【椿説弓張月 曲亭馬琴】 二ノ弐 路に迷ふて狼の戦いを止(とど)め 舎(いへ)に伴ふて猴酒(さるざけ)を勸(すす)む
【今日のこよみ】 旧暦2014年 8月 27日 仏滅 四緑木星
甲午 日/甲戌 月/甲午 年 月相 25.5(有明月) 長潮
白露 末候 玄鳥去(つばめさる)
【今日の気象】 天気 曇り 気温 18.7℃ 湿度 59%(大阪 6:00時点)
沖縄人のルーツが日本本土に由来するとの研究成果が発表された。
まさに『椿説弓張月』の物語のロマンが更に増すこととなる。
物語を書き進めるのが楽しみだ。
沖縄人ルーツ「日本由来」 南方系説を否定
沖縄タイムス 9月17日(水)6時0分配信
琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員と木村亮介准教授らを中心とする共同研究グループは琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来すると発表した。
これまでも沖縄本島地方についての研究データはあったが、八重山・宮古地方も含め、大規模に精査した点が特徴。英国に拠点がある分子進化学の国際専門雑誌「モレキュラーバイオロジーアンドエボリューション」の電子版(1日付)に掲載された。
木村准教授は「沖縄の人々については、東南アジアや台湾などに由来するといういわゆる『南方系』との説もあったが、今回の研究はこれを否定している。沖縄の人々の成り立ちを明らかにする上で貴重なデータになる」と話している。
研究では、沖縄本島、八重山、宮古の各地方から計約350人のDNAを採取。1人当たり50万カ所以上の塩基配列の違いを分析した。
また、宮古・八重山諸島の人々の祖先がいつごろ沖縄諸島から移住したのか検証したところ、数百年から数千年と推定され、最大でも1万年以上さかのぼることはないとの結果が出た。宮古・八重山ではピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴人(2万年前)の人骨が発見されており、現在の人々の祖先なのか関心を呼んできたが、主要な祖先ではないことを示している。
一方、港川人(1万8千年前)については、沖縄本島地方の人々の主要な祖先ではない可能性が高いとみられるものの、さらなる精査が必要という。
共同研究に携わったのはそのほか、北里大学医学部や統計数理研究所など。
琉球列島内で見ると、沖縄諸島と宮古諸島の集団は遺伝的な距離が比較的離れており、八重山諸島の集団が中間に位置していることも判明した。
物語を進める。
その打扮(いでたち) 頭には鹿皮(しかのかは)の頭巾を被り 身には栲(たへ)の衣着て 脚には棕櫚皮(しゆろのかは)のあゆびを結び 腰に長き刀を佩(は)いて 身の丈六尺(1m80cm) 年紀(としのころ)は三十(みそぢ)あまりと覺しくて 山の獵夫(さつお)かと見れば弓矢を持ず こは引剥(ひきはぎ)する山客(やまだち)ならんとて なかなかに憚(はばか)り給ふ氣色なく弓杖に携(すがり)てそなたを膽(きもり)おはしけるに彼男も爲朝を見て近く歩み來つ禮儀(いや)を正しくしていへりけるは 君は近會この列民(くにたみ)の稱(たた)へまゐらする 八郎御曹司にてましますべし 今この狼のよく狎(なれ)たるを見まいらすれば 久しく養(かひ)給ふものにや 斯(かへ)いえばなほ怪しともおぼさんが それかしは紀平治(きへいぢ)という獵夫(かりびと)なり
祖父(おほぢ)は元琉球國の人なりしが 一年(ひととせ)漂流してその船筑紫に着きしかば 遂に日本に留りて 肥後の菊池に奉公せり しかるに祖父没して後父なるもの故ありて浪人し この豊後に移り住むといへども 世渡る便(たつき)なきままに 獵夫(かりびと)の業をなして一生をおくりそれがしに至りてもなほ業を更(あらため)ず 父の時より鳥獣を捕(とる)に 弓矢剣戟(けんげき)を用ひず 只礫(つぶて)をもて狙撃(ねらひうつ)に百發百中の手煉(しゅれん)あり 凡そ八町(870m)の内に狙(ねらひ)を定めて撃つときは 疾(と)き鳥 勇(たけ)き獣といへども 打殺さずといふ事なし 爰をもて人口順(くちずさみ)に渾名して八町礫紀平治太夫(はちてうつぶてきへいぢだいふ)と呼びて候それがし今かく村落(かたゐなか)にありといへども 聊(いささか)青雲の志なきにしも非ず よりて君が文武の道に富て ひろく人を愛し給ふ事を傳へ聞 渇望甚だしかりつれど 身賤しければ見(まみ)えまいらするによしなかりしを 意(おもは)ずもこの深山(みやま)にて 尊容を拝し奉りしは 僥倖(さいはひ)何かこれにます事の候はんとぞいへりける爲朝聞給ひて 扠(さて)は此の狼共が怕(おそ)れて進み得ざりしは 紀平治があるをもてなりけん 然れば彼が礫が妙ある事しるべしとて 心の中(うち)に感じ思し ねんごろに回答(いらへ)して 路に迷ひたる事 狼の事など 凡て物語り給へば 紀平治只(ひたすら)嘆賞(たんせう)し 君が徳既に禽獣に及ぶ事 いといと有りがたくも賢くおはしますことよ 終日(ひねもす)路に迷ひ給はば さこそ餓(うへ)もし給ひけめ 我家はこの山の麓にありもし茅屋(はうをく)を厭ひ給はすは 立より憩ひ給へ といふに固辞(いなふ)がたく 打つれだちて麓のかたへ赴き給へば 彼の二頭(ひき)の狼も 後方につきて門まで來にけり紀平治はふりたる諸折戸をやをら押明て爲朝を入れまゐらせ 妻をよびてしかじかの事を語り聞かすれば 妻も又夫に齏(ひと)しく 心信々(まめまめ)しきものなれば 粟の飯(いひ)に鮎のしら焼きとり添えて 爲朝にすすめ進(まゐ)らするにぞ紀平治も草鞋(わらぐつ)脱すてて裡面(うち)に入りこれは荊婦(わがつま)にて名をば八代(やつしろ)と呼て候 御目を給はり候へかしと申せしかば 爲朝も今日の惠の喜(うれ)しきよしを聞え給ふ紀平治は又一瓶(ひとかめ)の酒を取り出(い)て 爲朝を管待(もてなし)まゐらすれば 是を喫(のみ)給ふに葡萄酒に似て味(あじは)ひ異なり こは何をもて醸(かも)せし物にやと問給へば 紀平治答て 是は山中稀にある處のものにて 猴(さる)酒と名づけ候 秋の末に至りて 猴(さる)ども菓(このみ)を貯(たくはへ)んが爲に許多(あまた)とり集て 古木の洞(うろ) 厳(いはば)の凹(くぼみ)なるところなどに藏(をさめ)置(おく)に 月を經てその菓(このみ)悉(ことごと)く潰(ついへ) 自から酒の如くなりて候 然れとも山を家とするものも 多くは見ることなきを それがし近會(ちかごろ)見出して 汲みて携(たづさへ)歸り候といふ爲朝聞給ひて掌をうち 山中にはさる物ありと聞つれど 都に生育(おひたち)たれば見たる事さへなし 我若(もし)爰(ここ)に流浪(さすらは)ずは爭(いか)でかかる管待(かんたい)に會べきと宣へば 紀平治も笑坪(ゑつぼ)に入りて なほしばしば勸め進(まゐ)らせしがわれ忘れたる事こそあれ 彼等もさそな餓(うゑ)つらめ獨(ひと)りごち 門方(かどべ)に出て二頭(ひき)の狼を呼びつつ 切(きざみ)たる鹿の股(もも)を投與(なげあた)ふれば 妻の八代はこれを見て 大いに驚き怕(おそ)るるを 紀平治うち笑ひて縁由(ことのよし)を物かたるにぞ 漸(やうや)く心安堵(こころおちゐ)けりかくて紀平治は再(ふたた)び 舊(もと)の處に参りて四表八表(よもやま)の話の序(なへ)に しばし兵法を討論せしが 爲朝の説(とき)給ふ所 悉(ことごと)くわが聞(きか)ざる處に出(い)て その才測(はかり)がたく見え給へば 心を傾けて感伏(かんぷく)し 遂に主従の契約(きやく)をなしつこの物がたりに時移りて 日も既に暮にければ 爲朝は別を告て立かへらんとし給ふ折しも 乳母子須藤九郎重季(しげすゑ)は 主君(との)のかへり遅きに心もとなく 蕉火(たいまつ)振照して彼此(あちこち)を索(たづね)つつ ややこの處へ來りしかば 爲朝は重季を召て紀平治が事 狼の事など 説示(ときしめ)し給へば 重季も夫婦が厚き志をよろこび聞え 主(との)の供して立かへるに 彼狼はなほその後方(あとべ)にしたがひ來て 追い遣れども歸りゆかず この夕べより爲朝の住給へる 子舎(へや)のほとりを去ることなければ 爲朝も又これを哀み 一頭(いつぴき)をば山雄(やまを)と名づけ又一頭をば野風(のかぜ)とよびて 然(さ)ながら畜犬(かひいぬ)のごとくにてぞありける
その格好、頭には鹿革の頭巾をかぶり、麻布の衣服を着て、足にはシュロ皮の足袋を履き、腰には長い刀を身に付けて、背丈が6尺(1m80cm)、歳は30ちょっとと思われた。
猟師なのかと思えば弓矢を持っておらず、こいつは追い剥ぎをする山賊だろうと思っても、全くこちらをうかがう様子も見せずに、弓杖をつきながらもキリッとした様子を見せていた。