まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 三十】 靑木村の件

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 3日 先負 

        戊辰 日/己卯 月/乙未 年 月相 2.1 三日月 大潮 

          雨水 初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)

          マヤ長期暦 13.0.2.3.12 マヤ365日暦 5 Kayab  マヤ260日暦 3 Eb

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 1.1℃ 湿度 47% (大阪 6:00時点)  

 

 

 

常陸國靑木村のために、力を盡くせりし事は、豫が兄大澤勇助が、烏山藩の菅谷某と謀りて起草し、小田某に托し、漢文にせし、靑木村興復起事の通りなれば、今贅(ぜい)せず。

 

扠(さて)年を經て翁其の近村灰塚村の、興復方法を扱はれし時、靑木村、舊年(きゅうねん)の報恩の爲にとて、冥加人足と唱へ、每戸一人づつ無賃にて勤む。

 

翁是を檢して、後に曰く、今日來り勤むる處の人夫、過半二三男の輩にして、我が往年厚く撫育せし者にあらず。是表に報恩の道を飾るといへども、内情如何を知るべからず、されば我此の冥加人夫を出せしを悅ばずと。

 

靑木村地頭の用心某、是を聞きて我能說諭せんと云ふ。翁是を止めて曰く、是れ道にあらず、縱令内情如何にありとも、彼舊恩を報いん爲とて、無賃にて數十人の人夫を出せり、内情の如何を置いて、稱せずばあるべからず。且薄に應づるには厚を以てすべし、是れ則ち道なりとて人夫を招き、舊恩の冥加として、遠路出で來り、無賃にて我が業を助くる、其の奇特を懇々賞し、且謝し過分の賃銀を投與して、歸村を命ぜらる。

 

一日を隔てて村民老若を分たず、皆未明より出で來て、終日休せずして働き賃錢を辭して去る。

 

翁又金若干(そこばく)を贈られたり。

 

 

 

【私的解釈】

 

尊徳翁が常陸の国の青木村の復興の為に尽力された事は、我が兄大澤勇助が烏山(からすやま)藩の菅谷某(なにがし)と相談して起草し、小田某に依頼して漢文にしてもらった『青木村復興起事』の通りであるのでここでは述べない。

 

さて、年が経ち尊徳翁が青木村に近い灰塚村の復興に取り組んでいた時、青木村の村民が積年の報恩の為に各家から一人ずつ無賃にて冥加人足として手伝った。

 

尊徳翁が彼らを指揮して、その後に述べた。

 

「今日手伝いにやってきた人夫たちは、大半が次男三男の男たちであって、私があの当時に撫育した者たちでは無かった。このことは、表面上は報恩の道に添っているように見えるが、内実はどうなっているのかがうかがい知れない。だから私はこのような冥加人夫がやって来たことを悦ばない」と。

 

青木村の地頭の使用人某(なにがし)がこれを聞いて、

 

「私がよく言い含めましょう」

 

と言った。

 

尊徳翁はこれを制止して、

 

「それは道に添わない。たとえ内実がどうであれ彼等は積年の恩に報いる為、数十人の無賃の人夫を出したのである。内情がどうかは置いておいて、その行為を称えなければいけない。『薄に応ずるには厚を以てすべし』、この実践こそが道に添っているのだ」

 

と言って、人夫たちを呼び集め、積年の恩に報いようとして遠路はるばるやって来て、無賃にて私の事業を助けてくれたことは有難いことであると心を込めて賞賛し、感謝の言葉を述べ、多くの賃金を与えて村に帰らせた。

 

その一日後に青木村の村民が老若問わず、皆夜が明けない内からやって来て、終日休まず働いて賃金を受け取ることを辞退して帰って行った。

 

これを受けて、尊徳翁は後に青木村に幾らかのお金を贈られたのである。

 

 

 

青木村復興事業 

青木村は桜町に三里、領内桜川の堰が度々破れて、これを修繕する民力がなく、3、4年前から村民が仕法を二宮金次郎に懇願して来ていたが、機が熟して領主からも願い出て来たのである。

 

二宮金次郎は小田原藩主だけの人物ではなくなったのだった。藩から来る役人も、尊徳を先生と呼ぶと、他郷から入門を望む者も出て来て、『報徳仕法こそ、世直しの新しい教えである』と、信じられ始めた。この道が、仏教や儒教と同じく報徳教の名を以って世に伝わると、各地に報徳講が興されて、今に多くの信徒を持つのは、ここに発して来ているのだった。

 

が、この道は実践から生まれて、実践を以って立つ。難しく言えば、日本思想に根本している独立学派で、経済的倫理学説を持つもの、尊徳はこれに戯れに名をつけて『神儒仏正味一粒丸!』と、自ら言った。

 
「正味とは人界に切用なるをいう」とも言っている。「国に用いれば国病が癒え、その他荒れ地が多いのを憂え患う者がこれを飲めば開拓がなる。負債多きを患う者が飲めば返済がなる。資本の無いことを患う者が飲めば、資本が得られ、家無きを患う者が飲めば家屋が得られ、農具が得られる。その他貧の病、奢りの病、放蕩病、無頼病、怠惰病、皆これを飲んで治らぬものはない。」
 
同じ時代に国学の泰斗、平田篤胤の門人に数えられている佐藤信淵(さとうのぶひろ)が出羽の国に居て、諸藩の政治の立て直しをやり、「農政本論」「天柱記」等を書いた。これと報徳の道はやや同じであるが、人民の実践を説いているところは、政治を建前とする信淵と違っているのだった。
 
どこまでも、この報徳の道は人の行いを元とした。至誠を根として勤労によって得た物を、分度を立てて生活を安泰にし、ここに推譲の実を世のため、人のため、子孫のために諭すのだった。
 
この教えを受けようと、陣屋の門をくぐる者や、仕法を受けて家を立て、村を興し、領地を再復しようとする者も多く、尊徳はこれを諭し、これを励まして、奮起せしめた。
 
ただ、主たる者が居るにもかかわらず、その配下の役人や人民からの懇願だけでは、その仕法を施すことをしなかった。
 
「主に従ってこれを行うのが良いのであって、主に隠し、主に逆らうのは道ではない」と、応じないのだった。
 
が、今青木村の領主村民一致の懇願を聞くと、尊徳はその荒れ地の茅を刈らしめて、これに代償を出し、桜町領内から物井村の名主村民をやって、この茅で社寺の屋根を葺かしめ、更に民屋を葺かしめた。これは、村の野火から火事が起こることの多いのを聞いてこれを防ぎ、敬神の心を失っているのを興し、その上に住居を繕うという、一石三鳥の法なのであった。
 
しかしながら、尊徳は青木村仕法を受けなかった。
 
「止めるが良い。こうした我が方法は、お前達に行えるものではなく、先々苦しみが多いから出来るものではない」
 
と、言うのだった。これには仕法の一端を見せられて歓喜した村民が、落胆して泣かんばかり。
 
「どんな苦労でもします。どうか村の苦しみを救って下さい」
 
と、一生懸命すがっていた。 
 
ここで尊徳は初めて頷くと、村中が一致団結して荒廃した地を先ず拓くのならば、これの出来た時に桜川に丈夫な堰を造って、田水を充分にしてやろうと約束したのだった。青木村の全村民は大いに勇み立つと、長年の間荒廃したまま放ってあった土地を、ほんの1年ほどの間に、大部分元の田に拓いてしまった。あとで、『茅を刈ったのは開田の用意であったのだ』と、初めて皆が悟った。
 
天保4年(西暦1833年)の春、尊徳は初めて青木村に出向いた。開田の早かったことを褒めると、桜川に行って流水の有り様を観察し、平常の数倍の賃金をやって、山から多くの大木や岩石を切り出させ、これを両岸に積み一方で川幅に応じて水の流れの上に茅屋を造らせた。
 
「堰を造らないで家を造る。変なことをする」
 
と、これを笑う者さえあったけれど、尊徳は平然たるもの、既に桜町陣屋に居た時、そこが両岸水底共に灰のような細かい砂地と聞いて、心に計算していたのだ。家が出来ると、誰も恐れて、綱を切って水中に落とす者がないので、進んでこれを切って歩いた。
 
家が一揺れして川に落ちると、尊徳はその屋根に立っていた。
 
「はは、危ないことは無かったぞ!それ!そこの木や石を投げ入れろ!」
 
と、命令した。
 
この堰は、茅屋が砂をせき止めるので水が少しも漏らず。それもほんの10日あまりで出来上がったので、噂を聞いた者でこれをわざわざ見に来て驚かない者は無かった。昔から大金をかけて村中が総掛かりで賦役に出て2月余りもかかった堰でさえ、大水があるとすぐ破れてしまうのに、その後数十年経っても、この堰は少しも狂うことが無かったのだ。貯水も下々の村まで潤して、永くその徳を謳われた。
 
ここで、荒れ地もたちまち良田となって、生産も増倍し、領主も村民も貧窮を免れて、やがて国中でその僥(たわわ)なのを羨まれるようになったのだった。
 
当時、近くの辻村の名主源左衛門、門井村の名主藤蔵が、領主にあまりにも貢税を責め取られるので相談して桜町領の住民となることを願いに来たことがあった。尊徳はこれを諭して、主恩に背くことを不可として許さないばかりか、領主から貢用を命ぜられたならば、家財全部をも差し出す覚悟を持つべきよう教えた。
 
源左衛門はこれを聞いても欲心を捨てなかったので、遂に村を放逐されたが、藤蔵は真心から主恩の為に身代を投げ出す決心をした。領主もこの覚悟を知っては、さすがにそれをさせることが出来ないで、藤蔵は却って一家を保って、永く安全なるを得たのであった。
 
昭和17年発行 福田正夫 著『皇農二宮尊徳

  


青木築堰 - いっつ・あ・さくらがわーるど

 

 

 

【雑感】

 

戦後、人の道やさらにその奥に広がる自然の道というものを説く人間が居なくなった。私を捨てて一途に国の為に尽力する日本人を見かけなくなって久しい。


【衆院予算委】安倍首相VS辻元氏(上)辻元氏「フィットネス、ゴルフ、映画…」 首相「健康を保つのも重要な仕事」 議論の行方は-(2/3ページ) - 産経ニュース

2015.2.20 15:19
 
民主党辻元清美政調会長代理が20日の衆院予算委員会で、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件をめぐる安倍晋三首相や菅義偉官房長官の対応を批判した。しかし、耳を疑うような指摘も少なくなく、政府・与党席からは失笑が漏れた。論戦の主なやり取りは次の通り。
 
辻元氏「(殺害された)後藤健二さんの拘束に政府が心証を得た昨年12月19日の翌日から首相はフィットネスクラブに行き、21日にはゴルフに行った。28日にはコンサートに行き、その後はずっと六本木のホテルにほぼお泊まり。元旦は映画鑑賞。2日はフィットネスと映画鑑賞。3日はゴルフをした」
 
辻元氏「首相は休暇を取っていけないとは思っていない。しかし、映画に行ったり、コンサートに行ったり、別荘に行ったり、ゴルフをしている間、(拘束された)2人の命の危険と日本の国家としての危機はぐんぐん上がっていたとは思わないか」
 
首相「細々と私の日程をご紹介いただいた。第1次政権の経験から首相は心身ともに健康を保つことも重要な仕事だ。基本的にはどっしりと構え、さまざまなものに対応していく。つかさつかさでしっかりと対応していくということだろう」
 
首相「その(指摘の)段階では(拘束したのが)ISIL(イスラム国)とはっきりしているわけではない。邦人が一時的に不明になることは日本国中である。今回の危機対応において私がこういう行動を取っていたことにより問題があったということではない」
 
首相「同時に人質案件というのは、1年、2年、3年、4年と続く場合もある。そうなればその間、首相は他のことに手が付かないことになってしまう。なるべく平常心、平常の行動を心がけることも職責の一つだろう」
 
首相「辻元さんみたいな批判の仕方もあるかもしれない。しかし、そういう批判にいちいち反応するつもりはない。今後ともしっかりと心身ともに健康を保っていきたい」
 
辻元氏「首相に『休みを取るな』と言っているわけではない。この時は特例の年末年始だ。自分の子供が誘拐されて、行方不明になって、その家族がゴルフをしたり、映画を見たりするか? 首相は『すべての国民の命を私が守る』と言っていた。官邸を挙げて対応すべきだった。菅さん、止めなかったのか」

 


辻元清美vs安倍総理『一生懸命、貶めようとしている努力は認めますよ』 - YouTube

 

衆議院インターネット審議中継

 

 

。。。。言葉遊びの国会にはうんざりする