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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【二宮翁夜話 巻之一 十二】 道を行ふの難易

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 3月20日 仏滅  四緑木星

         庚申 日/己巳 月/甲午 年 月相 19.3 

         清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)      

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 10.6℃ 湿度 53% (大阪 6:00時点)

 

 

 

翁曰く。

 

道の行はるるや難し、道の行はれざるや久し。その才ありといへども、その力なき時は行はれず。其の才その力ありといへども、其の徳なければ又行はれず、其の徳ありといへども、その位なき時は又行はれず。

 

然れども是れは是れ大道を國天下に行ふの事なり。その難き勿論なり。然れば何ぞ此の人なきを憂へんや、何ぞ其の位なきを憂へんや。茄子をならするは茄子作り能くすべし、馬を肥すは馬士(まご)能くすべし、一家を齊(ととの)ふるは亭主能くすべし、或は兄弟親戚相結んで行ひ、或は朋友同志相結んで行ふべし。

 

人々此の道を盡(つく)し、家々此の道を行ひ、村々此の道を行はば、豈國家興復せざる事あらんや。 

 

 

 

【私的解釈】

 

尊徳翁が言う。

 

道(おもゐ)が形にされるのは難しく、道が形にされなくなってしまって長い間が経つ。才能があっても力を備えなければ形に出来ず、才能と力を備えていても徳が無ければ又形にすることが出来ず、徳があっても地位に恵まれなければ又形にすることが出来ない。

 

しかしながら、これは大道で国全体を貫き通す事業であるから、難しいのは当たり前のことである。こう思えばどうして実現出来る人がいないと憂いようか!地位に恵まれないと憂いようか!茄子を実らすには茄子作りに専念すべきで、馬を肥らすには熟練の馬士を召すべきで、家族を調(ととの)えるには亭主がリーダーシップを発揮すべきなのだ。又、兄弟親類一族が協力し合い、又、親友同志が協力し合うべきなのだ。

 

一人一人がこの道の実現に身を尽くし、家々がこの道を行い、村々全体がこの道を行えば、必ず国は復興するのである。

 

 

 

【雑感】

 

道徳を教科とするというだけで世の中は大騒ぎをする。本当に馬鹿げている。たかだか学校の教科になっただけで人間の心が簡単に教化されるワケがない。

 

道徳など結局は自分自身の心次第なのだ。高邁な道徳教育をクドクド受けたところで受け手の心の器に穴が開いていれば、全て漏れ出してしまうのだから。

 

賛成や反対という二者択一ではなく、とりあえず導入してみてから判断したら良いのであって、大騒ぎする輩には子供の教育という観点以外の思惑を感じざるを得ない。

 

時事公論「道徳を教科にするのはなぜ?」

2013年12月03日 (火) 午前0時~
 
道徳教育を充実するため、今は正式な教科となっていない道徳の時間を「特別な教科」に格上げする。文部科学省有識者会議は、こうしたことを盛り込んだ報告案をまとめました。これまでたびたび議論になりながら見送られてきた道徳の教科化を、なぜ今、認めようというのかを考えます。

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道徳の時間は、小中学校で週1時間程度行われています。子どもたちの命を大切にする心や善悪の判断など規範意識を育てようと、文章を読んで、登場人物の気持ちを話し合ったり、ディベートなどを行ったりすることもあります。子どもたちの内面を国語や算数・数学といった教科と同じように評価するのはなじまないといった理由から、教科とは別の枠組みになっています。中学校でもクラスの担任が教え、道徳の教員免許はありません。教科書はなく、点数で成績を付けることはしないことになっています。

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2日に示された有識者会議の報告案は、▽道徳の時間を「特別の教科」に格上げする。▽国の検定を受けた教科書を導入する。▽数値によって成績は付けないものの、記述式によって評価することを求めています。報告案の内容は、きのうの会議でおおむね了承されました。年明けにも文部科学大臣の諮問機関、中央教育審議会に道徳の教科化が諮問される運びです。

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道徳の教科化は、道徳が学校教育の現場に位置づけられた1958年以降、懸念となり続けてきました。反対意見の一方で、一部の人たちの間では、連合国軍総司令部によって廃止された「修身」に代わるものとして、戦後の総決算の象徴として道徳を教科とすることが悲願とされてきました。第1次安倍内閣の下で設置された「教育再生会議」も6年前、子どもたちに高い規範意識を身につけさせるため、道徳を「徳育」という正式な教科とするよう提言していました。中教審が道徳教育は子どもたちの心の内面を育てるもので、検定教科書を使うことや成績をつけることにはなじまないと最終的に判断し、実現には至らなかった経緯があります。

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今回、なぜ、道徳の教科化を再びそ上に載せることになったのでしょうか。きっかけは、大津市でいじめを受けた中学生が自殺した問題でした。再び政権の座についた安倍総理肝いりの教育再生実行会議がことし2月にまとめた第1次提言の中で、いじめ対策の一つとして道徳教育を教科として位置づけることを盛り込んだのです。この第1次提言は、実質1回だけの議論という異例の早さでまとめられました。

この提言を受けてことし4月に発足したのが、今回の有識者会議です。道徳教育の研究者や、文部科学省のOBなど17人が委員に選ばれました。委員の多くは、道徳教育に積極的な立場です。下村文部科学大臣は、「道徳教育の充実に向けて踏み込んだ議論をしてもらえる人選を行った」と期待を示していました。

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有識者会議は、なぜ道徳を教科にする必要があるのかという疑問にどう答えているのでしょうか。報告案は、一部の学校で道徳の時間を他の時間に振り分けたり、学校や教師によって道徳の指導方法や内容に差があったりして、道徳教育の現状は、期待される姿には程遠いと指摘しています。「いじめ防止に大きな効果が期待できる」、「学校教育の真の中核としての役割を果たせるようすべき」ことなどを理由に、教科化が必要だとしています。

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報告案に対し、道徳の教科化に積極的な人たちは、道徳を教科と位置づけることによって、教師の意識を変える効果を期待します。研修の充実や教材の開発など、予算的な後押しも行いやすくなると言います。

これに対して、教科化に慎重な人たちは、道徳教育は、これまでもほぼ10年ごとに学校の授業内容が改訂されるたびに内容の充実が図られていると指摘します。確かに、文部科学省が心のノートという副読本を作って全員に配ったり、4年前からは、学校ごとに「道徳教育推進教師」を置いたりしてきました。こうした現状を踏まえ、教科になれば教師はみんな努力して、一定水準の授業が行われるようになるというのも短絡的と指摘します。

今でも工夫を凝らして道徳教育を進めている学校はいくらでもあるからです。むしろ個々の工夫に頼っている部分をサポートし、教師が授業の中身を構想したり展開したりする力量を付けるための方策こそ求められていると言います。

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本来、教科とするためには、検定教科書と数値による成績評価、中学校では、教科の免許を持つ教師が指導することが必要とされています。このため、報告案では、検定教科書の導入を求めました。これには、心のあり方を学ぶ道徳に文部科学省の検定作業がなじむのかという意見があります。文部科学省は、検定教科書とすることで、複数の教科書会社が競い合ってよりよい教科書作りにもつながる効果が期待できると言います。しかし、一つの教科書が採択されれば、それを使うことが義務づけられます。現場の教師の中には、今まで自分たち自身が子どもたちの様子をみて、複数ある副読本から必要なものを選んだり、独自の教材を使ったりしていたのに、これが制限されることになり、多様な考えを教えることができなくなるのではないかという声があります。

一方、数値で成績を付けることについては、今回も適切ではないという意見が多く、報告案行わないとしています。ただ、記述式の評価はするということになりました。委員からは、ある程度の評価は、子どもたちを育成したり、道徳性を高めたりするためには必要という意見も出ました。これには、担任の前でだけいい子でいるといった「大人の顔色をうかがう」子どもが増えることを懸念する声があります。さらに道徳の教員免許は設けないということですから、本来の教科の用件は満たしません。そのため「特別の教科」という新たなカテゴリーを設けることになりました。

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さて、今回の端緒となった、いじめと道徳教育の関係についてはどのような議論が行われたのでしょうか。子どもたちに相手のことを敬う気持ちを教えるのは重要ですが、会議の中では、道徳教育の充実がいじめ対策に有効なのか、実態の検証を踏まえた議論はありませんでした。それでも報告では、いじめ防止を道徳が教科化される必要性の根拠の一つとして明記しています。教科化しても、いじめが減らない場合はどうするのか。結局教科となった道徳の中で教える中身にさらに国が介在することになり、道徳教育が窮屈な型にはまっていくのではないかと心配する専門家もいます。

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有識者会議は、報告の中で、道徳教育を充実する方策として、子どもたちに社会に主体的に参加する意識を高めたり、生命倫理や情報倫理と言った多様な価値観が必要な題材を活用したりすることも求めています。道徳の教科化の問題は、再び中央教育審議会の場で審議が行われます。前回、道徳の教科化を見送ったのは、中教審でした。当時と今とで、何が違って何が求められているのか。

教科化ありきではなく、子どもたちに何が必要なのかを具体的に指し示すための慎重な議論が求められています。
 
(西川龍一 解説委員)

 

 

情報が錯綜する現代は、邪鬼が放つ邪悪な電波が飛び交っている。この電波に影響されない為には己の受信感度を高めないといけない。

 

白洲次郎の言葉

プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることが絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい

(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)

 

このプリンシプルこそが受信感度となるものだと思う。そして武士階級において徹底されていた教育こそ道徳教育(修身)に他ならないのだ。

 

このことからいつの時代も子供への道徳教育が必要なのは当たり前なことで、その教育を学校に放任するのではなく、そもそもが家庭で行うものなのである。学校教育で道徳云々が取り沙汰されるということは、親世代の道徳観念の欠如が現象化したに他ならない。