遽(にわか)に決するものに較せば、其差啻(ただ)に天壤のみならずと謂ふ可し。此に在つては常に決する所あるが如し。故に曾て驚く所なく、從容(しようよう)功を成すを得るなり。

 

彼にあつては則ち然らず、突然起つて突然決せんと慾(欲)するが爲め、必らず周章(しゆうしよう)狼狽を免るる能はざるなり。周章狼狽するもの、多くは事を破らざるものはなきなり。

 

嗚呼、源なきの水は涸れ易く、根なきの樹は直立し難し。夫の根源なき一旦の幻影、豈恆(恒)に維持するを得んや。

 

抑々五味八珍の佳饌、人其美を說く者甚だ多きが如きも、然れども其味を說くものは未だ之あらざるなり。鍊膽の微妙、固より言之を審(つまびらか)にする能ず、筆之を狀すべきなし。唯潛心工夫、其心に會するあるのみ。

 

抑々古今の聖人傑士が如何にして其道を修得し、如何にして發揮せし乎、之を其事蹟に照せば思ひ半に過るものあり。我れ、豈勤めざる可けん哉。

 

『我れ幼年の時より心膽練磨の術を講ずる事今日に及ぶと雖も、未だ其蘊奧(うんのう)を極むる事能はざる所以のものは、一ツに我が誠の足らざるが故なり。』

 

右は只だ其感ずる所を樂書(らくしよ)し、習練の餘暇、時々之を披(ひ)らきて以て自から勵(励)まし、爾後(じご)益々勤勉して其源に到達せん事を期す。

 

安政五年戊午(ぼうご)春三月三日認(したたむ)

山岡鐵太郎

 

 

 

【私的解釈】

 

ひとたび思いを決めて物事に臨めば、猛火の熱さも厳氷の冷たさも、乱れ飛ぶ弾の雨も向けられた抜身の刃(やいば)も気にかからなくなる。

 

どういう状態なのかと問われれば、心が水や火も弾や刃も既に意識していないということである。思いがこの四者を貫き、人の心の奥に鎮座する真心と共振しており、この四者の存在すら意識から消え去っている。だから、生きるか死ぬかといった欲望までをも忘却させる。この極地に至れば世の中を怖れることがない。ただ、意識するところに足が自然に出向き、風が吹こうが雨が降ろうが、ただ平坦な広い道を歩いているようなものとなる。

 

世間ではこのような極地に達した人物を豪の者とみなして、あれやこれやともてはやしている。なるほど、豪の者であることに異存はない。しかしながら、私はこういう者を誠の豪なる者であるとは思ってはいない。

 

その理由を述べると、誠の豪なる者は、始める前に「さぁ、やるぞ!」と心に決め、物事に取り掛かるということをしないのだ。普通の人間が「さぁ、やるぞ!」と心に決める段階で既に心が定まっているのである。言うならば、「さぁ、やるぞ!」と心に決める、決めないという意志が芽生えることがない。ただ、心に浩々として満ちるから浩々として動くのだ。例えるならば、大海にたちまちの内に大きな波が激しい勢いで立ち上がって、天を引き裂く様相を見せるかと思えば、また、たちまちの内に風が凪いで、見渡す限りに毛氈(もうせん)を敷いた様相を見せるようなものである。

 

大海は風雨にさらされた時に、心に決めて大波をおこすわけではないだろう。動く時と動かない時で違いがあるわけではない。だからこそ、風雨が起こったから大波がおこり、風雨が止んだから大波が静まるのだ。だから、誠に胆力が豪なる者は、時節に応じ現象に遭遇して臨機応変に反応し、他人にその動静の間(ま)を悟られることがないのである。

 

「さぁ、やるぞ!」と心に決めないと胆力を豪なるものと出来ない者は、心に決める以前は、「どうしようか、どうしようか」と心を迷わせており、例えるならば酔っぱらいが見せるように、手足含めて全身を闇雲に動かして水火彈刄に対して酒の力を借りて身構えている状態である。だから、酔いから覚めるとたちまち馬脚をあらわし、己の影にも驚き、犬が吠える声にも怖がり、しまいには女子供の言いなりとなってしまうのだ。卑怯もここに極まったという状態と言える。

 

これは、事が起こり、切羽詰まってやっと、「さぁ、やるぞ!」と心に決める者の姿によく似ている。

 

むかし、斉の将軍であった田単という人は、孤立した城に立てこもって燕の十万の敵を防いだけれども、その後に十万の兵を用いて翟(てき)の孤立した城を攻め落とすことが出来なかった。呉の王である夫差(ふさ)は、越の王である勾踐(こうせん)と会稽(かいけい)で対戦し、苦しめたことがあったが、結局は勾踐によって古蘇台(こそだい)で焼き殺されたという。

 

つまり、追い詰められて意を決した後ではうまく行くが、意を決しないと敗れてしまうのがこの二人のことなのであり、酒に酔っぱらって狂う人間と同類でしか無いのである。

 

では、どうしたら胆力を豪なるものとすることが出来るのであろうか。まず、思いを生や死という執着から離れたところに潜めて置き、生と死とはただ一つことに帰着する現象であるということを感じることが肝心であろう。このことを感じれば、強いて生を望むことも死を忌み嫌うこともなくなり、満ちたり欠けたりすることや生じることや消えることのことごとく、つまり、世の中の一切の成り行きを自然のままに任せるようになっていくのだ。そうすれば、世の中に怖れることは何もなく、執着するということも全くなくなってしまう。こうなれば、百万もの大敵も無視することができるし、十尺もの猛虎も子猫に変化させることができるのである。

 

次には、経験と鍛錬によるのである。日頃一番恐ろしいと思っているものに接近し、これに慣れてしまうのだ。初めは肉体が震え、神経が高ぶり、きっと普通の精神状態は吹っ飛んでしまうであろう。しかしながら、しばらくすると、恐怖に打ち勝とうとする気力が積み重なって、遂には平常心で居られることとなる。

 

ここで例とするのもおそれ多いことではあるが、後光明天皇と申す御方は、ひどく雷鳴を恐ろしがられていたのであるが、決意されるところがあり、雷鳴の起こる度に露台にお出になられて、正座して激しい響きと閃光に対峙されていると、いつの間にかその恐怖心が消えてしまったということである。

 

それにつけて思うのであるが、戦国の時代には、娘や子供でさえも刀を交わした時の閃光やときの声をも恐ろしがらなかったという。それが恐ろしくなかったということではなく、刀のきらめきや戦いの声が日常の光景となっていたのだ。

 

だから、どんなに恐るべきものであっても次第に恐ろしさは弱まってくるものであるし、更に思い切ってこれに立ち向かって行けば、身体が自然に反応し、恐ろしいものに接しても身体が縮んだり目を瞬いたりすることはないようになって行くのだ。

 

これらの二つの方法は、やり方は異なっていても得られる結果は同じである。

 

何か問題が起こってから、それに追われてあわてて決意させられるのに比べれば、その違いは天と地の隔たりよりももっと大きいと言わねばならない。わたしが主張するような状態にあっては、常に決意しているということができ、驚き急かされることもなく、ゆっくりと事を運ぶことができる。

  

だが、これに反して、事が起こってから決意をさせられるようなやり方ではそうはいかない。事が突然起こり、それに急かされて決意をさせられるというのであると、どうしても慌てふためいてしまわざるを得ないのである。慌てふためいては大抵のことはうまく運ばない。

 

悲しいかな、水源のない流れはすぐに涸れてしまうものだし、根のない樹木は、真っ直ぐに立っていられない。慌てふためいて決意をして、その結果得られた現象は、その時だけ映し出される幻影に過ぎず、それらが永く続くわけなどあり得ないのだ。

 

世の中には、複雑な味を持つ貴重な食べ物のうまさについて色々と言う人は多い。しかし、その味のことを巧みに言葉にできる者は一人もいない。胆力を練ることの微妙についても同じで、これを巧みに言葉にすることは出来ず、ここに書き連ねることなど出来やしないのだ。ただただ心を巡らせて工夫を凝らし、胆力を練るということの核心を探り当てようとする道があるだけなのだ。

 

古今の聖人や傑士と言われる人物が、どのようにしておのおのがこの道を修得し、どのようにこれを発揮させたかを調べてみると、その困難なことは想像を越えるものであることがわかる。

 

わたしはただ励む。それだけだ。

 

『私は、小さい時から心胆練磨の方法を色々と工夫してきたのではあるが、いまだその真理をつかむことが出来ない。それは一つには、自分の誠が足りないが故なのだ。』

 

右に書いたのは、自分の決意を書き留め、習練の間にこれを読み返し、自分の誠を奮い立たせ、いっそう励み心胆練磨の極意に到達しようと願うが為である。

 

安政五年(1858年)戊午(ぼうご)春三月三日認(したたむ)

山岡鉄太郎

 

 

1858年(安政5年) / 幕末年表

 

 

 

 

 

【雑感】

 

世の中が地獄の様相を当たり前とする時代がある。日本の戦国時代もこういった時代であった。下記の「おあむ物語」など戦国の時代の女性の生き方を詳らかにしている。

  

おあむ物語


子どもあつまりて「おあん様、むかし物がたりなされませ」といへば、

 

『おれが親父は、山田去暦というて、石田治部少輔殿に奉公し、あふみの国ひこ根に居られたが、そのゝち、治部どの御謀反の時、美濃の国おほ垣の城へこもりて、我々みなみな一所に御城にゐておじやつたが、不思議な事が、おじやつた。よなよな、九つ時分にたれともなく男女三十人ほどのこゑにて「田中兵部どののぉう、田中兵部殿のうと」おめきて、そのあとにて。わつというてなく声がよなよなしておじやつた。おどましやおどましや、おそろしう、おじやつた。

 

その後、家康様より、せめ衆大勢城へむかはれて、いくさが夜ひるおじやつたの。そのよせ手の大将は、田中兵部殿と申すでおじやつた。いし火矢をうつ時は、しろの近所を触廻りておじやつた。それはなぜなりや、石火矢をうてば、櫓もゆるゆるうごき、地もさけるやうにすさまじいさかいに、気のよわき婦人なぞは、即時に目をまはして難義した。そのゆゑに、まへかたにふれておいた。其ふれが有ば、ひかりものがして、かみなりの鳴をまつやうな心しておじやつた。

 

はじめのほどはいきたここちもなく、たゞものおそろしや、こはやと計、われ人おもふたが、後にはなんともおじやる物じやない。我々母人もそのほか家中の内儀むすめたちも、みなみな天守に居て鉄鉋玉を鋳ました。また味かたへとつた首を、天守へあつめらてそれぞれに札をつけて覚えおき、さいさいくびにおはぐろを付ておじやる。それはなぜなりや、むかしはおはぐろ首はよき人とて賞翫した。それ故しら歯の首は、おはぐろ付て給はれとたのまれておじやつたが、くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に寝たことでおじやつた。

 

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ある日よせ手より鉄鉋うちかけ、最早けふは城もおち候はんと申す。殊のほかしろのうちさわいだことでおじやつた。そのところへ、おとな来て、「敵かげなきしさりました、もはやおさわぎなされな、しづまり給へしづまり給へ」といふ所へ、鉄鉋玉来りて、われらおとと十四歳になりしものにあたりて、そのままひりひりとして死んでおじやつた。扨々(さてさて)むごい事を見ておじやつたのう。

 

其日わが親父のもち口へ矢ぶみ来りて、去暦事は、家康様御手ならひの御師匠申されたわけのあるものじやほどに、城をのがれたくは御たすけ有べし。何方へなりともおち候へ。路次のわづらひも候まじ。諸手へおほせ置たとの御事でおじやつた。

 

しろは翌の日中せめおとさるゝとて、みなみなちからを落して、我等も、明日はうしなはれ候はむと、心ぼそくなつておじやつた。親父ひそかに天守へまゐられて、此方へ来いとて、母人我等をもつれて、北の塀わきよりはしごをかけて、つり縄にて下へ釣さげ、さてたらひに乗て堀をむかうへ渉りておじやつた。

 

その人数はおやたちふたり、わらはと、おとな四人ばかり、其ほか家来はそのまゝにておじやつた。城をはなれ五六町ほど北へ行し時、母人にはかに腹いたみて娘をうみ給ひた。おとな其まゝ田の水にてうぶ湯つかひ引あげてつまにつゝみ、はゝ人をば親父かたへかけてあを野が原のかたへ落ておじやつた。こはい事で。おしやつたのう。むかしまつかふ。南無阿弥陀南無阿弥陀

 

又子ども、「彦根のはなし被成(なされ)よ」といへば、

 

『おれが親父は知行三百石とりて居られたが、その時分は軍か多くて、何事も不自由な事でおじやつた。勿論用意はめんめんたくはへもあれども、多分あさ夕雑水をたべておじやつた。おれが兄様は折々山へ鉄鉋うちにまゐられた。其ときは朝、菜飯をかしぎてひるめしに持れた。その時にわれ等も、菜めしをもらうてたべておじやつたゆゑ、兄様をさいさいすゝめて、鉄鉋うちにいくとあればうれしうてならなんだ。さて衣類もなく、おれが十三の時手作のはなぞめの帷子(かたびら)一ツあるよりほかにはなかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て難義であつた。せめてすねのかくれるほどの帷子ひとつほしやとおもふた。

 

此様にむかしは物事不自由な事でおじやつた。またひる飯などくふといふ事は夢にもないこと。夜にいり夜食といふ事もなかつた。今時の若衆は、衣類のものずきこゝろをつくし、金をつひやし、食物にいろいろのこのみ事めされる、沙汰の限なこと』とて。又しても彦根の事をいうてしかり給ふゆゑ、後々には子どもしこ名をひこ根ばゝといひし。今も老人のむかしの事を引て当世に示すをば、彦根をいふと俗説にいふは、この人よりはじまりし事なり。それ故他国のものには通ぜず、御国郷談なり。

 

右去暦、土州親類方へ下り浪人土佐山田喜助、後に蛹也と号す。おあんは雨森儀右衛門へ嫁す。儀右衛門死して後、山田喜助養育せり。喜助の為には叔母なり。寛文年中よはひ八十余にして卒す。予その頃八九歳にして、右の物がたりを折々きゝ覚えたり。誠に光陰は矢の如しとかや。正徳の比は予すでに孫どもをあつめて此もの語して、むかしの事どもとり集め、世中の費をしめせば、小ざかしき孫ども、むかしのおあんは彦根ばゝ、いまのぢゝ様はひこねぢいよ、何をおじやるぞ世は時々じやものをとて鼻であしらふゆゑ、腹もたてども後世おそるべし。又後世いかならむ。

 

まごどもゝ、またおのが孫どもにさみせられんと。是をせめての勝手にいうて後はたゞなまいだまいだより外にいふべき事なかりし。


右一通。事実殊勝の筆取なり。誰人の録せるや。未詳。疑らくは。山田氏の覚書なるへし。田中文左衛門直の所持をかり出しといふ事しかり。


享保十五年庚戌三月廿七日 谷垣守

  

少女「おあむ」が、お歯黒を塗る為に集められた生首に囲まれて、血生臭い中を寝起きしていたり、鉄砲に撃たれた弟がのたうち回って死んでいく様を目の当たりにしたり、城を逃げ落ちる時に母親が産気づき田んぼの水を産湯にして子供を産み落とし、そのまま落ち延びて行く様子などは、今の平和の世の中からは想像もつかない出来事であろう。

 

しかし、こういう時代は、死がすぐ隣り合わせに存在するため胆力が自然と練られる。また、無責任な言動が周りの者の死に直結するので責任感が強くなる。そして、自己防衛の為に個人で生きるよりは家族や親族の集団生活を営むこととなり、家族の絆が強くなるであろう。

 

翻って、死が不自然に目の見えないところに追いやらている平和な現代について考えてみたい。死は戦国時代ほど隣にはなく、無責任な言動が死を招くことは滅多にない。だから言った者勝ちとなり、無責任な言動をとる者が世の中にあふれ返る。平和な世の中が集団生活よりも個人で生きることを促すこととなろう。

 

しかし、世界の歴史を振り返っても平和は絶対に永続しない。満ちれば必ず欠けるのがこの世の法則である。となると、平和な時代が去った時にその落差が大きく広がるのが戦国時代よりは、今の現代となろう。

 

天というのは残酷である。天国のような平和な時代から阿鼻叫喚の地獄へと一瞬で様変わりさせることに躊躇がない。まるで、天がわれわれ人間を試すかのように、人間をふるいに掛けるようなことが歴史を振り返れば何度も行われてきた。

 

平和な時代の極地に達すれば一瞬で地獄のような時代に反転することを心に刻んでおきたい。

 

 

 

【追記】

私たちが求める幸せは、遠い彼方の幻影に求めるのではなく、足元に見つけるものであると。こちらのお写真を拝見して改めて思いました。

 

日本人の家族の理想がここにあります。

 

平成26年文仁親王殿下お誕生日に際してのご近影(お写真) - 宮内庁

文仁親王殿下お誕生日に際し(平成26年) - 宮内庁