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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【マヤ暦占い】 タモリさんの足跡を透かして見る

 

<私の恩人>ホリケン、タモリさんの笑顔が僕の転機になった!

2014/04/06 10:00

予測不能なボケでオンリーワンの道を突っ走る、お笑いトリオ「ネプチューン」の堀内健さん(44)。初めて脚本を書き下ろした舞台「恐怖 タコ公園のタコ女」(東京・本多劇場、5月3、4日)も上演されることになり、さらに“ホリケンワールド”が広がりを見せています。仕事でもプライベートでも、芸人仲間から“THE自由”と評されるほどの堀内さんですが、ずっと心に秘めてきたのは、タモリさんへの感謝だと言います。

 「タモリボキャブラ天国」(フジテレビ系)に出て、本当に全部変わりましたからね。家も風呂付きになりましたし、車も買えたし、新幹線もグリーン車に乗せてもらえるようになりました。一気に変わりました。それまでって、例えば、ショッピングセンターとかでイベントをやるじゃないですか。もともと3回ステージをやる予定だったのが、1回で終わっちゃうんですよ。お客さんが全然来ないから、1回やっただけで「もう帰っていいですよ」って。

でもね、「ボキャブラ」をやってからは、お客さんが集まりすぎて危ないので、3ステージが1ステージだけで打ち切りになっちゃうんです。ただ、僕らは最初から「ボキャブラ」でうまくいってたわけではなかったんです。というのは、今も昔も変わらないんですけど、僕が、ま、変なことをやって(笑)、それがスタッフさんに「よく分からない」と言われたりしてたんですよね。

例えばですか?う~ん、そうだなぁ、いきなり「ペリカン!!」って叫んだりは、よくしてましたよね。なんでしょうね、叫びたくなっちゃうんですよ。でも、そういうことをやると、スタッフさんからは「それはやめた方がいい、意味が分からない」と言われちゃうんです。ま、そりゃ、当然なんですけどね(笑)。

そんなことが何週か続いて、ある週の収録後に「それは、キミがもっと知られる存在になってからやった方がいい。それまでは、普通にしておいた方がいい」なんてことも言われました。まぁ、なんでしょう…、正直、いろいろ考えました。何とも言えない重たい気分のまま、スタジオ近くで1人座ってると、向こうの方に人影が見えたんです。僕、目があまりよくないので「あれ、誰だろう?」と思いながらそちらを見ていたら、こちらに笑い声とともに、聞き覚えのある声が聞こえてきたんです。「何、ずっとにらんでんだよ(笑)」。


タモリさんだったんです。タモリさんが満面の笑みで、そう言って来てくれたんです。言葉としては、それだけなんです。でも、その時の僕には、ものすごくありがたかった。「スタッフの人には、ああ言われてしまったけど、タモリさんは怒ってないんだ」と思えたというか。

自分でも、何と説明したらいいのか分からないですけど、その笑顔を見た瞬間、もやが一気に晴れたんです。迷いがなくなったというか「結局、タモリさんが笑ってるんだったら、それでいいんじゃないか」という思いになれた。落ち込んでいることをタモリさんが知って、励ましの意味で笑顔を向けてくれたのか。それとも、偶然なのか。こんなお話をタモリさんにしたことはないですし、答えを直接うかがったわけでもないんですけど、その時の僕にとっては、すごく、すごく大きな笑顔だったんです。

実際、翌週からは思いっきり、やりたいようにやりました。すると、迷いなくやってるからなのか、それはそれでスタッフさんからも認めていただけるようになり、番組の中でも上位に食い込めるようになってきて、他のお仕事も増えていったんです。タモリさんは面と向かって、アドバイスだとかそういうことをおっしゃる方ではないんですけど、あの笑顔が、間違いなく僕の転機でした。

タモリさんに恩返しですか?……う~ん、何をするのがいいのかな、難しいですね。あっ、タモリさんって、「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系)で、車に乗って各地のトンネルをめぐる特集をするくらいトンネルが好きなんですよね。だから、僕が金持ちになったら、タモリさんを喜ばせる“タモさんトンネル”を掘りたいと思います。

でも、タモリさんは歴史あるトンネルが好きだからなぁ。新しく掘っても、歴史ばっかりは付け加えられないですもんね。でも、やっぱり本人が喜ぶことが恩返しですから、そうなると、トンネルなんですよね…。

…どうですか、原稿になりそうですか?(笑)。

(取材・文/中西正男/株式会社KOZOクリエイターズ(https://www.facebook.com/kozo.GNN))

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タモリさんってどんな人なんだろう。私達はテレビで見せる顔しか分からない。ちょうどタモリさんのエピソードが溢れ出ている時期なので、マヤ暦占いの結果と身近な人々が語るエピソードを交えて紹介したいと思う。

 

 

ビートたけし「一言でいえばタモリは白米のようなタレント」

2014.04.05
 
32年の歴史に幕を閉じた『笑っていいとも!』(フジテレビ系)、最後のテレフォンショッキング(3月31日)にゲストとして呼ばれたビートたけしが、同番組の司会者・タモリについての思いを語った。

 * * *

最近じゃ、いろんな人がタモリのことを論じているようだけど、一言でいえば、この人っていうのは「白米のようなタレント」なんだよな。オカズが毎日どんなものに変わっても、結局は欲しくなる「変わらなさ」を持ってるってことでさ。

『いいとも!』には、芸人にしても、アイドルにしても、その時々の「旬」といわれるヤツラが揃うわけだけど、それはいってしまえば「日替わりメニュー」のオカズでね。目新しくて一時は注目されるけど、毎日食ってると飽きちまうというさ。

激辛の辛子明太子やスパイスタップリのエスニック料理も、たまにならいいけど毎日食おうとは思わない。いくら高級品だからって毎日キャビアやフォアグラを食ってちゃそのうちウンザリしちまうってことでさ。「いいとも青年隊」なんて、本当の産地がどこかもわからない安いインスタント食品だよ(笑い)。まァ、結局オカズってのはいつか飽きられちまうんだよな。

タモリは、『いいとも!』ではとにかくライスに徹したね。オイラだと「たまには何か変わったことをやってやろうか」となっちゃうところを、とにかく淡々とやってた気がする。

とはいえ、今や「炭水化物ダイエット」が当たり前になっちゃった時代だからね。飽きのこない白米タレントとはいえ、「別に必要ない」っていわれちゃいかねない世知辛い世の中なんでさ。『いいとも!』が必要とされなくなったっていうのも、そういう時代の変わり目ってことかもしれないよな。

 ※週刊ポスト2014年4月18日号

 

 で、マヤ暦で占ってみると、

 

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銀河の数が大きいです。マヤ暦のこの数字は中々侮ることが出来ません。70より大きい人は何かしらの使命を帯びて生まれて来たものと考えられます。

 

この表から分かるタモリさんの人柄は、以下の通りです。

 

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この性格は社会生活で見せる顔です。

 

以下の性格は生まれてから変わることのないポリシーを司る性格です。

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タモリ - Wikipediaから興味深いエピソードを抜粋します。

 

本人曰く、幼少時代より大人びており、「偽善」という言葉を知っていたと語り、幼稚園入園時期が迫り、園を見に行ったおり「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転しながらお遊戯している園児達を見て、ぼくにはできないと入園拒否[2]小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。また「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と、冗談めかして語ってもいる[3]。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を会長と副会長の2名で設立している。

 

小学生の頃、祖母に「今の内からも料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言う時に困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことをタモリは「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。その為、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作ろうとした時には、タモリ一人で大体の料理を作ったり、だしの取り方まで全部覚えていたと語っている。

 

 芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという[11]

  1. だれの弟子にもならない
  2. 組織には属さない
  3. をなるべくさげずにカネをもうける
  4. 色紙サインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない

これらの方針により、芸人として先輩にあたる人物でも年下相手には敬語を使っていない。

 

 

タモリ論』著者 「彼の狂気を皆さんに知ってほしかった」

2013.07.29 07:00

『さらば雑司ヶ谷』や『民宿雪国』などの小説で知られる作家・樋口毅宏氏が書いた『タモリ論』(新潮新書)が話題だ。発売1週間で6万部を超えるベストセラーとなっている。

なぜ敢えてタモリについて論じようと思ったのか。樋口氏が語った。

 * * *

1971年生まれの僕より若い世代の多くは、タモリや『笑っていいとも!』について、「どこが面白いのかさっぱりわからない」といいます。

確かに、僕もかつて、「テレフォンショッキング」というコーナーの冒頭で、タモリがスタジオを観覧している客に何か尋ねると、客がそのたび声を揃えて「そうですね!」というやり取りを、いかにも馴れ合いで不毛な予定調和だとバカにしていました。

一方で、40代を過ぎた上の世代のタモリ好きは、イグアナの物真似や4か国語麻雀といったアングラ芸を挙げて、「『いいとも!』以前のタモリはすごかった」と口を揃えます。

僕は『いいとも!』のタモリを論ずることで、両者の橋渡しをしたいと考えました。

4年前、徳光和夫が『いいとも!』に出演した際、「タモリさんはいつから飄々となったんですか? タモリさんって割と、深夜向きのタレントさんで結構過激なことをやってらしたんですよ」というと、タモリが「いまでいうと江頭2:50がやるようなもん(笑い)」と答え、観客が驚きの声をあげる場面がありました。

深夜番組担当のアングラ芸人を自認していたタモリが、突然の抜擢によって毎日数百万人が視聴する生放送の司会を引き受け、それを30年以上も続けている。まともな人ならとっくにノイローゼになっていますよ。

でも、タモリは狂わない。それは一体なぜなのか。そして一つの答えに行きつきました。

タモリは、自分にも他人にも何一つ期待していないのです。タモリは、すべてに「絶望」している。その絶望を引き受けながら『いいとも!』の司会をし続ける彼の狂気を、みなさんに知ってほしかった。 

『タモリ論』著者 「彼の狂気を皆さんに知ってほしかった」│NEWSポストセブン

 

  

そして、タモリさんと言えば赤塚不二夫さんとの関係です。

 

福岡で生活しつつ、カンパの資金で月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を送り始めたタモリだったが、同年夏、面白い事をやっている人間がいるという噂を聞きつけた、赤塚不二夫タモリの元を訪れる。赤塚は、タモリの即興芸に心酔し、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組タモリを出演させる事を決意。放送までまだかなり日数があったため、タモリは福岡に帰ることを望んでいたが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、常人ではありえない発想でタモリを引き止めた。

 

1975年当時、赤塚は4LDKのマンションに住み[10]ベンツのスポーツタイプなどを保有する売れっ子漫画家だったが、それら全てを自由に使っていいからと東京に残ってくれとタモリに懇願。タモリはこれを了承し、赤塚宅での居候生活が始まる(タモリや赤塚らは「居候」と言っているが、実質的には居候ではなく「生活スペースの交換」)。赤塚宅に住み始めたタモリは、「ジャックの豆の木」を始めとした飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎする日々を送り、赤塚からは月に20〜30万円の小遣いが渡されるという破格の居候生活を送った。

 

なお、生活スペースをタモリに譲ることになった赤塚は、仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝場所を確保するなど、侘しい生活を送った。赤塚が着る服がなくなりやむなく「赤塚宅」に一時帰宅した際に、探していた服をタモリが着ていたという笑い話がある。タモリが考える居候の秘訣は、「卑屈になるな」。

 

その後、バラエティ番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日放送、NET)で、テレビ番組初出演をした。インチキ牧師などのパフォーマンスを次々と披露していき、偶々、番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰?すごいじゃない」とその夜のうちに問い合わせがあり、次いで長寿トーク番組徹子の部屋』(テレビ朝日系列)に赤塚とともに2回目のテレビ番組に出演をした。

 

ここで、今は亡き赤塚不二夫さんもマヤ暦で見てみました。

 

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はい、お約束の銀河の数は74と大きいです。

 

性格は以下の通りです。

 

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弔辞 ( ノーカット版 ) - YouTube

 

 

 この弔辞を聞くとお二人の関係を奥底まで垣間見ることが出来ます。

 

人との出会いって素晴らしい奇跡なんですね。

 

 

 

【追記】

原稿を編集者になくされた赤塚不二夫のひとこと (1/2)
 2012年12月31日 00時01分 更新
 

天才ギャグ漫画家、赤塚不二夫のエピソードです。『天才バカボン』を描き上げた赤塚不二夫、締め切り前日に編集者に原稿を渡します。しかしその後、大事件が起きてしまいます。

「原稿をタクシーに置き忘れて、なくしてしまいました!」と編集者が真っ青な顔で戻ってきたのです。タクシーとは連絡がつきません。しかし、翌日には原稿を印刷所に渡す必要があります。まさに大ピンチ! しかし、赤塚不二夫はまったく怒ることなく、「ネーム(脚本のようなもの)があるからまた描ける」と言い、さらに……。

問題:
このあと、赤塚不二夫が言った驚きの言葉は何だったでしょう?
出だしは「まだ少し時間がある……」です。

答え:「まだ少し時間がある。呑みに行こう」

 

これはもちろん、落ち込んでいる編集者を気遣っての言葉です。呑んで戻った赤塚は、また数時間かけて同じ話を描きあげて「2度目だから、もっとうまく描けたよ」と言い、その原稿を編集者へ渡したそうです。もし私が編集者でこんなことをされたら、帰りのタクシーの中で号泣してしまうこと間違いないです!

 

この話には後日談があります。紛失した原稿が、1週間後にタクシー会社から赤塚不二夫宛てに郵送されてきました。「2度と同じ失敗を繰り返さないように、おまえが持ってろ」と、赤塚不二夫からその原稿をプレゼントされた編集者は、その後35年間も自分への戒めとして持ち続けたそうです。

そして、赤塚不二夫が亡くなったとき「この原稿の役目は終わった」と、フジオ・プロ(赤塚不二夫のプロダクション)を仕切る、娘のりえ子さんに原稿を戻したのです。だから、フジオ・プロには現在、『天才バカボン』の同じ回の原稿が2つ存在するのだそうです。

ファンからも出版関係者からも愛された彼の葬儀の参列者は、1200人に及びました。本当の優しさを持った赤塚不二夫が、いかに慕われていたかが分かります。

完璧な仕事や勝ち負けにこだわっていると、誰かが失敗した時についそれを責めてしまうものです。でも、完璧な人間なんていないのですから誰でもミスを犯します。本当に優しい人とは、誰かが失敗したときやトラブルが起きた際にも周囲を気遣うことができる人なのです。

世界的な思想家の孔子が、人生において最も大切だと言っていた事は「恕(じょ)」。この「恕」とは、「思いやり」のことです。彼も、思いやりこそが大事だと説いていたのです。

ドラえもん』の「のび太の結婚前夜」の回で、のび太との結婚を不安に思うしずかちゃんへ、彼女のパパが贈る言葉です。

 「のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとって大事なことなんだからね」

しずかちゃんのパパ、男の……いや人間の本当の価値を分かっています。このセリフ、きっと藤子不二雄が娘に贈りたかった言葉だったのでしょう。「仕事ができる」よりも、「優しさ」の方が大切だということ。優しさを持つのび太こそ、一生のパートナーにふさわしい相手なのです。

本日の一言:ピンチのときに相手の事を考えられる人こそが、本当に「器の大きい人」。

【出典】『バカボンのパパよりバカなパパ』(赤塚りえ子著、徳間書店)、『100分 de 名著』(NHK)、『ドラえもん 第25巻』(藤子・F・不二雄著、小学館

クイズ王のすごい考え方:原稿を編集者になくされた赤塚不二夫のひとこと (1/2) - Business Media 誠