まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【山岡鉄舟 修養論】 武士道

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 閏 9月 11日 先勝  四緑木星

         戊寅 日/丙子 月/甲午 年 月相 10.2 十日夜(とおかんや) 長潮

         霜降 末候 楓蔦黄(もみじつたきばむ)  

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 13.9℃ 湿度 41%(大阪 6:00時点)

 

 

我が邦人に一種微妙の道念あり。

 

神道にあらず儒道にあらず佛道にあらず、神儒佛三道融和の道念にして、中古以降專ら武門に於て其著しきを見る。鐵太郎之を名付けて武士道と云う。

 

然れども未だ會て文書に認め經に綴りて伝ふるものあるを見ず。蓋(けだし)、人事の變遷と倶に種々の經驗により吾人の感念に寄與せられたる一種の道德なるが如し。

 

今日、斯(かか)る道念を形作るに至りしもの、是れ決して一朝一夕の業にはあらざるべし。樣々生死の閒(間)に出入し鎔鑄陶冶(ようちゅうとうや)して始めて今日に至りしなるべし。

 

我れ今斯道(しどう)の活動發展に就き、未だ會(かつ)て人に語らずと雖も、内心竊(窃)かに憂慮なき能はざるものあり。

 

抑々(そもそも)眞の武士道なるものは其形を重ずべきか將(は)たまた其心を重ずべきか、是れ斯道の最も肝要の所なるべし。古より、近くは安政以來殺伐の行ひ甚だしく、現に櫻田の變あるを見る。餘の弱冠不省の身を以て直に其是非を判ずべからずとも雖も、心竊かに思ふ所なき能はず。

 

斯道は元來座上の講談或は口先の理屈によって、此の理は彼の理に優れりなどとて其是非を認識するのみを以て足れるものにあらず。所謂、知るこ事は易く行ふ事は難き、にては駄目なり。無言にても、その實行に於て克く人倫に違はざるに務むるにあり。

 

故に武士道は、彼學者にて本讀に長け詩文に熟達したる技術師等の如く、善惡の理屈を知りたるのみにては武士道にはあらず。善なると知りたる上は直に實行し顯はしるを以って武士道と申すなり。扠(さ)て、この點に就ては異論なき筈なり。

 

以上の如く考え來れば、武士道は實行を重んずると云うからは形を主とするかの如き觀あれども、茲(ここ)が早合點しては困る所なり。篤と踏み止め考ふる時は、其形は元如何なる根原より發現しりしかが大切なる所なり。熟考せば、必ずや其心の動たる事を悟るべし。

 

されば、若し形と心衝突を来たすの時ありとせば、形の閻魔も兜を脱して心の菩薩に順ぜざるべからず。諺に、己に勝つ事のみを知って負る事を知らざるは武士道にあらず、とは此邊の事なり。

 

古今往々行はるる處の復讐暗殺の如きは、世人多くは公然の祕密と唱ふるが如し。然れども餘の抱負する處の武士道とは大に其撰を異にするものあり。餘は斯の如き惨事を見て何の道とも云ふべからず。こは唯だ有情の人たるを以て、時に喜怒哀樂の極度より其規道を失して遂に道の外に逸したる過誤の行爲と云ふの外なきが如し、斷じて賞むべきの行にはあらざるなり。

 

小松内府曰く、讐を報ずるに恩を以てすべし、と。

 

後世或人、此意を解せず、問ふて曰く、讐を報ずるに恩を以てせば、恩を報ずるには如何なる方法を以てすべきか、と。

 

神君の曰く、恩を報ずる恩は重く、讐に報ずる恩は輕きと云ふが如きのみと仰せらる。聊か奇觀を呈すれども、靜かに御意の存する所を伺はば餘の愚考する所の武士道と天地符合して釋然たるものあり。

 

而して武士道は、本來心を元にして形に發動するものなれば、形は時に從ひ事に應じて變化遷轉極りなきものなり。餘、今日斯の如きを講究する所以のものは、目下我邦の形勢日一日に急なるを見聞し、飜つて古今の史上に鑑み、諸行無常の理に照すに至つては、現今の國勢那邊に其變化を來たすべきや豫想すべからざるものあり。

 

是れ、或は遠き未來にあらざる可きかの觀なくんばあらず。我輩皇國の臣たるもの、那邊の大道に進行すべきか、是れ現下頭上の急務なるべし。是れ、鐵太郞が憂慮苦心する所以なり。

 

萬延元年庚申三月廿日

山岡鐵太郞

行年 廿五歲

 

 

 

【私的解釈】

 

我が日本人には独特の信仰がある。

 

神道でもなく儒教でもなく仏教でもない、神道儒教仏教を全て融和させた信仰で、中世以降武士階級の中でこの信仰は広がりを見せた。私はこの信仰のことを武士道と呼んでいる。

 

しかしながら、この信仰についての記録は無く、経典となり伝わっている物を見たことがない。言ってみるならば、これは世の中の移り変わりと共に教訓として伝えられて来たものが我々の心に触れて行動に影響を与えることとなる、言わば一種の道徳のようなものと言える。

 

今の時代にこのような信仰が世の中に姿を現して来たことは、決して突然の現象ではないはずである。生き死にの場面で湧き出(いづ)る人間ひとりひとりの思ひが積み重なり積み重なって一つの形となり、長く世の中にて涵養されてようよう姿を現して来て、今日に至ったのである。

 

私は、今この世の中でこの武士道がもてはやされていることを見るにつけ、まだ人には語ったことは無いのではあるが、内心では密かに憂慮している。

 

そもそも真の武士道というものは、その形を重んずべきものであるのか、それともその心を重んずべきかものであるのか、ここの見極めが最も肝要な所であるはずである。古(いにしえ)より、最近では安政の大獄以来人心を刺々(とげとげ)しくさせる現象が盛んで、つい先日も桜田門外の変が起こった。私みたいな若輩者が直ちにその是非を論じることは恐れ多いが、心の内に密かに思うことはある。

 

この武士道は、元々高座での講談や口先からの理屈により、この理はあの理よりも優れているなどと、その是非を判断することだけで足りるものではない。俗に言われる「知る事は簡単で行う事は難しい」では駄目なのだ。言葉が無くても行動しながら己の欲望に打ち克ち、人としての道を外さないように努めることにあるのだ。

 

だから、武士道は、学者共のように書物をたくさん読み、詩文を創ることに熟達した技術師共のように、善悪の理屈を知るのみでは武士道の発露とはとても呼べない。善と心で判断した上はすぐにその善を実行に移し、現れ出る現象を以って武士道の発露となるのである。この点については異論が無いはずだと思う。

 

このように考えれば、武士道はその実行を重んじることから形を主とするかのような印象を受けるが、ここは早合点してはいけない所である。今一度立ち止まり考えてみると、その現れ出た形は一体どこから生じた物であるのかが肝心となる。思いを巡らせば、必ずや心が振れたからこその造化であることを理解されよう。

 

上の道理に従うならば、もし形と心がぶつかり合う時があれば、形の閻魔大王も兜を脱いで心の地蔵菩薩(【注】閻魔大王地蔵菩薩は同一人物といわれている)に変わらざるを得ないのである。ことわざに「己に克つ事のみを知って負ける事を知らないようでは武士道とは言えない」とあるのは、この事を言っているのである。

 

古今あちこちで行われて来ている仇討ちや暗殺といったものは、世の中の多くの人々の間では公然の秘密の出来事とされている。しかしながら、これは私が思うところの武士道とは大いにその趣を異にするのである。私はこのような惨事を見聞きして思うことは、これらはどのような道とも思わないということなのだ。これらは単に感情を持つ人間が、時に喜怒哀楽を爆発させて常軌を脱し、己の進むべき道を外れ邪道に逸した過ちの行為であると言うしかない。断じて誉め称えられるべき行為ではないのだ。

 

小松内府(平重盛)が言った。「讐を報ずるに恩を以てすべし」と。

 

後の世のある人がこの意味を理解出来ずに疑問を唱えた。「讐を報ずるに恩を以てするならば、恩を報ずるにはどうしたら良いのか」と。

 

神君(徳川家康公)はこう言われている。「恩に報じる恩は重く、讐に報じる恩は軽いというだけのこと」と。一聞しただけでは突拍子もない事を言われているように感じるが、静かにこの言葉の奥を流れる思ひを吟味すると、私が思うところの武士道とぴたりと合致して腑に落ちるのである。

 

つまり、武士道とは、本来心を源として形作られるものであるので、形は時代に沿い現象に応じて自由に変化遷転するものである。私が、今日このように持論を述べる理由は、目下我が国の形勢が日に日に火急である現象を見聞きし、この現象を古今の歴史上の出来事と諸行無常の理に照らして考えてみると、今の時勢がどのように変化するのか予想もつかないと思うからである。

 

この変化に直面することになるのが、ことによると遠い未来のことではないかもしれないという思いを否定することが出来ないのだ。皇国の民である私は、どの方角を目指して大道を進めば良いのか、これが今頭上にかかる急務であり、私が憂慮苦心している訳もここにあるのだ。

 

萬延元年(1860年)庚申三月二十日

山岡鉄太郞

行年 二十五歲

 

 

 

1860年(万延元年) / 幕末年表

 

  

 

 

【雑感】

 

武士道は今の日本でも遍く脈々と受け継がれて来ている。

当然、幕末や戦時中に発露した武士道とは全く別の形となって、一旦緩急となれば今の世の中に発露されることとなろう。

現代に生きる日本人が武士道とは何かを考え、己の中で折り合いつけることは必須である。

 

 

しきしまの 大和ごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花  本居宣長

 

 

青海原(あをうなばら) 潮の八百重(やほへ)の 八十国(やそくに)に

つぎてひろめよ この正道(まさみち)を   平田篤胤

 

 

身はたとひ 武蔵の野辺(のべ)に 朽ちぬとも 

留め置かまし 日本魂(やまとたましい)    吉田松陰

 

 

みちのくの そとなる蝦夷の そとを漕ぐ 

舟より遠く ものをこそ思へ   佐久間象山

 

 

曇りなき 月を見るにも 思ふかな 

明日はかばねの 上に照るやと   吉村寅太郎

 

 

大山の 峰の岩根に 埋めにけり 

わが年月の 日本(やまと)だましひ   真木和泉

 

 

後れても 後れてもまた 君たちに 

誓ひしことを われ忘れめや   高杉晋作

 

 

武士(もののふ)の やまと心を より合はせ

ただひとすぢの 大綱(おほつな)にせよ   野村望東尼

 

 

 

特に今の子供達が以下のアニメを見て武士道についてを考えることは有意義なことだと思う。


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