まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

迸(ほとばし)る勝海舟の正氣

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 8月 12日 先勝  四緑木星

         己卯 日/甲戌 月/甲午 年 月相 10.5 長潮

         処暑 末候 禾乃登(こくものすなわちみのる)    

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 24.2℃ 湿度 86%(大阪 6:00時点)   

 

 

一個人の百年は、ちやうど国家の一年位に当るものだ。それ故に、個人の短い了見を以て、余り国家の事を急ぎ立てるのはよくないよ。徳川幕府でも、もうとても駄目だと諦めてから、まだ十年も続いたではないか。


時に古今の差なく、国に東西の別はない、観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。生麦(*1)、東禅寺(*2)、御殿山(*3)。これ等の事件は、皆維新前の蛮風だと云ふけれども、明治の代になつても、矢張り、湖南事件(*4)や、馬関騒動(*5)や、京城事変(*6)があつたではないか。今から古(いにしえ)を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ。


此頃元勲(げんくん)とか何とか、自分でもえらがる人達に、かういふ歌を詠んで遣つたよ。

 

時ぞとて咲きいでそめしかへり咲
      咲くと見しまにはやも散なん
 【時が来たと咲き始めたが、所詮は時期ハズレの返り咲きだ
    あだ花は咲いた刹那に散り始め、人の心に残ることもない】
 

あれ等に分るか知らん、自分で豪傑がるのは、実に見られないよ、おれ等はもう年が寄つた。

 

たをやめ(*7)の玉手さしかへ一夜ねん
      夢の中なる夢を見んとて
【たおやかな女性の玉のような手を握って一晩を共にしたいものだ
         さすれば理想の社会を夢の中で体験できるだろうよ】
 

政治家も、理窟ばかり云ふやうになつては、いけない、徳川家康公は、理窟はいはなかつたが、それでも三百年続いたよ。それに、今の内閣は、僅か卅(三十)年の間に幾度代つたやら。


全体、今の大臣等は、維新の風雨に養成せられたなどと大きな事をいふけれども、実際剣光砲火の下を潜つて、死生の間に出入して、心胆を練り上げた人は少ない、だから一国の危機に処して惑はず、外交の難局に当つて恐れないといふほどの大人物がないのだ。先輩の尻馬に乗つて、そして先輩も及ばないほどの富貴栄華を極めて、独りで天狗になるとは恐れ入つた次第だ。先輩が命がけで成就した仕事を譲り受けて、やれ伯爵だとか、侯爵だとかいふ様な事では仕方がない。


世間の人には、もすこし大胆であつて貰ひたいものだ。政治家とか、何んとかいつても、実際骨のあるものは幾らもありはしない。大きく見積つても六百位のものサ。然るに、今の大臣などは、この六百人ばかりを相手にわいわい騒いで居るではないか。この弱虫のおれでさえ、昔は三百諸侯を相手に、角力(すもう)を取つたこともある位だのにナ。


政治をするには、学問や智識は、二番めで、至誠奉公の精神が、一番肝腎だ。と云ふことは、屡※(二の字点、1-2-22)(しばしば)話す通りであるが、旧幕時代でも、田沼(*8)といふ人は、世間では彼是いふけれども、矢張り人物サ。兎に角政治の方針が一定して居つたよ。

 

この時分について、面白い話があるが、この頃、聖堂がひどく壊れて居たから、林大学頭(*9)から修理の事を申し出たが、その書面の中に、「文宣公の廟云々」といふことがあつた。すると右筆(ゆうひつ)等は集まつて、文宣公とは、どんな神様であらうかと色々評議をしたけれども、時の智者を集めた右筆仲間で、文宣公を知つて居るものがなかつた。そこで、文宣公とは何処の神だ、と附箋をして書面を返却した。大学頭は直ぐに文宣公とは、唐土(もろこし)の仲尼の事だといつてやつたけれども、それでもまだ分らない。そこで大学頭もたまらず、仲尼とは、子曰はくの孔夫子(*10)の事だといつた。それで右筆もやうやく合点が行たといふことだ。


この話は旧平戸藩で明君と聞えた静山公が、儒者を集めて、種々の話をさせて、それを筆記した『甲子夜話(かっしやわ)』(*11)といふ随筆で見たが、なかなか面白い。全体その時分の真面目は正史よりも、却つてこんな飾り気のない随筆などで分るものだ。


この話は、実に面白いではないか、右筆といえば、今の秘書官だが、宰相の片腕ともなるべきこの右筆が、孔子の名さえ知らないといえば、その人の学問も大抵は知れる。之に較べると、今の秘書官などは、外国の語も二つや三つは読めるし、やれ法律とか、やれ経済とか、何一つとして知らないものはない。

 

然るに、不思議のことは、孔子の名さえ知らない右筆を使つた時の政治より、万能膏(まんのうこう)の秘書官を使ふ時の政治が、格別優つても居ないといふ事だ。

 

畢竟(ひっきょう)これも政治の根本たる、至誠奉公といふ精神の関係だらうよ。

 

勝海舟 黙々静観

 

 

生麦(*1)

生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末文久2年8月21日1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。

尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争文久3年7月)が起こった。事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている[1]

生麦事件 - Wikipedia

 

東禅寺(*2)

慶長14年(1609年)、伊東祐慶嶺南崇六を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂に創建した。寛永13年(1636年)、現在地に移転。眼前に東京湾が広がることから海上禅林とも呼ばれた。

幕末の安政年間(1855年 - 1860年)以降、当寺は西洋人用の宿舎に割り当てられた。安政6年(1859年)には日本初のイギリス公使館が当寺に置かれ、公使ラザフォード・オールコックが駐在した。

文久元年(1861年)、攘夷派常陸水戸藩浪士によって寺が襲撃される(第一次東禅寺事件)。オールコックは難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出た。翌文久2年(1862年)には護衛役の信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛によって再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害された(第二次東禅寺事件)。

東禅寺 (東京都港区) - Wikipedia

 

御殿山(*3)

眼下に江戸湊を見下ろす高台で、江戸時代初期から徳川家康が建立したと伝えられる「品川御殿」があったためそう呼ばれる。歴代将軍鷹狩の休息所として、また幕府重臣を招いての茶会の場として利用されていたほか、の名所として有名であったが、元禄15年(1702年)2月11日四ッ谷太宗寺付近の出火で麻布御殿ともに焼失、8月14日に廃止された。寛文年間(1661年 - 1673年)からが移植され、文政7年(1824年)の『宿差出明細帳写』(品川町史)によると、御殿山の面積は11,500(38,016平方メートル)、600本に及ぶ桜の名所として整備された。

幕末期には、国防のための台場建設用土砂採取場となり、山の北側(現在の北品川3丁目3番、4番付近 - 北品川4丁目7番東側付近)がえぐられ、窪地となった。

開国後の文久元年(1861)、幕府は英国をはじめ諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画した。しかし、翌年12月12日、完成間近の英国公使館を高杉晋作・志道聞多(井上馨)・伊藤俊輔伊藤博文)ら尊皇攘夷派13名が襲撃し全焼した

明治期には、鉄道敷設のために東西に分断された。付近には益田孝など富裕者の屋敷が多くあった。

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御殿山 (東京都品川区) - Wikipedia

 

湖南事件(*4)

大津事件(おおつじけん)は、1891年明治24年)5月11日日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した、暗殺未遂事件である。

当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣青木周蔵内務大臣西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣山田顕義が病気を理由に辞任した。

大津事件 - Wikipedia

 

馬関騒動(*5)

下関戦争(しものせきせんそう、正字体:下關戰爭)は、幕末長州藩と、イギリスフランスオランダアメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。

長州藩との講和談判によって、300万ドルもの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料に仏・蘭と共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後は新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。

明治16年(1883年)2月23日、チェスター・アーサー米国大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万5000ドルを得ていた。

実際の米国の損失は、

  1. 米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル
  2. 長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
  3. 水夫への危険手当2000ドル

だった。

なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、米国の損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金は米国政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。その実情を明治5年(1872年)、フィッシュ国務長官森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。日本では明治22年(1889年)、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年(1896年)5月に完成している。

下関戦争 - Wikipedia

 

京城事変(*6)

壬午事変(じんごじへん)は、1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。

壬午事変 - Wikipedia

 

たをやめ(*7)

しなやか優美女性たおやかな女。歌の優美女性的風情を「たをやめぶり」という。男性的逞しい調子は「ますらをぶり」という。

 

田沼(*8)

田沼時代(たぬまじだい)は、江戸時代後期、幕閣において老中田沼意次が幕政を主導していた時代である。年代としては明和4年(1767年)から天明6年(1786年)までの約20年間、または宝暦期から天明期と理解されている。田沼意次が幕閣において政権を握ったのは安永8年(1779年)のことであり、特に天明元年を契機とした[1]江戸幕府重商主義的政策を採った時代でもある。

田沼時代 - Wikipedia

 

林大学頭(*9)

林 復斎(はやし ふくさい)は、江戸時代末期の儒学者外交官幕府朱子学林家当主。復斎は号。岩瀬忠震堀利煕は甥にあたる。

林復斎 - Wikipedia

 

孔夫子(*10)

孔子 - Wikipedia

 

甲子夜話(かっしやわ)(*11)

書名の由来は、平戸藩主を退き隠居した後、この随筆が1821年12月11日文政4年11月17日)の甲子に書き起こされたものであることによる。その後静山が没する1841年天保12年)まで20年間にわたり随時書き続けられ、正篇100巻、続篇100巻、第三篇78巻に及ぶ。

内容は、藩主時代の田沼意次政権や松平定信が主導した寛政の改革の時期に関すること、執筆期に起きているシーボルト事件大塩平八郎の乱などについての記述を始め、社会風俗、他藩や旗本に関する逸話、人物評、海外事情、果ては魑魅魍魎に関することまでの広い範囲に及んでおり、文学作品としてのみならず江戸時代後期、田沼時代から化政文化期にかけての政治・経済・文化・風俗などを知る文献としても重視されている。「鳴かないホトトギスを三人の天下人(織田信長豊臣秀吉徳川家康)がどうするのか」の詠み人知らずの有名な川柳も載せられている。

平凡社東洋文庫より、直筆原稿に基づき、正篇6巻、続篇8巻、三篇6巻の計全20巻が刊行されている。

甲子夜話 - Wikipedia

素読のための「甲子夜話」

 

 

 

【雑感】

 

時に古今の差なく、国に東西の別はない、観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。

 

ほんと、人間は同じ事を繰り返す。同じ過ちを何度も何度も繰り返し、自分自身に辟易してしまうことも多い。しかし、それで良いのだ。夢の中ではないのだ。やることなす事全て自分の思い通りになるワケがない。個性だと割り切ることも大事なのだ。覚悟を決めてその個性と生涯を共にする。共にするとその個性という奴に愛着が湧くように自分を変えて行くこととなろう。眼を背けたり、心を卑屈にしてしまうことが害となる。結局は己のおもゐ一つ。おもゐ一つで自分を取り巻く景色がガラリと変わるのが今生きている世界なのだ。

 

 

 

政治家も、理窟ばかり云ふやうになつては、いけない、徳川家康公は、理窟はいはなかつたが、それでも三百年続いたよ。それに、今の内閣は、僅か卅(三十)年の間に幾度代つたやら。

 

全体、今の大臣等は、維新の風雨に養成せられたなどと大きな事をいふけれども、実際剣光砲火の下を潜つて、死生の間に出入して、心胆を練り上げた人は少ない、だから一国の危機に処して惑はず、外交の難局に当つて恐れないといふほどの大人物がないのだ。先輩の尻馬に乗つて、そして先輩も及ばないほどの富貴栄華を極めて、独りで天狗になるとは恐れ入つた次第だ。先輩が命がけで成就した仕事を譲り受けて、やれ伯爵だとか、侯爵だとかいふ様な事では仕方がない。

 

政治をするには、学問や智識は、二番めで、至誠奉公の精神が、一番肝腎だ。

 

上の言葉の最たる例がこういったものだろう。

有村大臣 女性が活躍できる社会実現を

9月4日 16時07分

今回の内閣改造で初入閣した有村女性活躍担当大臣は、記者会見で、女性が活躍できる社会の実現を目指して、多くの知恵を結集したいという考えを示しました。

第2次安倍改造内閣で初入閣した有村女性活躍担当大臣は、行政改革担当大臣などを兼務していて、4日の記者会見で、「時間がたつにつれ、安倍総理大臣から指示された領域の広さ、課題の影響力の強さを感じている。国民各層の負託に応えていかなければならないという思いがますます強くなった」と述べました。
そのうえで、有村大臣は、「今回入閣した女性大臣の中にも、現役で子育て中の方が3人いる。四苦八苦しているなかで、生きがいや自己実現、社会に貢献しようと努力していることを発信し、全国各地の皆さまからも知恵をいただいて、社会の制度や仕組み、文化に生かしていけるようにしたい」と述べ、女性が活躍できる社会の実現を目指して、多くの知恵を結集したいという考えを示しました。

有村大臣 女性が活躍できる社会実現を NHKニュース

 

理屈を並べてもしょうがない。結局は己のおもゐ一つなのだ。日本人は本居宣長が言う「大和ごころ」を自分の言葉で理解すべきなのだ。

 

敷島の大和ごころを人問はば 朝日ににほふ山桜花  本居宣長

 

【参考】「至誠奉公」 山本五十六元帥の書に思う - 一顆明珠(住職の記録)

 

 

 

世間の人には、もすこし大胆であつて貰ひたいものだ。政治家とか、何んとかいつても、実際骨のあるものは幾らもありはしない。

 

下のような輩を政治家にしている世間の人もこの政治家と同じ穴の狢なのだ。政治家が利権となって私腹を肥やす。世の中の人のおもゐが現象となって現れているのが、この有り様なのだろう。

政務活動費:ゴルフコンペ景品代も 堺市議9月2度目訂正

毎日新聞 2014年09月04日 19時56分

 堺市の北野礼一市議(68)=維新=が、ゴルフコンペの景品の自転車代(4万2000円)を政務活動費政務調査費)から支出していたことが4日、わかった。記者会見した北野市議は「間違えて政活費として領収書を提出してしまった。大変申し訳ない」と謝罪。全額を返還し、報告書を訂正する意向を明らかにした。

政務活動費:ゴルフコンペ景品代も 堺市議9月2度目訂正 - 毎日新聞

 

 

 

然るに、不思議のことは、孔子の名さえ知らない右筆を使つた時の政治より、万能膏(まんのうこう)の秘書官を使ふ時の政治が、格別優つても居ないといふ事だ。

 

畢竟(ひっきょう)これも政治の根本たる、至誠奉公といふ精神の関係だらうよ。

 

 

精神を磨き上げることの困難さがここに現れる。「至誠奉公」と言葉にするのは簡単だが、「至誠奉公」の精神を心で練り上げ、行動に反映し、事象を世の中に散りばめて行くことは昔も今も生半可な仕事ではない。神代の時代が今も続く中今(なかいま)の国の精神を理解せずには出来ることでは無いのだ。

【参考】本居宣長研究ノート「大和心とは」