まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第七十九章】 争わないことを徹底すべし

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 4月18日 先負  四緑木星

         丁亥 日/庚午 月/甲午 年 月相 16.9 大潮

         立夏 末候 竹笋生(たけのこしょうず)        

  

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 16.1℃ 湿度 77% (大阪 6:00時点)

 

 

和大怨必有餘怨。

安可以爲善。

是以聖人執左契、而不責於人。

有徳司契、無徳司徹。

天道無親、常與善人。

 

 

【書き下し文】

 

大怨(たいえん)を和すれば必ず余怨(よえん)あり。安(いずく)んぞ以(も)って善と為(な)すべけんや。

 

ここを以って聖人は左契(さけい)を執(と)りて、而(しか)も人を責めず。

 

徳有るものは契(けい)を司(つかさど)り、徳無きものは徹(てつ)を司る。

 

天道は親(しん)無し、常に善人に与(くみ)す。

 

 

 

 

 

【私的解釈】

 

根深い恨みゴトを和解させても、恨みは後々まで必ず尾を引くものだ。どうして恨みゴトを氷解させることが善いコトだと言えようか。

 

それゆえ聖人は、割符(契約書)の左半分を握っているだけで、その履行を強制しない。こうすれば、相手が恨みの気持ちを抱くこともない。

 

徳のある人は割符(契約書)を管理するだけで、徳のない人が割符(契約書)の履行を強制するのである。

 

この行為が自分に損を招くことと思うかも知れないが、天道(自然の成り行きは)はえこひいきなどしない。いつも善人の味方をし、必ずあなたに利益を招くこととなっている。

 

 

 

 

 

【雑感】

 

上の老子の言葉を読んで思うことは、正に日本人の生き様そのものだということ。

 

3500年前の中国老子のおもゐを、今現在この日本で私達が実践しているのである。それも、何の意識もせずに当たり前のように実践している。これって物凄いこと。

 

この奇跡の実現は、突如一夜にして実ったのではなく、先人たちが少しづつ積み重ね積み上げてきたモノが形を表したものなのだ。先人達のお陰で日本は徳のある人が溢れる楽園となっているのだ。

 

この伝統に益々磨きをかけて次の世代に引き渡すのが日本人の使命である。この使命の前に憲法第9条どうのこうのなどは些細なことに過ぎない。

 

 

そして、これも驚くことであるが、すぐ隣国に老子が言う「割符(契約書)の履行を強制する」ことを文化として来た国がある。

 

朝鮮民族にとっての「恨(ハン)」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれ[2]や妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。

 

恨の文化は、代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、漢代の昔より幾度となく半島を襲った中国からの異民族(漢族モンゴル族女真族ほか)による侵略・征服で永続的な服従を余儀なくされた国辱、日本(大日本帝国)による植民地統治併合という、長い抑圧と屈辱の歴史から生まれたもので、内外の圧倒的な力に屈して耐え忍ばざる得なかった朝鮮半島独特の文化である。

 

また恨の形成の裏には、儒教の教えや習慣が、本来の形を越えた形でエスカレートさせていったことが背景にあったと言われ、それは上位者の下位者に対する苛烈な扱いを正当化する解釈や、下位の者は過酷な立場を受容しなければならないとする解釈になった。

 

朝鮮の独立が民族運動として失敗して弾圧され、自らの力でなく第二次世界大戦における日本の降伏によって連合軍の力によって達成されたことは、後の世代の「恨」となった。また韓国について言えば、独立後の外圧によって成立した李承晩政権の腐敗した独裁政治朴正煕の鉄拳統治、さらにそれ以後の軍事政権光州事件など、内なる弾圧の歴史も「恨」となっている。それで今日得られなかった勝利の代替物として、あるいは抵抗精神の表れとして、例えばスポーツなどにおける日韓戦に必要以上に熱狂[3]したり、与野党の争いや労働組合労使紛争において激しく激昂して極端に過激な行動をとったりするのである。

恨 - Wikipedia

 

 

歴史を振り返る。

 

1895年4月17日、下関の料亭春帆楼で日清戦争講和条約が結ばれ、後に台湾と朝鮮を併合する流れが出来上がった。やがて日本の統治が始まり、両国にて殖産事業が盛んに行われることとなる。

 

そして、日本の敗戦を経た現在、台湾では今も語り継がれる日本人達がいる。

 

代表的な人物は、嘉南大圳(かなんたいしゅう)を築いた八田與一と二峰圳(にほうしゅう)を築いた鳥居信平であろう。

  

八田與一という人物をご存じだろうか。

 

十六世紀末、はじめて台湾を見たポルトガル船員は、思わずフォルモサ・麗しき島と叫んだという。

 

九州とほぼ同じ大きさの台湾を、嘉義市から東へ真っ二つに横切る北回帰線。その北は亜熱帯、南は熱帯地域だ。そこをさらに南下した台南市からバスで八十分ほどの静かな山あいに、八田與一の銅像がある。戦後、すべて日本人の銅像が壊されるなか、台湾の人たちによって守られ、一つだけ残った銅像である。

 

嘉義と台南、両県にまたがる地域は嘉南平原と呼ばれる。八田與一がその農民たちからいまも神と敬われているのはなぜだろうか。

 

かつて嘉南平原は、洪水、干ばつ、塩害という三重苦に喘ぐ不毛の大地だった。

 

いまや世界でトップクラスの経済社会を築いている台湾だが、十六世紀以降、その道のりは第三国による支配の歴史でもあった。

 

そしていまから百十年前、日本領となった台湾は“化外の地”つまり主の居ない未開地とまで言われていた。アヘンとゲリラも悩ましいその地に、後藤新平が民政長官として赴任したのは明治三十一年。そこから台湾のインフラ整備が始まった。そこで言うインフラとは、道なき道を拓き、港や鉄道、上下水道といった産業と暮らしを整えるための基本的な骨格づくりであった。

 

そして大正時代に入り、後藤の敷いたレールの上で若き台湾総督府技師・八田與一が広げた大風呂敷は、嘉南平原全域の灌漑事業。費用も規模もケタ外れだった。総督府のみならず地元農民すら呆れた。しかしこの大風呂敷、與一の綿密な調査に裏づけられていた。

 

朝もやが立ちこめる前の暁、台湾の嘉南平野をうるおす烏山頭水庫には、蒼い湖面に大小の小島が浮かぶ。サンゴが枝を広げた湖岸の描線から「珊瑚潭」とも呼ばれる。この台湾最大の人造湖が灌漑用ダムであるとにわかに思えないのは、柔らかな風景と化した土堰堤のためであろう。

 

土木用語で言うならセミハイドロリックフィル工法。コンクリートは土台の中心部だけに用い、その上を粘土で固め、さらに放水しながら土砂を盛る。いわば土と石でつくった堤防の長さは千二百七十三m、高さ五十六m。台湾に多い台風や地震でもいまだ揺るぎない。完成の後、アメリカの土木学会は「八田ダム」と命名して、その優秀な技術を讃えた。

 

東京帝大工科大学で八田與一を教えたのは土木工学科の廣井勇教授。パナマ運河で活躍した青山士は八年先輩だった。海を渡って未曾有の難関に挑んだ恩師や先輩に刺激されたであろうことは想像に難くない。

 

そして、八田が嘉南の農民たちから「嘉南大圳 の父」と慕われるゆえんは、平原に張り巡らせた一万六千kmもの給排水路にある。この長さは、万里の長城の六倍以上、地球半周に近い。土へんに川と書く「 圳 」は中国語で農業用水路、「大圳 」は途方もなく長い用水路を示す。

 

台湾最大の穀倉地帯として蘇った嘉南平野。やがて生活が一変した。教育費の捻出によって、多くの有能な人材も育った。固辞する八田を説き伏せ、感謝の銅像が建った。大任を果たした八田は次の仕事のために出航した。だが、その船は東シナ海で撃沈された。持てるすべてを台湾に尽くして散った五十六歳の生涯だった。

 

没後六十二年、八田與一の命日である五月八日、今年も台湾の烏山頭ダムのほとりで慰霊祭が行われた。

 

台湾に希少な御影石を探して八田與一夫妻の墓を建立し、以来、欠かすことなく墓前に参っているのは、嘉南平野で農業を営む農民たちであり、その農民たちを指導してきた嘉南農田水利会の職員たちである。

 

「私たちは八田技師の恩を末代まで忘れません」。いまもダムを管理する嘉南農田水利会の徐金錫会長。水を飲む時は井戸を掘った人に感謝するという中国の諺「飲水思源」の思想が根づく。

 

そうした思いを深く受けとめ、1985(昭和六十)年から墓前祭に参加しているのは、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(金沢市)事務局長の中川外司さんとそのメンバーたち。

 

昨年三月、金沢市は八田與一を郷土の偉人として永く顕彰することを決めた。台湾の実業家から八田與一の胸像が、市の「ふるさと偉人館」に寄贈された。

 

台湾国民中学の国定歴史教科書『認識台湾』(平成十年採用)に、八田與一技師が農業改革に貢献したと記されたのは、歴史的にも画期的なことであった。

 

台北日本人学校では、社会科や道徳の授業で八田與一の学習を進め、修学旅行は烏山頭ダムに行くという。今年の五月、中川さんら友好の会二八名が墓前祭の帰途、学校を訪れた。その中には八田技師の長男・八田晃夫氏もいた。嘉南大しゅう工事着工の年に生まれた晃夫氏。高齢を押しての訪台だった。児童たちに「日台の懸け橋になれ」と訴えたという。近くて遠い台湾と日本。しかし、八田與一に導かれて国交なき交流が着実に進んでいる。

大成建設 | ライブラリー - 風台湾に水を引いた神・八田與一(1)

大成建設 | ライブラリー - 風台湾に水を引いた神・八田與一(2)

大成建設 | ライブラリー - 風台湾に水を引いた神・八田與一(3)

 


台南市烏山頭水庫〔2013年八田與一技師逝世71週年追思紀念會〕 - YouTube

 

 

日台の知られざる水の絆の物語 〜 「鳥居信平」社団法人土地改良建設協会の機関誌『土地改良』2008年7月号(262号)の巻頭で紹介文 | TAIWAN | 平野久美子 -HILANO KUMIKO-

 

 

 

他方、朝鮮であるが、こちらでももちろん殖産事業は行われた。。。。

Category:日本統治時代の朝鮮の経済 - Wikipedia

 

が、今現在返ってくるのは「恨」のみである。。。。

 

 

このような史実を目の当たりにすると、距離を置こうとするのが当たり前の反応となるであろう。日本人とて感情ある人間なのだから。