まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【丹波の傳說】 比地山の天女

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 23日 大安

        戊子 日/庚辰 月/乙未 年 月相 22.1 下弦 

          啓蟄 次候 桃始笑(ももはじめてさく)

          マヤ長期暦 13.0.2.4.12 マヤ365日暦  5 Cumku  マヤ260日暦 10 Eb

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 2.5℃ 湿度 38% (大阪 6:00時点) 

 

 

 

丹後国丹波郡の西北隅の方に比地里(ひぢのさと)という所がある。この里の比治山の頂上に井戸があって、その名を眞名井というのであるが、今は既に沼となっている。

 

大昔のことであるが、かってある日のこと、どうしたことかこの井戸へ天女が八人舞い降りてきて、水を浴びていた。丁度その時、この村にはずいぶん欲張りな老夫婦があった。その名前はお爺さんの方が、和名佐老夫(わなさおきな)と言い、お婆さんの方が和名佐老婦(わなさおうな)と言うのであった。二人はふとこの井戸に行って、天女が井戸の中で水を浴びて遊んでいるのを見て、ひそかにその天女の内の一人の羽衣が木の枝にかけてあるのを取り隠してしまった。

 

さて、水浴びが終わると、天女達は美しいからだを見せて上がって来て、羽衣のある天女は皆直ちにそれを着けて天に飛び去ることが出来たが、羽衣を取り隠されてしまった一人の天女だけは、飛び去ることが出来ないで一人水に隠れて恥ずかしがっていた。

 

そこで翁はその天女を見て、

 

「私はこの年になるまで子宝に恵まれないので困っている。どうぞ我が子になってとどまってくれないか」

 

と頼んだ。ところが天女がそれに答えて、

 

「私だけ一人がこの国に取り残されてしまったので、仰せに従わない訳には行きますまい。何と致しましょう。どうか先ず私の大切な羽衣をお返し下さい」

 

と言う。

 

そこで翁は不審に思って、

 

「いやいや、それは私を欺いて飛び去ろうと思って、羽衣を返せと言われるのであろう」

 

と言うと、天女は情けない顔をして、

 

「この国の人には偽りの心があるでしょうが、天国の人は誠をもって元としているのにどうしてそのように疑って、羽衣を返して下さらぬ」

 

と答えて、さめざめと泣いた。

 

翁がそれを聞いて又言うには、

 

「疑いの心が多くて誠の少ないのはこの国の人の様である。だからこの心をもって許さないとしているのであって、別に他の意味があったわけではない」

 

と言って、とうとう許さず天女を自分の家につれて帰ってしまった。それから後は十余年の長い間一緒に住んでいた。

 

ところがこの天女はこの家に来てからいつも良いお酒を造った。そしてそのお酒を一杯飲むとどんな病でもみな直ぐに治るというので、天女はこのお酒を売ってたくさんの利益を得た。そこでお金を車に積んで、翁の家に送ったので翁の家はたちまちに豊かになった。土形(ひじかた)富む様になった。だからその後、この所を土形の郷と言い、後の世に比地の郷と言うようになったのである。

 

ところがその後になって、翁と媼(おうな)はふとした事からこの天女を喜ばないようになった。ある日のこと天女に向かって言うには、

 

「お前は元々我が子ではない。しばらくの間仮に我が子となったものであったのだから、もう用は無いからさぁ早く去れ」。

 

それを聞いて天女はあまりのことに驚いて泣き叫び、嘆き悲しんで、

 

「私はもともと私が来たくて来たのではありません。あなたがお頼みになったからこそここに留まっていたのに、どうしてそのように急に嫌がってすぐに私を追い返そうとなされるのですか」

 

と言うたが、翁は一向に聞き入れないで、ますます怒って強く追い出そうとするので、天女も力が尽きてしまい、とうとう泣きながら翁の家を出て、しほしほとあてもなく歩いて行くと、一人の郷人に出会いました。そこで天女は郷人を見て、

 

「私は長い間この国の人となったため、今では天に帰る道がふさがっているので、元の国に帰ることが出来ません。その上親しい家族も居ないので行こうとする所さえも無いのです。どうしたら良いでしょうか」

 

と言いながら、またさめざめと涙を流して嘆き悲しみ天を仰いで、

 

「天の原 ふりさけみれば 霞たち 家路まどひて ゆくへしらずも」

 

とうたい、とうとう退きさって荒塩村に行き着きました。そしてその村人に出会った時、翁や媼の心を思うと自分の荒塩にも似ていると言ったというので、比地の郷を又荒塩村とも言うと伝えられている。こうして天女は、丹波国のある郷村に至って、槻(けやき)にもたれて泣いたので、その村をそれから哭木村(なきむら)というようになったのであると。天女はこうして遂に竹野郡船木郷奈具村に至って留まった。そして郷人に出会った時、天女は、

 

「自分の心は奈具志久(なぐしく【穏やかに】)なった」

 

と言ったというので、この村をそれから後には奈具村と言う様になったのであるという。ちなみにこの天女は竹野郡奈具社(なぐのやしろ)に在(ましま)す豊宇賀能命(とようかのみこと)のことであると語り伝えられている。

 

 

日本の昔話である。このような昔話を読み解いていくと中々面白く、想像力を働かせると私のおもゐが肉体を離れ、翼を広げて現代から神代へと時空を超えてあっと言う間に行き着いてしまう。

 

今回は丹後地方の天女伝説を取り上げ、次回に浦島子伝説を取り上げたいと思う。

  

 

上の物語を読むと、意地悪な老夫婦が天女をだまして縁組み(自分たちの子供に)し、必要がなくなったら縁を切って放り出したというとんでもない物語で、この物語が神代の時代から現代まで語り継がれて来ていることそれ自体に大きな意味がある。

 

色々と調べてみるとこの地域は砂鉄の一大産地であり、諸説があるみたいだが、比地(ひじ)の郷の名前の由来は土形(ひじかた)から来ており、土形とは土型つまり鉄製品を作る鋳型のことを言うらしい。『天女の八人組がやって来てこの地域が土形富むこととなった』と、上の物語にあることから、当時日本に無かった絹や酒や鉄等の製造技術や灌漑や耕作などの土木技術を持った渡来人の職人集団がこの地域にやって来て、その技術によりこの地域が豊かになったのだと見ることが出来る。

 

この説を裏付けるように丹後半島には徐福が渡来した地だとの伝説が残る新井崎神社が存在する。また、日桙(ひぼこ)が定住したという地も隣接している。

 

天橋立を有する宮津市の北、舟屋で有名な伊根町の新井崎(にいざき)には「徐福伝説」が伝わる。地名のイネは稲に通じ、古代に大陸から稲作がもたらされた言い伝えにちなむと伊根町誌に記されている。地形は急峻で幾段にも棚田が築かれている。海を望む切り立った断崖上にその徐福を祀る新井崎神社があった。足元はゴツゴツとした大きな黒い火山岩が重なる海岸だ。町の郷土史家、石倉昭重さんは「ここ新井崎が徐福上陸の地です」と語る。

秦の時代、司馬遷によって著された中国の正史『史記』では、徐福は「斉の国(現在の山東半島の南)の人で、身分は秦の始皇帝に仕える方士(ほうし)」となっている。方士とは呪術や占術、医薬、天文など森羅万象、諸学に通じた者で、なかでも徐福は始皇帝の信頼がもっとも厚かった。始皇帝の命により不老長寿の薬を求めて「童男童女三千人、五穀の種子、百工(さまざまな技術)」を伴い、不老長寿を体得した神仙(仙人)が住む、遥か東方海上にあるという三神山をめざし、船出したという。紀元前219年のことだ。

大陸から海流に乗って徐福一行が辿り着いたのが新井崎だ。「このとき徐福がもたらしたのが稲作技術や鋳鉄の技術、漢方医学や神仙思想です。ここから東方の海に浮かぶ冠島(かんむりじま)と沓島(くつじま)は神仙思想の仙人が住む島です」と石倉さんはいう。そして、『史記』は徐福のその後をこう記している。「…(その地で)王となり帰って来なかった」と。

徐福が実際に新井崎に上陸したかどうかは定かではなく、伝説も日本各地に残るが、石倉さんが強調するのは、徐福が渡来したとされる時期が丹後半島の文化の黎明期(弥生時代)と重なる点だ。丹後半島には、日本海側で最大級の遺跡や、王墓を想像させる古墳が次々に発見されている。網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳神明山(しんめいやま)古墳は「他地域と比べても傑出したもの」という。

峰山町大田南5号古墳からは、「青龍三年」の紀年銘のある日本最古の鏡が出土している。青龍三年は魏の年号で西暦235年のこと。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の国に使節を遣わす4年前、つまり邪馬台国以前に丹後国は大陸と交流していた可能性が考えられるという。鉄器やガラス製品など中国大陸の遺物も大量に出土し、丹後国に強大な勢力があったことを示している。  

 

丹後の伝承|伝説・伝承に彩られる丹後半島:JR西日本

 

ある時、大陸からの渡来人たちがこの地域に流れ着いて、磯砂山(比地山)をご神体とする和名佐を長(おさ)とする氏族がその内の何人かを捕らえ、この地域に強制的に住まわせた。そして、彼等の持つ技術を総て吸収すると村から追い出して、その先端技術を自分たちで独占するために渡来人達を丹後半島に閉じ込めてしまったという、恐ろしい話が実態なのかも知れない。その渡来人たちの恨みを慰める為に天女の伝説を創り、豊宇賀能命(とようかのみこと)を神様として祀り上げたのだと考えることも出来る。

 

このことを裏付けるように天女が最終的にたどり着いたという奈具神社の周辺に大きな古墳が点在している。

 

 

また、この地域にはシンボル的な山を単位として上の物語と同じような天女伝説がたくさん残っている。

 

 

磯砂山(比地山)

乙女神社

祭神:豊宇賀能賣神(ウカノメノカミ) 


さんねもと天女 - YouTube

 

下の地図を見ても分かるように、この物語は上述した物語とは比治山(磯砂山)に対して裏側の山深い地域で語り継がれて来ている物語であり、他の天女伝説とは別に七夕伝説も加わることで趣きを異にしている。土着の狩猟を糧にしていた氏族(安達氏)の伝承だと思われ、今も血の繋がる安達家では神代からの伝承の慣習が継がれていることには驚きに値する。 

 

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比治の里にはもう一つの天女伝説が存在する。峰山町鱒留(ますどめ)の集落に古くから伝わる「さんねも・羽衣」の伝説だ。比治山に八人の天女が舞い降り、水浴びをしているところまでは同じだが、三右衛門(さんねも)という猟師が天女の衣を家に持ち帰る。「どうか羽衣を返してください」と天女が懇願しても「家宝にするのだ」と返さない。天女はとうとう諦め、さんねもの妻となり三人の娘をもうける。

天女は美しいばかりでなく、蚕飼いや機織り、米づくりや酒造りを教え、村はみるみる豊かになり人々は幸せに暮らした。しかし、天女は天が恋しくてたまらず、ある日、隠してあった羽衣を見つけ三人の娘を残して天に舞い上がる。悲しむさんねもに「7日7日に会いましょう」と天女は言い残したが、ようすを窺っていた天邪鬼が「7月7日に会いましょう」とさんねもに教えた。それでも嘆き悲しむさんねもに、天女はゆうごう(夕顔)の種を渡す。種を蒔くと、つるはどんどん天に伸び、さんねもはつるを登った。そこは天上の世界、天女はせっかく来てくださったのだからと、「天の川に橋をかけてください」とさんねもに請う。「ただしその間、私のことを思い出さないでください。そうでないと一緒に暮らすことはできません」。さんねもは一生懸命に橋をつくり、もう少しで完成というとき、嬉しさのあまり、天女の姿を頭に思い浮かべてしまった。とたんに天の川は氾濫し、さんねもは下界に押し流されてしまった。

この話は七夕の発祥とされる。谷あいの集落には天女の長女を祀る「乙女神社」があり、天女を嫁にしたさんねもの子孫の家もある。その安達家の家紋は「七夕」、屋号も「たなばた」で、現在の当主は「この家の庭から天女は天界に昇ったそうです」と教えてくれた。代々そうして語り継がれてきたのだろう。

 

丹後の伝承|舞い降りた天女、二つの「羽衣伝説」:JR西日本

 

七夕のとき、安達家ではいくつかの儀式が行われるが、昭和30年頃までは見学に訪れる人達の為に当日臨時バスが出たほどだったという。

 

安達家は和奈佐老夫婦の子孫ということであるが、谷川健一氏はカンピョウのたぐいは朝鮮では天空をかたどるものとされ、泉の神を老翁と老嫗であらわすのは朝鮮の昔話にも出てくるから、この伝承は大陸渡来系のものかもしれないとする。伴とし子氏は大呂(おおろ)を筑前国風土記逸文に「高麗の国の意呂(おろ)山に、天より降り来し日桙(ひぼこ)の苗裔、五十跡手是なり」とある「意呂」に語源を尋ねる考え方もあり、羽衣伝説は、天日桙の足跡と関連して考察することもできるという。

 

ただ、比治山の羽衣伝説を単純に朝鮮渡来の伝説とみなすことはできない。

 

 

大江山・日浦嶽

元伊勢外宮豊受大神社・・・主祭神豊受大神

御由緒(豊受大神社由緒書による)

 

当社は旧号を与佐宮と称へ豊受大神を御主神として仰奉り、境内末社には全国の名神大社の神々が奉斎されています。大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、国民に篤い御加護を垂れさせ給ふ大神に座します。

 

皇祖天照大御神天孫降臨以来皇居に奉斎されていましたが、人皇第十代崇神天皇の代に至りまして天皇のお住まいと同じ皇居にお祭りしているのは誠に畏れ多いと思召され、即位六年に倭国笠縫邑に御遷座になりまして、皇女豊鋤入姫命が祭事を掌っていられました。この地に三十三年間御鎮座になりましたが、別に大宮地を求めて鎮め祭れとの天照大御神の御神勅がありましたので、同三十九年に当地を大宮地と定め給いて大和国笠縫邑より遷御されたのであります。


当地で初めて宮殿を建立され大御神を奉斎されたのであります。此の時同時に豊受大神を合わせ祀られたのが当社の創始であります。


境内を比沼の真名井ヶ原と称へ孤立した一丘陵を形成し、御神霊の静まり座すに相応しい神秘な霊域で一萬余坪の御山であります。天照大御神は四年間御鎮座になりましたが、更に大宮地を求めて当地を出御されます。豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれましたので、途中第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぎになられ、垂仁天皇二十五年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と定められ御鎮座にになったのであります。笠縫邑を出御されてより五十年間の歳月を経ております。

 

然しながら豊受大神は御鎮座以来御移動がなく、此の真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されてきました。ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇二十二年に、皇祖天照大御神の御神勅が天皇にありました。その御神勅は「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告でありました。同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもありましたので、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ給いて直ちに伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立され、大佐々命をして豊受大神を御遷座になったのであります。

 

然しながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいるのであります。

元伊勢内宮皇大神社

 

 

③眞名井嶽【久次(くじ/ひさつぎ)岳・咋石(くし)岳とも呼ぶ】

伝承①

咋石嶽は豊受大神現身の移り住まわれた地で、神代に月読命を饗膳したことにより斬り殺された土地である。今も大饗石があるがこれは饗膳を供し
た霊跡である。その下に御手洗滝があるが、これは豊受大神を切った月読命が手を洗った神跡と伝わる。その上には大神社というところがある。その右の方に来迎山がある。これは月読命豊受大神がお迎えした古跡である。切果渓(この谷の下に桐畑村あり)は豊受大神月読命が切り果たした地であると伝わる。

 

伝承②

『丹後旧事記』にいう咋石嶽はこの山である。また『丹後風土記』の比治山伝説の地として、磯砂山(足占山)とその本家を争っていることは各所で述べて来た。『同旧事記』によるとこの地はもと与謝郡の内であったが、和銅六年、丹波の国のうち五郡を割いて丹後ノ国としたとき、丹波郡となり、咋村(くいむら)の後の山を、一般に久次嶽(くじは咋の仮名がき)といい、宇気持神(注、保食神とも)が天から降った地で、山頂に二間四方の岩があり、昔この岩をもって神とあがめてまつったとかいっているが、岩の表面に人の死形があり、これを宇気持ノ神の死なれた姿であるといい伝えている。中古、真言宗で四十余院の坊官(宿坊、坊院)があり、今も寺々の跡や鐘楼の跡などが数ヵ所にあると述べている。


神の死形があるという大岩〔高十二尺、縦十八尺、横十三尺)は、登山路の中腹、杉林の中にあり、山腹から転落したもので、死形は岩が転倒したため下面となってみることはできない。この山は、久次農家の草刈場で、山頂まで牛を飼いに上ることもあり、頂は平地で、日本海の眺望がよい。
咋(くい)石(クシ)は奇石で、大きな岩が九個あるから、九石(くしい)の名がもとであるともいわれ、熊野郡では石(いし)が嶽とよんでいる。大石を神としてあがめたものであろう。

 

一般に久次岳(ひさつぎだけ)といい、私どもは子供の頃から真名井山(さん)、あるいは真名井ヵ嶽とおしえられ、親しんで来た。伝説にある八人の天女が水浴したという池、または沼の跡はないが、山腹からふもとにかけて滝や泉など清水に恵まれ、大昔こうした土地から水田耕作がひらかれていったことは容易にうなずかれ、そうした水源を、神から授けられた霊水であると尊敬し保存したのは不思議でない。


問題の「比治山」という名は、こうした一つの山に与えられた名ではなく、久次、磯砂山系全体につけられた総称であるとみる説が多い。しかし、かなりの距離と、平野を隔てて対立する二つの高山を総称して比治山とよんだとするならば、どうも不自然である。『丹後風土紀』の本文に「丹後ノ国丹波ノ郡の郡家の西北の隅に比治の里あり。この里の比治の山の頂に井あり。その名を真井(まない)という。今すでに沼となる」と書き出している。この丹波郡を支配する役所(郡家)の位置は、丹波郷であったというが、丹波郷の区域も広いし、風土記の紀事が、立地的に方角が正確で、あったかどうか断定しかねる。しかし、たとえ、方位や場所に疑問はあっても『風土記』の作者は、必ず一つの山の一つの沼を指摘して、比治山の真井と定めて、この豊宇賀能売命(奈具社神話)の神話を綴ったにちがいないと私は思う

比沼麻奈為神社・・・主祭神豊受大神

藤社(ふじこそ)神社・・・主祭神豊受大神

由緒書き

往古崇神天王の御代、比治山に降臨されたと伝える豊受大神を祀り、その御神徳は稲作を初め五穀豊穣養蚕守護神としての尊崇篤く 古老相伝によると丹波道主命の創始とも伝え、社号の藤は比治又は泥(ひじ)の転語であると言われている

 

北麓の鱒留にある藤神社は藤社(ふじこそ)神社ともいわれ、祭神について五箇村誌草稿に「田畑(たなばた)女神及ワナサ老夫婦を祭神とす境内の藤桜称すべし」とあるといい、このタナバタ女神は棚機つ女(たなばたつめ)であろう。

 

筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、海または海に通じている川を通って年に一度やってくるカミを、村ごとに海岸や川端の人里はなれたところに小屋をつくって、棚機つ女(たなばたつめ)とよばれるカミの妻となるべき処女を住まわせ、棚機つ女(たなばたつめ)はカミが訪れてきたとき、カミに着せて一夜妻になるため、ふだんはカミの着物を機にかけて織っていたという。そして、一年に一度だけ男女がいきかうことや、織女=棚機つ女(たなばたつめ)という名前の似通っていることなどから、シナから牽牛織女の七夕の星祭が伝えられたとき、わが国固有の棚機つ女(たなばたつめ)のカミ祭りの風俗と大変素直に結びつけて、同化することになったというのが折口信夫『たなばたと盆祭りと』であきらかにされているという。

 

伊去奈子(いさなご)嶽【比地山のこと】の天女も棚機つ女(たなばたつめ)ということになり、伊去奈子嶽の羽衣伝説は、朝鮮半島から伝わってきたものもが習合される以前に、伊去奈子嶽には棚機つ女(たなばたつめ)による祭祀がすでにあったわけである。


筑紫申真氏によれば、この棚機つ女(たなばたつめ)がアマテラスの本当の姿である。何故なら、アマテラスは女で、カミのためにみずから機を織っていたからであるという。スサノオ高天原に乱入したとき、アマテラスは神衣を織っていたが、アマテラスが自分のために神衣を織るのは理屈に合わず、この話はアマテラスがかっては神の衣を織りながら神を迎える棚機つ女(たなばたつめ)だったことを示しているという。

日本書紀にみられるアマテラスオオカミは、はじめは太陽そのものであり、つぎに太陽神をまつる女となり、それから天皇家の祖先神と三回ほどカミの観念のうえで変化しており、日神→オオヒルメノムチ→アマテラスという三つの段階のカミの名が一つの神格のように表現された合成品なのであって、アマテラスが男の蛇であり織姫であるのは当然のことだという。

 

伊去奈子(いさなご)嶽【比地山のこと】にも棚機つ女(たなばたつめ)による神迎えの祭祀があったとすれば、天照が祭られていても不思議ではないともいえるが、海部氏の祖神である天照国照彦火明命は男で天照国照という称号を持つことから、丹後が独自に棚機つ女(たなばたつめ)を天照神として祭ったとは考えにくい。棚機つ女(たなばたつめ)が天照大神として天皇の祖神とされた以後、その影響によって伊去奈子嶽の棚機つ女(たなばたつめ)と天照の結びつきも始まったのであろう。ただ、伊去奈子嶽の棚機つ女が祭っていた神が、元々から太陽神であった可能性はある。


伊去奈子嶽の山麓には藤神社や富持神社などフジ神社があり、それはヒジが訛ったものといわれる。しかし、最初からそれらはフジ神社だった可能性もある。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、『諏訪明神絵詞』で守矢神が鉄輪で戦うのをミナカタが藤の枝をとって降伏させたのは、藤が竜蛇だったからで、それに対応する高砂族の民話が施翠峰著『台湾の昔話』に載っているという。「蛇の子」というその昔話では、ツォウ族の若者が、山の中で、大蛇が抱いていた子供を拾ってきた。この子は十二、三歳になると、蕃社中で一番の強者に成長した。敵がこの村を襲ってきたとき、この蛇の子は、まず藤を腹に巻いて鎧とし、疾風の速さで駆け出して敵に向かった。ふしぎなことに、敵が彼を切ろうとすると、たちまち一匹の大蛇となり、敵を切るときは人に化るので、敵は恐ろしさにキモをつぶし、ことごとく死んでしまったという。

 

 

④藤岡山

眞名井神社【久志濱宮(くしはまのみや)・比沼真名井(ひぬまない)神社】

・・・主祭神豊受大神

御由緒

真名井神社の地における祭祀の始まりは大変古く、少なくとも弥生時代まで遡ることが出来ます。

 

真名井神社の裏には古代の祭祀形態である磐座(いわくら)が鎮座し、その磐座(神が宿る石)で神祀りが行われていました。神を祀る常設の社殿(神社)という形態ができたのは仏教伝来以降とされています。それまで古代人は高い木や岩石、島や川などに神々が籠もると考え、それらを崇拝対象として神祀りを行っていたのです。真名井神社の地では神代の昔から石や磐に神が籠もっていると信じられ、磐座で神祀りが行われてきました。

 

真名井神社境内地からはすでに縄文時代から人々が住んでいた証である縄文時代の石斧や掻器などが出土し、また弥生時代のミニチュア祭祀土器破片や勾玉が出土しています。そのため真名井原一帯は縄文時代から人間が生活を営み、神々をお祀りしていた神聖な地と考えられます。


真名井原では海部家の始祖彦火明命(天火明命)が豊受大神を創祀し、二代目の天香語山命が磐境(いわさか)を起こし、「匏宮(よさのみや)」を創建し、磐座の豊受大神主祭神として神祀りを行っていました。天香語山命は、三代目の天村雲命が高天原より真名井原に持ち下った天の真名井のご霊水をヒサゴに入れ神祀りを行っていたと伝えられています。匏宮の鎮座する山は天香語山或いは藤岡山と呼ばれています

 

天女伝説

神代の昔、八人の天女が真名井神社の神域に舞い降り、粉河(こかわ)と呼ばれる川(当社奥宮の横の真名井川)でお酒を造っていました。その時、塩土翁(しおつちのおきな)が天女に欲を出し、一人の天女の羽衣を隠してしまい、天女は天に帰れなくなりました。そのため、しばらく翁と夫婦となり、この地で酒造りに精を出しました。

 

天女はいつも光を放ちながら空を飛び、その光景はまるで鳥籠から光を放っているようでした。この天女が与謝のこの地に降臨すると、与謝宮(よさのみや)が造られ、そこにお祀りされるようになりました。籠から光を放つことから、籠宮(このみや)と呼ばれました。この天女は天照大神豊受大神にお供えする食べ物を天からたくさん降らせました。そしてこの天女は丹波の与謝宮から伊勢神宮の所管社である御酒殿(みさかどの)の守護神・醸造神として勧請されました。これが日本酒の始まりとなりました。

丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 京都丹後日本三景天橋立

丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 京都丹後日本三景天橋立

 

籠神社の御神幸の神事は、藤の花を冠にかざすことが千古の慣例になっていて、社伝では欽明天皇の御代に始まったと見えているというが、海部穀定氏によれば、「花開けば、真名井の水を結ぶという。藤と真名井に関する神秘は、今尚、千古の古儀を伝えて、与佐宮、後の籠神社祭礼の伝統は、この神事を中心に存続されている。」のであり、御饌の井には、その周辺に藤が植えられていて、藤池とも云っているのであって、藤は即ち比治なのである。」とするが、藤が単に比治の転化だとすれば、これほどに藤へのこだわりが生じるであろうか。真名井神社の本当の祭神が熊野の大神すなわちクナトノ大神であり、諏訪大社では出雲神族とタテミナカタと藤が結びついているということは、丹波においても最初から竜蛇神をあらわす藤だったのではないだろうか。

 

下の日本地図を見てみるとよく分かる。日本列島はまるで巨大な砂嘴(さし)のようだ。朝鮮半島の東側沿岸から船を出すと、沈没しない限り日本列島に必ず到着することが見てとれる。この地形により、大昔から多くの渡来人が訪れていたことを想像することは容易である。

 

はるか昔からこの地に住む土着氏族と大陸からやって来た氏族が争い、勝者がこの地を支配する。支那や朝鮮の国内の騒乱によりこの地に逃げて来た氏族も居るであろうし、日本海を股にかける海賊も居たであろう。大小の小競り合いを繰り返し繰り返し、一つの一大勢力が覇者となり生き残った。それが籠神社を中心とした海部氏なのであろう。しかし、盛者必衰がこの世の理。この海部氏も後に大和朝廷の支配を受けることとなる。

籠神社は宮津にありますが、宮津とは吉佐宮の港(津)に由来する。宮津といえば天橋立が有名ですが、この天橋立はかつて籠神社の社領地であり、参道でした。一度でも天橋立を歩いたことがある方ならば、いかに籠神社が権勢を誇っていたかを想像できると思います。

 

下のグーグルマップを眺めれば分かるように籠神社はこの地域で一番発展した港を見下ろす場所に位置している。そして、天女はこの地域から山を隔てた丹後半島の裏側に追いやられている。また、籠神社の対面にはまるで高台で見張りをするかのように、縄文時代から平安時代にかけて発展した浦入(うらにゅう)の港を目にすることが出来るのだ。歴史は勝者が記録し、敗者の記録は抹殺されるか捏造される。ただ、日本では敗者を神隠しにしてしまう風習がある。敗者を神に祀り上げてこの世から隠してしまうことがよくあるのだ。天女の伝説をこの風習にあてはめて思いを巡らせると、私の思いは時空を超えてこの時代の一住人となっている。この瞬間が心地良い。

 

 

最後にこの地域の特色をよく表している有名な小説をご紹介する。

宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良ゆらの港に来た。ここには石浦というところに大きいやしきを構えて、田畑に米麦を植えさせ、山ではかりをさせ、海ではすなどりをさせ、蚕飼こがいをさせ、機織はたおりをさせ、金物、陶物すえもの、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫さんしょうだゆうという分限者ぶげんしゃがいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のないしろものがあると、山椒大夫がところへ持って来ることになっていた。


港に出張っていた大夫の奴頭やっこがしらは、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、餓鬼がきどもを片づけて身が軽うなった」と言って、宮崎の三郎は受け取った銭をふところに入れた。そして波止場の酒店にはいった。

森鴎外 山椒大夫

 


丹波の天女伝説と豊宇賀能命

 

 

【参考:大陸側から見た日本列島】

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