まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【山岡鉄舟 門生聞書】仏教之要旨 其の2

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 23日 仏滅

        戊午 日/己卯 月/乙未 年 月相 21.6 中潮 

          立春 次候 黄鶯[目見][目完](おうこうけんかんす)

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【山岡鉄舟 門生聞書】 仏教之要旨 其の1 - まどゐ。

  

然るに世の妄想家或は曰く、佛法は文明政治を裨補(ひほ)するの力無く、畢竟幽冥界に割據(拠)するに過ずと。或は曰く、高尙なる士君子の爲めに用ゐらるるに足らずと。或は曰く、文明の宗敎に適せざる故に、理世界智世界の進むに隨ひ、蹤(あと)を潛めて遠く遁れんと。

 

是れ、己が驕心慢心より出放題の言を吐き散らし以て己が小智小見を證(しょう)明するものなり。己が少許(ばかり)の文學に誇りて佛敎の一斑(はん)をだに窺はず、迷妄霧裡に彷徨し、是非海中に浮沈したる六道輪廻の一衆生たるを知らざるものなり。

 

試みに問はん、汝が謂はゆる高尙の君子とは其れ何物ぞ。恐らくは是れ惡知惡覺を長じて囂々(ごうごう)理屈を竝べ、金銀財貨を貯へて揚々人を睥睨(へいげい)し、金徽(きんき)銀章を紆(むす)び索(ち)らして玉堂瓊殿に堰息し、閨には傾國の美人を蓄へ當世の才子を邀(むか)へ、山海の珍味を擁して内外の美酒に醉ひ、盛に歐州の文明を稱揚して大に米國の自由を喝采し、眉を擧げ髭を撫でて、亞細亞の堯舜禹湯文武周公孔子釋迦は焉(いずくん)ぞ此の文明開化を知らんやと放言するものならん。

 

凡眼を以て看る時は英雄なり豪傑なり。慧眼を開いて照らし來れば世智辨聰のみ、俗情妄想のみ。

 

若し一朝、賊難火災免官罷職虎病惡疫に取付かれなば、迷霧忽ち起り胸中黑暗となりて顛倒狼狽、手足の處置無き事、恰も沸湯に墮ちたる蜘蛛と一般ならん。

 

是時に方(あた)りて、汝が文明は何の邊にかある、汝が自由は何の處にかある。揚々自得の顏色は底を拂ひて一點を留めず、不羈獨立の氣象は烟と消えて一片を殘さず、手を束ね首を俛(た)れて思ふが儘に煩惱の惡賊に呵責屠殺せらるるこそ憐れなれ。

 

是、他なし、平生卑劣を認めて高尙と思ひ、野蠻を視て文明と爲し、不自由を自由と誤り、不快樂を快樂と感じて三世に貫ける活眼を開かず、長安に透(とう)れる大道を踏まざる罪報なるのみ。

 

汝、何ぞ顛倒狼狽の中にも揚々自得し、災厄疫病乃至一息斷絕の閒にも不羈獨立せる丈夫、卽ち眞個の高尙の君とはならざる。汝、若し顛倒狼狽の中にも顛倒狼狽せず、災厄疫病の閒にも災厄疫病せず、一息斷絕の時にも超然死せざる底の大丈夫の漢(おとこ)とならんと慾せば、須べからく三世貫通の活眼を劈(へき)開して、獨脫無依の主人公を活捉せよ。此の主人公こそ前に謂ふところの天眞佛にして、獨此の一地球のみならず、三千大千世界の森羅萬象、有情非情を引包(ひつくる)みて遺さるる靈物なれば、汝が此上なく思へる理世界智世界は、大海の一滴、九牛の一毛にだも當らず、誠に笑止の至りなり。

 

我國には、何の幸か、天も覆ふこと能はず地も載すこと能はず、理世界智世界を方寸の中に收めて富貴貧賤も蕩(と)かすこと能はず、白刀威武も屈すること能はず底の大丈夫を造り出すべき無上妙道あり。

 

之を得て以て天下に君臨し、之を得て以て大政に參與し、之を得て以て外交に施し、之を得て以て軍陣に臨み、之を得て以て商工耕作に從事せば、往くとして善からざるは無し。

 

果して然らば、眞の文明は我國に現出して赫々(かつかく)の光輝を地球の表に揚げん。國家を尊嚴にして政治を裨補する、是より大なるはなし。

 

果して茲(ここ)に至らば、汝が珍重する理世界智世界こそ片隅に蹤(あと)を潛め、汝が信仰せる「ユテリアン」敎こそ幽冥界に割據すらめ、呵々。

 

五大洲中にも絕て無き所の無上妙道ありて存するも、宿福薄弱にして根機下劣なる輩は之を崇信する事能はず。驕慢の魔には眼睛を瞎卻(かつきゃく)せられ、妄想の賊には耳膜を破卻さられて傲然と呼て曰く、佛法は文明政治を裨補するの力無く、幽冥界に割據するに過ぎずと。又曰く、高尙なる士君子の爲めに用ゐらるるに足らずと。又曰く、文明の宗敎に適せざる故に、理世界智世界の進むに隨ひ、蹤を潛めて遠く遁れんと。

 

豈是れ佛敎の咎ならんや。實に後世天下の士が丈夫の志操を失ひて卑劣の妄想に甘んずるの咎なるのみ。卑劣とは何ぞや、妄想の爲に己が主人公を生捕られ、外物を逐い囘りて奴朗を分たざる凡愚の迷倒心を謂ふなり。

 

 

 

【私的解釈】

 

けれども、世の妄想にとらわれた人はこのように言う。

 

「仏教の教えには文明や政治を発展させるような力など無い。つまるところ、妄想による戯言に過ぎないのだ」

 

とか、

 

「立派な侍や君子に仏教の教えなど役には立たない」

 

とか、

 

「高度な文明社会を持つ国の宗教には適さない為、理智の世界が発達するにつれて、仏法は跡形もなく消え去ってしまうに違いない」

 

と。

 

これらの言葉は、己の驕心慢心から出る言いたい放題の言葉であり、結局は自分の小智小見を証明しているようなものである。自分の学を誇り、仏教の教えの実践など一顧だにしない。これは邪道を邁進しながら霧の中を彷徨(さまよ)い歩いている状態であり、自分が世の中の現象に翻弄される途上にいる、六道輪廻の一衆生であることにすら気付いていないのである。

 

試しに聞こう。

 

「貴様たちが言う立派な侍や君子とはどういう人のことを言うのだ。恐らく、悪知恵ばかりが達者で何やかんやと理屈をこねながら金銀財貨を手許にかき集めて、得意になって人を見下し、勲章をこれ見よがしに飾り付けて豪勢な邸宅を住まいとし、美女を愛人に囲んで、有名人と交遊し、山海の珍味を取り寄せて世界中の美酒をあおり、西洋の文化にかぶれてアメリカの自由こそが最高だとのたまい、眉を整え髭を撫でながら、東洋の周公孔子釈迦などに高度な西洋の文明を理解できるものかと放言する奴のことを言うのだろう。」

 

平凡な見識からすれば、なるほど彼等は英雄豪傑であろう。だが、鋭い真心の眼(まなこ)で照らして見れば、このヤカラはただ小賢しいだけのくだらぬ存在にすぎないのだ。

 

一旦、 賊に襲われたり、火災にあったり、降格人事や解雇をされたり、大病を患うなどの災難に見舞われれば、たちまち目の前が真っ暗となり胸中は絶望に慄き、七転八倒手足の置き場所も安まらずに、あたかも熱湯に落ちた蜘蛛のごとくジタバタともだえ苦しむに違いない。

 

そうなった時に、貴様たちがいう西洋文明が何の役に立つというのか。貴様たちがいう自由がそこにあるのか。自信満々の顔色は一変して跡形も無く消え失せ、独立不羈に溢れた気概は煙のように消え去り、ただ手をこまねいて首をうなだれ、煩悩という悪賊に蹂躙されるがままとなろう。全く憐れなことである。

 

こうなってしまうのも当然で、日頃から卑劣な事象を高尚な事象と誤解し、野蛮を文明とし、不自由を自由、不快を快楽と誤って感じているものだから、過去・現在・未来を一筋に見渡すことの出来る活眼を開くことが出来ずに、都の活気あふれる大通りの様相が映し出す真理にきちんと向き合わないことによる罪の報いを受けることとなるのだ。

 

顛倒狼狽の中にあっても自信に満ちあふれ、災厄疫病が身に振りかかって来て息が絶え絶えとなっている際中でも独立不羈を保っていられる益荒男(ますらお)、つまり本物の立派な人物に貴様たちは何故なれないのか教えてやろう。もし貴様どもが、他人から見れば顛倒狼狽しているように見えても実際は顛倒狼狽しておらず、他人から見れば災厄疫病が身に振りかかっているように見えても実際は災厄疫病が身に振りかかっておらず、他人から見れば息が絶え絶えとなっているように見えても死から超然としている、底をうかがい知ることの出来ない益荒男になりたいのならば、何よりもまず、過去・現在・未来の三世を貫き通す活眼を開き、己の心の奥深くに鎮座する何物にも寄りかかることなく超然と存在している貴様のご主人様と邂逅せよ。このご主人様こそ前に述べた天真仏であり、この地球だけではなく三千大千世界の森羅万象を、有情非情すべてを引っ括めて存在させている神秘あふれる大本(おおもと)なのである。これと比べると、貴様たちがこの上なく有難いと思っている理世界や智世界などは大海の一雫(いちしずく)、多くの牛の中の1本の毛にも相当しないものである。本当に馬鹿げたことである。

 

何の幸いか、わが国には、天も覆い隠すことが出来ず、地にも載せきることの出来ない、理智の世界など一片に収めてしまって、どんな富貴貧賤にも頓着せず、白刃や武力にも屈することのない底抜けの益荒男を産み出すことの出来る、この上のない妙道が存在する。

 

この妙道に添って天下に君臨し、政治に参与し、外交を行い、軍事を整え、商工耕作に従事すれば、どんなことでも成し遂げられないことはない。

 

だとすれば、 真の文明が築かれるのはわが国においてのことであり、この日の本から煌々たる光を地球上に放つこととなろう。国家を尊厳なるものとし、政治を助け補う道としては、これ以上のものはない。

 

どうだ!この道の前では貴様たちが大切にする理智の世界こそ片隅に引っ込み、貴様たちが信仰するユニテリアン教こそがあの世に閉じこもってしまうこととなるではないか、アハハハ。

 

わが国には世界中のどこにも存在しない、この上のない妙道が存在していると言っても、前世の福徳が薄く、心魂が下劣なヤカラでは、この道の存在に気付くことは出来やしない。そのようなヤカラが、驕慢の魔に付け込まれて見識が暗くなり、妄想の賊に耳の中まで入り込まれ、驕り高ぶって叫び出すのだ。

 

「仏法は文明政治を助け補う力を持たず、あの世に立てこもっているだけである」と。

 

また、

 

「立派な侍や君子の役に立つことは無い」と。

 

また、

 

「文明社会の宗教としては不適切であるが故に、理智の世界が発達するにつれて消え失せてしまうであろう」と。

 

どうして、 この道に添うことが出来ないことが仏教の責任だと言えるのか。単に世の中の侍が益荒男としての志操を忘れてしまって、卑劣な妄想に翻弄されているがためのことだけなのである。卑劣とはどういうことを言うのかと言えば、妄想によって己の真心の奥に鎮座するご主人が幽閉され、大本ではないモノに翻弄される、つまり、奴僕と主人との区別さえつけることの出来ない凡愚なヤカラの彷徨い歩く心のことをいうのである。

 

 

 

【雑感】

 

日本は世界でも稀有な国である。

 

山岡鉄舟が言う

何の幸いか、わが国には、天も覆い隠すことが出来ず、地にも載せきることの出来ない、理智の世界など一片に収めてしまって、どんな富貴貧賤にも頓着せず、白刃や武力にも屈することのない底抜けの益荒男を産み出すことの出来る、この上のない妙道が存在する。

とはどういうことかを考えてみる。

 

日本人は日の出に遭遇すると手を合わせて拝む。太陽をあらゆる命を育んでくれる有難い存在だと、文明が発達した現代でも当たり前のこととのように日本人は考えている。

 

一方、外国ではどうだろうか。少なくとも先進国では、日の出を拝むことなど未開の野蛮人がすることだと考えている節がある。

 

そう、外国では太陽そのものを拝む習慣はとうの昔に途絶え、唯一神のゴッドなるものが太陽を創り出したのだという理屈をひねくり出したりして、太陽そのものを拝むことは無い。しかし、この外国でもはるか遠い昔は太陽を拝んでいたことが史実として残っている。人間が太陽を拝む行為は人類の真心の現れであり、素直な行為なのだ。

 

文明が発達すると、人間というものは色々と理屈をこねくり回して拝む対象を人間が創り出してしまう。世界に広がる宗教にしても全て救世主やら預言者やら悟りを開いた者など、共同体からはずれた特殊な人間が体験したことや導き出した真理を基に世界観が確立されて来た。太陽が存在しなければ人類が絶滅してしまうという科学的な事実があるにもかかわらずにだ。

 

こういう中で日本人だけが原始時代の人々が太陽に対して感じた気持ちをそのまま文明社会となった今でも素直に表現している。

 

多くの日本人は気付いてはいないが、これはとてつもないことである。他の民族が封印してしまった人類共通の素直な心を日本人だけが普通に表現しているからだ。

 

この素直な心を発露させると、山岡鉄舟が言うようなことが可能となることが理解できる。

この妙道に添って天下に君臨し、政治に参与し、外交を行い、軍事を整え、商工耕作に従事すれば、どんなことでも成し遂げられないことはない。だとすれば、 真の文明が築かれるのはわが国においてのことであり、この日の本から煌々たる光を地球上に放つこととなろう。国家を尊厳なるものとし、政治を助け補う道としては、これ以上のものはない。

 

まだまだ多くの日本人がこのことに気付かずに眠ったままである。しかし、近い将来人類共通の真心を当たり前のように発露させる日本人が人類からだけでなく太陽や地球からも求められることとなるのは確実であろう。

 


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