まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【岡本かの子 仏教人生読本】 第六課 人情に殉じ、人情を完うす

 

 【今日のこよみ】 旧暦2014年 5月 2日赤口  四緑木星

         辛丑 日/庚午 月/甲午 年 月相 1.3 大潮

         小満 次候 紅花栄(べにばなさかう) 

 

 【今日の気象】 天気 晴れ 気温 20.5℃ 湿度 52% (大阪 6:00時点)  

 

 

ある人が、あるところへ後妻を世話しました。ところが、その媒酌人なこうどのところへ、後妻に世話した女が泣き込んで来ました。

 

その媒酌人はなかなか苦労をして、人情にも道理にも通じたところがありました。その場で次のような対話が交わされました。

 

「まあ、そう泣いてばかりいないで、理由わけを話しなさい。何かね、やっぱり御主人との仲がしっくり行かないかね」

 

「いいえ、主人は大層良くしてくれますので有難い幸福しあわせなことだと思っております。しかし、前の先妻かたのこして行かれた娘さんが一人、どうにも私に懐かないのでございます」


「ふーむ。どういうふうに懐かないんだね」


「わたくしが全く実の母親の気持ちになり切って、世話をしてやりますのに、振り切って、わざとよそよそしくするのでございます。まるで面当てがましいような素振りさえするのでございます」


「どんなふうにだね」

 

「今日のお昼に、わたくしが、親身のような愛情を示そうと、試しに娘の食べかけの残したおかずに箸をつけようとしますと、娘はその皿を急に引ったくりまして、お母様、これは私の食べかけでございます。汚のうございます。お母様のは、そちらにちゃんとございますと言って、その食べかけのお菜を猫にやってしまいました。これでは、まるでわたくしに恥を掻かせるようなものではございませんか。その前にも、わたくしは、わたくしの少し派手過ぎた着物を娘に仕立て直してやりましょうとしますと、どうしても断って仕立て直させません。これでは全く継母ままはは扱いをまざまざ鼻の先に見せつけられるようなものでございます。わたくしはもう堪りません。それで御相談に参ったのでございます」

 

これを聴いて暫時しばらく黙っていた媒酌人が突然こう訊ねました。

 

「ちょっと伺うが、その娘さんは、あなたが生んだ娘さんかね」


 あんまり馬鹿な訊ね方なので、後妻の女はむっとしました。

 

「――冗談仰しゃらないで下さいませ。生みの娘なら、なんでこの苦労はいたしましょう。なさぬ仲には極まっております。あなたも妙なことを仰しゃいます」


「ふーむ。やっぱり継子ままこなのか」

 

媒酌人は念を押すように、そう言って、それから次のように言いました。


「まあ、落付いてよく聴きなさい。継子なら継子のように扱いなさるが当然だ。それを実の子のようにしようとしなさるから、そこに無理が出るのだ。だが誤解をしては困るよ。継子だからとて世間によくある継子苛めをしなさいと言うのではないのだよ。あれは継子の扱いではなくて、鬼の扱いだ。人間の扱い方ではない。私の言う継子の扱いというのは、兎に角、自分の生んだ子供ではない。だから親身の母子おやこの情の出ないのは当り前だ、それを無理に出そうとすれば、自然、どこかからお剰銭つり反動しかえし)が出て来るにきまっている。だから、その無理は止めるとして、その代りに、人様の生んだ子だ。しかもその家にとっては嘗て心棒であった先妻の生んで遺していった遺児わすれがたみだ。そこをとっくり胸に入れて、大事な品物を預ったつもりになりなさい。元来、大事な預り物ゆえ、少しくらい嵩張(かさば)ろうが、汁が浸潤にじみ出ようが、そっくりそのまま大事に預って置く。

 

それともう一つ、こういう気持ちが肝腎だ。なにしろその娘は、実母のない孤児みなしごなのだ。孤児といえば女の身として誰でも同情が湧く。あなたは、その娘さんを身内のものとも何とも考えず、ただ世の中に一人淋しく、母に死に別れた憐れな孤児が居るというところへ眼をつけて、いたわってやりなさい。孤児とある以上、多少、捻(ひね)くれや僻(ひが)みがあっても致し方はない。その児の罪ではなく、不運の罪だ。せいぜいそう思って面倒を見てやる。まあ、その辺のところで辛抱しなさるんだね」


後妻の女は、まだ本当には腑に落ちぬらしく、はっきりしない顔付きで帰って行きました。


それからその女は、しばらく媒酌人の家へ来ないので、媒酌人の家ではどうしたのだろうと噂などしていましたところへ、ひょっくり、土産物なぞ持って訪ねて来ました。媒酌人は訊ねました。


「継子の様子はどうだね」


すると後妻の女は不快な顔をして、

 

「継子なんて言葉をお使いなさらないで下さいましよ。この頃はもう親身の親子以上」


そこで媒酌人は頭を掻いて言いました。

 

「ほう、これは失言した。失礼失礼」


後妻の女は朗らかな声で家庭のこと、世間のこと、何気なしに面白そうに語って帰って行きました。

七里恒順という幕末から明治へかけて生きておられた浄土真宗の名僧があります。

 

その人の言葉に、


「月を盥(たらい)の水に映すのに、映そう映そうと焦って盥を揺り動かしたら、月影は乱るるばかりである。何の気なしに抛って置くと、いつの間にやら月は盥の中に丸く映っている」


普通のことのようですが、本当の体験を、月と盥に事よせて語っているので、普通の中に言い知れぬ趣があります。

 

 

【雑感】

 

上の記述は、血の繋がらない親子の情について記しているが、もちろん、血の繋がっている親子や他人との情についても応用が効くし、自分の肉体に対する情についても応用が効く。

 

どうも、現代の人間は、自分の肉体を自分の所有物だと考えているらしい。こういう思考を当然とするから成人病が蔓延するし、違法な薬物が乱用され、自殺する者が後を絶たないのだろう。

 

なるほど、自分の肉体は、自分の意志でのみ自由に動かすことが出来る。だから、自分の肉体は自分の所有する物としか考えられない。いや、大部分の人はこんなことを考えたりすることもなく、当たり前のように自分の所有物だと思っているだろう。

 

しかし、よくよく考えてみると自分の意志で自由に働かすことが出来ない部分の方が多いことが分かる。目の前にある物を手に取ることは出来るが、途中のシステムがどのように働いて物を掴んでいるのか詳細まで分かっていないのだ。手に取ろうと意識したら勝手に手が動いて物を掴んでいたというのが本当のところだろう。目の前の物を見たり、匂いを嗅いだり、音を聞いたりすることも、それぞれ意識したら勝手に目に見えていたり、匂いを嗅いでいたり、音を聞いていたとしか言い様がない。

 

自分の肉体の事を全く理解していないのに自分の所有物であると思うのは何故だろうか?ここに「私の肉体は自分の所有物であるとしか思えない。だから、自分の自由勝手に使っても構わない」という、現代人の思い上がりが垣間見える。この論理が未成年者の売春や自殺を蔓延らせているのだ。しかし、自分の成長の過程を振り返ると、自分の肉体が自分の所有物であるとは到底思えないはずだ。自分の肉体は、自分が物心をついた時には既に与えられていたはずだから。

 

そこで、「私の肉体は自分の所有物では無く、天からの借り物である。だから、死ぬまでの間、慈しんで使わせていただく」と考えてみる。このように考え方の視点を変えれば、自分の肉体にさえ人情が湧いて来る。自分と自分の肉体の間に人情が湧けば、自分と家族、他人との間にも人情が湧き上がるのが自然の運びだろう。

 

自分の肉体の働きに感謝して、自分の肉体を慈しみながら生活を送る。ひとりひとりがこのことを実践するだけで世の中はガラリと変わるのだ。