まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第六十五章】 玄徳の持つチカラ

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 4月 5日 友引  四緑木星

         甲戌 日/戊辰 月/甲午 年 月相 3.9 

         穀雨 末候 牡丹華(ぼたんはなさく)  

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 15.7℃ 湿度 72% (大阪 5:00時点) 

 

 

古之善爲道者、非以明民、將以愚之。

 

民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福。

 

知此兩者、亦稽式。常知稽式、是謂玄徳。

 

玄徳深矣、遠矣。與物反矣。然後乃至大順。

 

 

 

 

 

【書き下し文】

 

古えの善く道を為す者は、以(も)って民を明らかにするに非ず、将に以ってこれを愚かにせんとす。

 

民の治め難(がた)きは、その智の多きを以ってなり。故に智を以って国を治むるは、国の賊なり。智を以って国を治めざるは、国の福なり。

 

この両者を知るは、また稽式(けいしき)なり。常に稽式を知る、これを玄徳(げんとく)と謂(い)う。

 

玄徳は深し、遠し。物と与(とも)に反(かえ)る。然る後(のち)乃(すなわ)ち大順(たいじゅん)に至る。

 

 

 

 

 

【私的解釈】

 

古(いにしえ)の道に沿う人は、民衆を聡明にしようとしたのではなく、逆に人民を愚直にしようとしたのである。

 

民衆を治めにくいと感じるのは、彼らの知恵が多すぎるからである。だから、知恵を駆使して国を治める者は、国に害をもたらす。知恵を遠ざけて国を治める者は、国に幸いをもたらす。

 

この両者を熟知することは、政治の場で働く法則を手にすることである。世の中があまたの法則で支配されているということを知ると、玄徳(不可思議な能力)を手にする。

 

玄徳のチカラは底知れぬ深さであり、果てしなく行き届く。そして、充分に行き届いた後に万物を従えてまた戻ってくる。このようにこの法則に従うことにより、自然の流れにのることができるのだ。

 

 

 

 

 

【雑感】

 

子供の無邪気な笑顔や言葉が家族や社会に力を与える。これもこの世の中の法則である。

 

子育てをすることで、親がハッとさせられることが無尽に湧き上がって来る。

  

 

明治天皇御製の以下の和歌も、御自身が子育てをされる過程で感じられたおもゐを和歌にされているのだと思う。

 

思ふこと つくろふことも まだしらぬ をさなこころの うつくしきかな

 (胸に浮かび上がってくることを、取り繕ふことも全くしないで、そのまま言葉にする子供の心は、愛すべきものであることよ)

 

おもふこと おもふがままに いひ出づる をさな心や まことなるらむ

(天真爛漫に思ったことを思ったままに言葉にする子供の心が、人間に備わった誠の心であろう。誰に心を置くこともなく、赤裸々として、歯に衣着せず言葉でそのまま自分の思うことを言うは、即ち誠の心ではあるまいか)

 

明治天皇のお子様は、大正天皇である。戦後の学校教育において大正天皇について学ぶことはなく、どのようなお方であったのかうかがい知れない。今回、少し調べてみて初めて知ることばかりであったのでここに記録しておく。

 

特に明治天皇の系図には驚かされた。

  

大正天皇のエピソード

三島中洲の指導を受け、創作した漢詩の数は実に1367首もあり、質量とも歴代天皇の中でも抜きんでている[8]天皇は「歌よりも詩のほうがいい。お前たちも作れ」と侍従たちに盛んに詩作を勧めていた。また、和歌の数は岡野弘彦の調べによると456首が確認されている。岡野は、大正天皇の御製集の解説の中で歌の出来は相当なもので、特に「清涼さ」「透徹した描写」においては、明治天皇昭和天皇よりも優れていたと分析している。

 

皇太子時代に全国を巡啓し、京都帝国大学(現:京都大学)付属病院を訪れた時には、患者に声をかけ、患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このような思ったことをすぐに言動に出す性格は幼少期からのものであるが、嘉仁親王の性格を好ましく思わなかった明治天皇山縣有朋らに幾度となく窘められていたようである。

 

 

巡啓中には、有栖川宮の黙認もあって、非常に気さくに、身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召し列車ではなく、一般乗客と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を訪問、新潟県では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時は蕎麦屋(当時はあまり品の良くない場所とされていた)に入るなど自由奔放に振舞った。1911年(明治44年)4月に仙台市を行啓した際に台覧した競馬会では、競走中は終始立ち上がって観戦し、競走の度に御付の武官と馬を指さして話をしたり、競走の合間を待ちかねて幕の隙間より裏手の馬の係留所を覗こうとするなどした。これらは当時、明治天皇が一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。

 

親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって結婚は非常にうれしい出来事だったようである。結婚後は明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。

 

即位前は4人の息子たちと気軽に合唱を楽しむなど良き父親であったという。

 

これらは、戦前、天皇が現人神とされた時代のエピソードである。

 

そして、戦後になって以下のエピソードが語り出された。ここにも戦後体制のつまらない意図が見え隠れしていると思えてならない。

遠眼鏡事件

「遠眼鏡事件」とは、「大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説[10]が流布されており、「大正天皇暗愚であった」と誤って評価される要因の一つであると言われる。

 

この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出されたこと自体が戦後であり、言論の自由が保障されて左翼思想が力を持ちつつあった1950年代後半にほぼ集中している[11]という[4]。 この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている[12]

 

また、大正天皇脳膜炎を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説[13]もある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自体におかしな点はない。

 

それに対して、「戦前には不敬罪があり、皇室の噂は封印されていたもの[14]であり、(風説の報道が共和制思想が広まりつつあった1950年代後半に集中しているからといって)虚構との説明には説得力がない」という意見もある。いずれにしても、この「事件」の噂が代表するように、大正天皇についての情報は肉親や、利害関係者の証言や、また聞きレベルの噂など客観性が乏しいものが多い。

 

 

昭和天皇のこの言葉に全てが現れている。 

 

「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」

 

この時代に大正天皇をそのまま受け入れられる空気が世の中に満ちていれば、もしかして歴史が変わっていたのかもしれないと、フト思った。 だからこそ、平和な現代に大正天皇のおもゐを知ることは大事なことだと思う。

 

大正天皇漢詩を紹介する。大正天皇は身体が弱く皇太子時代から欧州への外遊を希望していたのに、終生この願いは叶わなかったそうです。

 

『夢遊欧州』

春風吹夢臥南堂 無端超海向西方

大都楼閣何宏荘 鶯花幾処媚艷陽

倫敦伯林遊観遍 文物燦然明憲

誰問風俗弁長短 発揮国粋吾所望

 

 

【書き下し文】

 

『夢に欧州を遊ぶ』

春風夢を吹いて南堂に臥(が)す 端無くも海を超えて西方に向かう

大都の楼閣何ぞ宏荘なる 鶯花(おうか)幾処か艷陽(えんよう)に媚ぶ

倫敦(ロンドン)伯林(ベルリン)遊観遍(あまね)くし 文物燦然(さんぜん)として憲章明らかなり

誰か風俗を問うて長短を弁ぜん 国粋を発揮する吾が望むところ

 

 

【私的解釈】

『夢の中でヨーロッパを外遊する』

春風に吹かれて南の部屋に微睡(まどろ)めば 思いもかけず夢は西方へと駆け巡る

大きな都の楼閣はなんと立派なことか 小鳥や花々がそこここに春の光を浴びて映えている

ロンドン、ベルリンあまねく巡る 異国の文化は鮮やかで異国の制度は素晴らしいものである

誰が異国の風俗の長短を論(あげつら)うことなどしようか 日本の伝統を光り輝かせて社会に活かすことが私の望みなのだ。

 

 

この詩に大正天皇の正氣が満ちている。

漢詩人大正天皇―その風雅の心

漢詩人大正天皇―その風雅の心

 

 

 

話を戻す。

親は子供を育てることで自らも成長する。だから、子育てする親であふれる世の中は、社会も成長する。

 

だとすれば、未婚の人達が増加し、少子化を突き進む現代は、社会も退化して行くのが自然の流れである。

 

 

また、世の中の影でこのような問題も静かに静かに進行しているみたいである。

明日ママ論争で語られなかったこと ― 施設収容という人権侵害 「すべての子どもに家庭を」(土井 香苗) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

社会全体におもゐを遣るとそこには必ず問題を解決するヒントが潜んでいる。これも法則であろう。

 

私は、今日感じたおもゐを胸に我が道を進む。