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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第七十七章】 聖人が天の道を歩く姿

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 4月16日 先勝  四緑木星

         乙酉 日/庚午 月/甲午 年 月相 14.9 大潮

         立夏 次候 蚯蚓(みみずいずる)      

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 16.9℃ 湿度 49% (大阪 6:00時点)  

 

 

天之道其猶張弓與。髙者抑之、下者擧之。

有餘者損之、不足者補之。

天之道損有餘而補不足。

人之道則不然、損不足以奉有餘。

孰能有餘以奉天下。唯有道者。

是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。

 

 

【書き下し文】

 

天の道はそれ猶(な)お弓を張るがごときか。高き者はこれを抑え、下(ひく)き者はこれを挙(あ)ぐ。余りある者はこれを損(そん)じ、足らざる者はこれを補う。

 

天の道は余り有るを損じて而(しか)して足らざるを補う。

 

人の道は則(すなわ)ち然(しか)らず、足らざるを損じて以(も)って余り有るに奉(ほう)ず。

 

孰(た)れか能(よ)く余り有りて以って天下に奉ぜん。唯(た)だ有道の者のみ。

 

ここを以って聖人は、為(な)して而も恃(たの)まず、功成りて而も処(お)らず、それ賢を見(あら)わすを欲(ほっ)せず。

 

 

 

【私的解釈】

 

天の道(自然の流れ)は、ちょうど弓に弦をかけて張るようなものであろう。高い所は押さえ込み、低い所は持ち上げる。弦の長さに余りがあればそれを短くし、弦の長さが足りなければそれを長くする。

 

天の道は、このように余りのあるものを減らし、足りないものを補う方へと働くのだ。

 

人間がすることはこうではなく、足りないものをさらに減らして取り上げて、それを有り余っている方に差し出すこととなる。

 

有り余っていて、それを自分の方から世界のためにどうぞと差し出すような者は、どういった者だろうか?ただ、道に添っている者のみがこれを行うのだ。

 

それゆえ、聖人は、大きな仕事を成し遂げても淡々としており、大きな成果が上がっているからといってそこに居座ったりしない。そもそも、自分の優れていることが人前で露わとなることを好まないのだ。

 

 

 

【雑感】

 

多数の弱者が少数の強者に搾取されるのが人間界の法則であるらしい。しかし、天の道は異なる。

天の道は、太陽の光のように弱者強者わけ隔て無く恩恵が施されるように采配が振るわれる。

 

なるほど、歴史を振り返れば強者は必ず滅んでいる。となれば、強者というのは、遅かれ早かれ天の采配により成敗されるのだから、言うならば、天に向かって唾を吐きながら生きていることとなる。

 

強者は天の成敗に任せるとして、では、搾取される側はどうすべきなのか?残念なことに世の中に、太陽の光が障害物に邪魔されず、そのまま注がれることは絶対に無い。この世界の空は晴天ではなく、常に雲に覆われており、強者が絶滅することは絶対に無いのということが歴然たる事実。

 

となれば、

 

・「搾取する側に移る」

努力して搾取する側に回る。でも、搾取する側に回っても、いつか必ず天の采配により滅ぼされることになる。又、一旦搾取する側に回ると自分も搾取されていたという体験を忘れてしまうのが人間というものらしい。結果、自分だけが良ければ後のことは知ったこっちゃないという人間が蔓延ることとなり、滅んだ強者の空席を埋めるだけになるだろう。

  

・「考え方(価値観)を変える」

日本国内だけで見ると、搾取される弱者である立場が、世界全体から見ると、この弱者が我知らず、搾取する側に回っていることに愕然とする。経済大国ということは、こういうことなのだ。世界視点から見ると、日本に住む人々は天の采配により滅ぼされるのだ。そして、宇宙全体から見ると、この地球は水や空気という特定の資源を独占しており、搾取している立場にあるといえる。となれば、地球に住む人類は天の采配により滅ぼされることとなる。

 

これからの世の中は、搾取されていても、視点を変えれば我知らず搾取しているのだという事実に気付き、この事実に気付いた「搾取され、搾取する立場の人間」が、自分だけが搾取する側に回れば良いのだという考えを捨て、横の世代と縦の世代と連帯して世の中を変革して行くのだと思う。

 

以下の記事には触発されることが多々ある。この日本で既成の価値観をガラリと変える試みが萌芽している。

 

どうも、老子が説き、この日本で二宮尊徳が説き、戦後長い間抑えこまれていた「推譲」の精神がこれからのキーワードとなるような気がしてならない。

 

 

学校ではない。学業補習を目的とする塾でもない。“子供のサードプレイス”“第三の学び舎(まなびや)”として注目され始めている「教養塾」。今年3月、名古屋市に開設した「エコル・ア・パンセ(教養学舎)」代表者である望月馨氏にいまなぜ教養なのか、“子供と親の教養”とは何か聞いた。

(聞き手は瀬川明秀)

教養学舎という名前をお伺いして、ハタと考えたのですが、そもそも「教養」って何でしょう。学校での教科学習をベースに、社会や親友たちとの接触を通じて学び得るものを「教養」と考えている方々が多いと思うのですが、子供たちをみてきた専門家から見て、教養とは? いまの学校が子供たちの教養習得に機能していない、ということでしょうか?

望月:小学校から高校まで、いまの教科学習カリキュラム中心の方法が、子供たちにとって無益だとかダメだとかは思っていません。そもそも大学での高等教育には中等教育までの下地が絶対的に必要ですし、学校での教科学習が円滑に進むことは子供たちにとって大きな自信になります。また、社会や親友たちを通じて学び得るものも「教養」としてとても重要な要素でしょう。ただ、それだけじゃないと考えています。

それだけじゃない?

望月:私たちが言う「教養」とは、未知の課題・解決困難な事象に対処するためにあらかじめ身につけておくべき素養全般のことです。その素養を育むことに関与するのが、学校と親、そして第三の学び舎だと考えています。

私たちは学業成績を教養の1つの要素と位置づけ、とても重要ではあるけれども絶対視はしていません。先ほども言いましたが学業成績をあげることは子供の意欲や自信を高めるための手段にはしますが、目的にはしていなんです。

なるほど。

子供が育つ上で大事な力は何かといえば、まずは自主的な学びを楽しむ力です。これを持たないまま「大学に進む」生徒たちが増えているのが、問題ではないかと思ってきました。

残念ながら、従来の学習塾の多くは、学校の試験での成績や有名校への進学実績をあげることだけに注力してます。個々の子供たちに学習の楽しさだけを伝える余裕はありません。前年度に出題されたその学校のテスト問題を解かせてできれば内申点を稼げるのでそれで良い、というやり方すらあるのです。

そんな状況を見ていると、親も学校も塾も変革し切れていないと痛感します。10代の子たちがグローバル社会における教養を身につけ一人前の社会人となっていく素地をつくる機会が著しく欠けているのです。今、親の世代である、20~40代が昔を振り返って比較することにはほとんど意味がありません。現代は、昔以上に時代が必要とする生きるための知恵を「学ぶ」機会が減っているのです。私たちはあえてその機会を設けようとしています。

教養を身につけるとは?

では、どうやって教養を身につけるのでしょう。いわゆる、昔ながらの古典からたっぷり書物を読ませる教育がいいのでしょうか(笑)。

望月:教養とは、知識量ではありません(笑)。方法はいろいろあります。例えば、10代の子たちにとって母国語の言語能力を高めること。それは思考能力そのものに直結します。ですから、私たちにとっては、読み・書き・話すの力を高めるトレーニングを積み上げることがとても大事です。こうしてコミュニケーション力を高めていくことで、さらに英語の文法の違いなどを学ぶ。また日々の社会的な知識も同時に学ぶ。そうした段階を踏んだ方がリテラシーが高まるので、当然教科ごとの学問的理解も早まるんですよね。そうやって全教科で学んだこと、他者から聞いたこと、マスコミを通じて得た情報など、様々なものが溶け合ってその子なりの教養を形作っていくと考えます。

なるほど、もう少し具体的なサービス科目内容を教えてくれませんか。

望月:講師をしていて感じるここ数年の生徒気質の急激な変化に関し、社会経験が豊富な周囲の方々に私見を語ってみると、皆さん社会の第一線で働いておられる世代だけに、自分たちの頃と同じような学校教育では実現できない、もしくは役割が異なる別態様の教育の必要性を感じていらっしゃることが分かりました。中でも、若い世代のコミュニケーション能力、他者への想像力・共感力、精神的なタフさなどの欠落ぶりに目を覆わんばかりの現状があるのが、今や進学塾内だけではないことも分かりました。

このままでは、未来の老人として若者たちに養ってもらえそうにもありませんから、今なんとかしなくちゃ、と地域の大人たちが手を組んで、大切な財産を事業資金として提供するとか、医師としてのリアルな日常を語るとか、おいしくて飽きない夕食づくりにプロの腕と知恵をふるうとか、情報発信してユニークな人材を集めてくるとか、各々の得意分野をいかす次世代支援プログラムを始めたわけです。

夜 空き教室でコンビニのお弁当を食べている現実

いろいろプログラムはありますが、「身体と心と栄養」のプログラムを柱に据えてあるところが興味深い。

望月:私たちの塾では、10歳から18歳まで同じ場所でそれぞれの学びを実践しますが、みんなで夕食を一緒にとることを基幹プログラムとしています。ゲスト社会人、アルバイト講師の学生(大学院生、大学生)と生徒たちが一緒に夕食を食べるのが決まりなんです。世代も立場も違う人たちが「同じ釜の飯」を食しながらゲスト社会人を囲む時間を共有するのは様々な人たちの様々な体験談を聞くためです。

愛知県は企業勤めの方に海外赴任経験者が多いので、その方たちから生の体験がいっぱい聞けます。ゲスト不在の日には食事後に知的ゲームなどを楽しみますが、アルバイト講師の大学院生から10歳の児童まで一緒に取り組むというのは、珍しいかもしれませんね。グローバル社会だからこそ尊重するべき「多様性」というものを、身をもって学ぶ重要な時間です。ちなみにゲスト社会人のミッションは、次世代に伝えたい自分の経験を真摯に伝えること。資格経験不問で随時募集中です(笑)

集団行動を求めることを嫌がる保護者も少なくないのでは。

望月:ええ。ただ、どんな塾を選ぶかは自由です。私たちは、寄宿舎のように皆で一緒にご飯を食べるといろいろ面白いことがありそうだけど、どう?という提案なんです。

まず知っていただきたいのは、今学習塾に通っている中高校生たちの多くが、夜、空き教室などでコンビニのお弁当を食べている事実です。限られた友達と食べていたり、1人で毎日食べていたりする。私は長年、塾講師として、そんな淋しい光景を見てきました。「この子たち、身体も心も栄養が十分に摂れているかな」と気になっていました。

では親が弁当を作って持たせればいいのか?でも親御さんもその時間、働いている方々が多いんです。昼と夜のお弁当をもたせるのか?夏場には厳しいですよね。第一、母親ばかりに期待するのは気の毒です。名古屋という堅実な土地柄もあるのか、働くお母さんたちは「子供のためだからしょうがないですよね~」と自分の働き方を抑えたりするようですが、それは私の期待する世の中と違います。個人の努力には限界があるでしょう。ならば、我々ができるお手伝いをしますから頼ってください、というのが我々の立場です。

 それに、食事時間に会話が弾めば笑顔も連帯感も自然に生まれるでしょう。

塾が終わった後の生徒の送りサービスもありますよね。御社のプログラムをみていると、実は、「親向けのサポート」から生まれたのではないかと思いました。

望月:ええ。おっしゃる通り、教養学舎をつくるときは、思春期の子供をもつ母親向けのサービスを充実させようと、プログラムを設計していたんです。うちはシャワーブースまであるので食住完備ですよ(笑)。

塾講師時代から、優秀な女子生徒たちが将来若い母親になった頃には、彼女たちがキャリア形成につまづくような状況が解消されていればいいなと思っていました。でも、母親への負担が大きく子供は増えない、女性登用は進まない。公的な子育て支援があっても概ね小6まででおしまいですから、接するのが難しい中学生以上の子を持つお母さんをサポートをしたかった。しかしながら、働く親より大学(院)生らが真っ先にこの塾の理念に反応してくれたというのは想定外で面白い現象ですね。この地域が名古屋大学を始め大学が多いエリアだからなのでしょうか。

大学生がいまの教育制度の矛盾を一番実感しているからでは?

望月:かもしれません。25歳から18歳ぐらいの若者たちの、鋭い指摘が一番参考になります。また、大学生・大学院生たちも、子供たちと接するのも当然楽しいのでしょうが、各界からのゲスト社会人らから薫陶を受けたいのだと思います。

「教養は大事、でも悠長なこと言ってられないのよ」

なるほど…それはそれで理解しても、親御さんの中には、塾選びに迷う意見も出てきそうですよね。例えば、勝手に代弁するならば、「確かに、教養は大事。だけど、ウチの子、勉強しないのよ、とりあえず学校の成績だけでもさえなんとかしてよ。そんな悠長なこと言っていて中学浪人したらどうすんのよ。そんな受かった大学生が立派なこと言っても意味ないわよ」という意見もありそう。

望月:あ、ありますね。分かります(笑)。でも、それはこれから塾としての実績を出して不安を解消していただくしかないでしょう。

たとえば、基礎的なコミュニケーション能力、論理力があれば、大学生・大学院生と十分会話できるようになります。あとは、子供が年長者との会話の中から勝手に知識を吸収し、自分で体系化し将来の目標へとつなげていくんです。

さらに、右脳的ひらめきを育成する図形処理の体系的プログラムも導入済みで、それへの長期継続的な取り組みを通じて、言葉では表現できない空間認識などの数学的イメージなど学習センスや、根気よく諦めずに思考し続けるという学習習慣を文字通り体得します。そこにはプロスポーツ選手の技術と通じるレベルのものがあると思います。

もちろん、定義、法則や用語、史実など必須の知識はしっかり覚えてもらわなければいけません。そこは、頭に染み込むまでしつこくやるのだよ、とその重要さ自体を刷り込みます。どのように覚えていくかのちょっとしたヒントは与えたりしますが、やりかたは個々に工夫させます。

学習開始時には、まずはベースとなる部分を徹底しながらも、予告的にその分野の学問的体系の美しさや面白さを伝える仕掛けが効果的ですね。勉強とは本来面白いものです。だって知らなかったことを知るようになるのですから。案外面白いなと気づけば、干し草に火がついたように一気に意欲が燃えます。学校ではどん尻集団の常連だった生徒に火がついて成績が急上昇していくのは数えきれないほど経験済みです。

大学入試の問題を見ていれば分かる、メッセージ

現実問題として、いわゆる大学受験に対してどのようなスタンスなのでしょうか?

望月:日本の高校には、入学時の偏差値が高いのに大学入試では今ひとつ結果を出せないタイプの高校があります。何故か、おそらくそこでは、普段の授業でも受験対策でも、「知識」とそのちょっとした応用で答えられる問題、すなわち、正解の求まる問題もしくは模範解答を作成できる問題を大量に与えるばかりで、答えを見つけることが困難な課題や未知の課題を自分で考え抜く習慣を身につける暇を与えていないからでしょう。知っているか否かだけを過大に評価する授業とその達成度測定としての試験をいまだに続けているからです。でも、大学側は特にここ数年かなり意識変化の見て取れる出題をしてきています。時代の危機意識の現れでしょうね。だから余計にそのギャップは広がるばかりです。

興味深い話ですが、「変革できない」と言われ続けた国立大学さえ、この数年、試験内容を大きく変えているのです。その変化のメッセージは、普通の教師なら読み解けると思いますが、要は、知識ではなく問題を読み解く下地を問いますよ、とちゃんと明言しているのです。それは設問の作り方から分かります。ところが、親や予備校、高校、さらには中学の対応が遅いですね。これが伝統ある中高一貫校であるほどその事情は大変だろうなと拝察します(笑)

私たちは有名大学合格を目的とする塾ではありませんが、普遍的に通用する知性創造を目標に掲げる以上、学科指導面でも基本レベルからトップ校レベルまで対応します。

どう思う?21時以降、スマホ禁止

ところで最近、愛知県刈谷市内の小中学校では「21時以降、スマートフォンや携帯電話の利用が禁止」になりましたよね。新聞によると、PTA連絡協議会などから要請を受け、市内の各小中学校が、4月のPTA総会で保護者へ呼びかけたといいますが、そもそもの発案は「刈谷市児童生徒愛護会」という組織。この組織は各学校の生活指導の先生や、警察署生活安全課の署員、幼稚園の理事らで構成されている。

 刈谷市によると「スマートフォンや携帯電話への問題提起は、現場である学校の先生たちから声が上がり、それを学校長らが教育委員会などに吸い上げた」とのこと。つまり、現場の先生たちが子供たちのケータイ依存やそれにまつわるコミュニケーショントラブルを問題視していたんだけど、「学校独自でスマートフォンや携帯電話を禁止するという判断は、なかなかできるものではない」ので、結局、愛護会が提案する体裁で、PTA協議会との連名で、市内の学校やPTAにお願いするという形を取ったということなんですが・・・、この件、「学校が携帯電話の使用を禁止する」ことについてどう思いますか。

望月:LINEなどのSNSとその依存性について、普段からあれこれ考えています。この件も考えあぐねていますが、五月雨的に私見を申し上げると、まず、スマホをいじるための言い訳はいっぱいあります。「メールに早く返信した方がいいから」「LINEだけやっているわけではないから」「お得情報を検索しているだけだから」「英語のリスニングしているのだから」「新しいゲームアプリができたから」などなど、TPOに応じた免罪符が使えますね。

スマホに没頭するあまり、本来有意義に使えるはずの時間、体力、気力、金銭を浪費し、日常生活に支障を来し、家族関係をも悪くするわけです。アルコールやギャンブルなどの典型的な依存症と同じ状態です。大人にも同様の影響力がありますね。たとえば、かつてたまごっちやマリオなどにはすぐ飽きてしまった私の娘、今は社会人ですが、ここ数年はヒマさえ有ればスマホをいじっています。子供の頃は読書好きでしたが、今ではそんな時間もないようで、文芸作品の読了感を親子で語り合う楽しみなどまさに昔物語です。

中でも、SNS(交流サイト)というのは便利なツールで、私も毎日欠かさず利用していますが、いつでもどこでも情報発信できる半面、これ自体にはステップアップや目的達成など、プロセスを体験してから完結するという要素がないんです。際限なく続く情報のやり取り。今主流のSNSでは、自分の見聞を友達がいいね!と認めてくれた、といった程度の刹那的な満足を得られるに過ぎないと実感しています。その程度のものでありながら、あまりに習慣性・依存性が強いのではないでしょうか。

一方で、こんなものは所詮情報ツールの1つだと割り切り、使う必要がないときはシャットダウンできる人もいます。ただ、判断力の未熟な子供にシャットダウンできるかどうか。LINEで言えば、友達とのトークをさっと切りあげる勇気はあるのか。難しいでしょう。

スマホは高機能・多機能であるがゆえ、倦むことなく使い続けることができる。そして、子供の成長に必要な経験のための貴重な時間を容赦なく奪う。人間形成途上にある子供に対し、あまりに影響力が強過ぎます。

以上のような負の側面の大きさ・取り返しのつかなさを考えると、子供の可塑性を考えてもなお遠ざけておくべきものだと思います。特にLINEは便利な反面、他者依存になる傾向、グループ単位でのいじめに転化しやすい点などが未解決ですよね。

なので、小中学生LINE夜間禁止は、タバコ禁止の規制趣旨と同様に、未発達な子供の自己加害を抑制するために、原則自由なネット通信へ加えた例外的規制として、必要でやむを得ない措置だと考えます。

ただし、今回の事例は、実質的に学校側からの規制であるのに、第三者機関からの要望という体裁を装った手続き面に問題が残ると思います。

なるほど。

望月:繰り返しになりますが、原則「自由」とされる事項に公的規制が課せられ、それに対し人々があまり疑問を抱かずに従っていくという図式に対し、強い警戒感を感じます。そういう思いからも、様々な事柄について多数意見に流されるのではなく自分で熟慮し、その善し悪しを判断でき、バランスの取れた意見を発信できる人間を少数でも育てたいです。そのための第三の学びの場を、皆が求めているのではないかと思っています。

夜、塾でコンビニ弁当を食べている子供たちと「教養」:日経ビジネスオンライン

 

【参考動画】


わたなべ美樹 53歳 - YouTube