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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 二十六】 涅槃經の譬を引て善惡禍福得失の一なるを諭す

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 閏 9月 25日 先負  四緑木星

         壬辰 日/丙子 月/甲午 年 月相 24.2 暁月 小潮

         立冬 末候 金盞香(きんせんかさく)  

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 7.6℃ 湿度 67%(大阪 6:00時点)

 

 

 

翁曰く、
 
善惡の論甚(はなは)だむづかし、本來を論ずれば、善も無し惡もなし。
 
善と云って分つ故に、惡と云う物出來る物なり。元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり。故に人なければ善惡なし。人ありて後に善惡はある也。故に人は荒蕪(くわうぶ)を開くを善とし、田畑を荒らすを惡となせども、猪鹿の方にては、開拓を惡とし荒すを善とするなるべし。世法盗を惡とすれども、盗中間にては、盗を善とし是を制する物を惡とするらん。
 
然れば如何なる物是善ぞ。如何なる物是惡ぞ。此の理明辯し難し。此の理の尤も見安きは遠近なり。遠近と云うも善惡と云うも理は同じ。譬へば杭二本を作り一本には遠と記し一本には近と記し、此の二本を渡して此の杭を汝が身より、遠き所と近き所と、二所に立つべしと云ひ付くる時は、速やかに分る也。
 
予が歌に「見渡せば 遠き近きは なかりけり おのれおのれが 住處にぞある」と此の歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也。工事に曲直を望むも餘り目に近過ぎる時は見えぬ物也。さりとて遠過ぎても又、眼力及ばぬ物なり。古語に遠山木なし、遠海波なし、といへるが如し。故に我が身に疎き遠近に移して諭す也。
 
夫れ遠近は己の居處先づ定りて後の遠近ある也、居處定らざれば遠近必ずなし。大阪遠しといはば、關東の人なるべし、關東遠しといはば上方の人なるべし。禍福吉凶是非得失皆是れに同じ。禍福も一つなり、善惡も一つなり得失も一つなり。
 
元一つなる物の半を善とすれば其の半ば必ず惡也。然るに其の半に惡なからむ事を願ふ、是成難き事を願ふなり。夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随つて離れず、咲きたる花の必ずちるに同じ、生じたる草の必ず枯るるにおなじ。
 
涅槃經に此の譬へあり。或人の家に容貌美麗端正なる婦人入り來る。主人如何なる御人ぞと問ふ。婦人答へて曰く、我は功德天なり。我が至る所、吉祥福德無量なり。主人悦んで請じ入る。婦人曰く、我に随從の婦一人あり、必ず跡より來る是をも請ずべしと。主人諾す、時に一女来る、容貌醜陋(しうろう)にして至りて見惡し。如何なる人ぞと問ふ。此の女答へて曰く、我は黑闇天(こくあんてん)なり我が至る處、不祥災害ある無限なりと。主人是を聞き大いに怒り、速かに歸り去れといへば此の女曰く、前に來れる功德天は我が姉なり。暫くも離るる事あたはず。姉を止めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出せと云ふ。主人暫く考へて二人とも出しやりければ二人連れ立ちて出で行きけり、と云う事ありと聞けり。
 
是れ生者必滅會者定離(せいじやひつめつゑしやぢやうり)の譬へなり。死生は勿論禍福吉凶、損益得失皆同じ。元禍と福と同體にして一圓なり、吉と凶と兄弟にして一圓也。百事皆同じ。
 
只今も其の通り。通勤する時は、近くてよいといひ、火事だと云ふと遠くてよかりしと云ふ也。是を以てしるべし。

 

 

 

【私的解釈】

 

尊徳翁は仰られた。

 

善と悪についてを論じることは非常に難しい。言ってしまえば善や悪に実態は無い。

 

これは善だと言って区別をするから悪というものもボワっと生じるのだ。人間の価値観によって生じるものであるから、人道上のものと言える。人間がこの世に存在しなければ世の中に善というものや悪というものは存在しない。人がこの世に生まれ出たから善や悪も一緒に生まれ出たのである。人間は雑草が生い茂って荒れ果てている土地を開拓することを善とし、荒れるにまかせていることを悪とする。一方イノシシやシカにとっては開拓されることは悪であり、荒れるにまかせていることが善となる。世の中の法は盗みを悪とするが、盗人達の間では盗みが善で盗みを妨害するものを悪とするであろう。

 

だったら、どういうものが善なのか。どういうものが悪なのか。この区別の基準をはっきりと設けることは難しい。区別というものの基準で分かり易いのは遠いか近いかである。遠いか近いかを区別をすることと善か悪かを区別することの道理は同じだ。例えば杭を2本作り、1本には「遠」と書きもう1本に「近」と書く。この2本を人に渡して、この2本を自分の身よりも遠いところと近いところにそれぞれ立てよと言いつければすぐに言っていることを理解出来よう。

 

私の詠んだ和歌に「世の中のものに遠いや近いという区別はない。私たち一人ひとりはただこの世界に存在しているだけなのだ」というのがあるが、私が存在しない世の中に善や悪の区別はないと言うと、人間には価値観というものがあるが故に腑に落ちることはない。一方で、私が存在しない世の中に遠いか近いかの区別はないと言うと、人間に価値観があったとしても腑に落ちるであろう。土木や建築の作業をするにあたり曲線や直線を引きたい時に余りにも近づきすぎると見ることが出来ないし、遠すぎても目を届かせることが出来ない。いにしえの言葉に「遠くに見える山に木は無く、遠くに見える海に波はない」と言っている。だから物事を人間の価値観に関係しない遠いか近いかにあてはめて言い聞かせることとする。

 

遠いか近いかは先ず自分の立ち位置が決まって初めて決まる。立ち位置が決まらなければ遠いか近いかが決まることは決してない。大阪が遠いと言えば関東に住む人が言っている。関東が遠いと言えば上方に住む人が言っている。禍福・吉凶・是非・得失といった区別はみなこれと同じこと。禍福も一体であり、善悪も一体で得失も一体なのだ。

 

元々一体であるものの半分を善としたら残りの半分は必ず悪となる。にもかかわらずその残りの半分も悪でないことを願望する。これは叶えられることのない願いである。人間が生まれたことを喜べば、必ずやって来る死の悲しみも付いてまわる。これは、咲いた花が必ず散るのと同じであり、生えた草が必ず枯れるのと同じである。

 

涅槃経にこのような例えがある。ある人の家に容姿端麗な若い女性が訪れた。家の主人がどちらの方ですかと聞けば、その女性は答えて言った。「私は功徳天と申す者です。私が訪れた家には無限の吉祥福徳が溢れます」と。家の主人はこれを聞いて悦んで招き入れた。その女性は続けて言った。「私には連れの女性がいます。後から来るこの女性も必ず招き入れて下さい」と。主人はこれを承諾し、しばらくすると1人の女性がやって来た。容姿が醜くく外見が悪い。どちら様ですかと尋ねると、この女性は「私は黒闇天と申す者です。私が訪れるところには際限なく不祥事や災害が起こります」と答えた。主人はこれを聞いて大いに怒り、即座にこの女性に「お帰りなさい」と言えば、この女は言った。「先ほど訪れた功徳天は私の姉です。一時も離れることは出来ません。姉を招き入れるならば私も招き入れなさい。私を追い出すならば姉も追い出しなさい」と。主人はしばらく考えて2人にお引き取りを願うと、2人は連れ立って出て行った、という。

 
これが生者必滅の理、会者定離の理の例えである。死や生はもちろんのこと、禍福、吉凶、損益、得失みな同じ理である。元々禍福は一体で円満である。吉と凶も兄弟で円満である。あらゆる物事、皆同じ理である。
 
日常でもその通りである。通勤する時は近いのが良いと言い、火事があると遠くて良かったと言うであろう。この理に熟知しておきなさい。
 
 
 
 
【雑感】
 
老子道徳経第2章の論理であり、陰陽論のことである。この論理を哲学すると世の中の真髄に触れられる。古事記にも次のような物語がある。
 
邇邇芸命(ににぎのみこと)は、ある日、同じみさきできれいな若い女の人にお出会いになりました。

「おまえはだれの娘(むすめ)か」とおたずねになりますと、その女の人は、「私は大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘の木色咲耶媛(このはなさくやひめ)と申す者でございます」とお答え申しました。「そちにはきょうだいがあるか」とかさねてお聞きになりますと、「私には石長媛(いわながひめ)と申します一人の姉がございます」と申しました。
 
命(みこと)は、「わたしはおまえをお嫁(よめ)にもらいたいと思うが、来るか」とお聞きになりました。すると咲耶媛(さくやひめ)は、「それは私からはなんとも申しあげかねます。どうぞ父の大山津見神(おおやまつみのかみ)におたずねくださいまし」と申しあげました。

命(みこと)はさっそくお使いをお出しになって、大山津見神(おおやまつみのかみ)に咲耶媛(さくやひめ)をお嫁にもらいたいとお申しこみになりました。
 
大山津見神(おおやまつみのかみ)はたいそう喜んで、すぐにその咲耶媛(さくやひめ)に、姉の石長媛(いわながひめ)をつき添(そ)いにつけて、いろいろのお祝いの品をどっさり持たせてさしあげました。

命(みこと)は非常にお喜びになって、すぐ咲耶媛とご婚礼をなさいました。しかし姉の石長媛は、それはそれはひどい顔をした、みにくい女でしたので、同じ御殿(ごてん)でいっしょにおくらしになるのがおいやだものですから、そのまますぐに、父の神の方へお送りかえしになりました。
 
大山津見(おおやまつみ)は恥(は)じ入って、使いをもってこう申しあげました。
「私が木色咲耶媛(このはなさくやひめ)に、わざわざ石長媛(いわながひめ)をつき添いにつけましたわけは、あなたが咲耶媛(さくやひめ)をお嫁になすって、その名のとおり、花が咲(さ)き誇(ほこ)るように、いつまでもお栄えになりますばかりでなく、石長媛(いわながひめ)を同じ御殿にお使いになりませば、あの子の名まえについておりますとおり、岩が雨に打たれ風にさらされても、ちっとも変わらずにがっしりしているのと同じように、あなたのおからだもいつまでもお変わりなくいらっしゃいますようにと、それをお祈り申してつけ添えたのでございます。
 
それだのに、咲耶媛(さくやひめ)だけをおとめになって、石長媛(いわながひめ)をおかえしになったうえは、あなたも、あなたのご子孫のつぎつぎのご寿命(じゅみょう)も、ちょうど咲いた花がいくほどもなく散りはてるのと同じで、けっして永(なが)くは続きませんよ」と、こんなことを申し送りました。
 
 
世の中が善なる者で一色となることは絶対に無いし、悪なる者で一色となることも絶対に無い。この理を無視して己の欲望を満たすために円満を乱そうとすれば必ず破錠が訪れる。ということを神代の時代から長きに渡り日本人に知らしめしている。
 
そもそも善や悪という区別は、私がこの世界に生きているから存在しているだけで、私が死ねば世の中の善なるものや悪なるものも一緒に滅びるのである。己の価値観から善や悪が区別されることからも明らかだろう。だとしたら周りの現象に善や悪と色付けをして、これらに無闇に振り回されることは、自分が創りだした幻に翻弄されていることとなる。
 
あなたが今、この世界に存在しているということだけが絶対であり、それ以外の全てのものや現象はことごとく相対なのだ。言い換えればあなたがこの世界に存在するからこそ存在している。
 
今日も私の存在に感謝する。すると、この感謝の気持ちが遍く世界中に波及する。この現象の意味するところをトコトン考えてみたい。