まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【椿説弓張月 曲亭馬琴】 二ノ壱 路に迷ふて狼の戦いを止(とど)め 舎(いへ)に伴ふて猴酒(さるざけ)を勸(すす)む

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 7月 25日 先勝  四緑木星

         癸亥 日/癸酉 月/甲午 年 月相 24.2 小潮

         立秋 末候 蒙霧升降(ふかききりまとう)    

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 27.5℃ 湿度 60%(大阪 6:00時点)

 

 

 

この日爲義朝臣は 館にかへり給ふとやがて 爲朝をちかく招き 御身いかなれば姑射(はこや)の山(*1)の尊きにも怕(おそ)れず 織素(しょくそ)の年(*2)にありながら 長者をも敬はず しばしば唇を轉(ひるがへ)せしは何事ぞ
 
夫(それ)孝は身を立つるにあり 一朝の争ひにその身を許して 式成(のりしげ) 則員(のりかず)が箭面(やおもて)にたつ事 狂人の行ひに齋(ひと)し 兵法にも 蔣驕るときはかならず敗るるといへり 智あるものは爭はず 能あるものは誇らずとそいふなる 今日の動止(ふるまひ)不忠とやいはん 不孝とやいはん 向後(こののち)よくよく愼み候へと教訓し給へば
 
爲朝畏みて 父の命(あふせ)さる事なれど 彼通憲入道信西は 賢者に似たる矮人なり その身一院(鳥羽上皇)の寵遇を得て 當今近衛院に昵近(ぢつきん)し奉れば 他人(あだしびと)はとまれかくまれ 彼は世の聞こえを憚(はばか)りて 新院の御かたへは疎かるべきに 然(さ)はなくして親しく参りつかふる事 誠の志にあらず 潜(ひそか)にその光景を見まゐらせ怪しとも思ふ事のあらんには 上皇の告まゐらせん爲の間者(まはしもの)なり 爲朝預(かねて)これを知るが故に 今日言を設けて者奴(しやつ)を怒らせ ふたたび白河殿には足踏もさせまじうこそ思ひ候なれと いと忠たちて私語(さのやき)給ひける
 
しばしありて爲義再(また)宣(のたま)ふよう 古より官に怕(おそ)れずして管に畏れよといふ事あり 信西は君寵に誇るものなり 彼もしふかくわが輩(ともがら)を憎まば 我家彼が三寸の舌に亡さるべし
 
御身明日筑紫のかたへ下りて この禍を避よ 但し思ふ旨あれば 音耗(おとづれ)はすべからず とくとく旅の用意(こころがまへ)を致し候へと宣いければ 爲朝は父の氣色あしきを見て ふたたび言葉をかへし給はず詰日(あけのあさ)乳母(めのと)子須藤九郎重季(すどうのくろうしげすゑ)只一人を召倶して 都の空も住果ぬ 月も西へと入りかたの その暁の星を戴き こころ筑紫の果までもと立出つつ
 
日数経て豊後國まで來給ひしが この國に名たたる尾張権守・季遠(おはりごんのかみ・すゑとほ)(*3)は 由縁(ゆかり)ある人なれば しばしこの人をたのみて見ばやとて立より給ひしに 季遠易(やす)くうけ引て 養なひまゐらせし程に 
 
爰(ここ)に三年の月日経て 爲朝既に十五歳 才覚ますますすすみて知勇抜群なりしかば 經傳兵書(けいでんへいしょ)(*4)に思ひを耽(ふけ)らし 又折ふしは弓箭(ゆみや)を携へ 木綿山(ゆうふやま)(*5)に狩くらし給ふに 
 
有一日(あるひ)只ひとり 山ふかくわけ入りて路にまどひ 行けども行けども舊(もと)の山路に出(いで)給はず 只(と)見ればゆくさきの樹の下(もと)に狼の子二頭ありて 鹿の宍(ししむら)を争ひ 咬あふて生死を省みず互に半身血に塗(まみ)れ 勝らず劣らず見えしかば
 

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爲朝しばし停立(たたずみ)て つくづくと思しけるは 今の世の人ごころは 笑(えみ)の中に刃(やいは)をかくし 利を見ては親疎を顧みず 官位の高きを猜(そね)み 食祿(しょくろく)の小(すけな)きをも爭ひ 父子も讐敵(あだかたき)の思ひをなし 兄弟鎬(しのぎ)を削る事 この狼に異ならず
 
今この獣(けもの)のたたかひは 我に観念をすすむるのなかだちならん 然(さ)らば助得させんと獨言(ひとごち)つつ 進み對(むか)ひて宣ふやう 汝等はこれ勇(たけ)き神なり 今食を争ひて 互に痍(きづ)つき債(いた)む事あらば われ勞せずして兩(ふたつ)ながら獲んも容易(いとやす)し 夫(それ)食は別に求むるともなほ得べし 生(いき)とし活(いけ)るもの一度命をはりなば 求むるに道なかりなん とく退(しりぞ)けよといひをはり 弓の未(う)を挿入れて 一反丁(はねてう)とはね給へば 彼二つの狼は 大力の弓杖に支られ 左右へ撲地(はた)とまろびしが ふたたび挑み戦はんともせず 流るる羶血(ちしほ)を舐あひて 忽地(たちまち)睦ましう見えたり
 
且(しばら)くして この狼 爲朝を熟(つらつら)うち臚(まも)りて もろもとにほとり近(ちか)う來つ 頭を低(たれ)て恩を謝するごとく見ゆ さてはわが一言に感伏して 和睦しつるものならん 人奸雄なればこれを虎狼に比す 今この光景(ありさま)を見れば 彼等却て義あり信あり さのみ憎むべきものにあらずと宣ひつつ 手をもて項(うなじ)を撫給へば 狼尾を掉(ふり)耳を低(たれ)て いと狎(なれ)たる氣色なりしが やがて前にたちて徐(しづ)やかに歩み出(いづ) 
 
しばしば見かへりて郷導(みちしらべ)するを 爲朝もはやくそのこころを得て 二頭の狼に導れ ゆくこと十五六町に及び給ふころ 何とかしけん彼狼は 俄頃(にはか)に尾を巻いて走りかへり 物に怖(おそ)るがごとく見えしかば 爲朝ふかく怪みて 向ひを佶(きつ)と見給へば 一叢(むら)芒(すすき)のしげき中より 一人の男あらはれ出たり 

 

 

 

【訳】

 

この日、為義朝臣は、館(やかた)に帰ると為朝を呼んで、

 

 

「お前、先ほどは、新院の御前をもはばからずに、何にも分かっていない子供のくせに年長者を敬わず、度重なる口答えはどういう了見だ。

 

孝こそが身を立てる手段なのだ。朝廷の争いに首を突っ込んで、式成(のりしげ)・則員(のりかず)の矢面に立ったことは、狂人の行いに等しい。兵法にも将が驕るときは、必ず敗れるとある。知恵のある者は争わず、能力があるものはそれを誇ったりしないと言われるだろうゾ。今日の振る舞いは、不忠甚だしい。不孝甚だしい。この後はよくよく慎みなさい。」

 

 

と、言い含めれば、

 
為朝かしこまって、
 
 
「父上の命じる事ですけれども、あヤツ、通憲入道信西は、賢者を装った無節操者ですじゃ。その身が一院(鳥羽上皇)の寵愛を受けているから、当今は近衛院と懇意にし、こうなれば、普通の人は、兎にも角にも世間の評判を考えて、新院の所へは足が遠くなるのが常識であるのに、そうとならずに、以前と変わらず頻繁に訪問しています。
 
真心からそうしているのではなく、前々からその行動を見守っていて怪しいと思っていたのですが、あれは、上皇に讒言(ざんげん)をする為の間者ですじゃ。私は、かねてからこのことを知っているが為に、今日、論を吹っかけて、あヤツを怒らせ、二度と白河殿に足を踏み込ませないようにしてやろうと思い立ち、忠義の思いから実行したのです。」
 
 
と、ささやいた。
 
しばらく沈黙して、為義は口を開いた。
 
「昔から、『官(かん)(地位)を恐れるのではなく、管(くだ)(戦場で吹く笛)を恐れよ』と言う言葉がある。信西上皇の寵愛を一身に受けている者である。ヤツが、もし深く当家を憎めば、我が家は、ヤツの口先だけで簡単に亡ぼされてしまうのじゃ。お前は明日にでも筑紫に下って、災いが振りかかるのを避けよ。用心して、消息を絶て。ささぁ、早く旅支度をせよ。」
 
と言えば、
 
為朝は、父の真剣な表情を見て、再び言葉を交わすことはせずに、翌日の早朝、乳母(めのと)の子供である、須藤九郎重季(すどうのくろうしげすえ)(*6)、ただ一人を連れて、都の空も見納め、月も西の山へと沈もうとしている。暁の空に瞬く星を心に刻み、こころ一つで筑紫の果てまでいざ行かんとの心意気で出発した。
 
数日後、豊後国までやって来たが、この国で有名な尾張権守・季遠(おわりごんのかみ・すえとほ)(*3)は、縁(ゆかり)のある人であったので、しばらくの間、この人を頼りにしようと立ち寄ったが、 季遠簡単に承諾し、この家で養わられることとなった。 
 
やがて3年の月日が経ち、為朝既に15歳となり、才覚が益々盛んとなり、知勇が群を抜き、経伝兵書(けいでんへいしょ)(*4)の記述に考えを巡らし、又、時々は弓矢を携へて木綿山(ゆうふやま)(*5)に狩りへ行くという暮らしをしていた。 
 
ある日、ひとりで山深くに入り込んで、道に迷い、行っても行っても元のの山道に戻るということを繰り返していた。ふと前を見れば、前方の樹の下に狼の子が二匹いて、鹿の死肉をめぐり争っていた。お互い咬み合って必死に争い、半身が血にまみれ、決着がつかない様子であった。
 
為朝しばらくたたずんで見やり、染み染みと思うには、
 
「今の時代の人の心は、微笑みの中に刃を隠し、ちょっとでも利が見えると抜け駆けをし、他人の官位の高さを妬み、少ない禄をも争って自分の方へとかき集め、親子をもまるで仇敵の思いで生活をし、兄弟間でしのぎを削る事、この狼がやっていることと何ら変わらない。目の前のこの獣の闘いは、我を悟りに導くきっかけとなった。だとすれば、これも何かの縁であろう。」
 
と独り言を言いながら、進み向かって呼びかけた。
 
「お前達は、猛(たけ)き神と崇められている身。今、食べ物を争って、お互いを傷付け合うことをやめて、2匹で協力して獲物を狩ることも簡単に出来るはずじゃ。食べ物を別々に狩ることも出来るはず。この世に生を授けられたもの全ては、一度命をかければ必ず道は開けるものじゃ。ささぁ、早く離れよ。」
 
と声を張り上げて、弓を差し入れ強引に跳ね上げてみると、2匹の狼は、弓に引っかかり、左右へバタッバタッと引き分けられた。そして、再び挑みかかろうともせずに、流れ落ちる血をお互いに舐め合って、たちまちの内に仲睦まじい態度を示した。
 
しばらくして、この狼は為朝の方をチラチラと見やり、そして、2匹が目の前に近づいて来た。頭を低く垂れて、恩を感じているように見えた。
 
「さては、わが一言に感伏して仲直りしたのであろう。人が奸雄とみなされれば、いつも虎狼と比べられる。しかし。この場でこの有り様を見れば、この狼達の方が、よっぽど義があり信もある。そんなに憎むべきものでもないようじゃ。」
 
と言いながら、手でうなじを撫でてやれば、狼は尻尾を振り耳を垂れて、大変なついた様子を見せ、しばらくすると、先頭に立って静かに歩み始めた。
 
しばしばこちらを振り返って、道案内をしようとしているかの様子で、為朝もすぐに腑に落ち、二匹の狼に導かれ、道を進むこと十五六町(2km弱)になろうかというところで、どうしたことか、狼どもが、突然、尻尾を巻いて駆け戻って来た。何物かを恐れているかのように見えたので、為朝は用心をして、その方向をキッと見据えてみると、芒(すすき)の茂みの中から一人の男が現れ出た。 

 

 

(つづく)

 

 

 

藐姑射(はこや)の山(*1)
1.中国で、不老不死の仙人が住んでいるとされた想像上の山。姑射山(こやさん)。
2.平安期、上皇の御所を祝って呼んだ。また、そこにいる人、即(すなわ)ち上皇。仙洞(せんとう)御所。仙洞。 
 
織素(しょくそ)の年(*2)
孔雀東南飛(くじゃくなんとうひ)からの引用

孔雀東南飛(くじゃくなんとうひ)
中国,魏・晋時代(220‐420)の作と考えられる楽府(がふ)体詩。郭茂倩(かくもせん)《楽府詩集》巻七十三に〈焦仲卿の妻〉の題で,徐陵《玉台新詠》巻一には〈古詩,焦仲卿の妻の為に作る〉の題で収められる。《孔雀東南飛》とも呼ばれるのは,この句で詩が始まるからである。この詩に付された序によれば,焦仲卿は後漢時代末の,廬江の役所下級役人。その妻の劉氏がしゅうとめに嫌われ本家(おさと)に帰される。本家では劉氏を別の男に再婚させるが,その結婚式の日,劉氏は焦仲卿に操を立てて投身自殺をする。
 
古詩爲焦仲卿妻作【古詩 焦仲卿の妻の為に作る
 
孔雀東南飛孔雀東南に飛び
五里一裴徊【五里に一たび裴徊(はいくゎい)

十三能織素【十三にして能く素(そ)を織り】
十四學裁衣【十四にして衣を 裁(た)つを學び
十五彈箜篌十五にして箜篌(くご)を彈(ひ)
十六誦詩書【十六にして『詩』『書』を誦(しょう)
十七爲君婦【十七にして君が婦(つま)と爲(な)
心中常苦悲【心中常に苦悲す
 
孔雀は東南へ向かって飛ぶが、5里も行けばきまって一度、引き返す
十三歳のとき、絹織物が織れました。十四歳で裁縫、十五歳で箜篌(竪琴)が弾け、十六歳の年には『詩経』『書経』も暗誦したのです。 そして十七歳の時に私はあなたの妻になりました。それからというもの、私の胸に苦しみ悲しみが住み着いたのです。
 
物語の内容
 
尾張権守・季遠(おはりごんのかみ・すゑとほ)(*3)
源 季遠(みなもと の すえとお、生没年不詳)は平安時代後期の武士歌人平忠盛平清盛の郎党。子に、平家の侍大将の大夫判官飯富季貞らがいる。
 
經傳兵書(けいでんへいしょ)(*4)
永遠の真理を説いた中国古典。ふつうに《易》《書》《詩》《礼(らい)》《春秋》をさす。経は〈織の縦糸〉を意味し,織布に縦糸があるように,聖人述作した典籍古今を通じて変わらない天地の大経,不朽の大訓を示すものであるとして,経書と称した。孔子学園では《詩》《書》が教学に用いられて尊ばれたが,これらを経と呼ぶことはなかった。経が権威ある古典として諸他の書物から区別されるのは周・秦の間のことであり,荀子では《礼》《楽》《詩》《書》《春秋》の五つが経として価値づけられている。
 
兵書
兵法あるいは軍学に関する書物中国で漢代以前の書物を整理して,六芸諸子詩賦などの六つ分類されたなかの一つとして,その名称が立てられた(《漢書》芸文志)。そこでは兵書の内容に応じて兵権謀,兵形勢陰陽,兵技巧の4種に分けられているが,権謀は謀慮をめぐらして敵の意表をつくことを主としながら,他の3種をも兼ねた中心的なもので,《孫子》や《呉子》など代表的な兵書はそこに属している。兵書のなかで最も古く,また最もすぐれた内容で大きな影響を与えたものは,《孫子》である。
 
木綿山(ゆうふやま)(*5)
木綿山(ゆふやま)は、現在の大分県由布市湯布院町由布岳(ゆふだけ)です。東峰と西峰2つの峰があり、高さは1584メートル。別名、豊後富士(ぶんごふじ)。
 
万葉集
娘子(をとめ)らが 放(はな)りの髪を   由布(ゆふ)の山 雲なたなびき 家のあたり見む
 
思ひ出(い)づる 時はすべなみ 豊国(とよくに)の 
                          由布山(ゆふやま)雪の 消(け)ぬべく思(おも)ほゆ
 
須藤九郎重季(すどうのくろうしげすえ)(*6) 

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