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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 三十二】 聖人にならんとて聖人になりたるにあらず

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 27日 先負

        壬辰 日/庚辰 月/乙未 年 月相 26.1 若潮 

          啓蟄 末候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

          マヤ長期暦 13.0.2.4.16 マヤ365日暦  9 Cumku  マヤ260日暦 1 Cib

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 8.4℃ 湿度 58% (大阪 6:00時点) 

 

 

 

翁曰く、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず。日々夜々天理に随ひ人道を盡して行ふを、他より稱して聖人といひしなり。

 

僥舜も一心不乱に、親に仕へ人を憐み國の爲に盡せしのみ、然るを他より其の德を稱して、聖人といへるなり。諺(ことわざ)に聖人聖人といふは、誰が事と思ひしにおらが隣の丘が事かといへる事あり、誠になる事なり。

 

我昔鳩ケ谷驛を過し時、同驛にて不士(ふじ)講に名高き、三志(さんし)と云ふ者あれば尋ねしに、三志といひては誰もしるものなし、能々問ひ尋ねしかば夫は横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是におなじ。

 

 

 

 【私的解釈】

 

尊徳翁が次のように言われた。

 

「聖人と呼ばれる人も聖人になろうとして、聖人となったのではない。コツコツと天理に従い、人道を尽くした振る舞いを他人が賞賛して、聖人と言われるようになったのだ。

 

僥舜も一心不乱に親に仕え、人民を思い遣り、国の為に尽くしたから、他人からその徳を賞賛されて聖人と呼ばれるようになったのである。ことわざに『聖人聖人と呼んでいるのを誰のことかと思ったら俺ん家の隣の丘(孔子)のことだったよ』というのがある。誠に的を射た言葉である。

 

私も昔、鳩ケ谷の宿場で過ごした時、この宿場には富士講で有名な三志(さんし)という者が居ると聞いていたので尋ねたが、三志と言っても誰も知る者がなかった。多くの人に聞き尋ねてみて、やっとそれが横町の手習師匠の彦兵衛であるということが判明したということがあった。まぁ、そういうことだ。」

 

 

僥舜

、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。、次いでに封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。『史記』「五帝本紀」によれば、の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄から禅譲を受けてとなった。羲仲羲叔和仲らに命じ、天文を観察してを作らせたという。

 

治世中に大洪水が発生したので、この治水工事に誰を送るかを決める時に臣下はを推薦した。堯は鯀を採用するのは良くないと思ったが、臣下が試しに使ってみれば良いと言ったので試して見たが、堯の予想通り失敗し、堯は鯀を殺した。治水工事は鯀の息子のが後に実行する事になる。

 

堯には丹朱と言う息子がいたがこれを後継者とはせずに、後継者を定めるために臣下から推薦者を挙げさせた。その中のを選んで人格を見る事にした。まず自分の二人の娘を舜に降嫁し人格者である事を見極めた後に、舜に人民を治めさせ、その手腕を見極めた所で舜を自身の後継者と定めた。その後、8年が経ってから崩御した。

 

また、『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。

 

別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾、姓は后)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。

 

後世には舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。

 

堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報2000年山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。また1993年郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目される。

 

含哺鼓腹(がんぽこふく) 

人々が豊かで、太平な世を楽しむたとえ。食べ物を口に含み、満腹になって腹つづみをうつ意から。

 

帝尭陶唐氏帝嚳子也。其仁如天其知神。就之如日、望之如雲。
都平陽。茆茨不剪、土階三等。

【帝尭陶唐氏は、帝嚳(こく)の子なり。其の仁は天の如く、其の知は神の如し。之に就けば日の如く、之を望めば雲の如し。平陽に都す。茆茨(ばうし)剪(き)らず、土階三等のみ。 】


治天下五十年、不知天下治歟 、不知歟、億兆願戴己歟、不願戴己歟。
問左右不知。問外朝不知。問在野不知。

【天下を治むること五十年、天下治まるか、治まらざるか、億兆己を戴くを願ふか、己を戴くを願はざるかを知らず。左右に問ふに、知らず。外朝に問ふに、知らず。在野に問ふに、知らず。】 

乃微服遊於康衢、聞童謡曰、

【乃(すなわ)ち微服して康衢(かうく)に游(あそ)び、童謡を聞くに曰はく、】

 

「立我烝民 莫匪爾極。不識不知 順帝之則」

【「我が烝(じょう)民を立つるは、爾(なんじ)の極に匪(あら)ざる莫(な)し。識らず知らず帝の則に従ふ」と。】

 

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、

【老人有り、哺(ぽ)を含み腹を鼓(う)ち、壌(じょう)を撃ちて歌ひて曰はく、 】

 

「日出而作 日入而息。鑿井而飲 耕田食。帝力何有於我哉。」

【「日出でて作し、日入りて息(いこ)ふ。井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや。」と。】

 

【現代語訳】

尭陶唐帝は、嚳帝の子である。その仁の心は天のように広く、その知恵は神のように聡明であった。近づくとその心は太陽のように暖かく、遠くから見ると恵みの雨を降らす雲のように偉大であった。 尭は、平陽を都とした。宮殿のかやぶき屋根の端を切りそろえることはなく、宮殿にあがる階段は、土で3段築いただけであった。


尭が天下を治め始めてから50年になるが、世の中が平和に納まっているのかいないのか、人民が自分が天子であることを願っているのか、それとも自分が天子であることを願っていないのかがわからなかった。側近にきいてもわからないし、民間人にきいてもわからない。


そこで、お忍びの格好で大通りを出歩いてみたところ、子どもたちが歌を歌っていた。

 

「私たちの生活を成り立たせているのは、あなた様の人徳のおかげです。人々は、知らず知らずのうちに帝をお手本にして暮らしています。」

 

再び歩みを進めると、とある老人がいた。その老人は、口の中に食べ物をほおばり、腹鼓(はらつづみ)みをうち、足で地面をたたいてリズムを取りながら歌っていた。

 

「日が昇ったら仕事をし、日が沈んだら休む。喉が渇いたら井戸から水を飲み、お腹が空いたら畑の野菜を食らう。俺達の暮らしに帝の恩恵など全くないぞ。俺達自身の力だけで生きているのだ」

 

羿(げい)

羿(げい、Yi、イー)は、中国神話に登場する人物。の名手として活躍したが、妻の嫦娥に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。

 

堯 - Wikipedia

(しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は(よう/とう。子孫は媯水のほとりに住み媯(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。

 

舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所には3年で都会になるほどだった。そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。

 

この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。

 

帝位についた舜は洪水を治めるためにを採用し、禹はこれに成功した。その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。

 

南風歌という歌を作ったと言われている。

 

陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。ちなみに白川静は舜は元々帝の事であっての始祖とされていたと言う説を挙げている。 

 

南風歌

南風之薰兮, 可以解吾民之愠兮。

【南風の薫れるや、以て吾が民の愠(いか)りを解くべし。】

南風之時兮,可以阜吾民之財兮

【南風の時や、以て吾が民の財を阜(おお)くすべし。】

 

【現代語訳】

南から風が吹き来たれば、わが民草(たみくさ)の苦悩は解かれる。

南から風の吹くとき、わが民草(たみくさ)の宝を殖やしてやろう。

 

 

孔子家語 巻第八 「辯樂解第三十五」』

 

子路鼓瑟。孔子聞之、謂冉有曰。

 

甚矣由之不才也。夫先王之制音也、奏中聲以爲節。流入於南、不歸於北。夫南者生育之鄕、北者殺伐之域。

 

故君主之音、溫柔居中、以養生育之氣、憂愁之感、不加於心、暴戾之動、不在於體。夫然者、乃所謂治安之風也。

 

小人之音則不然。亢戾微末、以象殺伐之氣。中正之感、不戴於心、溫和之動、不存於體。夫然者、乃所謂亂亡之風也。

 

昔舜者彈五絃之琴、造南風之詩。

 

其詩曰『南風之薰兮。 可以解吾民之愠兮。南風之時兮。可以阜吾民之財兮。』

 

唯修此化。故其興也勃焉。德如泉流。至于今公大人、擧以爲誡。

 

夫舜起布衣、積德含和、而終以以帝。紂爲天子、荒淫暴亂、而終以亡。非各所修之致乎。

 

今由也匹夫之徒、曾無意於先王之制。而習亡國之聲、豈能保其六七尺之體哉。

 

冉有以子路告。子路慴而自悔。靜思不食。以至骨立。

 

夫子曰、『過而能改、其進矣乎』。

 

 

【書き下し文】 

 

子路瑟(しつ)を鼓す。孔子これを聞き、冉有(せんゆう)に謂つて曰く。

 

甚だしいかな、由の不才なるは。それ先王の音を制するや、中聲を奏して以って節と爲す。流れて南に入り、北に歸らず。それ南は生育の鄕にして、北は殺伐の域なり。

 

故に君主の音は、溫柔(しんじゅう)中に居り、以って生育の氣を養い、憂愁(ゆうしゅう)の感、心に加えず、暴戾(ぼうれい)の動、體にあらず。それ然る者は、乃ち所謂治安の風なり。

 

小人の音は則ち然らず。亢戾(こうれい)微末(びまつ)にして、以って殺伐の氣に象(かたど)る。中正の感、心に戴(さい)せず、溫和の動、體に存せず。それ然る者は、乃ち所謂亂亡(らんぼう)の風なり。

 

昔(むかし)者舜は五絃(げん)の琴を彈(だん)じ、南風の詩を造った。

 

その詩に曰く、『南風の薰ぜる、 以って吾民(ごみん)の愠(いきどおり)を解くべし。南風の時なる、以って吾民の財を阜(ゆたか)にすべし』と。

 

唯だ此化を修む。故にその興るや勃焉(ぼつえん)たり。德は泉流の如し。今に至るまで王公大人、擧(かか)げて以って誡(いましめ)と爲す。

 

それ舜は布衣より起こりて、德を積み和を含み、而して終に以って帝たり。紂(ちゅう)は天子と爲り、荒淫(こういん)暴亂(ぼうらん)にして、終に以って亡びたり。各々修むる所の致(ち)にあらずや。

 

今由(ゆう)や匹夫(ひっぷ)の徒、曾って先王の制に意なし。而して亡國の聲を習う、あに能くその六七尺の體を保たんやと。

 

冉有(せんゆう)以って子路に告ぐ。子路慴(おそ)れて自ら悔い、靜思して食わず。以って骨立するに至る。

 

夫子曰く、過ちて能く改(あらた)む、それ進まんかなと。

 

 

【私的解釈】

子路が瑟(しつ)を弾いていた。孔子がこれを聞き、傍らの冉有(せんゆう)におっしゃられた。

 

ひどいものだな、由(子路の名前)の能力の無さは。古代の聖王たちが音色(ねいろ)を世の中に広めて来たわけだが、その際、中庸のとれた音域を基準にして曲調を定め、南方に流れていくようなメロディーにして、北方には向かわないようにしたのだ。なぜなら、南というのは万物を生み育てる場であり、北と言うのは殺し滅ぼす場であるからだ。

 

君子というのは、音色で世の中の雰囲気を柔らかで温かいものとし、万物を生み育てる力を世の中に満たす。一方で憂い悲しむ気持ちや怒り暴れようとする衝動を世の人々の心にも体にも湧き出させることがない。これが「安らかに治まる詩の風」というものだ。

 

しかし、ちっぽけな人間ではこうは行かない。彼らが好む音色は、華麗さを第一とし、微妙な細部にこだわる。だから万物を殺し滅ぼそうとする力が世の中に満ちあふれる。中庸で和やかな気持ちや温かで柔らかな動きを世の人々の心にも体にも湧き出させることがない。これこそ「乱れを起こす詩の風」というものだ。

 

昔、聖帝舜は五本の弦をわたした琴を弾きながら「南風の詩」を作った。その詩の歌詞にいう、『南から風が吹き来たれば、我が民草の苦悩は解かれる。南から風の吹く時、我が民草の宝を殖やしてやろう』と。

 

舜は、ただ南風に音色を載せるだけで世の中の雰囲気は変わることを知っていた。南風が吹く時を予報する能力を身に付けるだけで、その南風の力によって国の勢いが増し、世の中に泉のごとく徳風が流れるのだ。だから、今の時代まで王侯や立派な人間は、この詩を掲げて自らへの戒めへとしている。

 

だから舜は平民の出にもかかわらず、南方の音色で世の中に徳を積み和を含ませた。そして遂には帝にまで登り詰めた。一方で殷の紂王は、北方のひね曲がった音色を好んだから、四海を支配する王でありながら、その滅亡すること速やかであったのだ。好んだ音色によって両極端な結果となったのだ。

 

子路めはそのようなことを全く分かっていないようだ。古代の聖王たちが広めて来た音色を勉強するでもなく、国を滅ぼした紂王が好んだという北方の音色を練習しているようである。国王であった紂王でさえ滅んだのに、あいつなどあの6、7尺ほどの自分の体も無事にすむはずなかろうが。

 

冉有(せんゆう)が子路に孔子が言われたことを告げると、子路は自分のして来た事を恐れ、後悔した。そしてじっと考えこんで食事も喉を通らなかった。だから骨が浮き出るほどにまでなった。

 

孔子はその様子を見て言われた。

 

己の間違いに気付いてよく改めたものだ。これこそ進歩というものだと。

 

 

 

 【雑感】

このような話題が巷を騒がす日本は平和である。

 

佳子さま「シャネルスーツ」騒動の真相 「一着100万だとしてもなぜ悪い」の声も

2015/3/16 18:33

 

 「美しすぎるプリンセス」として日本中の視線を集める秋篠宮家の次女、佳子さまが一部報道によって思わぬ批判に晒されている。

岡山県訪問時にお召しになっていた「シャネル風スーツ」について「シャネルのスーツ」などと報じられたことが原因だ。

「『シャネルスーツ』はシャネル以外にはありえない」

秋篠宮さまと佳子さまは2015年2月28日から3月1日にかけ、地方事情視察で岡山県倉敷市を訪問された。佳子さまにとっては成年皇族として初の地方公務だった。

1日目にチャコールグレーのスーツを召されていた佳子さまは、2日目には春らしいベージュのスーツで登場された。ツイード素材のノーカラージャケットとタイトスカートを合わせたシンプルなカーディガンスーツで、いわゆる「シャネル風スーツ」と呼ばれるもののようだ。

高級ファッションブランド「シャネル」の創業者、ココ・シャネルが考案したカーディガンスーツ「シャネルスーツ」は、現在では女性スーツの人気デザインとして広く定着している。厳密に言えばシャネルブランド以外のものは「シャネルスーツ」ではないため、「シャネルタイプ」「シャネル風」などとして販売されているという。

「シャネルの戦略-究極のラグジュアリーブランドに見る技術経営-」(長沢伸也氏編著/杉本香七氏著)にはこんな記述もある。

繊研新聞元編集主幹でファッションビジネス総合研究所の松尾武幸代表によると、繊研新聞時代に若い駆け出しの記者が他社のコレクションで『シャネルスーツ』と書いたら、日本法人シャネルK.K.から直ぐ抗議が来たそうである。『シャネルスーツ』はシャネルだけのものであり、シャネル以外にはありえないので、使わないでください、と」

 しかし、これをいくつかのテレビ情報番組や週刊誌が「シャネルスーツ」との文言で報じた。「FRIDAY」(講談社)3月20日号では「眩しすぎるシャネルのスーツ姿」「ベージュのスーツはシャネルのもの。国内ブランドを愛用されることが多い秋篠宮家には珍しいチョイスだ」などと、スーツが「シャネル」のものであると断定的に紹介した。

女性セブン「『シャネルの商品でないこと』を確認」

そのため、インターネット上では「税金の無駄使い」「1着100万くらいか」といった批判的なコメントが一部で書き込まれた。しかし、どうやらこれは「誤報」だった可能性が高いようだ。当初から「シャネル風」と報じていたという「女性セブン」(小学館)は、3月26日号で佳子さまのスーツについて調査。その結果「シャネルの商品でないこと」が確認できたという。

さらに同誌では皇室ジャーナリストの神田秀一氏のコメントを紹介。神田氏は、秋篠宮家は皇族費6710万円で生活費や衣装代、人件費などすべてを賄わなければならないという事情を説明した上で「佳子さまに100万円を超える洋服を買うことなどできるわけがありません」と指摘している。

もっともインターネット上では

「むしろもっと高い服着てくれよ」
「別にシャネルスーツだったとしてもかまわんと思うけどね」
「シャネルじゃないのにシャネルに見えるなんて、素敵だと思うけど」
「正真正銘のプリンセスに100万のスーツを着せるとはケシカラン」

などと、シャネル着用を歓迎する声や、一部批判への疑問の声が大半だ。

ちなみに「女性セブン」2013年10月24・31日号によると、日常的な服装では、女子大生に人気の「ローリーズファーム」や「ローズバッド」などを愛用していることが伝えられている。

佳子さま「シャネルスーツ」騒動の真相 「一着100万だとしてもなぜ悪い」の声も : J-CASTニュース

 

佳子様が、シャネルの創業者ココ・シャネルが1955年にデザインしたスーツによく似たスーツを召されていたことでこのような騒ぎとなる。本当に日本は平和な国である。

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今から半世紀以上も前のデザインが現在の洋服のデザインに脈々と継がれて取り入れられているって物凄いことだと思う。 そして、伝統となって継がれているデザインのスーツを皇室の方が召されるということは、国民としてはそのご存在に安心感を感じられるのではないでしょうか。大騒ぎすることでもなんでもないですね。

1955年[世界の出来事100年史]

1955年に起きた日本の出来事 

 

正に聖君僥の時代の以下の漢詩の様相が今の日本を照らしている。本当に有難いことです。

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、

【老人有り、哺(ぽ)を含み腹を鼓(う)ち、壌(じょう)を撃ちて歌ひて曰はく、 】 

「日出而作 日入而息。鑿井而飲 耕田食。帝力何有於我哉。」

【「日出でて作し、日入りて息(いこ)ふ。井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや。」と。】

 

【現代語訳】

老人が、口の中に食べ物をほおばり、腹鼓(はらつづみ)みをうち、足で地面をたたいてリズムを取りながら歌っていた。

 

「日が昇ったら仕事をし、日が沈んだら休む。喉が渇いたら井戸から水を飲み、お腹が空いたら畑の野菜を食らう。俺達の暮らしに帝の恩恵など全くないぞ。俺達自身の力だけで生きているのだ」