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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【椿説弓張月 曲亭馬琴】 一ノ参 信西(しんぜい)博覧韓非を好(よみ)す 爲朝(ためとも)禀性(りんせい)射法に達す

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 7月 22日 仏滅  四緑木星

         庚申 日/癸酉 月/甲午 年 月相 21.2 下弦 中潮

         立秋 次候 寒蝉鳴(ひぐらしなく)    

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 26.3℃ 湿度 58%(大阪 6:00時点) 

 

 

 

このときまでも爲義朝臣は 黙然(もくねん)として居給ひたるが 畏(かし)こみて稟(まうす)やう
 
為朝既に十三歳さのみ幼(いとけな)きといふにもあらず もしこの期に及びてその事を果さずは敵陣に臨みて後を見するにも劣れり 彼一人は惜むに足らず 恨(うらむ)らくは源家(げんけ)累代の武名を汚(けが)し候はんか只管(ひたすら)御免(みゆるし)を蒙りて 彼が随意(まにまに)なさしめ候はんと宣へば
 
欺(かか)る上は兎も角もと仰ける程に 爲朝は欣然(きんぜん)として信西に對(むか)ひ 式成(のりしげ) 則員(のりかづ)は無双の弓取りなり これが矢面(やおもて)に立たん事幸(さいはひ)甚し 但しその矢をとり得ずばわが命忽地(たちまち)に終るべし われは性命(いのち)をもて足下(そこ)に許す 我又よくその矢を取得たらんには 何をか給はり候ぞといふ
 
信西含笑(ほほゑみ)て 御身よく矢を取らば 我此首なりとも進らすべし信西は佛門の徒なり 只今御身が射殺さるるとも 死後猶惡くは報ひ候はじと欺(あざむ)くを 
 
爲朝は耳にもかけず 廣庭(ひろには)に走り下り 矢ごろをはかりて立たりける 彼式成 則員は 老功のものなれば この光景(ありさま)を見て思ふやう こは淺まし 院の御所にて 故なく兵器を弄(もてあそぶ)さへあるに 人を射殺させて楽(たのしみ)とし給ふ事武烈(ぶれつ)天皇(*1)の惡(あし)き行ひにも勝(まさ)れり 何とせんと躊躇(ためらふ)を 信西端近く立(たちい)て とくとくと催促す 二人も今は詮術(せんすべ)もなく 豫(かね)て二の矢あるべしと定められたれば 矢二條(ふたすじ)を手挟みて立むかへは
 
君はさらなり 當座(たうざ)の人々手に汗を握り 今の爲朝が命は 日影まつしら露よりもなほ消やすかるべしと思ひ居れりける 
 
斯(かく)て式成弓に矢つがひ 満月のごとく引しぼり 矢聲(やごゑ)をかけて切て發(はな)つを 爲朝雌手(めて)に丁(ちやう)と取る 程もあらせず則員がはなつ矢 胸下近く飛來るを 是をも雄手(ゆんで)に受とめたり 
 
こは仕損せし朽(くち)をしさよ 縦(たとひ)射ころすまでに至らずとも やはか今度は取られじと 兩人(れうにん)齊(ひと)しく引しぼり しばし透間を窺て 兵(へう)と發つ矢を 一條は袍(ほう)の袖に縫留(ぬひとめ)させ 又一條は取るに間(いとま)なければ 口もて楚(しか)と食留(くひとめ)しか 忽地(たちまち)鏃(やじり)を噛碎(かみくだ)きつ
 
その疾(とき)こそ陽炎(かげろふ)の登るがごとく 雷電(いなづま)の閃(ひらめ)くに似て 人間技とも覺ねば これを見るもの醉(えへ)るがごとく 嘆賞(たんせう)あまりて聲だに得揚ず
 

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爲朝は取たる矢を 左右へ掻遣捨(かいやりすて) いでその法師首給はらんともいひもあへず 御階の上に跳上り 信西に掴み懸らんとするを 父の爲義押隔て 直(ただち)に撲地(はた)と衝落(つきおと)し 武士の家に生れたる身の 偶(たまたま)矢前(やさき)を避得たりとも敢(あえて)珍しとするに足らず 然るに其の身をも顧ず 鄙陋(ひろう)(*2)の擧動(ふるまひ)こは禮(いや)なし こは浸(そぞめ)なりといひ懲し給ふにぞ
 
頼長公臠(みそな)はして やよ爲義甚(いたく)叱りそ 信西も又心に留むべきにあらず 昔二人の童ありて 日の出没(いでいり)につきて その遠近を爭ひしに 孔子(くし)もこれを辯じ難かりしとぞ(*3) 今通憲入道が爲朝を伏し得ざるも是に同じ 今は是までなり 各々退出候へと 木に就ず草にも付ず 彼是(かれこれ)寛(なだめ)給ひけり
 
新院は日來(ひごろ)思し召たつ事ありて 左府頼長と潜(ひそか)に相語給ひしが 御簾(ぎょれん)の間(ひま)より爲朝が光景(ありさま)を御覧じて 彼は物の用にも立可き者なり と思し召ければ 御感(ぎょかん)斜ならずして 深くたたへ給ひし程に
 
爲義も思はざる面目をほどこし 父子うちつれて退き出ぬ
 
此時より爲朝の名は 世に高く聞えける 然れば信西は爲義親子をいたく恨み しばしば讒言(さかしらごと)して 陥(おとしいれ)んとしたりけるが 終(つい)に保元の兵亂(*4)に及びて 新院わりなくも爲義を召す 爲義己むことを得ずも人の子どもを將て 御身方に参りしに その軍(いくさ)利なうして 新院は讃岐國松山に遷(うつ)され給へり
 
ここに通憲信西は 爲義父子を憎む事深ければにや たえて久しき死刑を申おこなひ 盤若野(はんにゃの)の五三昧(ござんまい)(*5)より 左府頼長の屍を掘出して首を刎(はね)させ 爲義父子以下 新院の御味方に参りたりし武士を搦(からめ)捕せ みなその首を梟(かけ)たりし惡報(あくほう)にやよりけん
 
信西中納言信頼(のぶより)卿と権を争ひしより幾ほどもなく平治の逆亂(*6)起り 寸(すん)の劒首(けんくび)に懸ると云ふ天文を見て都を落 田原の奥なる大道寺(*6)の坑にかくれて 生ながら土中に埋れしを 敵兵探り索(もとめ)て堀出し その首を取りて六條磧原(かはら)(*7)に梟(かけ)てけり宣(むべ)なるかな信西は 己を博士ぶりて人を拒(こはみ) 罰を重くして衆衆の恨を顧みざりし 因果覿面(まのあたり)見ることよと 此頃の人みないひ罵(ののし)りけるとぞ

 

 

【訳】

 

今まで為義朝臣は、じっと成り行きを見守っていたが、

 

「為朝も既に13歳。小さな子供というわけでもないにもかかわらず、この期に及んで自分が言った言葉を実行しないということは、敵陣に挑みかかっておきながら、背中を見せて逃げ出すことにも劣ることとなります。あヤツ一人が死んだところで当家は安泰。残念なことは、源家の先祖代々から受け継いで来ている武名を、こヤツめが涜(けが)してしまうことであります。ここは、お許しいただいて、あヤツの自由にさせていだたきたくお願い致します。」

 

と、慎んで言えば、

 

「こうなってしまったからには是非に!」と、為朝は、嬉々として信西に向かい、

 

「式成(のりしげ)、則員(のりかづ)は無双の弓使いじゃ。彼らの矢面(やおもて)に立てる事は無上の喜び。矢を取り損ねれば、我が生命はお陀仏。わが命をもって、あなたへの無礼のお許しを乞う。しかしながら、放たれた矢を、我が取ることが出来たならば、何かを頂戴したいと思いまする。」

 

と、言う。

 

信西、微笑みて

 

「お前が矢を取ることが出来たならば、我が首なり、なんなりともくれてやるわい。信西は仏門に帰依する者である。この場でお前が射(い)殺されても、死んでから我を呪うことなんぞ出来やしないぞ」

 

と吐き捨てたが、

 

為朝は耳にもかけず、庭に駆け下り、間合いを測って向かい合った。この式成(のりしげ)・則員(のりかづ)は、老練な者であったので、この有り様を見ていて思うには、

 

「何と嘆かわしい!院が住まわれる御所で、理由なく弓矢をもてあそぶことさえどうかと思うのに、この御所内で、人を射殺せることをけしかけなさるとは。武烈(ぶれつ)天皇(*1)の異常な行為をも超えている。どうしたものか。」

 

と、ためらっていたが、信西が身をのり出して、さぁ早く早くと、けしかける。2人も今となってはどうしようもなく、いつものように2本の矢を手に持って、為朝に立ち向かった。

 

新院はもとより、周りの人々は手に汗を握り、今や為朝の命の灯火(ともしび)は日影の白露よりも儚く消え去るのであろうと思いながら、固唾をのんで見守っていた。

 

ややあって、式成(のりしげ)が矢を弓に合わせて、まるで満月のように引きしぼり、矢声を上げながら放つと、為朝は右手でその矢をヒュッとつかみ取った。間も開かずに則員(のりしげ)が放った矢が胸元めがけて飛んで来たが、これも左手でつかみ取った。

 

こうなると、し損なった悔しさが前面に出てきて、たとえ射殺すことは出来なくても、まさか今度もつかみ取られることはないだろうと、両人同時に弓を引いて、しばしの間スキをうかがい、ヤァッと放った矢を、為朝、1本は袍(ほう)の袖で縫い止めさせて、もう1本はつかみ取る余裕が無かったので、口でガチッと食い止め、たちまちの内に矢じりを噛み砕いた。

 

その姿は、後光に陽炎が立ち昇り、稲妻が走り抜けるかのようで、人間技とはとても思えず、その場にいた者は、この光景に酔えるがごとく、感嘆を通り越して唖然としていた。

 

為朝はつかみ取った矢を左右へ折り捨てて、

 

「ささぁ、その首ちょうだい致す」

 

と、言い終わらない内に御階(みはし)の上に跳び上がり、信西につかみ掛かろうとしたのを、父の為義が押しとどめて、ヤアッと突き落とし、

 

「武士の家に生まれた身で、たまたま矢前(やさき)を避けることが出来たとしても、そんなことは当たり前のこと。だのにその身分もわきまえず、賎(いや)しい振る舞いは礼儀に反する。見苦しいワ。」

 

と、言いながら懲らしめた。

 

頼長公はこの有り様を御覧になって、

 

「マァ、為義よ、そんなに叱るではない。信西も禍根を残すではないぞよ。昔二人の童が朝日と夕日の遠近を論争していて、これを聞いた孔子も結論を出せずにいたという。(*3) 今、通憲入道が為朝を納得させることが出来なかったこともこれに同じ。 ささぁ、ここまでじゃ。各々方、お帰り願おう」

 

と、両者の間に立って、2人をなだめた。

 

新院は日頃思うところがあって、左府頼長と密かに語り合っていたが、御簾(みす)の透き間より為朝の有り様を御覧になって、彼はいずれ私の役に立つ者であると感じられたので、気分を悪くすることもなく、かえって大変誉めたたえたほどであった。

 
為義も予想外に誉れを得て面目を保って、父子一緒に退出した。
 
 
この騒動により、為朝の名は世にひろく広がった。しかしながら、この出来事以降、信西は為義親子を深く憎み、しばしば謀(はかりごと)を用いて、為義を失脚させようと仕向けられることとなり、ついには保元の乱(*4)が引き起こされてしまい、新院が為義を召しかかえ、為義は、どうすることも出来ずに子供たちを連れて味方に参上した。この戦いで新院は敗れ去り、讃岐松山に流されてしまった。
 
ここで、通憲信西は為義父子への積年の憎しみを晴らそうと、長い間行われていなかった死刑を復活させた。そして、盤若野(はんにゃの)の五三昧(*5)から左府頼長の死体を掘り出して首をはねさせ 為義父子以下 新院の味方についた武士をからめ捕り、皆その首をはねて、さらし首とした。
 
この残虐な処断の報いなのであろうか、信西中納言信頼(のぶより)卿と、権力をを争い始めてからほどなくして、平治の乱(*6)が起こり、その最中、近いうちに自分の首が落とされるとの予言を星占いから得て、信西、慌てて都を落ち、田原の奥にある大道寺(*6)の穴に隠れ、その上から土をかけて、さながら生きながら土の中に埋もれ隠れていた。これを敵兵が探り出して、堀り出し、その首を落として六条河原(*7)にさらし首にされたという。
 
当然の報いを信西は受けたことよ。己の頭脳明晰を鼻にかけ、他人の意見を遠ざけ、厳罰を実施し、世間にわだかまる憎しみを無視し続けた。正に因果応報、ざまあみろと。当時の人々は皆こう言って罵り合ったという。
 
 
 
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人物かどうかについては議論がある。

日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。

  • 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
  • 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
  • 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
  • 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
  • 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
  • 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

なお、これら天皇による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。

武烈天皇 - Wikipedia

 
鄙陋(ひろう)(*2)
品性・言動などがいやしいこと。見識などが浅はかであること。また、そのさま。「―な知見」
 
昔二人の童ありて 日の出没(いでいり)につきて その遠近を爭ひしに 孔子(くし)もこれを辯じ難かりしとぞ(*3)
今昔物語集巻十第九「臣下孔子、道行、値童子問申語」に記述。
孔子が道を行く時、二人の童に会った。二人の童は「日が昇る時と日中では、太陽はどちらが近いか」ということで言い争っていた。二人が孔子に聞くと孔子はどちらにも決定することも出来なかった。二人の童は「孔子ハ悟リ広クシテ不知(シラ)ヌ事不在(アラ)サズトコソ知リ奉ルニ、極メテ悚(オソレ)ニコソ在(アリ)シケレ」と笑った。』
 
この話は宇治拾遺物語第152にも同じ話が掲載されている。
 
保元の兵亂(*4)
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年(1156年7月皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変である。
 
盤若野の五三昧(*5)
五三昧所は、『日本国語大辞典 第5巻』のp726「五三昧所」によると、畿内にあった5か所の火葬場のことで、「山城(京都)の鳥辺野、船岡山、大和(奈良)の般若野(はんにゃの)その他があるが、時代によって違いがある」とされる。残りの2ヶ所を記した資料はみつからなかったが、京都の五三昧所についての記述は、『京羽二重』(『新修京都叢書第2巻』に収録)のp52に記載されている。その記述によると、あみだが峯、舟岡山、鳥部山、西院(さい)、竹田(中山)の5ヶ所とされる。また、『日次紀事』(『新修京都叢書第4巻』に収録)のp444「洛外五三昧場」には、船岡山、中山、鳥戸山、最勝河原珍皇寺の名前がみられる。
なお、京都の五三昧所については、土居浩著「「京師五三昧」再考」(『桃山歴史・地理』第34号p31~47)、勝田至著「「京師五三昧」考」(『日本史研究』第409号p42~65)に記載されている。ともに、鳥辺野、最勝河原(三条河原)、四塚、中山、千本(蓮台野)を京都の五三昧所としている。
 
平治の逆亂(*6)
平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。
 
保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、荘園整理令を主たる内容としていた。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていた。この荘園整理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・公領天皇の統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制の成立への大きな契機となった新制と評価されている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。
 
信西は改革実現のために、記録所を設置する。長官である上卿には大納言三条公教が就任、実務を担当する弁官からは右中弁藤原惟方左少弁・源雅頼、右少弁藤原俊憲信西の嫡子)が起用され、その下で21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたった(後白河が「暗主」であるという信西の言葉は、この記録所の寄人だった清原頼業九条兼実に後年語ったものである)。さらに内裏の復興にも着手して、保元2年(1157年)10月に再建した。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、紀二位(後白河の乳母)を母とする成憲脩憲はそれぞれ遠江・美濃の受領となった。信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその預所になるなど経済基盤の確保にも余念がなかった。
 
国政改革推進のため、信西平清盛を厚遇する。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の現れといえる。大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。信西は、自らの子・成憲と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。
 
しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在した。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図るグループ(二条親政派)である。美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門院の要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日、「仏と仏との評定」(『兵範記』)すなわち信西と美福門院の協議により後白河天皇守仁親王に譲位した(二条天皇)。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。
 
そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵陸奥知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。久寿2年(1155年)8月に源義平(義朝の長男)が叔父の義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。保元3年(1158年)8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・基実の婚姻も実現させる。摂関家保元の乱によって忠実知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。後白河の近臣としては他にも、藤原成親藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた[3]
 
ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成されることになった。『平治物語』では信頼が近衛大将を希望して、信西が断ったために確執が生まれたとする。しかし『愚管抄』にはその話は見えず、大将に任じられるのは院近臣の身分では常識的に無理なことから事実かどうかは疑わしい。信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。一方、清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあった。平治元年(1159年)12月、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。
 
12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。警備にあたっていた大江家仲・平康忠、一般官人や女房などが犠牲となるが、信西一門はすでに逃亡していた。信頼らは後白河と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移して軟禁状態にした(ただし、『愚管抄』には後白河は「すゑまいらせて」とあり、信頼は一本御書所に後白河を擁したとも解される記述をしている)。後白河を乗せる車は源師仲が用意し、源重成源光基源季実が護送した。源光基は美福門院の家人・源光保の甥であり、京都の治安を預かる検非違使別当藤原惟方であることから、クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が逮捕され、22日に全員の配流が決定した。山城国田原に逃れた信西は源光保の追撃を振り切れず、郎等の藤原師光(西光)らに命じて自らを地中に埋めさせて自害した。光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。
 
大道寺(*7)
六條磧原(かはら)(*8)
六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川河原に存在した刑場古戦場六条河原の戦い)。現在の五条通五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り。

古くから時の権力者に反抗した政治犯たちが数多く処刑されている。保元の乱における源為義平忠正平治の乱における源義平藤原信頼治承・寿永の乱源平合戦)では平能宗藤原忠清本能寺の変における斎藤利三関ヶ原の戦いにおける石田三成小西行長安国寺恵瓊大坂の役における長宗我部盛親豊臣国松らをはじめとする豊臣方の残党など、著名な武将や政治家がここで最期を迎えている。処刑後、彼らの首級は全て三条大橋のたもとに晒されている。 なお、平宗盛平清宗親子は近江国で処刑された後、六条河原にて首を晒されている。

なお、六条河原の刑場にて祀られていたと伝えられる「駒止地蔵(首斬地蔵)」が、現在、当地の付近にある蓮光寺で祀られている。この寺の墓地には、六条河原で処刑された長宗我部盛親の墓がある。

六条河原 - Wikipedia

蓮光寺