まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【岡本かの子 仏教人生読本】 第三課 飽くまで生き抜く力

【今日のこよみ】 旧暦2014年 4月26日 大安  四緑木星

         乙未 日/庚午 月/甲午 年 月相 24.9 小潮

         小満 初候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)    

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 14.2℃ 湿度 68% (大阪 6:00時点) 

 

 

飽くまで生き抜く力と言っても、朝から晩まで肩肘張って力んでいることではありません。相手や、場合によってそうしなければならないこともあるでしょうが、始終そうやっていては誰だって疲労(くたび)れてしまいます。

 

人間は一面、ゴムの紐と同じようなものであって、あまり長く緊張し続けるとのびてしまいます。

 

若い時、かなり激しい気性の人で、活動し続けて来たのが、老後になってぽかんとしてしまったという老人など、たまにみなさんの周囲にお見受けになりませんか。

 

そうかと思うと四十過ぎまでは、何の存在も認められなかった人が、中年からそろそろ活動を始め、老境に入るに従っていよいよ冴えて来たという人もあります。

 

それからまた、若い時から忙しい生活をし続け、一生それを押し通し、老いてますます盛んな人もあります。

 

以上三つの型に人間の生涯が区別されます。

 

これはどうしてでしょうか。一つは気魄や、体質により、一概にも言われませんが、概して、人間の内部にある「飽くまで生き抜く力」というものを、信仰とか信念とかで掴んだ人が活動が続くようです。

 

私はある名医の話を聴いたことがあります。その医師が言うには、「およそ、上手な医者ほど、自分の力では病気を癒さん。自然の力で癒す。人間の身体にはもともと病気を癒す力が備わっている。それを介添えするだけが医者の役である。下手な医者ほど自分の力を信じて無暗に薬を盛り、この恢(回)復力を殺してしまう」と。


なおも、よく聴いてみると、私たち素人にもなるほどと諾(うなず)かれます。胃腸が悪くなった時、医者から貰って飲む薬は、ただ痛みを止めたり、胃腸の中の残留物(のこりもの)を除いたり、あるいはその腐敗を止める防腐剤などであって、特に胃腸そのものを良くするという薬は入っていません。そうやって、胃腸を害する原因を防いでいるうちに、胃腸はその持ち前の恢(回)復力で元の健康状態に盛り返して来ます。これを癒るというのです。風邪を癒すにしても、せいぜい患者に汗を出させて、汗と同時に身体の中の余分な熱を体外へ流し出そうと努める発汗剤(あせとりぐすり)や、高熱のため、方々の器官に故障を起させないようにと遠まわしの薬(例えば心臓の薬とか胃腸の薬など)が主なもので、特に風邪そのものを退治する薬ではないということです。そうやって患者の身体に助太刀しているうち患者の身体自身に備わっている体温調節の機能が盛り返して来て、病気を弾ね除けてしまいます。それを風邪が癒ったと言います。「もっとも、人間にはいちいち持ち前の体質の相違があって、それによって同じ病気でも、出かたが違う。そこを見分けて手当も変えて行く。そこに医者の伎倆(うで)の優劣があるのだが……」。そういってその名医は多少得意の顔色を見せました。

 

人間の生きる力というものにも、前の医者の話と同じ道理があるようです。自分で力み出す力には、自ずと限度があります。いくら眠らずに働こうとしても三、四晩以上の徹夜は不可能です。いくら勤倹貯蓄の精神を励ましても、つい何か食べに出かけたくなったり芝居、活動を見に行きたくなるものです。また、その辺に私たち凡人の可愛気(かわいげ)もあるところです。故に自分の生きる力ばかりを鞭打って飽くまでやり通そうとするのは、それはゴムの紐を最大限に引伸して、いつまでも使えるものと思うのと同じことです。私たち凡人はいつかのび切ってしまって、反対に締りがなくなることさえ往々あります。自分の力ばかりを最後まで使い切らないで、自分以上の力が、宇宙にも自身の内部にも存在することを信じ、それに対する信念を得て、それを呼び求めて、その力を自分の不断の力と一緒にして自分の仕事任務をさせて貰うとき、私たちはわれ知らず、自分でも驚くほどの事を(や)って退(の)けます。

 

よく講談などにある、仏神に祈誓(きせい)を籠め、自分以上の力を得て仇討を完(まっと)うしたという話などはそれです。私たちはその話を聴きながら、どこか胸をうたれて涙さえ流すことがあります。これらの話の中には、生きる力の秘密が囁かれているからです。

 

飽くまで生き抜く力は、人間にひとりでに備わっている力です。それは病気を癒す力が患者にひとりでに備わっていると同様です。しかし、私たちは不断、それに気付きません。患者が自分の身体中にある病気恢(回)復力を知らずにいるようなものです。その恢(回)復力を医者が取出してそれを使って病気を癒してくれます。しかし私たちの不断の生活において誰も、医者も、私たちの飽くまで生き抜く力を取出してはくれません。それは自分で取出さねばなりません。自分自身の信念信仰(そういう力が世の中に、また自分の中にあるということを信じて疑わないのみならず、体験にまで持ち来すこと)によって呼び寄せるのです。

 

信念とか、信仰とかは井戸掘り機械です。いくら豊富なその力(飽くまで生き抜く力)が私たちの上に備わっていても、ただのままでは、地下何百尺の地下水のようなものです。あることだけは知っていても、それを取出す方法を講じなくては何の役にも立ちません。機械によって井戸を掘り、はじめて地下水は私たちの役に立ちます。すなわち信念とか信仰によって体験に持ち来されるに及んではじめて私たちの飽くまで生き抜く力となるのです。

 

それでは生き抜く力とはどんな力でしょうか。それが最初から判っているくらいなら、普通の人力とそう違いはない程度のものです。判らないからこそ、信念によってそれを迎えます。

 

福沢諭吉という方は、維新後の日本に物質文明の必要なることを痛感せられ、極力その智識を輸入し、また国民間にその普及を図られた今日の日本文化の有力なる指導者の一人でありましたが、当時固陋(ころう)の人々からは、俗学者だとか、拝金宗の親玉だとか言われました。それほど物質的なものに眼を着けられた学者です。ところが、わが国の物質文化もひとまず出来上り、一般が物質文化を謳歌する様子が見えて来ると、諭吉先生は、今度は超人間的な力の存在を、その著書で力説し始められました。「世の中には人間以上の力の存在が必ずある。人々はこれに気付き、高尚(こうしょう)敬虔(けいけん)な情操を養わねばならぬ」と。先生は言説ばかりではなく、実際に仏教家の子弟などを自分の塾の学生として教育され、その中には後に明治年間の名僧と呼ばれるような人も出ております。

 

世の中の変遷(うつりかわり)を見守って来た人、達識者は、幾多の経験の末、どうしてもこの力に結論せざるを得ないものにぶつかるらしいのです。孔子にしろ、王陽明にしろ、いずれも、この飽くまで生き抜く力、人間以上の力があるのに気付いています。「もしナポレオンが宗教を解していたら、あんな末路にはならなかったろう」と書いている西洋の哲人もあります。なるほどそうかも知れません。

 

人力以上にして、しかも、私たちにも備わり、天地の間にも瀰漫(びまん)している力、すなわち、飽くまで生き抜く力であります。信念、信仰によってこれを享(う)くるものは尽きせぬ動力を供給せられ、労せずして根気も敏活も働きの上に上るのであります。

 

終日語(かた)って一語(いちご)らず。
終日行(ぎょう)じて一事(じ)(ぜず。

 

こういう古語があります。一日中空虚な言行をしているという意味ではありません。それと反対で、物事に応じた言説、行為を力いっぱいやっているのです。しかも言説、行為をなした当人は、悪執拗(わるあくどい)力や作為(こしらえ)は一つもなく、ただ力が入っている。力が入っていながら行雲流水のような自由で自然の態度を備えている。これは、まあ私たち凡人にとっては理想の話ですが、一片の信念、信仰を(いだく)のは、いつとはなしに本然の(宇宙および自分にもとから備わっているところの)生き抜く力が体験中に拡大強化されて行って、昔の自分と比較するとき、思わず驚くほどになるものです。それはちょうど、坂の上から小さい雪の手玉を転がし落すと、坂の下まで来たときには大塊(たいかい)の雪団(ゆきだるま)になっているようなものです。

 

いつも青年の気を帯び、老いてますます盛んな人をよく観察して御覧なさい。必ず何らかの一貫した信念を持っている人であります。たとえそれは俗情のものであっても。それから中年後になって活動を開始したという人は、そのときはじめて何らかの信念を握った人で、それまでは自分の力だけで、自分の工夫だけで齷齪(あくせく)していたのであります。まして正道の信念を得た人の活動力は素晴しいものであります。それでは、自分だけの普通の力とか、自分の工夫努力は全然不必要かというと、これはまた、本当の飽くまで生き抜く力を知らない人の言うことであります。飽くまで生き抜く力を仰ぎ得た人は、その大きな力の中へ、自分の力も、工夫努力もみんな籠めてしまうのであります。自分の普通の力、工夫努力が多ければ多いほど、飽くまで生き抜く力を引っ張り出すのに、それだけ余計に沢山の力を利用することが出来るのです。

 

かくて、ひとたび信念によって生き出したものは、実はどこまでが仰いだ力でどこまでが自分の普通の力なのか、区別がつかなくなるのであります。仰ぐ力と、信念と、自分の力と、この三者は、時に円融し、時に鼎分(ていぶん)(三つに分れること)し、そこに反省あり、三昧(さんまい)境あり、以て一歩一歩、生きる力の増進の道を踏み拓いて行くのであります。そこに信念生活の妙味があるのであります。

 

 

【雑感】

 

人智を超えたチカラがこの世界に存在するであろうことは、感覚として分かる。日常ではこのチカラを意識することもないが、災害や事件事故を目の当たりにするとこのチカラを痛感することとなる。

 

では、人智を超えたチカラというのは、人間に試練を与える作用のみを及ぼすのであろうか?

 

嫌、人智を超えたチカラというのは、上で述べているように『地下何百尺の地下水のようなもの』なのだ。実際に流れている気配を感じても、その流れを見ることは出来ない。

 

だから、人間が自分の信念を持って解釈するしかない。目を閉じた時に目の前に広がる暗闇をただの暗闇と捉えるか、無限の空間と捉えるかといったようなことなのだ。

 

ただ言えることは、地球上に無数の生き物が存在する中で人間として生まれてきて、多数の民族が地球上で暮らす中で日本人として生まれてきて、日本に数ある家族の中でこの家族の中に生まれてきたこと自体が、この人智を超えたチカラの恩恵であることには間違いがない。

 

この奇跡を意識すると感謝感激のおもゐしか湧き上がってこない。