まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【岡本かの子 仏教人生読本】 人格完成

【今日のこよみ】 旧暦2014年 5月 14日 赤口  四緑木星

         癸丑 日/辛未 月/甲午 年 月相 13.3 中潮

                             芒種 次候 腐草為蛍(かれたるくさほたるとなる)    入梅

 

 【今日の気象】 天気 曇り 気温 21.7℃ 湿度 78%(大阪 5:00時点) 

 

 

私たちは誰でも、人格完成の種子たねを、生れながらに持っている(一切衆生ことごとく仏性ぶっしょうあり〔涅槃経ねはんぎょう〕)と仏教は説くのであります。人格完成と言っても、ただの人格完成の程度でなく、あらゆる美徳、技能、智識を備えた円満無欠の人格者になる種子であります。それは賢人、愚人、善人、悪人、男性、女性、大人、子供の差別なく、みな平常に持っている種子であります。これを持っていることを信じたものは朗らかな安心生活が送れ、この種子を育て上げたものが真の成功者であります。

 

何故ならば、その成功者はどんな幸福にも増した幸福を、永久に享ける資格が持てるのですから。


ところが私たちには、一方、生れながら愚かしさや、迷いごころがあって、この人格完成の種子のあるのを判らないように邪魔しております。たとえ教えられて、持っているはずとは知っても、さて、その育て方の方針がつかないのであります。


天地の広大無辺な存在は、私たちをもその中に引くるめた、一つの大きな生命体であります。この中を縦横に貫いて、すでに立派に完成されている光明体が流れております。その光明体は、常に私たちはじめ天地の間にひそんでいる仏性(人格完成)の種子に呼びかけ、その眠りを覚し、芽を吹かし、自分同様な立派なものにしようと働きかけ、合図をしつづけております。


私たちの中なる仏性の種子も、それを感じてしきりにその光を浴びたがっています。その様子を、日蓮聖人は籠の中の鳥が、空飛ぶ鳥の鳴声を聞いて呼び交わそうとしている趣に譬え、禅家の方では卵の中で、いまかえったばかりの小雛が外へ向って呼ぶ声と、外の母鶏が卵の中からその小雛を連れ出そうと殻をつつく母鶏の嘴とが、呼吸の合っている(碧巌録〔禅書〕の中にある文句「※(「口+卒」、第3水準1-15-7)そったく同時底の機」)のに譬えております。

 

私たちの内にある人格完成の電球と、外にあって私たちの人格を完成させようとする電気の導線とは実はとっくの昔から設備が出来ておるのであります。天地が始まって以来、設備が出来ておるのであります。それは自然の設備であります。この設備が、はじめからなかったら、いくら偉い宗教家でも、救いだの、恵みだのという仕事は絶対に出来ません。仏教の諸先輩たちは、この設備を発見したので、非常な確信を持ち、そこにスイッチを取りつけました。これが仏教における「信仰の仕方」であります。信仰の仕方はスイッチでありますから、これによって救いの電流を通じさせれば、苦もなく私たちの内なる人格完成の電球に灯が点ります。


そこで私たちに、希望のぞみ歓喜よろこびの光が照り出します。

 

 

 

【雑感】

 

素晴らしい文章に出会えた。ここに日本人の真髄が脈々と流れている。

 

友人があっという間に「品」を失ったことがあり、あれはなんだったんだろう?と、ずっと考えていた。

友人とは、ほとんど音信不通のような半年がつづき、さすがにまわりも心配しはじめ、とくに仲のよかった数名で、友人のマンションをたずねることにした。

ドアから顔を出した友人に、だれもが言葉を失った。

半年前とは別人だ。

べつに化粧がケバくなったわけでもない、激太りしたわけでもない、服装も髪形も、とくに以前と変わったわけではない。でも決定的になにかが違う。

たたずまい、ことば、ふとしたはずみに見せる表情、しぐさ、そのはしばしが、いちいち全部、ちがう。

半年であっという間に変わり果てた、その変化が、私たちは言葉にならず無言のままだった。でも、帰途で、だれからともなく、

「品が無くなった‥‥」

ポロリ、もれた。

 

わたしもまさに!そう思っていたので、反射的にみなが深くうなずいた。


「品」という言葉、当時20代の女の子たちが、しかも私たち庶民が、
ともだちに対して、めったに言わない言葉だ。

お見合いで、おばさまが、嫁にくる人の品定めをするのなら別だけど。

でもその変わりようは、「品」という以外、これ以上ぴったりした言葉はない!とだれもが感じていた。

友人はなぜ、あっという間に品を失ったのか?

あの日私たちが歴然とつきつけられた人の品とは何なのか?

月日は流れて今年、私の文章講座にきれいな女性が一人やってきた。

たたずまいが美しい。

文章、ふるまい、表情、そのはしばしにまで美意識がゆきわたっている気がした。

気高くさえあった。

ど田舎の庶民として生まれ育った私は、「おじょうさま」に永遠のあこがれがある。

「全身から光輝くような気品がこぼれるこの女性は、 きっと裕福な家に生まれ、 小さいころから、クラシックの生演奏とか、絵画とか、いいものにたくさん触れて、品格を育てられてきたのだろうなあ」


と想像した。

ところが、この女性が、実は、たいへんな苦労をして育った人なのだとわかった。

貧乏は、自己表現の機会を奪う。

自分らしい服装をするにも、自分らしくいられる場に出かけ、無邪気に遊ぶにも、趣味を愉しむにもお金が要る。

貧乏は、そうした機会をすべて奪い去るばかりか、良い子でいなければいけない。こどもでいさせてくれない。大人のようにふるまわねばならない。家族を支えなければならない、というふうに、早期に自立を強制し、
自分らしからぬ役割を押しつけ、演じさせる。


その状態を彼女は、

「わたしはどこにもいなかった。」

「よいおねえちゃんという誰か別人の生活だった。」

とふりかえっていう。

私は信じがたかった。この女性が、一点の苦労の後も滲ませず、いまここに輝くような品をこぼれさせ、近寄りがたくさえあるのはなぜなのか?

不遇時代を支えたもの、それはただひとつこれだった。

「私を生きたい。」

自分で考え、自分の手で選んだ、自分の人生を歩みたい。この意志だけは、どんな苦境も決して奪えなかった。

彼女はすべてを、進路を切り拓くための勉強に注ぎこみ、進学、そして仕事と、自分の手で道を切り拓き、自由を得た。

「いま不遇でも、いつか自分を生きる!この意志だけは手放さない。」

彼女の決意にふれたとき、反射的に、たった半年であっという間に品を失った友人のことが蘇った。

「友人は、自分を生きることから降りた。」

ふいにこの言葉がうかび、十何年来の謎が解けた気がした。

世間で言われるマナーが良いなどの「品」の定義とは、ずいぶん違う解釈だとわかっている。でも私にとって、あのときの友人のすさみようを、
これ以上に腑に落ちる言葉で説明してくれるものはない。

「友人は、自分を生きることを諦め、自分の人生から降りた。諦めたとたん、あっという間にすさんだ。」

友人は水商売に手を染めていた。

水商売が天職のようにぴたりとする人、その場でこそ、生き生きと輝く人ももちろんいる。

けれども、友人は自分の人生を降りるために水商売を利用した。

それくらい、彼女にはにつかわしくない仕事だった。につかわしくないとだれもがわかっていた。

人の「品」は、自分を生きることを諦めないところから来るように思う。

みんながいつも自分らしくあれるわけではない。不遇のなか役割を演じ、
自分を偽って生き延びねばならない時期もある。

それでも、いつか自分を生きてやる!

という意志を手放さない人には品がある。高貴で綺麗な顔をしている。

逆に言えば、手放したとたん、あっという間に人は、すさむ。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

先週の「人の品」には、思いもかけず、とてもたくさんの反響をいただいた。

まず、この1通をお読みください。


<降りる降りないは紙一重>

「人の品」、読んで浮かんだのは、大学生の頃の自分でした。

当時、どうしてもお金が必要だった。家賃、生活費、毎月のローン・・・・ローンは、田舎から一人出てきて、母親からの自由と自立を得た代償。親には絶対頼りたくなかった。


家賃は同棲していた彼と半分。それが理由で彼と別れられない生活が嫌だった。

自分の力で「合法的に」最大限お金を効率的に稼ぐにはどうすれば良いか。ただ、それだけを考えた。

でも、飲食店でのバイトは続かない。じゃあ、塾の講師と思ってしたけど、続けたいとも思えず終了。才能があるわけでもない。特技があるわけでもない。資格を持っているわけでもない。

私には何もなかった。

たかだか二十歳をすぎた小娘の私にあったのは「ワタシ」だけ。だから私は「カラダ」で稼ごうと思った。(水商売とか風俗とか、ということです)

別に「カラダ」を使って働きたいわけではなかったけど、街を歩けばスカウトが声をかけてくる。自分にできるのはそれくらいなのか?自分のカラダで稼いで何が悪い?私の「カラダ」で、「自分で」稼いだお金なの。
誰に何も言われる筋合いはない。法に触れることをするわけでもない。
世の中に商売として成立しているんだから。受容と供給の関係でしょ? って思っていた。

どれだけの男が自分の上を通り過ぎようと、別になんとも思わない。
どんなに体を受け渡そうと、私の心は絶対に渡さない。私の魂は絶対に汚れないし、誰も私を穢すことはできない。

あれは自分に言い聞かせたかっただけなのかもしれない。何があっても「私はわたしのまま」と。

私はすねていたところがあって。寂しいくせに寂しいといえず、人と深く交わりたいのに、そうできず。自分が本当に欲しいものが何かさえも気付いていなかった。

なんであんなに自分をあえて傷つけるようなことをしようとしたのかなと思う。

誰かが私のことを責めたわけでもないのに、心のどこかで世間に噛み付いていた。


「私の何がわかるわけ? 何もわからないのに、カラダで稼いだだけで勝手に決め付けないで。」


顔、カラダ、そんなもので判断して欲しくなかった。

私は「わたし」を見て欲しかった。「わたし」の中身を。そして、受け入れて欲しかった。良いところも悪いところも全部ひっくるめての私という人間を受け入れて欲しかったんだと。

私は自分の人生をかけて、自分をためそうとした気がします。

何があっても私は「わたし」でいられるのか。何があっても、「わたし」は受け入れられるのか。

ズーニーさんのお友達が自分に似つかわしくない水商売に手を出した気持ちもわからなくはない。もうどうでも良いやって何度も思ったことがあるから。今でも嫌になることはたくさんある。

その一方で、ズーニーさんの講座の受講生の気持ちも分かる。私は自分の置かれた環境で自分の人生を決められるのが嫌だった。

「自分の人生は自分で決める、自分で創る」

だから、もがいた。私が自分の人生に執着したのは、そこが崩れたら自分が本当になくなりそうだと思ったからです。

どうでも良いって気持ちと、自分の人生手放したくないという気持ち、
どっちも行き来しながら、ギリギリのところでしがみついてきたのが
私なんだろうと思います。

そう考えると、自分の人生を降りる、降りないっていうのは、紙一重なんじゃないかな。

私は「カラダ」で稼ぐことはしなくて済みました。

「このバイトがダメだったらしょうがない」と思って受けて、受かったからです。

バイト先での説明が終わった後に、私は一人、質問したそうです。
バイトの内容は「営業」だったので、女子が質問してきたことに「この子は根性があるな」と思って、採用してくれたそうです。もし質問していなかったら、採用はなかったそうです。

何を質問したかなんて一切覚えていないけど、全体の説明会だけで個人面接も何もなかったから、何か印象に残しておきたくて質問しに行ったのだろうと思います。

何せ私は「崖っぷち」だったわけですから。

(メイ)


「降りるも降りないも紙一重」というところに深く共鳴した。

私自身、こうして書きつづけていられるのは、強い人間だからではなく、「偶然の一通」に支えられている。

40歳近くなって書く生活にはいり、あまりの孤独さと、なにより自分の能力のはかなさに最初の3年がくるまでは、いつまでつづくか?
もうここでとうとうつづかないか?という危機が何度か訪れた。

でも不思議なもので、もうだめだ。いよいよ自分の力の最後の一滴がなくなるというときに、決まって1通、読者から、腹にしみわたるメールがきた。

とくに私を励まそうとかそういうメールでなく、私の書いたものが面白かった、役立ったと、ただしみじみと実感をもって綴られていた。

たった1通に、ときにはつっぷしてパソコンの前で何分も泣いた。

ひとしきり泣いた後、私は、奮い立つもなにも、もう次の原稿を書くべくパソコンに向かっていた。

そうして最初の3年間は、どうしようもなくなったときになぜか必ず届く
「偶然の1通」に支えられて、首の皮一枚つながってきた実感がある。

人の品をわけるものも、実は、そうしたわずかな差の集積かもしれない。

読者のおたよりを見てみよう。


<よく品があると言われます>

よく、「品がある」と言われます。自分に品がある、とは思ってもみなくて、初めて言われた高校の時にはとても驚きました。

しかし、そこそこ貧乏な家で生まれ育ちました。もしかすると、他の人達よりも諦めなくてはいけないことがたくさんあったのかもしれません。

少ない選択肢の中から、自分にとっても親にとっても最良の道を選んで来ました。

貧乏だったことは恥ずかしくありません。進学させてくれた両親が誇りです。

(みけん41)


<母は食卓にお金を置いた>

3年前、77歳で逝った母、「人の品」を読み浮かんだのは、その母の顔だ。

母は貧しい農家に生まれ、農家の長男に嫁ぎ封建的な田舎で、膠原病という病を抱えながらも、土にまみれ苦労の一生を終えた。

とても仲の良かった父を53歳の時突然心筋梗塞で亡くし、その後姑を看取りやれやれと思っていたころには、自分の体がどうにもならなくなっていたと少しさみしそうに話していた。

不登校の息子に限りなくお金を注ぎ込む同居の兄夫婦に有り金をとられ、すっからかんになりその挙句何の面倒も見てもらえず、それでも自分で何とか動けるうちは迷惑はかけまいと1人で頑張っていた。

けれども、いよいよ体が動かなくなると母は覚悟を決め、長年住み慣れた兄夫婦のもとから次女である私の家に越してきた。

 

そしてその1年後に逝った。

母は覚悟を決めていたのだと思う。そこに品があった。命の終え方を教えてくれた。


私はもちろん、夫、そして高校生だった私の2人の娘にも。

ある時、自分の食べるお米を買う手配をしたから、実家に連れて行ってくれというので連れて行った。ちょうど兄夫婦はおらず、母は1万円を封筒に入れ食卓の上に置いた。私はそれを見て


「有り金全部巻き上げられたのだから、お金なんておいて行かなくてもいいじゃない」


と言った。

母は「それとこれとは話が別だ。」と言った。

亡くなる半年ほど前の七夕に短冊を渡したら、「皆さんの愛、ありがとう」と書いた。それはどうしても捨てられず、毎年七夕になると我が家の笹に飾られている。

そんな母の死に顔は高貴で綺麗だった。

(空が好き)


<夫にはなんか品がある>

「自分を生きることをあきらめない人は品がある」、すごく共感しました。

夫のことを思いました。夫とは、大学で出会ったのですが、夫は、親からの仕送り0で、夜は居酒屋や家庭教師で生活費を稼ぎ、昼は授業にでて頑張っていました。また、柔道部でもあり、汗を流していました。

国立大ということもあり、授業料免除、入学料免除でした。いつも、洋服は同じものを着てばかりでしたが、なんか、品がある真紅の色が似あうひとでした。

縁があり、同じ研究室となり、いつも二人で卒論を書きあげ、切磋琢磨しました。そして、月日が流れ、就職し、結婚しました。

夫は、口蓋列の障害で歯のかみ合わせが悪く、結婚後も時折歯医者へ行き、保険がきかない高額な治療費を払いました。また、就職後は、両親へ仕送りせねばならず、そのため、貧しい新婚生活でした。

しかし、夫をみてるとなぜか、品がある色の洋服が似合うので、よいものを一点だけたまに買いました。

私が夫の服を選ぶ第一条件が品です。

「人の品」を読んで、そうだ夫は、かなり苦労したけれど、自分を生きることをあきらめなかったから、品がある服が似合うんだと再確認しました。


そう思うとただ涙がでました。こんな素敵な人に出会えてよかったと思いました。

今、夫は、特別支援学校の教師をしています。体の弱い子供たちと日々、生活し、勉強を教えています。品のある夫のそばで私も「自分を生きて品あるようになりたい」と思います。


福島県 ブーちゃん)


<人の見ていないところで>

私は母を思いました。


私の実家は自営業をしており、比較的裕福で近所の人たちから羨ましがられていました。誰の目からみても幸せな一家であったと思います。

しかし、実情はたくさんの嫌なことがあり、その中で私の母は大変な苦労をしていました。嫁を人と思わない姑、嫉妬心の強い夫、お金の無心をしてくる親戚たち。

親の反対を押し切って結婚をした為、実家にも頼ることができなかった母は毎日泣いていました。

でも、私の母は輝いていました。

母が私の学校の授業参観などにくると級友たちから歓声が上がりました。母のファンクラブができるほど人気者でした。毎日のように泣いていて、
心身がボロボロで子供を守り育てるのに必死になっているのに、まるで幸せの象徴のように思われていたのだから、不思議です。

「誰からも幸せに見られたい」

これは母の口癖でした。あの時の母の神々しいまでの輝きは、この気負いだったのだと思います。

「品がある人」というと、恵まれた環境で育った、少し浮世離れした
雲の上の人のような印象があります。

でも実は本当に品のある人というのは、人の見ていないところでたくさんの涙を流して、それを無駄にせずに、自分の輝きに変えていった人のことをいうのだと思います。


(史乃)


紙一枚の選択の差。

貧乏で諦めねばならないことが多く、そうとうに限られた選択肢のなにを選ぶかというときに。

人のいない家で、食卓に封筒に入れた1万円札を置いたときに。

同じ洋服ばかり来ていても、大学も部活もやろうとしたときに。

人に不幸を見せたくないという美意識に従ったときに。

ささやかな選択の瞬間、その集積が、「自分を生きる」になっていくのではないだろうか。

最後にこのおたよりを紹介して今日はおわりたい。


<小さな前傾姿勢>

あまりのことに抱えきれず、人に弱音を吐きました。吐き出してほっとしたら、次の瞬間に、砂に足をとられるように自分が弱くなっていくのです。

あぁ間違いだったのだと思いました。


自分の中にとどめておくべきだったと考えると、ますます足が立たなくなりました。

「なけなしを差し出す」と「人の品」を読みました。閉まりかけた心に、すっと風が入り、大きな息ができました。じんわりと足に力が入ってきました。

今まさに自分を乗っ取ろうとしている、弱さの存在に気づきました。


間違っていたのは人に伝えたことではなく、弱さに自分を明け渡そうとしていたことだと分かりました。

あっという間に足を取られ、あっという間に両手まで取られそうになっていました。

その怖さは知っていたし、そうならないよう重々注意してきたはずでしたが、弱さはこの絶好の機会を見逃さず、「こっちにおいでよ」「一緒に嘆こうよ」と私に囁き、隙を突いてすり寄ってきました。

強さとは、品とは、美しさとは、コラムにあった彼女の様に自分の弱さに立ち向かっていくことなのだと思います。

彼女の小さな前傾姿勢が目に浮かびます。とても勇気をもらいました。
(Sarah)

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

自分の人生を降りてしまう人と降りない人の差は、紙一枚のわずかではないか?

私が書き始めて3年経つまでは、やめようとは一度も思わなかったけれど、力の最後の一滴がつき、もう続けられないのではと思ったことは
何度かある。

不思議なことに、そんなときどうしてか、必ず1通、読者から腹にしみわたるメールが届いた。

1通に支えられて私はここにいる。

そう書いた先週のコラムに、こんなおたよりをいただいた。


<砂金すくい>

「人生を降りるも降りないも紙一重」

ズーニーさんは、必ず届く「偶然の一通」によって踏みとどまれたと仰っていましたね。それを読んだ時、ふと頭浮かんだのは、“砂金すくい”でした。

砂金の出そうな川に目星をつけ、砂を掘り起こして、流水で洗いながら砂金を選別する。

熟練者でも1日がかりで得られる金の量はわずかで、割に合わないことが多いと聞きます。

自分を生きることと、砂金すくいは似ている。

どろどろな砂の中から微量に含まれる金をすくい取る涙ぐましさとか、
諦めかけた時に偶然見つけたかったものがあらわれることとか。

なぜ、諦めかけた時に偶然が必ず起こるのか。

仮説ですが、無意識に偶然が起こりそうな所を探しに行くのかなと思います。

ズーニーさんは、「偶然の一通」の不思議について考えたことはありますか?

(ひとみ)



<四角い空>

先週の“紙一重”のメール、とても共感できました。

過去にどうしようもない男性とばかりつきあったので隣で眠る男の寝顔を見ながら「このまま首を絞めて殺してやりたい」と衝動的に思ったことが何度もあります。

ギリギリの所で踏みとどまれたので今、私はここにいます。

子供の頃、すぐ近くに刑務所がありました。

住宅街の傍の刑務所なので塀の周りは犬の散歩や子供の遊び場やジョギングコースにもなっています。

塀の中からはスポーツ大会の様な歓声が年に数回聞こえるくらいでいつもとても静かでした。

軽い刑の人ばかりなのか草むしりなどで塀から出て来られる日もあるようで近所で受刑者と顔を合わせたことがありました。塀にボールをあてて一人遊ぶ私を優しい顔で見て転がったボールを返してくれていたのを今でもしっかり覚えています。

あのおじさん達と自分が見ている空は同じでちゃんと繋がっているのに
あの人達には四角い空しか見えないんだと思いました。


犯罪を犯したらきっと偏食が酷かった私は自由を奪われるだけでなく
嫌いなものばかり食べさせられてあの塀から出てこれないのは嫌だなと
子供だった私の胸に刻まれました。

隣に寝ている恋人を殺そうと思った時に、小さい頃のことがふと、思い出されてこんな奴の為に不味いものを食べて四角い空を見るのはごめんだと思いました。そんな気持ちがきっと私を犯罪者にしなかっただけなのかも知れません。

テレビのニュースで殺人事件が報じられた時にもちろん、欲や憎しみだけの悪意の塊の事件もあれば「がんばってきたのに疲れたんだな」と思うような救いようのないこともあります。

例えば家族の介護を献身的にやってきた人がある日疲れて手をかけてしまったとか。

いろんなことで困り果てて一家で心中をしようとしたとか。

献身的に尽くしてきた優しい人が一瞬のことで犯罪者になってしまう。

誰かが助けようとしてくれている声も聞こえず、命を絶つ以外の方法もあるはずなのにそれさえも見失ってしまう“一瞬の隙”は日常にいくらでも潜んでいそうに思います。

善人が悪人に変わる時、大きな波に呑み込まれ犯罪に巻き込まれてしまう時、一生懸命生きてきた人がある日、自分を捨ててしまうことも色々考えると普通のことのように思えます。

だからこそたった一通のメールやたった一冊の本の一行など会ったことのない人に、私も何度も何度も今まで救われてきました。
(れん)


たった半年あわないうちに、同一人物かと疑うほどに品を失った友人。

後日、私はまた、友人のマンションをたずねた。友人のいちばんの親友を伴って。

私ら3人は、ほんとに仲が良くてこうして3人いっしょに部屋にいれば、
いつもは、うるさいほどに、ふざけあい、話しまくった。


けれども、そのときばかりは、言葉がまったく出てこない。

ほんとは、友人が変わり果てた事情を聞きだしたり、しなければならないのはわかっている。

でも、ひと言話すたびに、友人のリアクションが、以前とは別人である。
そのことに肝が冷えて、何も言えない。

日も暮れて、3人で夕ごはんを食べに行くことにした。

お店に行くまでの道で、いくつか細い路地を見かけた。

「友人が、この細い路地に飲み込まれて、 二度と帰ってこないんじゃないか。」

そんな感覚に何度か襲われた。

友人の後ろ姿が、どこかこの世のもので無いようで、恐ろしく哀しかった。

私ら3人は、「いま」話さなきゃならないことは、なにひとつ話せなかった。当然、未来は語れない。

唯一、口をついて出てくるのが昔の話だ。

それも、なぜか、たわいのないことばかり。ばかやって、大笑いしたことばかり思い出されて、そのときばかりは、3人とも声を出して笑った。

読者のひとみさんは、問う。


「諦めかけた時になぜ偶然が必ず起こるのか?」

もちろん、崖っぷちにいる人は、嗅覚が鋭くなるから、というような説明はできる。

腹がいっぱいなら、三軒さきで魚を焼いている匂いさえ気づかないかもしれない。

腹がすいて、もう、食べなければ死ぬほど追いつめられていたなら、1キロ離れたところで、パンを焼く匂いさえ嗅ぎつけるかもしれない。

私も、平穏なときには見過ごしてしまうような、読者のまごころに、崖っぷちだからこそ、敏感になり、気づくことができたのだとも言える。

でも、ここで、1つ問題がある。

そのときメールが1通もこなかったら?

つまり、1キロ先にも、2キロ先にも、いや100キロ先にも、1個も、なんの食べ物もなかったら?

いくらこちらが、追いつめられて、嗅覚が研ぎ澄まされていても、救われようがないのだ。

私にはなぜ偶然の1通があり、友人にはなぜ偶然は起きなかったのか?

私は思う、「そこには理不尽なまでに理由はない」と。

れんさんの言葉を借りれば、土壇場で1通が届くことも、土壇場なのに1通も届かないことも、この世の中には「普通のこと」として、どんどん起きているなと思う。

私が、偶然の1通に支えられてきた3年間も、たとえば、「私がそれまで読者を励まそうとしてきたから、 窮地に励まされるのだ」というような、ついつい理由づけをしたくなる。

それは、つらいときに自分を鼓舞するのにとても都合のいい理由づけだ。

けれど、私と同等どころか、私より優れた書き手が世の中にはごろごろいて、私よりずっと読者の役に立っているのに、窮地で、なんの救いも得られず、闇に向かった人もいる。

災害のようなものだ。

災害が起きれば、それまで、身を削って人の役に立ってきた人が一瞬で
亡くなられることもあり、とんでもない極悪人が生き残ることもある。
極悪人だからといって死ぬこともあり、善人が奇跡的に助かることもあり、そこは、無差別におこりうる。

もちろん、自分を研ぎ澄ましたり、諦めないという強い意志があれば、
自分を降りない可能性は高まるけれど、最後の最後のところで偶然が起きるか、起きないか、そこは無作為だ。

私たちは、それくらい、はかない存在だと思う。

はかないからこそ、自分が、偶然出くわした1通はかけがえなく、自分も、だれかの偶然を起こすかもしれない存在として、日々をちゃんと生きなければ、と思う。

例の友人が、いまどうしているか?

友人は、いま元気にしている。

時間がかかったけれども、まわりの支えもあって、徐々に自分を取り戻し、いまは、自分の家庭もあり元気にしている。

あの日、3人で夕ごはんを食べたとき、何をなしたとか、すごい仕事をしたとか、そんな意義ある話でなく、昔、ただただ、たわいのないバカをやって、ただただ無邪気に笑い転げた時間ばかりが思い出され、私たち3人は、そのときだけは、声をあげて笑った。

もしかすると、その瞬間が、友人にとって、たくさんの砂の中に見つけた金、だったかもしれない。


読者のおたよりをいくつか紹介して今日は終わりたい。


時折、「存在感がある」というコメントをもらいます。

みんながいつも自分らしくあれるわけではない。僕自身にも、不遇、とまで行かなくても、役割を演じなければならなかった時期がありました。

そのとき、その役割に合う姿に「変身」しながらも、変身スーツの内側から、素の自分を滲み出すことに挑戦し続けた。

もし、僕が何かしらの「品」のようなものをまとえているとしたら、変身スーツの中でびっしょりとかいた汗が光になったんだ、と思います。
(ひげおやじ)


ほんとうに言い訳の多い人間です。

昨日、2013年の東京マラソンの抽選結果がきました。マラソンはその人の性格が出るといいます。今度こそ、言い訳をしない走りをします。

好きなものを手放さないそう決めたら、いつかわたしにも品が備わると信じて。
(キムコ)


「どーでもいい」品を無くす魔法の言葉。

「カンケーないし」「べつにー(どうだっていい)」自分じゃなくなるから人の目を気にしなくなる。人の目を気にしないからモラルだって気にしなくていい。

「どーでもいい」は無力感の表れ。何故「どーでもいい」と言ってしまうほどの無力感に囚われるのだろう。
(みろく)


ダメな自分だと思った途端に、自堕落になるように思います。

セルフネグレクト。自己養育放棄。

先週の、留守宅にお金を置いて行ったお母様。

搾取されてると、はたからは見えても、与えていたんでしょうね、お金を。愛を。人生の先輩にはやられっぱなしだ。

今日を、私を、丁寧に生きよう。できれば笑っていよう。
(ひと、それぞれ)


人の品、ズルイことをしない人かなと思いました。

自分だけ、目先の利益というか、ちっちゃな欲に流されず、こう生きよう、こうでありたいと思う自分に、真っ向取り組んでいる人。

また、あしたも元気で職場に行けそうです。
(じむしぃ)


品とは何なのか。人が見ている場所でも、お天道様しかみていない場所でも自分を偽らない人かなと思います。

もし偽っても、落とし前をつける人。言い訳しない人。卑怯な真似はしない人。

皆さんのメールに出てくる品のある方達は、諦めなくてはいけない状況にいるからこそ、どうでもいい余分な物がないから品が生まれたのかなとも思いました。
(りんご)


ズーニーさんが文章講座の女性に「品」を感じたのは、彼女が自分の手で道を切り拓き、今なお謙虚に受け止めておられたから、と推測しています。

ドヤ顔で、すごろくの「上がり」を手に入れたように、自ら喋りまくるようなひとに、品は感じません。


そういう“自分プロデュース臭”が、その女性からは感じられなかったのではないかと思いました。
(あずき)


私は大学を1浪4留しても卒業出来ず、「生きる価値なんてない」と思って、日々、心の片隅に「死にたいという」という想いを持っていましす(た?)。

自分が生きる事を他者の評価に委ねていた。

「品」が「自分自身が発する意志」によって決まるとしたら、気にするべきは「自分自身の生きる意志」であるんだと気づかされました。

今、大学留年時代から働いているコンビニエンスストアの店員から新たな歩みが出来ないかと考えています。
(世)


自分を生きるという言葉を考えてみました。


私にとって、自分の家族が健康で、安心して暮らせる生活基盤を作る為に、いろんな役割を演じています。

自分らしくとか、自分のあるべき姿、自己適性とかは考えない。他人(家族や職場の関係者)に必要な役割を必要場面で演じて、生きる。

自分を生きるとは、自分の芯=信念を持ち、その芯が他人の為にも少し役立つくらいのものであれば良いと思います。
(タカタカ)


先週ご紹介いただいた、メイです。

お友達は自分を手放そうなんて思っていなかったと思う。多分、楽になりたかっただけなんじゃないかな。自分を貫くのにもう疲れちゃっただけ。

圧倒的な力にそのまま流されたほうがラクなときもある。

Sarahさんが最後に書かれていたように弱さが入り込んでくると、そのままなし崩しに流されてしまうと思うのです。

そうして自分で考えることも立つこともできなくなり、自分が消えてしまったのではないかという状況に陥る。

ふと気が付けば、過去の積み重ねてきた自分に顔を合わせることができなくなる。


「今まで積み重ねてきた自分」と対峙できないから、自分を見ることをやめる。自分を見ないから、知らないうちに自分を見失う。

譲っちゃったんですね、弱さに。それが「自分を降りる」ということなのかなと思いました。

でも、降りたらもう二度と這い上がれないかと言うと、そんなことないと思うのです。

誰にでもその「一枚の紙」というのは存在していると思うのです。

形も色も何もかも違うから、気付くかどうかも自分次第。しかもどのタイミングでその一枚を掴むかも人それぞれ。

でもきっとその1枚は、そこにある。人間はそんなに柔な生き物じゃない。
(メイ)

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

その日は、朝から、ひっちゃか、めっちゃか、だった。

くたくたの体をひきずって、やっとのことで部屋に帰り、どっか、と腰を降ろすと、もう、とっぷり日も暮れている。

ふと見ると、机の上に返信用封筒があった。

取引先が、「急いで書類を送り返して」と、ていねいに速達の切手をはって届けてくれていたものだ。

「きょうは、もう疲れてくたくただ、 明日にしよう」と思ったとたん、
心に母の声がした。

「ちゃんとしてあげにゃあ、いけん!」

今年、母と富士山を見に旅したとき、あわてた私は、温泉旅館の部屋のキーを、バッグに入れたまま、帰りの急行列車に乗ってしまった。

旅館に電話すると、さすがにあきれられ、でもスペアキーはあるので、宅急便で送り返してくれればいい、ということになった。

私は「明日にしよう」と決めこんだ。

「まず母」、だったのだ、そのときの私は。

母と旅するのは、もう何年ぶりかわからないくらい久々なのだ。

高齢で心臓病があり、父の介護まである母が、意を決して新幹線に乗り、たった一人で上京してくれたのだ。

あす早朝、母は田舎へ帰ってしまうのだ。

ひと目、スカイツリーも見せたいし、疲れたろうから少し横になって、
母を休ませる必要もある。

「旅館のキーなど後回し」、そんな私の性根を見透かした母は、

「ちゃんとしてあげにゃあ、いけん!」

人さまのことは、きちんとして差し上げないとだめだ!と、キッパリ言った。

母は、「まず、人さま」だ。

人さまの旅館の、大切な鍵を持ち出してしまった、不自由されてるのではないか、心配されているのではないか、人さまにご迷惑をかけたまま、
「旅どころではない」というのが母の性分だ。

正直、母がなぜここまで「人さま」なのか?

世間体を気にしているだけじゃないかと、かつては批判視さえしていた。

しかし今年、母と一緒に旅して、はじめてわかったことがある。

母の根本に、人に対する尊重がある。

母だけではない、故郷の人々の根本に「利他」の心があり、それが、ともすれば都会の人には、「人目を気にする」と誤解される。

でも母たちの心には、ただただ、かけねのない、「人さま」に対する尊重がある。それは、「まず自分」である私も揺らぐほどに。

旅先で母は、ひごろお世話になっているまわりの人々へのお土産をまず、買いそろえた。

父や自分自身の分の土産は、まわりの人の分が買い終わるまで手をだそうとしない。

旅館の人々が、特別な気配りをしてくれたときは、母は気持ちよく「心づけ」を差し出した。

旅の恥はかきすて、という言葉があるが、母にとってはそうではない。旅先で逢う人、逢う人、丁寧に接し、二度とは逢わない人々へ、真心のいきとどいた応対をした。

母の生まれ育った田舎の農家では、お茶一杯飲むにも、葉を摘んで、干して、煎って、ひとつひとつに、人の手間と想いがこもっている。

 

そのようにして成り立ったものを食べ、育った人を尊ぶのは、ごく自然のように思える。


「ちゃんとしてあげにゃあ、いけん!」

いま、私の机にある返信封筒も、速達のハンコを押し、切手を貼った人があり、その人のご都合がある。速達にしたからには、急いでおられるのだろう。

「ええい! 品プロジェクトだ!」

私は疲れた体に鞭打って立ち上がり、投函しに行った。

「品プロジェクト」とは、私が勝手に言ってるだけなのだが、

こんかいの返信封筒の件のように、だれも見ているわけではない、日常のちょっとしたシーンでどうふるまうか?


自分の品性が小さく試されているとき、気合いを入れるための言葉だ。

読者のお母さまが、留守宅のテーブルの上に、お金を封筒に入れて置いていかれたことを想い、私も、品という、あてもはてしもないひとりプロジェクト、日々精進だ。

返信封筒をただのモノと見るか?そこに人の想いを見るか?

他者の想いを見ることができたとき、そのふるまいに自ずと品が宿る。

今年の旅で、母の背中に学んだことだ。

きょうも、読者の素敵なおたよりを紹介して終わりたい。


<他者を>

品のある人は、自らの品を守ることだけでなく、相手の品をも守ることを知っているのではないだろうか。
(うろこ雲)


<進むために>

不確かな未来に向け一歩ずつ進もうと奮闘中だが、周囲の人の協力なしではまったく進めない。人に頼みたくない、できることなら自分でやりたい、という幼稚な自分がいる。

品のある人ならば、背筋をぴんと伸ばし、堂々と協力を仰ぐと思う。

品の無い自分は卑屈になったり、逆に尊大になったりと自己中心的で嫌な奴だ。

本物の品格を身につけたい。
(48歳で動物病院の開業を目指す品のない男)


<助けが必要な父が与えてくれたもの>

つい先ごろ亡くなった父は、晩年、家族に対しても、お世話になっている周りの方たちにも茶目っ気たっぷりに冗談を言っては笑い、周囲の手助けに対しては、心からの感謝の言葉を惜しみませんでした。

次第に身体の自由が利かなくなってきても自分のことは自分でしようとする父の姿は、気高くさえありました。

人の手助けが必要になってからの期間に父が与えてくれたものの大きさ、尊さを、今、私はしみじみと味わっています。

もしかしたら自分に執着し過ぎなかったから、周囲の援助を素直に受け容れ、感謝の気持ちをすんなりと表すことができたのかな、とも思います。
(心)


<品を保つには>

いつの頃からか、「一方的な自分語り」や、「言い訳」、「愚痴」に対して「品がない」と思うようになり、極力しないように気を付けています。

必死になって自分をアピールしても、結局相手には何も伝わらない。自分の失敗も、欠点も、正当化しようとしても、言葉を重ねて改善されるわけではない。

それなら、黙っているほうがよっぽど潔い。

自分に戒めを持ってからは、向こうから求められる時だけ、自分のことを話し、必要だと感じた時にだけ、自分の思いや意見を伝えるようにしています。

しかし、そう心がけてみて初めて気づいたのですが、人間というのは想像した以上に、他人に興味を持っていない。

コミュニケーションの場で、「あなたはどう思う?」と向こうから聞いてくれる人は、意外に少ないものです。聞き役に回っていると、何事もなくおしゃべりの場は過ぎていってしまう。

私としては、せっかくのコミュニケーションの場を、愚痴や自分語りばかりで終わらせるのではなく、もっと建設的で、双方向なものに変えていきたいのですが、なかなか、うまくいきません。

決して悪口を言わない人、弱音を吐かない人も、みんなの中でこんな思いをしているのかも‥‥と思います。

「品」を保つということは、孤独を受け入れることなのかもしれないですね。
(Kajitomo)


<倒れ方も選ぶ>

堕ちるか堕ちないか、という点において過去にひとつ思い当たることがあります。

10年くらい前に仕事と看病のストレスから体を壊し、休職しました。

もう限界だ、そう思ったとき、ふと、スキーの山の斜面が心に浮かびました。

転んだとき、谷側に倒れるとますます滑り落ちる、山側に倒れればそれ以上落ちることはない。

わたしは山側に倒れるんだ、そう思いました。

そうして、しばらく外界からの雑音をシャットアウトしました。そのとき自分を取り巻いていた問題についても考えることをやめました。

お笑い番組を見て、映画のビデオを年間200本観ました。一人がまったく不安になりませんでした。

“品”とは、自分が人として大事にしていること、矜持というより、もっと無意識レベルのイメージなのですが、それを忘れないことではないでしょうか?

つまり、自分で決めた自分のルールを破らないこと。自分で決めたルールですから、破っても人にはわからない、しかし、それを真摯に守り通すこと。
(JUSUTIN)


<手を離したらおわり>

「そこには理不尽なまでに理由はない」と先週のコラムにあり、

私はよくアフリカのサバンナに住む動物達が食い、食われするドキュメンタリーを見ます。そこに、「理不尽な」命のありかたをみることがあります。

アメリカに来た最初の2ヶ月間、私は英語の力が足りなかったので、
英語のクラスを取らなければなりませんでした。

このクラスをクリアしなければ、大学に入ることすらできない。

切羽詰った状況が先生にも見えたのか、授業も終わりに近づくころに
こんなことをおっしゃりました。

「あなた達はこれから、 各々の大学のコースへ移っていくと思います。
英語が母国語でないあなた達にとっては、 大きなチャレンジですね。だから、hang on という言葉を贈ります。洪水に流されて、何とか木の幹にしがみついていると思ってください。手を離したら流されてしまいます。hang on!! あなたが手を離さない限り、 助けがきてくれるでしょう。」

どれだけしがみついても助けが来ないかもしれない。そして力の限界がおとずれ濁流に飲み込まれる。

あまりの恐怖のためにしがみつくことを放棄するかもしれない。

でもびくびくとその時のことを心配して生きるのではなくて、些細なことに注意を払って、しがみつける自分を創っていく。

「どうでもいい」とか「あきらめ」というのは、得たいの知れないものへの恐怖かもしれません。得たいの知れないものを凝視し、恐怖をひとつひとつとりはらって、自分の強みに変えていく。


私にとっては、現在進行形の地道な作業です。

理不尽な命であるからこそ、最後の最後まで助かることを疑わず(放棄せず)に闘う、そんな姿勢を野生の動物達にみています。
(いずみ)


<きらめき>

ダイヤモンドの品をジルコニアが持たないのはなぜか?

それは、圧力に耐えた時間が違うからではないでしょうか。

長い年月、重い圧力に耐えてきたものを、磨いて初めてダイヤモンドの中にもともとの炭素には含まれていない「品」が生まれる。

ズーニーさんが言う品というものは、さざれ石のように何かをすり減らしながらも、長い年月大きな圧力に耐え、それでも潰れないように頑張って守ってきたものの「煌めき」なのだと思います。
(アメ) 

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

人の品というものは、たとえばこんな小さい日常のシーンでも試される。いや、小さいからこそ、あらわになるのかもしれない。


<お菓子屋さんの番号札>

今から二年前、バレーボールの全国大会で東京にやってきました。

大阪地区大会で優勝し、実業団でもないのに会社のお金で東京に行かせてもらったことに私を含む8人は舞い上がりました。

試合が終わって関西へ戻る時、興奮も手伝って、品川駅で迷う人がいたり
切符を落とす人もいたり。かなりバタバタして、何とか無事に新幹線に乗り込み、差し入れにといただいたお金で買ったシュークリームを食べようと思いました。

その時、私のポケットから一枚の番号札が出てきました。

それは混んでいるお店でシュークリームを箱に入れてもらう間に
渡されたものでした。

新幹線はとっくに走り出していたし、その時は番号札を持ち帰ったことも
私自身、皆で笑っていました。

楽しい思い出がたくさん詰まったバレーボール大会でしたが、他人のものを持って帰った後ろめたさが私の中にしっかり残っていました。

それから半年近くが経ち、東京に行った時に私はこの番号札をお店に返しに行きました。

こんな番号札くらいでどうなのかと思ったり、何度も捨てようかと思いもしました。


シュークリームを買ったお店を見つけて事情を話して番号札を出しました。

その瞬間、店員さんは顔を見合わせて「見つかった!!」とばかりに
手を取り合って小さくジャンプされたのが見えました。

きっとそのお店にとっては大切なもので、探されていたのでしょう。

その姿を見た時、捨てなくて良かった、もっと早く返せたら良かった。
いや、遅くなっても返せて良かったと心底思いました。

高齢者に関わる仕事をする時に

 

「ごみやガラクタに見えるものでも高齢者にとっては宝物かも知れない。
相手の持物を大切にするってことは、相手を大切に思っていることに繋がる」


ということを教えてもらったことがあります。

どんな状況でも誰かを思える気持ちも一つの品かなと思います。
(れん)


<誰かが少し助かる何か>

「今ここで自分が労力を割いても何も得なことはない、むしろ損だ」という思いが、行動しなくてもいい言い訳になっている。


自分がやらなくても何も責められることはないけれど、やれば、誰かが少し、助かったり嬉しく思えたりするようなこと。

思慮深く、成熟した人というのは、一見、損だと思えるようなことを、
誰も見ていないところで、損だと思わずに、何の躊躇もなく、実行できる人なのだと思います。そういう人に、品がそなわっていくのだと思います。
プリムラ


<一本道でかち合ったとき何を譲るか>

中学時代から一緒だった人と結婚して間もなく、その主人が病気になりました。

大きな病いで、私は受け止めることが精一杯。にもかかわらず、周囲から聞こえてくる心ない声。どうしてそんなことを言うのか、25歳の私は耐えられなくて、だんだん心が闇でいっぱいになりました。

その時母が、「負けて勝ちなさい」と言いました。

母は幼い頃、親戚に預けられて育ちました。

私は、何不自由なく育てられてきた。これが初めての不遇、自分の力だけではどうしようもできない経験だったのです。

「負けて勝つ」私には優しい人の本性のように思えます。一本道でばったり出くわした人に道を譲るような感覚。相手を思いやり、自分をぐっと押さえ内に秘めることができる人は、優しく強い、品のある人なんじゃないでしょうか。そのなかでも「自分」だけは譲らない。
(はじめての試練)


<人を人として>

実家から車で10分のところに住んでいます。昔は、わが町も小さいながらも商店街があり、歩いていけるところに魚屋さん八百屋さんがありました。

しかし、いつの間にか個人商店は少なくなり、最近は、高齢な母を、大型スーパーへ誘って車でいきます。

はじめて大型スーパーへ行ったとき、母は、レジの人に「品物がたくさんあってよいお店ですね。それに、店員さんの笑顔は素敵ですね。‥‥」
と長々話だしたのです。

私は、後ろにたくさん人が並んでいるのをみて、母を前に促し、帰りの車で、「おかあさん、大型スーパーでは、レジの人とあまり話さないものだよ。」「みんなレジで会計を待ってる人は急いでいるから、さっと通った方がよいよ」と言いました。

それに、「店員さんの笑顔は営業スマイルだよ」と。

しかし母は、大型スーパーへ行くたびに店員さんと一言二言、笑顔であいさつしていました。

そんなあるとき、母が腰を悪くして、2か月くらいスーパーへ行けなくなり、私だけ通っていました。


すると、レジの店員さんが、「お母さん、最近こないけど何かあったの」
と聞かれました。

「お母さんが来るとなんか元気がでるんだよね。いいお母さんだね」

と言ってもくれました。母がお金をだすのが遅くてもじっと待ってくれて、店員さんには、いつも悪いと思っていました。

でも母が、いかに店員さんに愛されていたかを思いしらされました。

母は、中学を卒業しただけで、学問は、あまりしてこなかった母ですが、
人の気持ちを読むのは得意です。読んでその人の良いところをほめるのが
最高に上手な人です。

無学な母ですが、さりげなく店員さんの品も引き出したような気がしました。
福島県 ブーちゃん)


母の辞書にないのが、「自分探し」という言葉だ。

「自分を生きることが許されなかった」と言っても、言い過ぎではない母の世代の女性たち。

母は中学で首席だったが高校には行かせてもらえてない。

にも関わらず、母から、「本当の自分はいまここではないどこかにいる」
というような考えをいっさい聞いたことがない。それどころか、どこにいても、母は、自分として「いる」。

田舎に住んでもその田舎が、スーパーに買い物に行けばスーパーが、
入院すれば相部屋の病室が、たちまち母の居場所と化し、母はまぎれもなくそこで、「自分を生きて」いる。

「人の品」の1話に登場した女性は、自分を生きることが許されない逆境から、自分に投資し、教育というハシゴを登りつめ、よい仕事を得て、「自分を生きる」を手にした。

同じく1話に登場する友人は、「自分を生きる」ことから降りてしまった。

ならば、貧しいために教育も受けられず、見合い結婚をおしつけられ、
自分を生きるために自己投資しようにも、そもそもハシゴが存在しない環境に生きた母が、自分の人生を、登るの、降りるの、言わないばかりか、
常におかれた環境で、自分として「いる」のは、なぜなのか?

「人を尊ぶという自己表現」読者のれんさんが、お菓子屋さんのちいさなジャンプをみたとき、自分らしいとまではいかずとも、そこに人間らしいと感じる歓びがあったはずだ。

まさにそんなささやかな歓びが、母を母として、その場に生かしている。

自分にフォーカスし、自分に投資し、自分を磨いて、自ら階段を上りつめていく生き方と、母は真逆にいる。

一本道で人とかち合ったら、母は常に、どうぞどうぞと道をゆずり続けて生きてきた。譲った相手が、小さくジャンプし、そこにちいさな芽が出て、そこに水をやり、花を咲かせ、母はそうして自分のまわりを、
常にうるおい、花の咲く状態に持っていく。

このシリーズで私は、品をわけるものは、「自分を生きる」を手放すかどうかだと考えた。

そこから降りた友人や、大変な努力でそれを手にした女性を思うと、並々ならぬことのように思う。

しかし、母を見ていると、「自分を生きる」とは高邁なことではなく、
決してたやすくはないけれども、すぐそこらへんにありふれている、
すぐ手の届くそばにあるものだと思う。

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

 

外国の人達から、日本人の民度は素晴らしいと言われて久しい。しかし、過去の日本人からすれば、現代の日本人は、私達が大切に育んできた日本人の品格を台無しにしてしまったと、嘆き悲んでいることだろう。

 

日本が戦後、高度成長を成し遂げた土台を築き上げて来たのが、他人様の事を優先し、人間を尊重することを当たり前として、日常を生きて来た普通の人達なのだ。決して日が当たることは無く、誰にも注目されることもなく、生涯を終えた無数の日本人。この人達のお陰で今の私達の平和な日常があるのだ。

 

このことは、今の中国を見てみたら分かる。経済力は世界第2位となったが、到底民衆が平たくこの経済力の恩恵を受けているようには思えない。中国全土で平たく民衆が平和な日常を送っているとは思えない。

 

このことから、いくら経済力が大きくてもそれが国の平和には繋がることはないということが分かる。

 

この現実を見据えてみると、今の日本があるのは、過去の日本人の品格の恩恵なのだ。だとすれば、今生きている日本人の地に落ちてしまった品格の影響を受けることとなる未来の日本人の平和はどうなってしまうのであろうか?想像しただけでも怖ろしい。

 

過去の日本人の恩恵に感謝し、未来の日本人の生活を思い遣って、今の生活を積み重ねる。このことの意義が私自身に問われている。