まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【椿説弓張月 曲亭馬琴】 第一回ノ壱 信西(しんぜい)博覧韓非を好(よみ)す 爲朝(ためとも)禀性(りんせい)射法に達す

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 7月 18日 赤口  四緑木星

         丙辰 日/癸酉 月/甲午 年 月相 17.2 居待月 大潮

         立秋 次候 寒蝉鳴(ひぐらしなく)    

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 24.6℃ 湿度 76%(大阪 6:00時点) 

 

 

日本には戦後、学校教育で教えられることのなくなった古の英雄がたくさんいる。

その中の一人、源爲朝(みなもとのためとも)を取り上げる。

源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体爲朝)は、平安時代末期の武将源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女

の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。切腹の、史上最初の例といわれる。[要出典]

一方、琉球王国正史中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる、伝説的な人物でもある。

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源為朝 - Wikipedia

 

 この為朝は、各地に数多の伝説を残しているがその中の一つに『六角ノ井』がある。

強弓をもって知られた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)が、 保元の乱において父為義に従い崇徳上皇方についたが敗れ、強弓を引けなくする為に腕の筋を断ち切られて、伊豆大島に流されました。

 

ある時、為朝が弓を引く力が回復したかを試すために、伊豆大島より鎌倉の材木座海岸にある、 光明寺裏山の天照山をめがけて遠矢を放ちました。その矢は18里(72km)の洋上を飛び越えて、 六角の井の中に落ちたと云われています。

 

村人が落ちた矢を取り上げたところ鏃(やじり)は井戸の底に残ってしまいました。 今でも井戸を浚うと井底に鏃が見えるそうで、ある時に鏃を井底より取り出して明神様に奉納したところ、 井戸水が涸れてしまいました。これに驚いた村人が、鏃を井戸の中に戻すと、 井戸は再び元のように水が湧き出しました。鏃の長さは四五寸(15cm)ばかりありました。

井戸の傍らの説明文によると、井戸の形は八角形で、六角が鎌倉分で二角が小坪分です。 以前は井戸替えの際に鏃の入った竹筒を使用しましたが、ある時これを怠ったために悪い病が流行ったといわれています。 それ以来、鏃は竹筒に封じて井戸の中に奉納してあると言い伝えられています。

Google マップ -『六角ノ井』

 

滝沢馬琴が原作を書き、葛飾北斎が挿絵を描いた『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は、江戸時代の庶民を夢中にさせたという。

物話は、鎮西八郎を称した源為朝の活躍を『保元物語』にほぼ忠実に描いた前篇・後篇と、琉球に渡った為朝が琉球王国を再建(為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球舜天になったという伝説がある[1])するくだりを創作した続篇・拾遺・残篇からなる。

日本史のなかでも悲劇の英雄の一人に数えられる源為朝に脚光をあて、その英雄流転譚を琉球王国建国にまつわる伝承にからめた後編は、そのスケールの大きさと展開力で好評を博した。

 

長編ではありますが、楽しみながらこの壮大な物語を紹介していきたいと思います。

 

 

 

 椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』

作 滝沢馬琴

画 葛飾北斎 

 

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清和天皇七世の皇孫 鎮守府(ちんじゅふ)将軍陸奥守(むつのかみ)源義家朝臣(あっそん)の嫡孫六条判官為義の八男 冠者(かんじゃ)爲朝と聞こえしは知勇無双にして身の丈七尺 犲(さい)の目猿の臂(ひぢ) 膂力(りょりょく)は人に勝れ よく九石の弓を彎(ひき) 矢継ぎ早の手練なり

 

されば天性弓馬の妙奥を極むべき人にやありけん 生まれながらにして弓手(ゆんで)の肘(かひな) 馬手(めて)に四寸伸て 矢束を引くこと世に超(こえ)つ 幼(いとけな)きより見識卓(たか)くして 夥(あまた)の兄にも處(しょ)を置かす よろづ己(おの)が随意(まにまに)挙動(ふるまひ)給ひける

 

時に近衞院(このゑのいん)の仁和元年 爲朝やや十三歳になり給ひしが 形状(かたち)は尋常(よのつね)の壯夫(ますらを)にも劣らず 久後(ゆくすゑ)いかなる事をかなさん 彼はわが兒(こ)ながらいと勇々しきものなりとて 父爲義も生平(つね)に舌を振(ふるひ)て 驚嘆し給ひけるとぞ

 

この時鳥羽の上皇は いぬる保安四年正月廿(二十)二日 實算(おんとし)二十一にして御位(みくらゐ)を第一の宮 顕仁王(あきひとおおきみ)に傳え給へり 治承元年六月廿九日に追號ありき 崇徳院(すとくゐん)と申すは是なり

 

されど天下(あめがした)の政は 大小となく院(鳥羽上皇)より制度(さた)し給ひつるが 保延五年五月十八日 美福門院(びふくもんゐん)の御腹(おんはら)に 皇子(おうじ)誕生ありしかば 上皇殊(こと)に悅びおぼして やがて東宮にたてまゐらせ 永治三年十二月七日 御年僅(わづか)三歳にして天子の位に即(つけ)まゐらせ 先帝(崇徳院)をば新院とぞ申しける これみな上皇の御はからひより出たれば 新院(崇徳院)も推辭(いろひ)給ひがたし 只御こころの底にいたく恨みおぼして 御父子の中も睦しからず

 

寔(げ)に御心の外に御位を去り給へば さこそと推量(おしはかり)まゐらせながら 代變世(うつればかはるよ)のならひにて 早晩(いつしか)新院の御かたへは 参りつかふる人もなく 公卿には宇治左大臣頼長公 少納言入道信西なんど僅に五三輩に過ず 武士には六條判官爲義父子のみをりをり参り慰め奉りける

 

しかるに一日(あるひ) 少納言信西(しんぜい) 新院の御所に参りて韓非子(かんびし)といふ書を讀(よむ)よし その聞えありしかば 為義朝臣も聽聞の爲に参り給ふ折しも 若殿ばらは かかる事を聞きおくにしかず 子ども多かる中に 八郎はわきて心勇(たけ)ければ いまだ學問をばようせずと覺るぞ 御許(みゆるし)を蒙らで 召倶(めしぐ)したりとも さまで御咎もあるまじきに 誘(いざなひ)給へと仰(あふ)すれば 爲朝はこころえ侍りと回答て 衣服かひ繕ひ 従者(ともびと)などのごとく打扮(いでたち)て 彼御所に参り 御階(みはし)の下についゐて 遙に信西の説くところを聞給ひけり 

 

抑(そもそも)少納言藤原通憲(みちのり)入道信西は 山井(やまゐ)三位(み)永瀬卿八世の後胤 越後守李綱(すえつな)が孫鳥羽院(とばのいん)御宇(ぎよう) 進士藏人(くらんど)實兼(さねかね)が子にて 南家(なんか)の儒流(じゆりう)たりといへども 高階氏(たかはしうぢ)の養子となりしを以て儒官に昇らず

 

この人博學宏才にして諸道に達す 其妻は雅仁王(まさひとおほきみ)(後白河院是なり)の御乳母なりければ 上皇も二なきものなりと愛(めで)おぼして 朝政(まつりごと)をさへ預り行はせ給ふに よくその職に堪(たえ)たりとは見えながら もつはら申韓(しんかん)の法を用ひて 賞を軽し罰を重くし 動(ややも)すれば親疎(しんそ)につきて 決斷に私ありし程に おほく人の怨(うらみ)を惹(ひけ)り 

 

 

 【訳】

 

清和天皇(*1)から7代目の子孫である鎮守府(ちんじゅふ)将軍陸奥守(むつのかみ)源義家(みなもとのよしいえ)公(*2)の嫡孫(ちゃくそん)である六条判官為義(ためよし)(*3)の八男、冠者(かんじゃ)為朝と申す者は、知勇無双の猛者にして、身の丈7尺(2m10cm)、山犬のごとく眼光を放ち、猿のごとくの腕を持ち、その腕力は他を圧倒していた。9石(280kg)もの重さの弓を軽々と引き、強弓連射の達人であった。

 

馬にまたがり矢を放つそのワザを天から授かった、生まれついての達人であったのだろう、生まれた時から左腕が右腕よりも4寸(12cm)長く、矢束を引くそのワザは浮世離れしたものだった。幼い時から世の中の本質を見通す眼光鋭く、数多(あまた)の兄者達にも遠慮せず、傍若無人に生きていた。

 

時代は、近衛院(*4)が即位した年。為朝も13歳になったが、その出で立ちは世の中の益荒男(ますらお)と呼ばれる者達にも劣らず、行く末はとんでもないヤツになるなと、我が子ながら天晴なヤツと、父為義も常々口にし、驚いていた。

 

ここで、この時代を振り返る。

 

鳥羽上皇(*5)は、去る保安四年(西暦1123年)正月22日、わずか21歳で玉座を第一の宮である顕仁王(あきひとのおおきみ)に譲位された。後の治承元年(西暦1177年)6月29日に追号された、崇徳院(すとくいん)(*6)というのは、この方である。

 

しかしながら、実権は鳥羽上皇が握り大小の政(まつりごと)を院の意のままにしていた。そして、保延五年(西暦1139年)5月18日、寵愛する美福門院(びふくもんいん)(*7)が皇子を出産したので、上皇は大喜びして、すぐに東宮に奉り、永治元年(西暦1142年)月7日には、御歳わずか3歳で、近衛院は天子の位につかれた。先帝(崇徳院)は退位し、新院と呼ばれることとなった。全ては上皇の意思でされ、新院(崇徳院)も従うしかない。ただ、心の中では恨みを募らせ、自然と父子の関係は険悪となっていった。

 

本当に予想外に天皇の位を譲位されたので、新院は世の中の同情を引いていたが、移れば変わるのが世の中、いつの間にか新院の元を訪れる人も途絶え、今では公卿の宇治左大臣源頼長(*8)少納言入道信西(*9)などわずかな者だけが、武士では六條判官為義父子だけが時々訪れて新院を慰めていた。

 

ある日、少納言信西(しんぜい)が新院の御所に参内して、韓非子(かんびし)(*10)といふ書を講義するという知らせが届いたので、為義朝臣も聴聞の為に訪問しようとした時に、

 

「子供たちにもこの講義を聞かせておいた方が良いかもしれない。子供が多く、八郎は特に暴れん坊なので、学問とは縁が遠くなりそうな予感がする。まぁ、許しを得なくて連れて行っても、とがめられることはないだろう。」

 

と考え、「ついて来なさい」と言えば、為朝は「わかりました」と答え、衣服を整え、従者のような格好で御所に参内し、御階(みはし)の下にかしこまって座り、遠くから信西の講義を聞いていた。

 

さて、少納言藤原通憲(ふじわらのみちのり)入道信西(しんぜい)は、山井三位藤原永頼(ふじわらのながより)(*11)卿より八世代後の子孫である、越後守藤原李綱(ふじわらのすえつな)(*12)の孫で、鳥羽院の時代に進士に合格した蔵人(くろうど)藤原實兼(ふじわらのさねかね)(*13)の子であった。藤原南家(ふじわらのなんけ)(*14)一門の学者閥に属していたが、高階(たかしな)(*15)氏の養子となって以降は、儒官には任官していなかった。

 

この人物は、博学秀才で諸道に明るく、妻は、雅仁王(まさひとおおきみ)(のちの後白河天皇)(*16)の乳母であったので、上皇もこの上なく重用されて、政(まつりごと)までも任せて、表向きは立派にその職を全うしているかのようではあったが、実際は陰陽の術を政に用いて、恩賞を少なくし刑罰は重くし、媚びる者を重用し、口うるさい者を遠ざけ、政治の裁断に私情を挟んだため、多くの人の恨み引き寄せた。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

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清和天皇(*1)

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日850年5月10日) - 元慶4年12月4日881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日858年12月15日) - 貞観18年11月29日876年12月18日)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の始祖で、惟仁(これひと)。

清和天皇 - Wikipedia

 

鎮守府将軍陸奥守源義家(*2)

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源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将伊予源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝室町幕府足利尊氏などの祖先に当たること等から後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。

 

吹く風を なこその関と 思へども 道もせに散る 山桜かな』

源義家 - Wikipedia

 

六条判官源為義(*3)

源 為義(みなもと の ためよし、-爲義)は、平安時代末期の武将。祖父が源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官陸奥四郎

 

当初は白河法皇鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家藤原忠実頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

源為義 - Wikipedia

 

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近衛院(*4)

近衛天皇(このえてんのう、旧字体近衞保延5年5月18日1139年6月16日)- 久寿2年7月23日1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日1142年1月5日) - 久寿2年7月23日1155年8月22日))。躰仁(なりひと)[1]

 

生母の得子が鳥羽上皇の寵愛を受けていたため、崇徳天皇の中宮・藤原聖子准母とし、わずか2歳で異母兄・崇徳天皇譲位を受けて即位した。在位中は鳥羽上皇院政を敷いた。しかし病気がちで、15歳の時には一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・藤原忠通に告げたという(『台記』仁平3年9月23日条)。病弱な上に17歳で早世したため皇子女はなく、異母兄・雅仁親王が即位した(後白河天皇)。鳥羽法皇崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。

 

近衛天皇の死は左大臣藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れた。口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが朕を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため朕は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べたので、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5〜6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)。

近衛天皇 - Wikipedia

 

鳥羽上皇(*5)

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体鳥羽康和5年1月16日1103年2月24日) - 保元元年7月2日1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日1107年8月9日) - 保安4年正月28日1123年2月25日))。宗仁(むねひと)。

生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位。政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、長子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。

白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させ、院の要職を自己の側近で固める。さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子・体仁親王近衛天皇)を即位させた。崇徳・近衛・後白河の3代28年に亘り実権を掌握。康治元年(1142年)に東大寺戒壇院で受戒し法皇となった。

皇后・美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を作った。

鳥羽天皇 - Wikipedia

 

崇徳院(*6)

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崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日1119年7月7日) - 長寛2年8月26日1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日1123年3月18日) - 永治元年12月7日1142年1月5日))。退位後は新院讃岐院とも呼ばれた。顕仁(あきひと)という。

崇徳天皇 - Wikipedia

 

後白河院(*16)

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日1127年10月18日) - 建久3年3月13日1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日1155年8月23日) - 保元3年8月11日1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。

その治世は保元平治の乱治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇平清盛木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。

後白河天皇 - Wikipedia

 

美福門院(*7)

藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生母。女御皇后女院藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言藤原長実太政大臣)、母は左大臣源俊房の女、方子院号美福門院(びふくもんいん)。

藤原得子 - Wikipedia

 

宇治左大臣源頼長(*8)

藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。兄の関白藤原忠通と対立し、父・藤原忠実の後押しにより藤原氏長者内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色はじめ当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。

藤原頼長 - Wikipedia

 

少納言入道信西(*9)

信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日1160年1月23日))は、平安時代末期の貴族学者僧侶信西出家後の法名、号は円空俗名藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな-)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下少納言

信西 - Wikipedia

 

韓非子(*10)

韓非子』(かんぴし)は、中国戦国時代法家である韓非の著書。内容は春秋・戦国時代の思想・社会の集大成と分析とも言えるものである。

後世では、諸葛亮が幼帝劉禅の教材として韓非子を献上している。

 

山井三位藤原永頼(*11)

藤原 永頼(ふじわら の ながより)は平安時代中期の公卿播磨守藤原尹文の子。官位従三位皇太后宮権大夫山井三位と号す。

永頼の子孫は院政期藤原信西藤原朝子夫妻、源義朝の遺児源範頼の養父である藤原範季やその娘で順徳天皇母の修明門院源頼朝の外祖父藤原季範や母の由良御前などを輩出している。

 

越後守藤原李綱(*12)

平安時代中期-後期官吏,漢詩人。南家藤原実範(さねのり)の子。母は高階業敏の娘。天喜(てんぎ)4年(1056)の「殿上詩合」に文章生(もんじょうしょう)としてくわわる。東宮大進(とうぐうのだいじょう),備前守,越後守などをへて大学頭(かみ)となった。詩文は「本朝無題詩」などに二十余首がはいっている。康和4年(1102)以前死去

藤原季綱 とは - コトバンク

 

藤原實兼(*13)

藤原 実兼(ふじわら の さねかね、応徳2年(1085年) - 天永3年4月2日1112年4月29日))は、平安時代末期の廷臣、漢詩人。藤原南家貞嗣流、藤原季綱の次男[1]。母は若狭藤原通宗の娘。院政期に院近臣として権勢を得た信西藤原通憲)の実父。

鳥羽天皇の即位前よりその傍らに仕え、康和5年(1103年)に東宮昇殿を許される。さらに同天皇の即位に伴い、天仁元年(1108年)に進士の時に蔵人に進む。若年時より博識を謳われ、『本朝無題詩』『朝野群載』『和漢兼作集』『擲金抄』『本朝小序集』などに漢詩・和歌が収録されている他、帥中納言大江匡房の談話集である『江談抄』の筆録者であるともされている。

将来を嘱望されたが、天永3年(1112年)、28歳の若さで蔵人所において頓死。余りに急な死であったため、殺害説も流布された[2]。これを受け、一子通憲は高階経敏の養子となっている。

藤原実兼 (蔵人) - Wikipedia

 

藤原南家(*14)

藤原南家(ふじわら なんけ)とは、奈良時代藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂の邸宅が弟房前の邸宅の南に位置したことに由来する。子孫は、房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、伊東氏二階堂氏相良氏武家の名族を多く輩出した。

藤原南家 - Wikipedia

 

高階氏(*15)

高階経敏(たかしなの-つねとし)

 平安時代後期官吏藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))の養父白河上皇につかえ,武蔵守(むさしのかみ),能登守(のとのかみ)をへて,大治(だいじ)元年(1126)長門守(ながとのかみ)となった。

高階経敏 とは - コトバンク

 

【参考】

鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき