まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第三十八章】 道が織りなす階層

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 2月 30日 先勝  四緑木星

         庚子 日/戊辰 月/甲午 年 月相 28.8  

         春分 次候 桜始開(さくらはじめてひらく)     

 

【今日の気象】 天気 雨 気温 13.7℃ 湿度 83% (大阪 6:00時点) 

 

 

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。

 

上徳無爲、而無以爲。下徳爲之、而有以爲。

 

上仁爲之、而無以爲。上義爲之、而有以爲。上禮爲之、而莫之應、則攘臂而扔之。

 

故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後禮。

 

夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。

 

是以大丈夫、處其厚、不居其薄。處其實、不居其華。故去彼取此。

 

 

 

 

【書き下し文】

 

上徳(じょうとく)は徳とせず、ここを以(も)って徳あり。下徳(かとく)は徳を失わざらんとす、ここを以って徳なし。

 

上徳は無為にして、而(しか)して以って為にする無し。下徳はこれを為して、而して以って為にする有り。

 

上仁(じょうじん)はこれを為して、而して以って為にする無し。上義(じょうぎ)はこれを為して、而して以って為にする有り。上礼(じょうれい)はこれを為して、而してこれに応ずる莫(な)ければ、則(すなわ)ち臂(うで)を攘(はら)ってこれを扔(ひ)く。

 

故に道を失いて而して後に徳あり。徳を失いて而して後に仁あり。仁を失いて而して後に義あり。義を失いて而して後に礼あり。

 

それ礼なる者は、忠信の薄きにして、而して乱の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)なる者は、道の華にして、而して愚の始めなり。

 

ここを以って大丈夫(だいじょうぶ)は、その厚きに処(お)りてその薄きに居らず。その実に処りてその華に居らず。故に彼れを去りて此れを取(と)る。

 

 

 

 

 

【私的解釈】

 

最上の徳を持つ人間は徳など意識していない。こういう人は真の徳を備えている。徳が少ない人間は徳を追い求めてしまう。こういう人に徳は無い。

 

最上な徳は自然にそこにある。だから意識されることはない。下品な徳は、これを行うと下心が際立つ。

 

最上の思い遣りは、これを行っても下心が際立たない。最上の正義は、これを行うと下心が際立つ。最上の礼儀は、これを行った時に応対がなければ腕を振り上げて非難される。

 

つまり、道を逸れてしまった時に徳の必要性が説かれるのだ。徳が失われると思い遣りの必要性が説かれる。思い遣りが失われると正義の必要性が説かれる。正義が失われると礼儀の必要性が説かれる。

 

礼儀を求める者は、人を信じるというおもゐが薄く、こういう者が蔓延り出すと世の中が乱れる。説く者は上辺だけの者であり、愚を先導する者なのだ。

 

だからこそ、本当の立派な人間は常におもゐが厚く、これが揺るぐ時がない。常におもゐを形にすることを大切にして私心を捨てる。つまり、他人の目を気にせずただ己のおもゐに忠実なのだ。

 



【雑感】

 

人から湧き立つおもゐは無意識、自分、他人を自由に行き来する。

 

自分から湧き立つおもゐを無意識に行動に移すこと、これが上品な徳なのだろう。自分自身でさえも行動したことが意識されず、条件反射的に行動に移してしまっている。

 

誰にでも上品な徳は備わっている。目の前で子供が溺れたら条件反射的に助けようと飛び込むだろう。

 

同じように最上の思い遣りも条件反射的に発露される。

 

こられらに対して、湧き立つおもゐを意識のフィルターに通してしまうと、行動に格差が生じてしまう。尊い行動や卑しい行動が入り混じるのだ。

 

人の価値観は多様であるからこのような差が生じるのは当然だ。人間社会とは清濁が相まみれる、ドロドロした所なのだ。

 

人間が欲望にまみれると、ただの動物に成り下がる。こうなりたくない人達が無意識に心の病気や引きこもりを引き起こして、人間社会から距離を置くことで動物に成り下がるのを防御しているのだろう。

 

この無意識が持つ偉大さに目をつけて、これを解き明かそうとしたのが仏教なのだ。

 

仏教のいうところによると、悠々ゆうゆうたる心が自分である。これを仏教では真我といっている。しかし人はまたしても五感でわかるものしかないと思いがちであるから、五尺のからだを自分と思う。これを仏教では小我という。

 

仏教は小我は迷いであるから、真我を自分だとさとれと教えているのである。真我は不死である。不死を自覚している人を不死の人という。西郷隆盛は大丈夫であるための条件をいろいろ並べたが、たいせつなのは、はじめの2つである。「命もいらず、名もいらず」しかしこれは容易に行なえないのであって、易々とその通りに行為することは、不死の人にしてはじめてできるのである。

 

また、真我の人は、すべての人の喜びを自分の喜びとし、すべての人の悲しみを自分の悲しみとしている。つまり観音菩薩かんのんぼさつと同じ心である。わたしは仏教のいうところをそのまま信じるつもりはない。自然科学と同じように、自分の目で見ようと思って、すでにはじめている。

 

しかし、物質的自然は肉体にそなわった五感でみればよいのであるが、仏教のいうところを自分の目で見ようとすると無差別智という目をじゅうぶんに用意しなければならない。これにはながい修行がいる。だからそれまでの間は仏教のいうところを信じているより仕方がないのである。

 

 

自然科学はすぐに自分の目でたしかめられる学問である。そのかわり物質現象のごく一部分しかわからない。仏教の上にのべた部分は、この自然科学にかわる学問である。そのかわり、自分の目でたしかめるのにながい時間がかかる。その間は信じるより仕方がない。仏教の根本的な部分を信じるとはこういう意味である。

岡潔講演録(10):【 5】 真我と小我 (仏教の根底を信じよ)