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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【椿説弓張月 曲亭馬琴】 一ノ弐 信西(しんぜい)博覧韓非を好(よみ)す 爲朝(ためとも)禀性(りんせい)射法に達す

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 7月 20日 友引  四緑木星

         戊午 日/癸酉 月/甲午 年 月相 19.2 更待月 中潮

         立秋 次候 寒蝉鳴(ひぐらしなく)    

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 27.4℃ 湿度 58%(大阪 6:00時点) 

 

 

 

 

かく朝恩(てうおん)に誇るものなれど いかなる心にかありけん 上皇新院御父子の御中(おんなか)快(こころよ)からずなり給ひて後も たえず白河殿(*1)(新院の御所を申す)へ参りけり
 
新院は日來(ひごろ)思し召たつ事のおはします故にや 潜(ひそ)かに源平の武士に御目(おめ)をつけておはせしが この日事果(ことは)て 信西に文武の古實(こじつ)を問せ給ふ序(なへ)に わが國往古(いにしえ)の強弓(つよゆみ)は誰ならんと問せ給へば
 
信西が稟(まうす)よう 本朝その人に乏しからずといへども 吉備臣(*2)尾越(きびのおみおこし) 盾人宿禰(たてひとのすね)(*3) この二人に不如(しかず)候はんと答奉れば 又今の世にては と仰するに 安藝守清盛(あきのかみきよもり)(*4) 兵庫頭頼政(ひょうごのかみよりまさ)(*5) いつれも覺あるものに候と申せしを
 
爲朝もれ聞いて 意(おもは)ず聲(こえ)を發し 呵々(からから)と冷笑(あざわら)へり
 
 

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信西屹(きつ)と見て こは不敬なり あれは誰やらんと問ば 爲義答て 彼は爲義が八男に 冠者爲朝といふものにて候が かかる席につらなるべき身にはあらねど 新院おり居させ給ふの後は 人なつかしみおぼす故にや 誰にも限らず参り仕るを 御悦びましますなれは 御免は蒙らねど 今日の講釋を外ながら彼にも聞かせばやとて潜(ひそか)に召具して参り候と回答給ひしかば
 
信西やがて座をたちて 御階(みはし)の下(もと)に立(たち)より しばし爲朝の面をうち瞻(まも)りつつ この小冠者重瞳(てうどう)(*6)にして異相なり 年はいまだ十五にも充(みた)ざるべきが 最(い)と大人びて見ゆもの哉 御身(おんみ)何事(なにごと)の有(あり)て 玉座近きをも憚(はばか)らず 愚老を嘲笑(あざけり)給へると いと苦々しく問かくるを
 
爲朝は騒げる氣色もなく 江湖(*7)(よのひと)の言(こと)を聞くに 通憲(みちのり)入道は博士におはせど 親疎につきて決斷に私ありといへりしが 果たして違はず 今の世の弓取りを 清盛頼政なりと宣(のとま)ふが片腹いたくて おもはず噴飯の咎(とがめ)を得て候(そろ)なり 但し頼政は物の數にも入りなん 清盛は武もなく文もなく 幸(さいはひ)にして朝恩に浴するのみ
 
かくいへばあが佛を尊(たふと)むに似たれど 愚父にて候爲義は 十四歳の時勅(みことのり)を承りて 美濃前司(ぜんじ)義綱(よしつな)(*8)を攻亡ぼし 又十八歳の時 南都(*9)(なんと)の大衆 朝家(みかど)を恨たてまつる事ありて 攻上るよし聞こえしかば 罷(まかり)向ひて防げと仰(おふせ)下(くだ)されしに 俄頃(にはか)の事なれば軍勢も整ず 只十七騎にて栗栖山(くりすやま)に馳向(はせむか)ひ 数千騎の大衆を追ひかえし候(そろ)とぞ 只今に至りては 年老いていかに候(そろ)やらん 兄義朝(*10)なんぞこそ 弓矢とりてはいと心にくき者なれといふ
 
爲義朝臣はこれを聞いて 彼よしなき物あらがひして こよなき禍(わざわひ)をや引出さん とくかしこみ退(しりぞ)けかしとおほせども 玉座ちかければ叱り退(の)くるに及ばず この折しも左府頼長公も参り給ひしが この問答をうち聞て 笑を含みて居給ひける 
 
時に信西膝をすすめ やおれ八郎 愚老が親疎につきて 決斷に私ありとは 誰がいひつる
 
頼政はちかごろ 紫宸殿の上に 夜な夜なあらはれたる怪鳥(*11)を射てその名芳(かうば)しく 又清盛は 左衛門佐(さゑもんのすけ)たりしとき 内裏に怪鳥ありけるを輙(たやす)く射て落せしに この鳥清盛の袖に飛入る やがてこれを引出せば 大なる鼠なり 則ち南の臺(だい)の竹を伐(き)らせ 竹の筒に鼠を籠(こめ)て 清水寺の岳(をか)に埋(うづ)みて これを一竹塚(いっちくづか)(*12)といふ    この事いしくも計りつると 人みな感じあへり これらは皆昨日今日の事にして 足下(おんみ)も親しく見聞くところならん
 
爲義がむかし 攻ずとも自滅すべき叔父の義綱を討 武道に疎き南都の大衆を追ひ返したる類にあらず 又義朝に於て いまだ武勇の譽を聞かず いかに是にても なはわが決断に私ありやといへば 
 
爲朝いよいよ冷笑(あざわら)ひ 鳥は狩人も射てとり 鼠をば猫も捕るなり 足下(そこ)は文章の事にこそ賢かるべけれ 弓矢の事は爭(いかで)しり給はん 所詮(しよせん)誰彼といはんも無益し 凡そ今の世に弓矢をとりて 百萬の強敵を退(しりぞけ)ん事は 爲朝が右に出んもの あるべうも覺候(さふら)はずといへば
 
信西聞いて呆果(あきれはて) 暫し回答もせざりしが 忽地(たちまち)呵々(からから)とうち笑ひ口は横に裂たりとて 言ば言(いは)るるものかな 凡そ藝術は 夥(あまた)の月を距(こえ)年を踰(こえ)切磋琢磨の功を積(つま)ざれば その極(きょく)に至りがたし 縦(たと)ひその身襁褓(むつき)のうちより習ひ得たりとも 僅(わづか)十餘年に過ず 御身みずから思へ 人悉(ことごと)く木偶(でく)に非ず われ彼を射んと欲せば 彼も又我を射るべし よく射るものは又よく防ぐといへり 今試みに矢を取るべきかといへば
 
爲朝聞きもあへず 蒲衣(ほい)八歳にして舜(しゆん)(*13)の師たり伯益(はくえき)(*14)五歳にして火を掌(つかさど)る 賢愚(けんぐ)巧拙(こうせつ)は年をもて論ずへからず いかなる矢継早にも仰せて射させ給へ 大悲の智慧の矢なりとも 輙(たやす)くとりて見せまゐらすべしといふ
 
信西もはじめの程は いたく懲(こさ)さんと思ひつるに 爲朝さらに屈したる氣色(けしき)なければふかく憤り 
 
おのれが威勢(いきほひ)の程示さんとや思ひけん つと立あがりて 誰か侍(さふら)ふ とく弓矢を手挟て参り候へと呼はれば うけ給はりつと回答(いらへ)して 式成(のりしげ) 則員(のりかづ)といふ二人の瀧口(たきぐち) 弓矢を携へ 御階(みはし)のほとりに参りしかば 信西見て 如此如此(しかじか)の事なり 此小冠者に一矢つかふまつり候へと云
 
この二人の瀧口は 始め白河院の武者所にて 的矢の上手なり 鳥羽院御位(みくらゐ)を傳(つた)へ給ひて後 瀧口にめされぬ ある時三尺五寸(1m)の的を給(たまは)りて これが第二のくろみを射おとして 持てまゐれよと仰あり 巳の時に給りて 羊の時に射おとしてまゐれり これ既に養由(やういう)(*15)に等しとて人みな譽(ほめ)ののしけり 今老たれど氣力はなほむかしにかはらず 
 
爲朝縦(たと)ひ六の臂(ひぢ)ありともこのせのどもが矢面を脱(のが)るべうもおもはれず 左府頼長公も 今は見かね給ひて信西に對(むか)ひ 爲朝は形容(かたち)こそおとなびたれ いはば黄口(かうこう)の童(わらしべ)なり 戯(たはむれ)も人によるべし 信西にはいと似げなくも見えつるものかなと宣(のたま)ひしが 又爲義に對ひて とくとくそのものを將て退出候へと仰はる

 

 

 

 

【訳】

 

このように鳥羽上皇の恩寵を一身に集めていたにもかかわらず、どうしたことか、上皇と新院(崇徳院)の親子の間が険悪になった後も、信西は、頻繁に白河殿(*1)を訪れていた。

 

新院は日頃思うところがあるのか、密かに源氏と平氏の武士たちのことを調べていたが、この日の講義の後、信西に朝廷と武家の規範について尋ねた折に、我が国の古(いにしえ)の弓の名人は誰だろうかと尋ねられた。

 

信西が答えるには、

 

「我が国には昔から弓の達人と呼ばれる人は尽きないが、突出しているのは、吉備臣尾越(きびのおみおこし)(*2)と盾人宿禰(たてひとのすね)(*3)の二人ですね」

 

また、

 

「今の時代では、安藝守・平清盛(あきのかみ・たいらのきよもり)(*4)、兵庫頭・源頼政(ひょうごのかみ・みなもとのよりまさ)(*5)が筆頭に挙られるでしょう」

 

と答えた。

 

為朝はこの話を漏れ聞き、思わず声をあげ、フンと鼻で笑った。

 

信西、為朝をキッと見据え、

 

「コラ! ここをどこだと心得る。アヤツは誰じゃ」

 

と問えば、為義が

 

「あれは、私の八男、冠者為朝でございます。このような席に連なる身ではないのですが、新院がこちらに住まわれてから、来る人来る人皆歓待されているのを見るにつけ、お許しを請いませんでしたが、今日の講義をあれにも外から聞かせてやろうと思い、黙って連れて参りました。」

 

と答えた。

 

信西がススッと席を立ち進んで御階(みはし)の上からじっと為朝の顔を眺めながら、

 

「この小冠者めは、重瞳(ちょうどう)(*6)の異相じゃ。年はまだ15にも満たないというが。。。。大変大人びて見えるものだ」

 

「おい、場をわきまえずに、なんで私を鼻で笑ったのだ」

 
と、苦々しげに問いかけた。
 
為朝は落ち着き払って、
 
 
「世間の話を聞くと、通憲(みちのり)入道は博学だけれども、媚びる者を重用し、政治にも私情を挟むらしいと聞くが、全くその通りですじゃ。
 

今の時代の弓の名人を 清盛、頼政だと言われたことが、チャンチャラおかしいのを通り超えてムカつきましたわい。頼政なんて問題外。清盛なんてヤツは武もなく文もなく、ただ上皇にかわいがられているだけですじゃ。

 

こう言えば『わが仏尊し(自分の信じるものだけが何がなんでも尊いとする、他を顧みない偏狭な心をいう)』じゃが、そこに居る我が父為義は、14歳の時勅命を受けて美濃前司(ぜんじ)源義綱(みなもとのよしつな)(*8)を攻め滅ぼし、又18歳の時には、南都(*9)(なんと)の大衆が朝廷に対して不満を爆発させ、攻め上がって来ているとの知らせを受けて、これを迎撃して防げとの命令が下されたので、急なことで軍勢もそろわなかったにもかかわらず、たった17騎で栗栖山(くりすやま)に急行し、数千騎の大衆を追い返しましたぞ。でも今は、もう年老いてしまって無理じゃ。。。兄の義朝(*10)なども、弓を取っては、大変心強い者じゃ。」

 

 

為義はこれを聞いて、
 
「あヤツめ、余計な口論をして、とんでもない災いを呼び寄せたらどうするつもりか。早く慎んで矛を収めよ、馬鹿めが」
 
と思ったが、玉座が近いので叱り飛ばして退かせることも出来ないでいた。この場には左府頼長公も居たが、じっくりとこの問答を聞き、微笑みながら座っていた。
 
 
その時、信西は身を乗り出して、
 
 
「何だと、八郎!わが(私)が自分に媚びる者だけを重用し、政治にも私情を挟むだと。おのれ、どの口が言うのだ。
 
頼政は先頃、紫宸殿の上に夜な夜な現れる鵺(ぬえ)(*11)を射ち殺し、その武勇が取沙汰されているし、
 
又、清盛は、左衛門佐(さえもんのすけ)の時に内裏に鵺が現れたのを簡単に射ち落とし、この鳥が清盛の袖に飛び込んで、これを取り出してみると大きな鼠で、すぐに南の小山の竹を切り取り筒にして、この鼠を閉じ込め清水寺の丘に埋めたところが一竹塚(いっちくづか)(*12)と名付けたというではないか。この事件の鮮やかな解決に、人は皆感じ入ったと聞く。
 
これらの出来事はここ最近のことだから、お前もよく聞いておろう。
 
為義が昔、わざわざ攻めずとも自滅することが目に見えていた叔父の義綱を討ち、戦いに疎い南都の大衆を追い返したのとでは、比べるまでもないわ。義朝にいたっては、武勇の誉れなどまだ聞いたことがないぞよ。まさしくお前の言っていることこそが決定に私情を挟むということではないのか。」
 
 
為朝、ますますあざ笑い、 
 
「鳥は猟師でも撃ち落せますわい。鼠なんて猫でも捕れる。あなたは学問の事はよく知っておいでじゃが、弓矢の事には詳しくないようじゃ。まぁ、誰これと名を上げるのも無益なこと。おおよそ今の世の中で、弓矢をとって百万もの強敵を殲滅させる事が出来るのは、この為朝の他にいるわけがないということを覚えておくことじゃ」
 
と言えば、信西これを聞いてあきれ果ててしまい、しばらく口が聞けなかった。
 
が、たちまちカラカラと笑い声をあげ、口元をキッとさせ、
 
「アハハハ、大きな口を叩く者だわ。だいたい技というものは、長い年月の苦しい修行を積まなければ、その極(きわみ)にはとうてい到達出来ないもの。まぁ、お前がおむつの頃から習い始めても、まだたかだか十数年に過ぎない。お前に忠告しておくワ。人は木偶(でく)ではないぞよ。こちらが矢を射ようと思えば、あちらもこちらを射ようとするものじゃ。矢を射るのが上手い者は、射られた矢から身を防ぐのも上手いという。試しに今この場で射られた矢を取ってみるか!」
 
と言えば、
 
為朝、これを聞き終わらないうちに
 
「蒲衣(ほい)は8歳で舜(しゆん)(*13)の師匠となり、伯益(はくえき)(*14)は5歳にして火を自由に扱ったという。賢愚巧拙(けんぐこうせつ)(*15)というものは、年をもって議論するべきではないはずじゃ。どんどん矢を我に向かって射させてみるがよい、たとえ大悲の知恵の矢(*19)であっても簡単に掴みとって見せましょうぞ。」
 
と、のたまった。 
 
信西もはじめの頃は、ちょっと懲らしめてやろうと思っていただけだったが、為朝に全く屈する気配が見えないので、大層激昂し、 
 
「おのれの威勢がどこまで通じるか試してやろう」
 
と言って、さっと立ち上がって、
 
「誰かいるか。すぐに弓矢を持ってこちらに出会え」
 
と呼べば、
 
「かしこまりました」
 
との声がして、式成(のりしげ) 則員(のりかづ)という、2人の白河殿を警備する武士が弓矢を携えて、御階(みはし)の元に参上した。
 
信西、この2人を見て、いきさつを話し、
 
「この小冠者に矢を射立ててみよ」
 
と命令した。
 
この二人の武士は、もともとは白河院の武者所(むしゃどころ)に詰めていた的矢の名人であったが、鳥羽院が譲位した後に白河殿を警備をする瀧口に配置換えとなった。ある時、三尺五寸(1m)の的が与えられて、「この的の2番目の黒点に矢を命中させて持って参れ」と命令され、命令されたのが午前10時で、午後の2時には命中させて戻って来たという(*16)。この離れ技は、中国の弓の名人養由基(ようゆうき)(*17)の技に匹敵するとして、世間は褒め称えたという。今は老いてしまったけれども気力は昔と変わらず充実していた。為朝にたとえ6本の腕があったとしても、この2人が放つ矢から逃れられるとは思われず、左府頼長公も遂に見かねて信西に向かって、
 
「為朝は姿は大人びているが、まだまだくちばしの黄色い子供じゃ。戯(たわむ)れるのも人を選ぶべきじゃ。信西らしくないぞよ。」
 
と言い、続いて為義に向かって
 
「さあさあ、早くその者を連れて帰りなさい」
 
と言われた。
 
 
 
(つづく)
 
 
 

白河殿(*1)

白河(しらかわ、白川)は、かつて京都洛外、山城国愛宕郡に属していた白川流域を指す名称。

平安遷都直後の白河は鳥辺野などとともに葬送地であった。また、粟田口は逢坂関への入口であり、平安京から近江国を経て東国に至る道の起点として重要視された。また、白川上流の東山を越える山中越もこれを補完する経路として重要視された。

ところが、藤原良房が白河に別業(別荘)である白河殿を造営して以後、別業・寺院の建立が相次いだ。藤原道長は白河殿でしばしば観桜の宴(花見)などの四季の行事を行い、庶流にあたる藤原済時藤原公任も白河に別業を設けたとされている。白河殿は藤原師実の代に時の白河天皇に献上される。白河天皇により、師実実兄の覚円別当とした法勝寺が造営された。その後、歴代天皇・皇后によって建てられた5つの寺院とともに「六勝寺」と呼ばれた。また、白河天皇は退位後の寛治4年(1090年)頃に旧の覚円の僧房を御所(白河泉殿)とし、続いて永久3年(1115年)に白河泉殿を改築して白河南殿を造営、更に元永元年(1118年)にはその隣接地に白河北殿を新造して2つの御所を行き来しながら院政を行った。白河が事実上の政治の中心となったため、本来は平安京の外であった白河が「京白河」と称された。だが、治承・寿永の乱源平合戦)で交通の要所であった白河の地は荒廃し、窮民によって御所や寺院が荒らされていく様子が『玉葉』などに記されている。

白河 (洛外) - Wikipedia

 

吉備臣尾越(*2)

吉備氏(きびうじ/し)は、「吉備」をとする氏族古代日本吉備国岡山県)の豪族である。

 

盾人宿禰(*3)

的戸田宿禰 いくはのとだのすくね  
日本書紀」にみえる官吏的(いくは)氏の祖。仁徳(にんとく)天皇12年高句麗(こうくり)(朝鮮)からおくられた鉄の盾と的を,ただひとり弓で射おとしたので天皇からこの名をあたえられた。17年新羅(しらぎ)(朝鮮)に朝貢をうながす使節として派遣されたという。

的戸田宿禰 とは - コトバンク

 

安藝守・平清盛(*4)

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将公卿

伊勢平氏棟梁平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語[1])と言われる時代を築いた(平氏政権)。

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏独裁貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

平清盛 - Wikipedia

 

兵庫頭・源頼政(*5)

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頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将公卿歌人摂津源氏源仲政長男平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。

保元の乱平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

源頼政 - Wikipedia

 

重瞳(*6)

重瞳(ちょうどう)とは、一つの眼玉に、が二つある眼のこと。とくに、中国貴人の身体的特徴として表現されることが多い。たとえば、伝説上の聖王であるは重瞳だったという。また、資治通鑑などの史書によれば、項羽も重瞳だったという。

 

江湖(*7)

江湖(ごうこ、こうこ)は、江西省湖南省、あるいは大きな江(川)と湖(狭義ではその代表たる長江洞庭湖)の併称で、転じて官に対する民間、世間一般を指す言葉。

 

美濃前司・源義綱(*8)

源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の河内源氏武将源頼義の子。母は平直方の女で、兄八幡太郎義家、弟新羅三郎義光と同腹である。

嘉保2年(1095)、美濃国延暦寺荘園領を宣旨によって収公した際、寺側と小競り合いになり、一人の僧が矢に当たって死んだ。延暦寺日吉神社はこれに怒り、強訴を行った。関白藤原師通は、義綱のほか、源頼治を派遣してこれを撃退したが、その際、矢が神輿神人に当たり、それが仏罰となって、数年後の師通の若死にをもたらしたとも言われている。

嘉承元年(1106年)7月1日に兄源義家が没した。義家は四男の義忠を後継者に指名していた。天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠が斬りつけられ、5日後に死亡する事件が発生した。義綱父子は義忠を殺害したとして疑いをかけられて逃亡したが近江の山中で源為義に捕縛され、降伏して出家後、佐渡に流罪となる。この時、六人の息子が不幸な最期を遂げている。長男義弘・次男義俊は谷に身を投げて投身自殺し、三男義明は義忠殺害の張本人とされて追っ手に追われて戦死、四男義仲は火に飛び込んで焼身自殺、五男義範切腹、六男義公は自害、という様相であった。

1132年、配流先の佐渡で再び源為義の追討を受けて自害。後に、義忠殺害は冤罪であり、真犯人は源義光であった事が判明した。

源義綱 - Wikipedia

 

南都(*9)

興福寺奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年定昭の創立した一乗院寛治元年(1087年隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉室町時代の武士の時代になっても大和武士[注 1] と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。

興福寺 - Wikipedia

 

義朝(*10)

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏武将源為義長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝源義経らの父。

源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。

源義朝 - Wikipedia

 

怪鳥(*12)鵺(*12)

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平家物語』や摂津国の地誌『摂津名所図会』などによると、鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。

側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある[4])を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政が山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した[5][6]。その時宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという[5]。これにより天皇の体調もたちまちにして回復し[7]頼政天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した。

退治された鵺のその後については諸説ある。『平家物語』などによれば、京の都の人々は鵺の祟りを恐れて、死体を船に乗せて鴨川に流した。淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川住吉川の間の浜に打ち上げられた。芦屋の人々はこの屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという[5]。鵺を葬ったとされる鵺塚は、『摂津名所図会』では「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり」とある[5]

鵺 - Wikipedia

鵺塚(大阪市都島区)

 
一竹塚(*13)
 
舜(*14)
(しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は(よう)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)と称した。儒家により神聖視され、(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。
 
伯益(*15)
通称「益」。堯、舜、禹の三代に仕えた賢臣。禹のもとで宰相を務め、やがて禹から禅譲によって帝位を継いだ。 禹が没した後、3年の喪があけて禹の息子である啓に帝位を譲ったという。 益が啓を拘禁したという反逆の説、啓が益に代わって帝位につこうとした武力革命の説もある。
 
賢愚巧拙(*16)
『賢愚巧拙』は、本居宣長の「くずばな」にある、「智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり、」から。

その人が「賢い」とか、「愚か」だとか、「巧み」だとか、「拙い」などということは、その人の、実年齢で判断することはできない。
(年が若いから世の中の道理が分かっていないとか、年をとったから何でも知っているとは限らない。)
 
【私見】
曲亭馬琴本居宣長は同じ時代に生きた人。本居宣長は日本人とは何かを掘り下げた人である。恐らく、馬琴は本居宣長の書物も参考にして著作したと思われる。このようなことに思いを馳せるのも面白いですね。
 
ある時、三尺五寸(1m)の的が与えられて、「この的の2番目の黒点に矢を命中させて持って参れ」と命令され、命令されたのが午前10時で、午後の2時には命中させて戻って来たという(*17)
宇治拾遺物語 巻七(98) 式成、満、則員等三人滝口弓芸の事に記述
 
養由基(*18)
養由基(ようゆうき,生没年未詳)は春秋時代の中国の人物。弓の名人として知られる。
楚国の人であり荘王共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は殿(しんがり)をつとめ1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。
 
大悲の知恵の矢(*19)
先手観音が放つ矢のこと。各地に下記のような物語が語り継がれている。
奈良時代天平9年、1200年余り前の名僧行基菩薩の開基と伝えられ行基自作の十一面観音を本尊としてお祭りし、樋の尻観音といいますが、このあたりでは「嫁いらず観音様」の俗称で知られています。
 
そのいわれは、行基菩薩は両国行脚の際此庄(井原市大江町)に滞在されましたが、当時この地方に妖怪悪鬼が住み、世人を苦しませていました。行基菩薩はこれを嘆かれ「諸悪を除きたまえ」と大悲薩垂(観世音菩薩)に祈念しました。すると、観音様は、たちまち姿をかえて、三十三身を現して妖怪退治にむかい、中でも千手観音は「大悲の弓」に「知恵の矢」をつがえて雨あられと射かれ、妖怪らのすくむところを十一面観音が「大悲の利剣」をふるって鎮定され、これよりこの地方の生活も安泰となりました。そこで、行基菩薩は観音の徳をあがめて、最上の白壇木に十一面観音像を彫み樋の尻大磐石の岩陰に安置し、この山を一大観音霊場とし、自ら側らの地に小庵をかまえ、大衆冥福の祈念場とされました。これが樋の尻観音の縁起と伝えられています。

弥来千数百年参詣者は絶えることなく、とくに年老いた人たちが「いつまでも健康で、幸福な生涯を全うし、嫁の手を煩わすこともない」という霊験があり、嫁不要(よめいらず)の観音様といわれております。
 
 
 
【雑感】
 
いやいや面白い物語ですね。ブログに書くのをそっちのけで、ついつい読みふけってしまいます。
 
小学校の教科書に取り上げられてもいい物語です。恐らく戦前は教科書に掲載されていたのでしょうね。戦後、意図を持ってこの物語は排除されのだと思います。家庭でこういった物語を読み聞かせていれば、道徳なんて学校でわざわざ習わなくてもいいですね。
 
ささぁ、為朝はどうなってしまうのか。
 
次で第一話は完結します。