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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 八】 誠の道を論じて宗門に及ぶ

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 2月 9日 仏滅  四緑木星

         己卯 日/戊辰 月/甲午 年 月相 7.8 

         啓蟄 初候 蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)    

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 3.2℃ 湿度 65% (大阪 6:00時点)

 

 

翁曰く、世の中に誠の大道は只一筋なり。 
 
神といひ儒といひ佛といふ。皆同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台といひ、眞言といひ、法華といひ禅と云ふも同じく入口の小路の名なり。
 
 
夫れ何の教へ何の宗旨といふが如きは、譬へば爰(ここ)に清水あり、此の水にて藍を解きて染むるを紺やと云ひ此の水にて紫をときて染むるを紫やといふが如し。其の元は一つの清水なり。
 
 
紫屋にては我が紫の妙なる事、天下の反物染むる物として紫ならざるはなしとほこり、紺屋にては我が藍の徳たる洪水無邊なり、故に一度此の瓶に入れば物として紺とならざるはなしと云ふが如し。
 
 
夫れが為に染められたる紺や宗の人は、我が宗の紺より外に、有り難き物はなしと思ひ、紫宗の者は、我が宗の紫ほど尊き物はなしといふに同じ。
 
 
是皆所謂三界城内を、躊躇して出づる事あたはざる者なり。夫れ紫も藍も、大地に打こぼす時は、又元の如く、紫も藍も皆脱して、本然の清水に帰るなり。
 
 
そのごとく神儒佛を初め、心学性学等枚挙に暇あらざるも、皆大道の入口の名なり。この入口幾箇あるも至る處は必ず一の誠の道なり。是を別々に道ありと思ふは迷ひなり。別々なりと教ふるは邪説なり。譬へば富士山に登るが如し。先達に依りて吉田より登るあり、須走りより登るあり、須山より登るありといへども、その登る處の絶頂に至れば一つなり。
 
斯の如くならざれば眞の大道と云ふべからず。
 
されども、誠の道に導くと云ひて誠の道に至らず、無益の枝道に引き入るを、是を邪教と云ふ、誠の道に入らんとして、邪説に欺れて、枝道に入り、又自ら迷ひて邪路に陥るもの世の中少なからず、慎まずばあるべからず。
 
 
三界城(*) 
遍路がかぶる菅笠には、現在でも仏教の宇宙観を表す以下の 偈 ( げ ) が書いてあります。
 
迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処南北 
【迷うが故に三界( 欲界、色界、無色界 ) は城なり、悟るが故に十方は空なり、本来東も西もなく、いずこにか南北あらん】
 
この偈 は、江戸時代に無着道忠( むちゃくどうちゅう ) 禅師が書いた小叢林清規( しょうそうりんしんぎ ) の中にある文言で、その当時は葬式の際に導師が棺桶の蓋に書いたものです。遍路が旅の途中で死んだ場合には、この笠を遺体にかぶせることにより、「 棺桶 」 の代わりにするためと言い伝えられていました。
 
 
 
 
 
【私的解釈】
 
 
 
尊徳翁が言う。世の中の真なる大道は、ただ一本。
 
 
神道儒教や仏教と呼んでいる教え。これらは皆大道に入るべき入口を案内する教えである。天台宗や眞言宗や法華宗禅宗という教えも同じように大道への入口に繋がる小路(こみち)の呼び名である。
 
 
何なに教の何なに宗旨といったようなものは、例えると、ここに湧き出す泉があり、この水で藍を溶いて着物を染めた物を藍染めと呼び、紫を溶いて着物を染めたものを紫染めと呼ぶのと同じようなものである。その元をたどれば、同じ湧き出す泉の水である。
 
 
紫染め物屋では、自分が染める紫の色合いが素晴しく、着物を染めるのだったら紫しか無いと誇り、宣伝する。また、藍染め物屋では、自分が染める藍の醸し出す品性は、あふれるばかりで尽きる事が無い。だから、一度この瓶に入れれば、どんな物でもこの品のある藍色に染まると宣伝する。
 
 
つまり、この誇りにどっぷりはまった藍染め物屋で働く人間は、うちの製品ほど有り難い物は無いと思い、紫染め物屋で働く人間は、うちの製品ほど尊い物は無いと思うのである。
 
 
これらの者は皆、俗に言う三界城から中々抜け出すことの出来ない者達なのだ。藍液も紫液も大地にこぼしてしまったら、元々の透明な水に戻るのである
 
 
このように、神道儒教、仏教を始め心学、性学、その他巷にあふれ返る多くの教えは、皆大道に繋がる入口への教えである。この入口への教えは、数多くあるものの、進んで行けば必ず一本の大道に繋がるのだ。そろぞれの教えが、別々の道であると思うのは迷いであり、別々の道であると教えるのは邪説である。例えれば、富士山に登るのと同じこと。それぞれがそれぞれの縁により吉田口、須走口、須山口から登り始めるが、行き着く所はただ一つ、富士山のてっぺんである。
 
 
このような結果にならなければ、真の大道とは呼べないのである。
 
 
真の大道に導くと教えながら真の大道に繋がらずに、無益の枝道に引き込んでしまう教えを邪教と呼ぶ。残念なことに、真の大道に進もうとしながら、この邪教の教えに欺かれて、枝道に入り込んだり、自分から邪道に迷い込んでしまう者が後を立たない。このようにならぬように厳に慎まなければならない。

 

 

 

【雑感】

 

 世の中には、信者の数を誇ったり、お布施の額を誇ったりする宗教があふれ、ネット上ではワンクリックで占いをはじき出し、お金を収集する集金マシーンで一杯です。

 

人生が苦しみであふれているから救いの手を他に求め、その求められた手に救いの手を差しだす振りをして、お金や時間を搾取する亡者供。

 

文明や科学がいくら発達しても、人間世界からこのやりとりが無くなることはないみたいです。

 

では、人生の苦しみから解放されるため、亡者供の搾取から逃れるには、どうすれば良いのか。

 

囚われないことです。執着しないことです。あきらめることです。因縁と観ずることです。けだし「人間味」を離れて、どこに「宗教味」がありましょうか。悟りすました天上の世界には、宗教の必要はないでしょう。しかしどうしても夢とは思えない、あきらめられない人間の世界にこそ、宗教が必要なのです。しかもこの人間味を、深く深く掘り下げてゆきさえすれば、自然おのずからに宗教の世界に達するのです。自分の心をふかく掘り下げずして、やたらに自分の周囲をさがし求めたとて、どこにも宗教の泉はありません。

 

まことに、

「尽日春を尋ねて春を得ず。茫鞋ぼうあい踏みあまね隴頭ろうとうの雲。還り来ってかえって梅花の下を過ぐれば、春は枝頭に在ってすでに十分」(宋戴益)

です。


「咲いた咲いたに、ついうかされて、花を尋ねて西また東、草鞋わらじ切らして帰って見れば、家じゃ梅めが笑ってる」

です。

 

一度は、方々を尋ねてみなければ、わからないとしても、「魂の故郷」は、畢竟ひっきょうわが心のうちにあるのです。「家じゃ梅めが笑ってる」です。

 

泣くも自分、笑うも自分です。悩むも、よろこぶも心一つです。この心をほかにして、この自分をのけものにして、どこにさとりの世界を求めてゆくのでしょうか。求めた自分おのれは、求められた自分なのです。求めた心は、求められた心なのです。

 

だから釈尊は、人間の苦悩くるしみはどうして生ずるか、どうすればその苦悩を解脱することができるか、という、この人生の重大な問題をば、この「十二因縁」という形式によって、諦観たいかんせられたのです。そして無明を根本として、老死の道を辿たどり、同時にまた、老死を基礎として、無明への道を辿り、ここに「十二因縁」の順と逆との二つの見方によって、ついに「十二因縁皆心に依る」という、さとりの境地にまで到達されたのです。十二因縁皆心に依るとは、まことに意味ふかい言葉ではありませんか。こんなうたがあります。

 

「鏡にうつるわが姿、つんとすませば、向こうもすます。にらみ返せば、にらんでかえす。ほんにうき世は鏡の影よ。泣くも笑うもわれ次第」

 

まったくそのとおりです。所詮、一心に迷うものは衆生です。一心をさとるものが仏です。小さい「自我」に囚われるかぎり、人生は苦です。たしかに人生は苦です。しかし、一たび小さい自我の「繋縛けいばく」を離れて、如実にょじつに一心を悟るならば、一切の苦悩は、たちまちにしておのずから解消するのです。要は、一心の迷いと悟りにあります。まことに、

 


眼裏がんりちりあれば三界はせまく、心頭しんとう無事ぶじなれば一しょうかんなり」

です。

 

一心に迷うて、あくまで小さい自我に固執するならば、現実の世界は、畢竟ひっきょう牢獄ろうごくですしかし、一たび、心眼を開いて、因縁の真理に徹し、無我の天地に参ずるならば、いとうべき煩悩ぼんのうもなければ、捨てるべき無明まよいもありませぬ。「渋柿しぶがきの渋がそのまま甘味かな」です。渋柿の渋こそ、そのまま甘味のもとです。渋柿を離れて、どこに甘柿がありましょうか。

高神覚昇 般若心経講義から抜粋

 

 

まさしく、

自分の心をふかく掘り下げずして、やたらに自分の周囲をさがし求めたとて、どこにも宗教の泉はありません。

ここに言う宗教の泉が、二宮尊徳の言う大道への入口です。

 

 

苦からの救いを宗教や占い等に求めたところで、求めるべき大道(魂の故郷)は、

「魂の故郷」は、畢竟ひっきょうわが心のうちにあるのです。

 

 

この事実に気付かずに、苦しみから逃れて、誰か楽にしてください、誰か助けてくださいと自我(欲望)に任せて、さ迷い歩くと邪道に入り込んで、亡者供の餌食となる。

一心に迷うて、あくまで小さい自我に固執するならば、現実の世界は、畢竟ひっきょう牢獄ろうごくです。

 

結局、自分を救えるのは、他人や他人が説く教えなどではなく、自分自身のおもゐなのです。

 

「天は自ら助くる者を助く」が人間世界の普遍法則であることは、事実なのである。