まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 二十九】 天命伸縮すべき論

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 11月 22日 友引 

         戊子 日/戊寅 月/乙未 年 月相 21.1 中潮

         小寒 次候 水泉動(しみずあたたかをふくむ)  

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 2.7℃ 湿度 62%(大阪 6:00時点)

 

 

 

翁曰く。今日は則ち冬至なり。夜の長き則ち天命なり。夜の長きを憂ひて、短くせんと欲すとも、如何ともすべなし。是を天と云ふ。
 
而して此の行燈の皿に、油の一杯ある。是も又天命なり。此の一皿の油、此の夜の長きを照すにたらず。是又如何ともすべからず。共に天命なれども、人事を以て、燈心を細くする時は、夜半にして消ゆべき燈も、暁に達すべし。是れ人事の尽さざるべからざる所以なり。
 
譬えば伊勢詣する者東京より伊勢まで、まづ百里として路用拾圓なれば、上下廿(二十)日として、一日五十錢に當る。是れ則ち天命なり。然るを一日に六十錢づつ遣う時は、弐圓の不足を生ず。之を四十錢づつ遣う時は弐圓の有餘を生ず。是れ人事を以て天命を伸縮すべき道理の譬へ也。
 
夫れ此の世界は自轉(転)運動の世界なれば、決して一所に止らず、人事の勤惰に仍(よ)つて、天命も伸縮すべし。たとえば今朝焚くべき薪なきは、是れ天命なれども、明朝取り來れば則ちあり。今水桶に水の無きも、則ち差當りて天命なり。されども汲み來れば則ちあり。百事此の道理なり。
 
 
 
【私的解釈】
 
尊徳翁が言われた。今日は冬至である。夜が長いのはこれ天命である。夜が長いのを憂えて短くしたいと騒いでもどうすることも出来やしない。これを天という。
 
しかしながら、今、この行燈の皿に油が一杯ある。これも天命である。この一杯の油では冬至の長い夜を照らし切るには足らない。これも又どうすることも出来やしない。夜が長いことと共に天命ではあるのだが、行燈の方を人の力で灯芯を細く調整したならば、本来ならば夜半に消え去る灯も暁の時刻まで燃やすことが出来てしまう。このように人の行為が天命に及ぶこともあるので人事は尽くさないといけないのだ。
 
例えば、東京から伊勢までお伊勢参りに出掛けるとする。その道のり百里、費用10円とすれば、往復20日として1日に使えるお金は50銭となる。これは天命である。天命に逆らい1日に60銭づつ使えば2円の不足となる。一方で40銭づつ使えば2円が余る。これこそ、人の行為によって天命は伸縮されることとなるという道理の例えである。
 
この世界は自転運動の世界であるので、あらゆる現象は留まることがなく、人の行為の勤怠によって天命も伸縮するのである。例えれば、今朝焚く薪がないということは天命であるが、明朝までに薪を取って来ればこの天命は変わる。今、水桶に水がないのも現時点での天命である。しかしながら、水を汲んで来れば水桶に水は満ちる。あらゆることがこの道理に当てはまる。
 
 
 
 
【雑感】
 
 
このストップウォッチの針の動きを見れば分かるように時はスゴイ速さで流れている。そして、今はあっという間に書き換え不能な過去となって行くことに今更ながら驚かされる。
 
未来を夢見て色々と夢想しても今にきちんと向き合って対処しないと私の目の前の現象は何ら変わることがない。逆に言えば、一瞬一瞬の今に対してきちんと向き合って対処しさえすれば、私の目の前の現象は必ず変わるのだ。
 
繰り返す。この世では、今、自分の目の前で繰り広げられている現象の質を変えたければ、自分自身が今と向き合って行動を起こさなければ何らの変化も起こることはないのだ。
 
時の流れであるストップウオッチの針こそが己自身なのだ。この針が止まる時に自分が生きてきた道のりを振り返って「よく生きた」と言い切れた時にカチカチに固まった過去が動を帯びて走馬燈となる。死ぬ前に見る走馬燈を「人生を生き切った」という恍惚感に満たされて見ることこそ、この世に生まれてきた冥利なのであろう。
 
この冥利を味あう為に大事なのは、過去でもなく未来でもなく他人の行動や評価でもなく、今この刹那の己自身の行動の積み重ねのみなのだ。
 
このことを今一度心に刻んでおきたい。