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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【山岡鉄舟】剣法と禅理の一如

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 12日 赤口

        丁丑 日/庚辰 月/乙未 年 月相 11.1 長潮 

          雨水 末候 草木萠動(そうもくめばえいずる)

          マヤ長期暦 13.0.2.4.1 マヤ365日暦 14 Kayab  マヤ260日暦 12 Imix

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 5.3℃ 湿度 66% (大阪 6:00時点) 

 

 

 

餘、少壯の頃より武藝を學び、心を禪理に潛むること久矣(ひさし)。感ずる所は必ず形に試み、以て今日に至る。

 

年九歲の頃、初めて劍法を久須美閑適齋(くすみかんてきさい)に學び、續ゐて井上淸虎千葉周作、或は齊藤、桃井等に受け、其他諸流の壯士と共に試合をする事、其數幾千萬なるを知らず。

 

如斯(かくのごとく)にして刻苦精思する事凡そ廿(二十)年、然れども未だ嘗て安心の地に至るを得ず。是(ここ)に於いてか鋭意進取して劍道明眼の人を四方に索(もと)むると雖(いえど)も、更に其人に遇ふ能はず。

 

偶々(たまたま)一刀流の達人淺利又七郞義明と云ふ人あり。奧平家劍法師範中西子正(しせい)の次男にして伊藤一刀齋景久の傳統を嗣(つ)ぎ、頗(すこぶ)る上達の人と云ふ。

 

餘、之を聞き喜び、行きて試合を請ふ。果して世上流行する所の劍術と大に其趣を異にするものあり。外柔にして内剛なり。精神を呼吸に凝し、勝機を未擊(いまだうたざる)に知る。眞に明眼の達人と云ふ可(べ)し。

 

是より試合するごとに、遠く其不及(およばざる)を知る。爾後(じご)修業不怠(おこたらず)と雖も、淺利に可勝(かつべき)の方法あらざるなり。

 

是より後、晝は諸人と試合をなし、夜は獨り坐して其呼吸を精考す。眼を閉ぢて專念呼吸を凝し、想ひ淺利に對するの念に至れば、彼れ忽(たちま)ち餘が劍の前に現はれ、恰(あたか)も山に對するが如し。眞に當るべからざるものとす。

 

餘が修業如斯(かくのごとし)と雖(いえど)も、未だ其蘊義(うんぎ)に撤入(てつにゅう)せざる所以のものは性來の愚鈍と忠誠の足らざるとに因らんずばあらず。

 

餘、嘗(かつ)て滴水(てきすい)に參じて禪理を聞く。

 

先づ吾れ、劍法と禪理とを合せ、其揆一(きいつ)なる所を細論す。

 

滴水の曰く、善哉言也(よきかなげんや)。然れども愚僧等の道を以て包みなく一言すれば、貴下の現在は恰(あたか)も眼鏡を隔てて物を視るが如し。眼鏡素より明白にして多分の視力を妨げずと雖も、本來肉眼に一點の疾(やまゐ)なき人は、如何なる明鏡と雖も尋常物を視るに於いて之を用ゆるの要なきのみならず、用ゆれば變則なり。用ひざるを以て自然とす。

 

貴下の現在は既に此境に達せり。若し一度此障物(さわりもの)を去る事を得ば、忽ち御所望の極底(きょくてい)に達することを得べし。況(いわ)んや貴下は劍禪兼至(かねいた)るの人なり。一朝豁然(かつぜん)として悟道せられなば、殺活自在、神通遊化(しんつうゆうげ)の境に到らん、なぞとて深く餘を勵まし、且つ曰く、要は唯だ無の一字のみと。

 

餘は此の公案を受けて日夜精考する事約十年に近しと雖も、猶ほ釋然たらざるものあり。

 

二度滴水に參じて所存を述ぶ。

 

滴水又更に公案を擧げて曰く、

 

兩刄交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)。

好手還同火裏蓮(こうしゅかえりてかりのはすにおなじ)。

宛然自有衝天氣(えんぜんおのづからしょうてんのきあり)。

 

と。以て餘に其思考を促す。

 

餘其句の頗る興味あるを感じ、紳(おおおび)に私書して以て考察具(つぶさ)に至る事約三年の久しきに涉(わた)る。

 

偶々(たまたま)豪商某(なにがし)、餘に揮毫(きごう)を乞ひ來つて坐側に侍り、自己の經歷を談ず。語中頗る神妙の言あり。曰く。

 

世の中は妙なものであります。私は自分ながら不可思議に思ふなり。私は元來赤貧の家に生れたりしが、今日は不計(はからず)も巨萬の富を致せり、誠に案外なり。

 

然るに私が唯一つ靑年の頃より是はと思ふ事は、嘗て金の四五百圓計(ばか)り出來たるときに商品を仕入れたりしが、豈計らんや物價が下落の氣味だとの世評なるが故に早く賣り拂ひたしと思ひしに、同僚輩が何となく弱身に附込(つけこ)んで蹈落(ふみたお)さんとするより、一增(いっそう)自分の心は動機々々(どきどき)せり。其動機の爲めに何となく胸が騷々しくなれり。其處で眞實世閒の相場も分らずなれり。其れが爲めに彼是迷ふて非常に狼狽せり。

 

是に於て、自分に斷念して構はず放任して置きたり。

 

それにより日數を經て、再び商人共が來りて、元價に一割高く買うべしと云へり。今度は自分に於て前と打ち替つて、一割の利にては賣らずと答へり。然る處、又妙に五分突上(つきあ)げて來れり。

 

其處にて賣りおかばよかりしに、自分が慾に目眩(めくら)んで高く賣(うろ)う賣うと思ふ内に、畢竟二割以上の損をなして賣れり。

 

此時初めて商法の氣合を悟れり。若し蹈込(ふみこ)んで大商をなさんと思へば、總て勝敗利損にびくびくしては商法はならぬものなりと思へり。たとえば、事必らず勝利を得んと思へば、胸が動機動機致し、損をするならんと思へば己身(おのがみ)が縮まるやうなり。

 

其處で自分は、如斯ことに心配をなすは迚(とて)も大事業をなすこと能はずと思ひ、爾後何事を企(くわだ)つとも、先づ我が心の明かなる時に確(しか)と思ひ極(き)め置き、而して後仕事に着手でば決して是非に執着せず、ズンズン遣ることに致せり。其後は大畧損得に拘らず、本統(ほんとう)の商人になりて今日に至れり、云々、……

 

との談話は前の滴水の「兩刄交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)」の語句と相對照し、餘の劍道と交へ考ふる時は其妙味言ふ可からざるものあり。時に明治十三年三月廿五日なり。

 

翌日より之を劍法に試み、夜は復(ま)た沈思精考する事約五日、同月廿九日の夜、從前の如く專念呼吸を凝らし、釋然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覺ゆ。

 

時既に夜を徹して三十日拂曉(ふつぎょう)とはなれり。此時、餘猶坐上にありて、淺利に對し劍を振りて試合をなすの形をなせり。然るに從前と異なり、劍前更に淺利の幻身を見ず。

 

是に於てか、竊かに喜ぶ、我れ無敵の極處を得たりと。

 

直(すぐ)に門人籠手田(こてだ)安定を招き、餘自ら木刀を攜へ、一場の試合をなさしむ。

 

木刀出沒、未だ餘が手腕を試むるに足らず、安定叫んで言ふ、乞ふ先生恕(ゆる)せよと。

 

餘、刀を止めて其由を問ふ。

 

安定の曰く、吾れ先生に接すること既に日ありと雖も未嘗て今日の如き刀勢の不可思議なるを見ず。吾れ到底先生の身前に立つこと能はず、斯(かく)の如きも人力もて爲し得べきものなるや、なぞとて頗る驚嘆の色あり。

 

是に於て餘は又更に劍師淺利義明を招きて角技(かくぎ)を請ふ。淺利喜び諾して木刀を攜へ、餘に敵せしむ。一聲忽ち電光石火の勢なり。

 

淺利、突然刀を抛(なげう)ち兜を脫し容(かたち)を正して曰く、

 

子既に達せり矣(し)。到底前日の比にあらざるなり。餘亦及ぶ所にあらず、吾れ豈其祕を傳へざるべけんや、とて一刀齋が所謂無相(想)劍の極致を以て遂に餘へ傳へらる。時は是れ明治十三年三月三十日なり。

 

然れども餘猶ほ安ずる能はず、愈々(いよいよ)擴充精究して聊(いさ)さか感ずる所あれば、未熟を顧ず今茲(ここ)に無刀流の一派を開きて以て有志に授く。

 

以上記するが如く、餘の劍法や只管(ひたすら)其技を之れ重ずるにあらざるなり。其心理の極致に悟入せん事を慾するにあるのみ。換言すれば、天道の發源を極め、倂せて其用法を辨ぜんことを願ふにあり。猶切言すれば、見性悟道なるのみ。以下不可言(いうべからず)。

 

嗚呼、諸道の修業も亦(また)如斯耶(かくのごときのみ)。古人云ふ、業は勤むるに精(くわ)し、勤むれば必らず其極致に達すと。諸學人、請ふ、惣怠(おこたるなかれ)。

 

一.

學劍勞心數十年(けんをまなびしんをろうしすうじゅうねん)。

臨機應變守愈堅(りんきおうへんまもりいよいよかたし)。

一朝壘壁皆摧破(いっちょうるいへきみなさいはす)。

露影湛如還覺全(ろえいはたんじょとしてかへりまったきをおぼゆ)。

 

二.

論心總是惑心中(こころをろんずればすべてこれしんちゅうにまどひ)。

凝帶輸贏還失工(ゆえいにちたいすればまたたくみをうしなう)。

要識劍家精妙處(けんかせいみょうのところをしらんとようせば)。

電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)。

 

明治十三年四月

山岡鐵太郞 書

 

 

 

【私的解釈】

 

我、少年の頃から武芸を学び、心を禅の精神に浸すること久し。そして、心に浮かんだ想いを必ず実践し、事とすることを試み、今日に至る。

 

九歳で、初めて剣法を久須美閑適斎(くすみかんてきさい)に学び、続いて井上清虎千葉周作、或いは斉藤(弥九朗)桃井(春蔵)等に指導を受け、その他諸流の壮士と相対して試合をすること、その数幾千万回とも分からないほど多い。このように想いを深く凝らして、苦しんで苦しんでやって来たこと約二十年、まだまだ完全だと安心する所には辿り着けていない。ここに来て更に専心して取り組むために剣道の心眼を拓いた人物を四方に求めているのだが出会えないでいた。

 

たまたま一刀流の達人浅利又七郎義明という人の話を聞いた。この方は奥平家の剣法師範をされていた中西子正(しせい)の次男であり、伊藤一刀斎景久からの流派の伝統を継いで来た大層な達人とのことであった。

 

我、この話を聞いて喜んで、早速訪ねて試合をお願いしてみると、なるほど世の中で持て囃されている剣術とは全く趣きを異にするものであった。外観に現れる氣は柔らかなものであるが、内に滾(たぎ)る氣は剛直そのものであった。精神を呼吸で調えて、一手を打つ前にすでに勝機が相手に掴まれているのだ。まさにこれぞ誠の心眼の達人と呼べる方であった。

 

以後、試合をするごとに自分の力量では遠く及ばないことを思い知る。修業を怠らずにいても、浅利に勝てる方法が見つからなかったのだ。

 

この時から昼は諸人と試合をし、夜は独り座禅に耽り、その呼吸というものを考え抜いた。眼を閉じて呼吸に意識を集中させ、浅利と対決している場面を思い浮かべれば、たちまちにして浅利の姿が自分の剣の前に現れ出る。それはまるで山と対峙しているようであり、正に圧倒されて打ち当たって行けないのであった。

 

我がこのように修業を行っているのだけれども、 まだその奥義に辿り着けないでいるのは、自分の生来の愚鈍さと熱意の不足であること以外に原因はないと考えた。

 

我はかつて滴水師のもとで禅理の指導を受けたことがある。

 

その時、我は剣法と禅理とは元を辿ると合わさった一つの源に辿り着くのではないかということを詳しく述べた。

 

すると滴水師の言うには、

 

「お前が言うことはその通りだ。しかし、自らの想いに従って遠慮無く言えば、現在のお前は眼鏡を通して物事を見ているようなものだ。確かにレンズが透き通っているから、視力は全く損なわれていないと言える。だが、元々肉眼に何の病も無い人は、どんなに良いレンズであっても、そもそもそれを用いる必要が無いのみならず、用いることが変則であり、使わないことが自然なのだ。

 

現在のお前は既にこのことが障りとなる境地にまで来ている。もし眼鏡という障害物を取り去ることが出来れば、たちまち望み通りの極致に達することとなろう。ましてお前は、剣と禅との二つの道共にもう一歩というところまで究めて来ている。一度、はっきりと道の正体というものを悟ったならば、殺活自在神通遊化(しんつうゆうげ)の境地に至ることとなろう」

 

と、私を励ましてくれ、さらに「結局は無という一字に尽きる」と、言うのであった。

 

我はこの「無」の公案を受けて 、昼も夜もその境地に挑み続けること十年近く、だが、どうしても釈然たる境地に達せないでいた。

 

そこで、再び滴水師の元を訪れ、我の想いの丈を述べた。

 

滴水師は又公案を授けてくれた。

 

それは、

 

両刃交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)。

好手還同火裏蓮(こうしゅかえりてかりのはすにおなじ)。

宛然自有衝天気(えんぜんおのづからしょうてんのきあり)。【注1】

 

という言葉であり、この公案についてよく考えるように促されたのだ。 

 

我、その言葉に引かれる所があり、大帯に書き付けて常日頃この公案に接し、考えを凝らし続けること三年の月日が過ぎた。

 

ある日、私の揮毫(きごう)を求めて訪ねて来た豪商の某(なにがし)が自分の過去を振り返り語り出した。その物語の中に非常に興味深い言葉があった。

 

「世の中は不思議なものです。私はその不思議を実感して生きて来ました。すごく貧しい家に生まれた私が、今では思いがけずに巨万の財産を手にしているのですよ。本当に意外なことです。

 

ただし、私の若い頃の経験の中で唯一つ貴重な体験をしたと思っているのは、四、五百円のお金が出来て商品を仕入れたのは良かったのですが、どうしたことか物価が下落気味だという評判が立って来たのです。私は早く売りさばかなければと焦っていると、知人たちが私の弱味に付け込んで安く買い叩こうとかかって来るものですから、私の焦りが一層募って胸はドキドキし通しでした。そして、この動悸の為実際の世の中の物価の事情も分からなくなってしまいました。あれやこれやと迷い、周りに振り回されて、すっかり狼狽してしまったのです。

 

ここに至って、私はもうどうにでもなれという心境となり、放って置きました。

 

すると、数日後に又商人がやって来て、私が買った値段の一割増しで商品を売ってくれと言うのです。今度は私に欲が出て、一割増では売らないよと突っぱねたのですが、そうするともう五分上乗せしようと値段を上げて来るではありませんか。

 

この時売っておけば良かったのですが、私は欲に目がくらんでしまい、もっと高く売ろう売ろうと思っている間に、結局は二割以上の損を出して売る結果となってしまいました。

 

この時初めて商売の呼吸というものを悟りました。もし、気負い勇んで大商いをしようと思えば、四十損得にビクビクすることとなり、とても永続的な商いは出来ないであろうということを思い知りました。例えるならば、行う事を必ず勝利で終えようと思えば胸がドキドキし、損をしないでおこうと力めば自分の心身が縮み上がるような気分となるような感じです。

 

そこで私は、こんな風に心を振り回されているようではとても大事業など出来ないと思い直し、以後、たとえどんなことを計画しても、先ず自分の心がしっかりと落ち着いている時に想いを定めて置き、いざ仕事に取り掛かれば、その途上で必ず沸き起こってくるあれこれに執着せずに、ドンドンと計画した事を実行して行くことにしました。その後は、その損得は別として、一人前の商人になれたものと自認して今日までやって来たわけであります。等々………」

 

この話を前述の滴水師が私に述べた「両刃交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)」という公案の言葉と照らし合わせ、その上で我の剣道と関連させて考えてみると、そこから湧き出て来た妙味は言葉に出来ないものであった。時に明治十三年三月二十五日の出来事である。

 

翌日よりこの言葉に出来ない妙味を剣法で形にしようと試み、夜は夜で沈思精考すること約五日、同月二十九日の夜、いつものように呼吸に集中していると、突如として天地の間には何物も存在しないのだという心境に陥っている自分の存在を感じ得たのである。時は既に夜が明けて三十日の早朝となっていた。この時、我は座ったまま浅利に対して剣を振り、心中で試合をしている姿勢をとってみた。そうすると以前とは異なり、剣前に山のように迫り来る浅利の姿を認めることがなかったのだ。

 

ついにやったのだ。我、無敵の境地に立ち入ったのだ!と、ひそかに喜んだ。

 

すぐに門下の籠手田(こてだ)安定を呼び、我木刀を手にして試合をやってみた。

 

二人の木刀が対峙し、まだ我の掴んだ境地を試してもいないのに、安定が「先生、参りました」と叫ぶのだった。

 

我、木刀の動きを止めて「どうしたのだ」と聞くと、

 

安定は、

 

「私、先生の教えを受けて来た者でありますが、いまだかつて今日の先生の刀ほど不思議な勢いを見たことがありません。私のような者では、先生と対峙することさえも出来ません。このような事が人間の力でなし得るものなのでしょうか」

 

と言って、驚嘆の表情を示すのであった。

 

私は次に剣師浅利義明を招いて試合をお願いしたところ、浅利喜んで木刀を手にして我に対峙してくれた。一声の気合とともに飛びかかって来ようとする勢いであった。

 

だが、浅利は突然刀を捨て、面具を外し改まって言った。

 

「あなたは遂に掴まれましたね。これまでとは段違いの腕前です。私といえども敵わないでしょう。奥義をお伝えしなければならないようですね」

 

と言って、伊藤一刀斎のいわゆる「無想剣」の奥義が遂に我に伝えられたのである。時は明治十三年三月三十日のことであった。

 

しかし、それで我が安心したわけではない。その後も色々と考究を重ねて、幾分なりとも形に出来たものがある。それゆえ、自分の未熟も顧みずに、このようにここに無刀流の一派を継いで有志の志士に授けようといているのである。

 

以上の記述で分かっていただけるであろうが、我の剣法はただ技術を重視するものではない。心の限界の極限にまで自分を追い込みむことだけを目標にしている。言い換えれば、天道の発する源を見極め、同時にその正しい活用方法を追究して行くことを願っているのである。一言で言うならば「見性悟道」つまり妄想邪道にはまり込まずにどんな境遇を得ても臨機応変に本道を突き進むということである。それ以上の言葉は見つからない。

 

ああ、その他のどんな道も、究めるということはこのようなことなのだ。古人は言う、業(なりわい)を勤めれば技となり、さらに勤めれば必ずその極致を得ると。学び究めようとする人よ。請う。怠るなかれと。

 

一.

学剣労心数十年(けんをまなびしんをろうしすうじゅうねん)。

【剣の道を数十年心を砕いて学んできた。】

臨機応変守愈堅(りんきおうへんまもりいよいよかたし)。

【臨機応変の不敗の極致に到達したようだ。】

一朝塁壁皆摧破(いっちょうるいへきみなさいはす)。

【そして今、最後の障壁を突き崩したのだ。】

露影湛如還覚全(ろえいはたんじょとしてかへりまったきをおぼゆ)。

 【その先に広がるのは、露に反射する光を湛える完全無欠の静かな境地であった。】

 

二.

論心総是惑心中(こころをろんずればすべてこれしんちゅうにまどひ)。

【心の中の想いを言葉にしようとすると、惑いは増す。】

凝帯輸贏還失工(ゆえいにちたいすればまたたくみをうしなう)。

【勝負にこだわれば技の切れを失う。】

要識剣家精妙処(けんかせいみょうのところをしらんとようせば)。

【剣の極意を知りたければ教えてやろう。】

電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)【注2】。

 【春風を一気に断ち切るのみ。】

 

明治十三年四月

山岡鉄太郎 書

 

 

【注1】 

【正(平等)と偏(差別)を相互に転換運動させる。正とは本体、体・君・空・真・理・黒など。偏とは現象、用・臣・色・俗・事・白など】

正中偏   三更初夜月明前、 莫怪相逢不相識、 隠隠猶懐旧日嫌。
偏中正   失暁老婆逢古鏡、 分明覿面更無真、 休更迷頭還認影。
正中来   無中有路出塵埃、 但能不触当今諱、 也勝前朝断舌才。
偏中至   両刃交鋒不須避、 好手還同火裏蓮、 宛然自有衝天気。
兼中到   不落有無誰敢和、 人人尽欲出常流、 折合還帰炭裏坐。

 


正中偏
三更初夜月明の前、怪しむなかれ相い逢って相い識らず、隠隠として猶お旧日の嫌を懐く。

 

偏中正

失暁の老婆古鏡に逢う、分明覿面(てきめん)なるも更に真無し、更に頭に迷い 還た影を認むることをやめよ。

 

正中来

無中に路有り塵埃を出ず、但だ能く当今の諱(いみな)に触れずんば、也た前朝の断舌の才に勝れり。

 

偏中至

両刃鋒を交えて避くるをもちいず、好手還って火のなかの蓮に同じ、  宛然として自ずから衝天の気有り。

 

兼中到

有無に落ちず誰か敢て和せん、人人尽く常流を出でんとほっす、折合して炭裏に還り帰して坐す。 

洞山五位

 

 

電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)【注2】

乾坤孤筇卓無地

【乾坤(けんこん)地として孤筇(こきょう)を卓(た)つる無し】

喜得人空法亦空

【喜び得たり人空(にんくう)法も亦(また)空】

珍重大元三尺劍

【珍重(ちんちょう)す大元(おおもと)三尺(さんじゃく)の劍(けん)】

電光影裏斬春風

【電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬る】

無学祖元 - Wikipedia

無學祖元 - 维基百科,自由的百科全书

禅語「電光影裏斬春風」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 

【参考】1880年(明治13年) / 明治時代年表

 

 

 

【雑感】 

 

痛ましい事件です。無残に命を落とした上村遼太君の無念さを思うと心が張り裂けそうです。ご冥福を心よりお祈りします。

 

事件翌日LINEに「何でこうなったんだよ」

3月1日 18時39分

川崎市の男子中学生が殺害された事件で、逮捕された少年3人のうち、事件の翌日、17歳の1人の名前でインターネットのLINEに「何でこうなったんだよ」などと書き込みがあったことが分かりました。17歳の2人は「18歳の少年の指示で中学生の服を燃やした」などと話していることが捜査関係者への取材で分かり、警察は書き込みがあったいきさつなどを慎重に調べています。
川崎市の中学1年生、上村遼太さん(13)は、先月20日、多摩川の河川敷で首を刃物で刺されて殺害され、警察は18歳と17歳の少年2人の合わせて3人を殺人の疑いで逮捕しました。
事件が起きた翌日、17歳の1人の名前で、インターネットのLINEに「何でこうなったんだよ」とか「もう俺のせいだよ」「もう会えないと思うとめっちゃ悲しいよ」などと書き込みがあったことが分かりました。
この事件では、現場近くの公園のトイレで、上村さんの衣服や靴が燃やされていますが、捜査関係者への取材で17歳の2人は殺害への関与を否認する一方、このうちの1人が「18歳の少年の指示でライターで火をつけて燃やした」と供述し、もう1人も同じ内容の供述をしているということです。警察は書き込みがあったいきさつなどを慎重に調べています。事件について18歳の少年は「当時のことは今は話さない」と答えているということです。


事件翌日LINEに「何でこうなったんだよ」 NHKニュース

 

遊びの誘い知り中学生呼び出したか

3月2日 4時59分

川崎市で中学生が殺害され少年3人が逮捕された事件で、事件前日の夜、3人が一緒に居たときに、このうちの1人に中学生からLINEで遊びの誘いがあり、これを知ったリーダー格の18歳の少年が指示して中学生を呼び出したとみられることが、捜査関係者への取材で分かりました。警察は、供述を慎重に突き合わせ、いきさつを調べています。
川崎市の中学1年生、上村遼太さん(13)は先月20日、多摩川の河川敷で首を刃物で刺されて殺害され、警察は知り合いの少年3人を殺人の疑いで逮捕しました。
これまでの調べによりますと、事件が起きる前日の夜、3人が一緒に居て酒を飲んでいたとき、上村さんから17歳の1人にLINEで「先輩遊びましょう」とメッセージが届きました。18歳の少年がメッセージの相手を問いただし上村さんと分かると、指示して呼び出したとみられることが、捜査関係者への取材で分かりました。
18歳の少年はことし1月、上村さんに暴行したことで、この日の1週間前、別のグループに家に押しかけられ謝罪を求められる騒動が起きたばかりでした。警察は、この騒動をきっかけに、18歳の少年が上村さんを逆恨みするようになったとみています。
調べに対し、17歳の2人はともに殺害への関与を否定し、このうちの1人は「18歳の少年が刺した」と話しているほか、18歳の少年は「当時のことは今は話さない」と答えているということです。警察は、3人の供述を慎重に突き合わせ、上村さんを呼び出した状況や現場でのいきさつなどを詳しく調べています。


遊びの誘い知り中学生呼び出したか NHKニュース

 

私たちの少年の頃の日本ではあり得ない事件です。18歳の高校生が複数でよってたかって中学1年生をなぶり殺すなんて全くもってあり得ない。

 

おい!その辺にしておけ
集団を作ると上に立つ者が必ずいた
暴走しないように歯止めをかけた


( - ゛-) ぱふ


そういう奴がいたから不良はまとまる
上に立つ者を優遇し責任を持たす
大人がやってたことだ


リーダーとして育てるのです
不良もそうだった


川崎中1殺人事件
不良は後輩をシメるのがお仕事
イイ悪いはともかくとしてね


土手に呼び出しシメる
よくあるパターンなんだけど
不思議なのはなんで殺したのだ?


普通は誰か止める
後輩をシメるのは下っ端である
上の人間は下っ端にシメさせるだけ


後輩を直接シメることはない
役割としてはイイ人を演じられます


「おい!その辺でやめとけ」


そう言って後輩に慕われる
怖い役と懐の深い役を演じるのです
自然にそうなる


そうしないと地域を束ねられない
これは重要なんだよね


恐怖だけで支配する
そうすると殺し合いに必ずなる
殺さなければ逆に殺されるからね


元々恐怖で支配しようとするやり方
これは朝鮮半島や中国の文化だ
日本の文化ではない


日本人は心理による統治
このやり方がうまい民族である
リーダーの資質のある人を伸ばした
大人も応援し学ばせたのだ


もし川崎中1殺人事件
日本の伝統を受け継ぐ不良がいたら
殺しまでは行かなかっただろう


古い日本は不良にも美学を入れた
積極的に文化レベルまで高めた


現在の日本の不良
外国のギャングでしかない
恐怖でしか人と接することができない
嫌われ者である


朝鮮人のマネはやめとけ
日本の不良のスタイルを教えるべき


昔は地域のやんちゃなおっさん
そう言う人が若い不良を束ねてた
地域から阻害されんように導いてた


そういう役割があったから
もめごとをそう言う人に頼んだ
大抵商売していた


地域に役立つ人になってたから
お店は地域の人で繁盛してた
みんなが利用してた


平等教育で失敗したな


縛って一方的に暴力をする
イスラム国ゴッコか知らないけど
日本人は後輩をシメるにも
こんなやり方はしない


お手本がいなくなったのだ
その結果程度の低い奴らが壊れた
メディアの影響だけを受けた


壊したのはリベラルなんだけど
保守もかなりヒドいからね
当然かな

ひとりごと: 川崎中1殺人の防ぎ方

 

古き良き日本はもはや存在しないのかもしれない。日本では有史以来行われて来なかった恐怖による支配が身近に迫っている。その恐怖での支配に対抗するにはどうすれば良いのだろうか?

 

正にこの無学祖元の電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)の句の中にヒントがある。

 

乾坤孤筇卓無地

【乾坤(けんこん)地として孤筇(こきょう)を卓(た)つる無し】

喜得人空法亦空

【喜び得たり人空(にんくう)法も亦(また)空】

珍重大元三尺劍

【珍重(ちんちょう)す大元(おおもと)三尺(さんじゃく)の劍(けん)】

電光影裏斬春風

【電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬る】

 

 

【私的解釈】

この広大無辺な大地の中で、お前達「元」の武力による支配に屈して安寧する身などありやしない。

 

私は幸いに一切皆空の真理を会得することが出来たので、この世に執着するものなど何一つもない。ただの心境なのだ。

 

私を斬ると言うけれど、言ってみればお前が持つその珍しい大刀も『空』、私も『空』。空で空を斬ることなど出来るわけがないのだ。

 

あたかも稲妻がピカリと瞬(またた)いて、春風を斬るようなものではないか。さぞかし、手応えの無いことだろうよ!

 

死ぬもよし、生きるもよし、どうぞ自由にこの坊主の首を斬るのならば斬れば良い、さぁ斬りなさい!

 

 

 この句は次のような状況で読まれた。

鎌倉円覚寺開山かいさん仏光ぶっこう国師は名は祖元そげん、別に無学むがくと号し、いわゆる南宋なんそうの末期、モンゴル民族のげんの中国征服が着実に進みつつある時代に生まれ、十余歳にして径山きんざん無準ぶじゅん和尚に弟子入りし、研鑚けんさんすること数年、ついに禅定ようやく熟して、師の法を嗣ぐに至ったのです。師の禅定の深さについては古来より評が高く、あるときなど、禅定に入ったまま、三日三晩、木仏の如く微動だにすることなく、ついにこれを見た僧たちは師が死んだのではないかと疑い、近くに寄って見ると微かに息をしていたので安心したという逸話も伝わっているほどです。


後に台州だいしゅう真如寺しんにょじに住しましたが、南下した元の兵が国土を蹂躙じゅうりんし、至るところで乱暴狼藉ろうぜきを働く噂を聞いて、温州うんしゅう能仁寺のうじんじに難をのがれます。しかし、元軍の侵攻は急で揚子江を渡り、温州に攻め入り能仁寺にも乱入して来ます。一山の僧たちは逃げまどうけれども、無学祖元禅師、ただ一人踏み止まります。


禅堂にどっかと坐り禅定ぜんじょう三昧ざんまいに入って、泰然たいぜん自若じじゃく、動ずる気配もありません。群がり囲んだ元兵の一人が大刀をふるって、師の首に当て、「坊主!て!」と怒鳴ります。そこで初めて禅定を出た禅師は、やおら、一円相いちえんそうを描いて静かに上述の句を唱えます。

 

すると、さすがの乱暴者も師の生氣に圧せられて、振り上げた大刀を収めてそそくさと退散したのです。

 

そう、恐怖の支配には生氣で対抗する、これが東洋の伝統なのだ。

 

ちなみに上の詩は臨刃偈(りんじんげ)と呼ばれ、唱えた無学祖元は後に鎌倉幕府執権北条時宗に請われ日本にやって来て、北条時宗の生氣を涵養させる師となった。そして、後の元寇での蒙古襲来を予言するなど時宗の蒙古撃破を精神面で支えたのである。

 

生氣とは何か?言葉にすると陳腐であるが「公明正大に事を行う気概」となろう。生氣については古来から詩となり今に伝わっている。

藤田東湖 『正氣の歌』 - まどゐ。

吉田松陰 『正氣の歌』 - まどゐ。

文天祥『正氣の歌』 - まどゐ。

 

戦前の子供たちは学校教育で当たり前の如く上の詩に接していたが、戦後の学校教育では上の詩はことごとく排斥された。

 

学校教育を建て直すには相当な時間を要する。となれば、家庭での教育を充実させるしか道は無いであろう。インターネットが普及した現在は教育の環境は家庭でも充分過ぎるほど整っている。

 

後は親のやる気のみである。私自身も一隅を照らして行こうと思う。