まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第六十六章】 へりくだる聖人

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 4月 6日 先負  四緑木星

         乙亥 日/庚午 月/甲午 年 月相 4.9 

         穀雨 末候 牡丹華(ぼたんはなさく)

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 15.7℃ 湿度 72% (大阪 5:00時点) 

  

 

江海所以能爲百谷王者、以其善下之、故能爲百谷王。

 

是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。

 

是以聖人、處上而民不重、處前而民不害。

 

是以天下樂推而不厭。

 

以其不爭、故天下莫能與之爭。

 

 

 

 

【書き下し文】

 

江海(こうかい)の能(よ)く百谷(ひゃっこく)の王たる所以(ゆえん)の者は、その善くこれに下るを以(も)って、故に能く百谷の王たり。

 

ここを以って民に上(かみ)たらんと欲すれば、必ず言(げん)を以ってこれに下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以ってこれに後(おく)る。

 

ここを以って聖人は、上に処(お)るも而(しか)も民は重しとせず、前に処るも而も民は害とせず。

 

ここを以って天下は推(お)すことを楽しみて厭(いと)わず。

 

その争わざるを以って、故に天下能くこれと争うことなし。

 

 

 

 

 

【私的解釈】

 

大海や海が幾百もの谷川の水を集めてその王となっていられるのは、それらが低きところにあって、へりくだっているからこそ、幾百もの谷川の王となっていられるのだ。

 

それ故に、民衆の上に立ちたいと思うならば、自分の言葉を謙虚にして人にへりくだり、民衆の先頭に出たいと思うならば、自分の振る舞いを抑えて人の後からついて行くことだ。

 

だからこそ、聖人は、統治者として高い位についても、民衆はそれを重荷だとは思わず、指導者として前面に立っても、民衆はそれを邪魔だとは思わない。

 

つまり、世の中から喜んで押し出されて、誰にも嫌がられることがないのである。

 

聖人は、また誰とも争うことがないから、世の中の誰とも争うことはないのである。

 

 

 

 

 

 

【雑感】

 

上の老子の言う事を理解しようと思えば、日本の皇室に思いを遣ればいいのです。

 

 

この動画は昭和22年(1947年)12月7日の昭和天皇の広島行幸の時の映像である。正面に原爆ドームが見え、右側に旧商工会議所ビル、左側に護国神社鳥居も見える。

 

翌8日の読売新聞が広島行幸についてこのように書いている。

『80名のいたいけな「原爆孤児」たちが待つ市外の観光道路で車から降りられた陛下は日夜読経に明け暮らす谷口義春(15)君など4名の法衣の孤児たちをなぐさめられ、「明るく勉強なさい」と励まされると子供たちは"ハイ"と元気に返事する。(略)爆心地に近い護国神社あとの広島市奉迎場で5万人の市民の前にお立ちになった。そして陛下が浜井市長の奉迎の言葉に答えられたお言葉は、巡幸中で一番長いものであった。 「熱心な歓迎に嬉しく思う、広島市民の復興の努力のあとを見て満足に思う、みなの受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」』

 


昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム - YouTube

 

 

この映像を見れば、上の老子が言う言葉がどういうことなのかが即座に腑に落ちる。何度も繰り返し言っているが、日本は老子が説く理想が形となっている国なのです。

 

 

ちなみに、この映像のナレーションはこう言っている。

After 8 years of fighting, during which Japan has lost 2.5 million dead and killed up to 15 million overseas, the legacy of Japan's war would be long and painful.

(戦争から8年経ち、この戦争で日本は250万人の戦死者を出し、外国で1500万人を殺戮したのです。この戦争が日本に残した遺産は、長く痛ましいものとなるであろう)

 

 

 

また、このような記録も残っている。

 

(終戦時において)陛下に対する占領軍としての処分の仕方は、四つありました。一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。

 

いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。かつては一万八千人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。


陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さないように命じました。じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。

1945年9月27日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。ついに天皇をつかまえるべき時が来た。マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。


そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、


天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、


「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。

皆様方、日本は八千万人と言いました。どう計算しても八千万はおらなかったでしょう。いかがです?一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。じつは六六百万人しかいなかったのです。それをあえて、マッカーサーは、八千万として食糧をごまかして取ってくれました。


つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。


米国大統領からは、日本に一千万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、


『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』

 

と言いました。


彼は陛下のために、食糧放出を八千万人の計算で出してくれました。それが後で、ばれてしまいます。彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。

 

 

また、昭和天皇の母親である貞明皇太后にも以下のようなエピソードが残っている。

 

敗戦後、しばらく経っても、皇太后は黒パンの代用食を食べていた。ある人が、そろそろお米にも事欠かかぬようになってきたので、ご飯を召し上がっていただきたい、と申し上げると、皇太后は次のように答えた。

『はじめのうちは、わたしがたべなければそれだけお米がういて、誰かの分にまわつてゆくだろうと思つて代用食をはじめたのですが、そのうちだんだんなれて、いまでは却つてあの黒パンの方がよくなりました』

また、戦争がおわってからも、皇太后はもんぺを着用していた。戦後も何年か経つと、誰ももんぺをはかなくなったので、そろそろやめたらいかがかと進言する人がいた。すると皇太后は「あの戦争を覚えている人が一人くらいはいてもいいでしょう」と答えた。

同時に、昭和天皇の全国ご巡幸の手助けと思われてか、自分でも近くの学校や引揚者の寮や工場などに出かけて、国民を励ました。

特に皇后時代から取り組まれていた養蚕に関して、昭和22(1947)年、大日本蚕糸会の関係者から、節子皇太后を総裁にという声があがり、「何かの役に立つなら」と快諾した。空襲で国中の工場が破壊されて、外貨獲得のための輸出産業として養蚕業の振興に役立ちたいと、皇太后は積極的に各地の蚕糸業を視察して回った。

昭和26(1951)年5月17日、各地から大宮御所に来て清掃作業をしてくれた勤労奉仕の人々に挨拶をしようとしていた矢先に、皇太后狭心症を発症し、崩御された。

太后は「国民のおばばさま」と呼ばれるほどに、敬愛を集めていた。国民を子や孫のように肉親の情を持って慈しまれた御心を、国民の方も敏感に感じとっていたのだろう。まさに皇室の伝統精神を体現された生涯だった。 

No.839 国民のおばばさま、貞明皇后(上)

No.840 国民のおばばさま、貞明皇后(下)

 

 

私達の住む日本が建国から二千五百年以上をかけて磨き上げてきた魂は、ものすごく高尚なものである。他の民族が望めば簡単に手に入るものではなく、お金でやり取り出来るものでもない。

 

今更ながら先人達が築き積み上げて来た、目には見えない財産の価値に圧倒される。この財産を次の世代に引き渡すことが、日本人として生まれてきたことの義務なのだろう。