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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【井原西鶴 好色五人女 八百屋お七】 その二 おもゐの交錯

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 2月 22日 大安  四緑木星

         壬辰 日/戊辰 月/甲午 年 月相 20.8   

         春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)   

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 4.7℃ 湿度 37% (大阪 6:00時点)

 

 

 

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油断も隙もない世の中である。
 
 
その中でも特に人目にさらしてならぬものは道中の所持金、酔っ払いに脇差し、それに娘のそばに生臭坊主だろう。
 
 
お七の親達はその寺を引き上げてから後は、厳重に娘を監視して、二人の恋を裂いてしまった。だが、二人は下女のお梅の情けで数々の文をやりとりして、互いのおもゐの程を知らせ合っていた。
 
 
ある夕暮れの事であった。板橋近在の村の者らしい子が、それが商売の松露(しょうろ)土筆(つくし)を手籠に入れて、売りに来た。お七の親もそれを買い取った。その夕暮れは、春とはいいながら大変な雪降りで、その子は村まで帰るのは難儀だとひどくこぼすのであった。
 
 
八百屋の亭主がそれを可哀想だと思い、何気なく、
 
 
「ちょっとそこら、土間の片隅にでも休んでいて、夜が明けたら帰るがよい」
 
 
と、言ってくれたので、有り難く思い、その子はごぼう大根が積んであるのを片付けて、竹皮の小笠で顔を隠し、腰蓑を身にまとって一夜の凌ぎとするのであった。
 
 
だが、夜が更けるにつれて、風は枕に吹き通し、土間はすっかり冷え込んで来て、あわや凍え死にそうであった。次第次第に吐く息も細くなり、目がくらんできた時、お七の声がして、
 
 
「さっきの子供が可哀想だよ。せめて白湯でも飲ませてあげなさい」
 
 
お梅が、茶碗に白湯を汲み、下男久七に手渡した。久七がそれを受け取り、子供に与えた。
 
 
「かたじけない御親切」
 
 
と礼を述べると、薄暗闇をいいことにして、久七が彼の前髪をいじりあそび弄(もてあそ)びながら(*1)、
 
 
「お前もこの江戸に住まわせたら、もう念友のある年頃だに、可哀想に」
 
 
と、言うのであった。
 
 
「いいえ、何とも賤しく育ちまして、田を鋤(す)く馬の口を取ったり、柴を切ったりすることしか、何も存じません」
 
 
と答えると、久七は子の足を弄(いじ)りながら、
 
 
「これは珍しい、皸(あかぎれ)もない綺麗な顔じゃ。ちょっとこっちに顔を向けぇい」
 
 
と、口を近づけて来るに、何か恐ろしく、切なくて、歯を食いしばって目を潤ませていた。すると、久七は思いついたように、
 
 
「いやいや、よそうよそう。ネギやニンニクを食った口かも知れん」
 
 
と、やめてくれたので、ほっとした。
 
 
その後、寝につく時刻となって、召使いの者達は、梯子を登って二階に上がり、燈火の影も薄れた。亭主が戸棚の錠前に注意すれば、内儀は火の用心のことをよく言い付けた上に、娘のことを警戒して、中戸をしっかり締めて行った。
 
 
夜中の二時の鐘が鳴っている時であった。家の表戸をどんどん叩いて、女と男の声がし、
 
 
「もしもし、婆さん。ただいま、おめでたがありましたよ。男のお子さんで、旦那さんが大変お喜びですよ」
 
 
と、しきりに呼び立てるのであった。家中の者が皆起きてきた。それは何よりの事だと、亭主夫婦もすぐ寝床から起き抜けて来、出しなに海人(まくり)甘草(かんぞう)(*2)を引っつかみ、かたかたの草履を履いたまま、お七に戸締りを言い付けて、大慌てで連れだって行った。
 
 
お七は戸締りをして戻る時、夕方のあの子のことが気に掛かるので、お梅に、
 
 
「その手燭を照らして」
 
 
と、子の様子を見ると、すっかり寝てしまっているのが、却って可哀想に思われた。
 
 
「よく寝ていますから、そのままにしておやりなさいませ」
 
 
と、お梅が言うのも聞こえぬ風をして、お七が近寄って見ると、肌に付けた兵部卿(*3)の匂い袋の薫りが鼻に来た。おやっと、笠をとりのけて見れば、貴族的な横顔に何か沈んだ陰が宿り、それでも鬢はほつれも見せていなかった。しばらくその姿に見とれていたが、吉三郎と同じ年頃の人と思い合わせて、もしやと袖に手を入れてみると、この姿に似合わぬ浅黄羽二重(はぶたえ)の下着をしていた。はっと驚き、よく見れば吉三郎であった。
 
 
「これまた、どうして、こんなお姿に」
 
 
と、お七は人に聞こえるのもかまわず、彼にしがみついて泣き出した。
 
 
吉三郎は顔を見合わせ、しばらく物も言えなかったが、ややあって、
 
 
「私がこういう姿に身を変えて来たのも、せめて一日なりと、そなたの顔を見たかったばかりになのだ。宵からの私の辛い思いを察しておくれ」
 
 
と、一部始終のことを一つ一つ語るのであった。
 
 
「とにかく、奥へお入り下さいまして、そのお恨みもお伺いいたしましょう」
 
 
と、手を引いてやったが、宵からの無理に身体が痛み、何とも出来ぬのは痛ましかった。下女と二人してようやくの思いで、手車にかき乗せ、お七の寝間に連れて行った。手の届く限り身体をさすり、色々と薬を与えた。
 
 
吉三郎もやった笑い顔が出来るようになったので、お七は喜び、歓んで、
 
 
「酒を酌(く)み交して、今夜の思いのたけを語り明かしましょう」
 
 
と、言っているところへ、生憎にも、親父が帰宅してきた。
 
 
吉三郎を衣桁(いこう)の陰に隠して、お七は白ばくれて、
 
 
「ほんとうにおはつ様は、母子ともにお丈夫ですか」
 
 
と言うと、親父は、
 
 
「たった一人の姪のことだから、とにかく心配したが、これでようよう重荷をおろした」
 
 
と、大変な機嫌で、もう初着の模様のことまで詮議し、
 
 
「万事めでたいづくめで、鶴亀松竹の模様を摺箔(すりはく)(*4)にした初着はどうだろうな」
 
 
と、言うのであった。
 
 
「そんなにお急ぎになられなくとも、明日ゆっくりお考えに」
 
 
と、お梅も力添えして、口々に言ったけれども、親父は、いやいや、こういう事は早いが良いのだと、木枕の上で鼻紙を折りたたみかけ、雛型を切り出したのは、情けなかった。
 
 
ようようそれも終わったので、色々だましすかして、親父を寝かせつけた。
 
 
積る思いは山々あったが、親父の寝床とは襖一重の間であったので、話し声の漏れるのが怖かった。行燈のもとに、硯と紙を揃えて、心の内を互いに書いて見せたり、見たりするのであった。
 
 
夜通し、書き口説いて、明け方は別れねばならなかったが、燃え募る恋のおもゐをそんなことでは尽くし得なかった。
 
 
吉三郎に対する恋をそれと人にも語らず、明けくれに悩む女心のはかなさ。また逢える方法とても考え付かなかったが、ある日、風の激しく吹いた夕方、ふと、いつぞやの火災に寺へ避難して行った時の騒ぎを思い出し、
 
 
(またああいう事があったら、吉三郎様に逢えるかも知れない)と、途方もない出来心を起こして、危険な事を決心したのは、誠に因果なことであった。
 
 
だが、わずかな煙が立ったばかりの内に、人々が見つけて騒いで、おかしいと調べたところ、煙の中にお七を発見した。尋問されて、お七は包み隠さず白状したので、世の哀れをそそった痛ましい処刑が行われた。
 
 
今日は神田のくづれ橋に身をさらせば、次は四ツ谷、芝口、浅草、日本橋にとさらし者にされた。集まり眺めた人達は皆、お七の姿を見て、哀れに思わぬ者は無かった。
 
 
しかし、お七は既に覚悟を決めたことであったので、身のやつれることもなく、毎日もとのままの美しい姿であった。きちんと黒髪を結った麗しい風情には、ほととぎすまでも十七の春を一期に散るお七を惜しみ鳴くかと思われるばかりであった。
 
 
その四月の初め頃、これが最後だと宣告され、覚悟を促されたが、少しもお七は取り乱したところもなかった。人の世は夢幻のようなものだと、唯ひたすら、極楽浄土を願っているお七の心根を、ひどく哀れに思って、手向花にといって咲き遅れの桜の一枝をくれた人があった。
 
 
それを手に眺めたお七は、
 
 
「 世の哀れ 春吹く風に名を残し 
           
            おくれ桜の 今日散りし身は 」
 
 
と、歌を詠んだ。
 
 
それを聞いた人達は、一層その痛々しさに同情して、引かれ行く女の姿を見送ったものであった。
 
 
それから、夕暮れの鐘の撞き出される頃、品川の向こう鈴ヶ森(*5)の仕置き場で、滅多の事では行われない、火焙(あぶ)りの刑(*6)に処せられた。
 
 
人はどの道煙となって果てる身の上、それを思えば、殊更お七を不憫に思わぬ者はなかった。それもすでに昨日のこと、今朝になって見れば、塵も灰も残らず、聞くものは鈴ヶ森の松風の音ばかりであった。旅人もその噂を聞き伝えて、素通りすることなく、必ず回向(*7)してその跡を弔って行った。その当日のお七の着ていた小袖、郡内縞のことまで色々詮索(せんさく)して、後の世の物語の種としたものであった。
 
 
こうして、何も縁(ゆかり)の無い人達さえ、お七の忌日命日には、梻(しきみ)を折り立てて回向してくれるのであったが、その契りを交した若衆だけがどうしてお七の最後にも現れなかったのか不思議だと、皆の者が噂していた。
 
 
ちょうど、その頃、吉三郎は、お七のことを苦慮する余り、病に伏し、意識も怪しくなり、もう助からぬらしく、余命いくばくも無いという容態であった。
 
 
傍の人々の心遣いで、お七の処刑を知らせては、もう殺すようなものだと、
 
 
「お七殿が平生言っておられた言葉の端にも、覚悟の程が見えて、身の始末までなされて最期を待っていられたのだが、人の命は分からぬもの、ふとしたことで助命になりました」
 
 
と、うまく取りつくろって言い聞かせ、
 
 
「今日昨日の内には、その方がここにお出でなさいましょうから、思うままお逢いすることも出来ましょう」
 
 
などとまで言うのに、一層吉三郎は自分の心を取り乱し、与える薬も飲まず、
 
 
「君よ恋し。お七はまだ来ないのか」
 
 
と、そのことばかり、うわ言のように言うのであった。
 
 
そのうちに、早や、お七の三十五日も来た。
 
 
「知らぬのも可哀想だが、今日はもう三十五日だ」
 
 
と、吉三郎には押し隠して、お七の回向をするのであった。それより四十九日となり、親類の者が仏前に小餅を供えに、寺を訪れて来て、せめてお七の恋人に逢わせて下さいと、悲しいことを言うのであった。
 
 
寺では、吉三郎の様子を言い聞かせ、
 
 
「また哀れな思いをするだけだから、まぁまぁ、そのままに逢わずに願いましょう」
 
 
と、道理を尽くして制止するのであった。
 
 
お七の親も、
 
 
「元々立派なお育ちのお方なそうだから、このことを聞きなされたら、きっとお生き長らえあそばされることもないだろう。それよりは、ずっと押し隠して、御病気も御本服されたその時、お七が言い残した事などもお聞かせ申し、語り慰め申して、せめて我が見の形見とでも思い、気晴らしにもいたしましょう」
 
 
と、卒塔婆を書き、墓地に立てて手向けの水に涙にくれながら供えて行った。
 
 
無常の習いといいながら、後に残された親の身となっては、何とも言えぬことであったであろう。
 
 
人間の命ほど、どうなるとも分からぬものはない。いっそのこと、死んでしまえば、怨みも恋もありはいないのに、吉三郎は、お七の百ヶ日に当たる日、初めて病床を離れることが出来た。
 
 
竹の杖にすがって、寺の中を静かに歩いている時、吉三郎に新しい卒塔婆が目に止まった。
 
 
その亡き人の名を読みとって、はっと驚き、
 
 
「自分は全く知らなかったのだが、人はそうは思うまい。気後れして生き長らえていると取り沙汰されるのも残念だ」
 
 
と、脇差しに手をかけたところ、法師がその手を抑え、懸命に留めて、
 
 
「どうしても死なれる御覚悟ならば、これまで親しかった人に暇乞いなされ、長老様にもその訳をよく話した上で、御最後なされるが良い。と言うのは、そなた様と兄弟の契りをなされたお方の頼みで、そなたをこの寺に預け置いたものだ。その責任上からも寺は迷惑することだし、その辺も篤とお考えなされて、この上余計な悪い評判の立たぬよう御勘考下さい」
 
 
と、諌めるのであった。
 
 
吉三郎もなるほど至極のことと納得して、その場の自害は思い留まったが、と言って、娑婆に未練を残しているのではなかった。
 
 
それから、長老様にこのことを申し上げると、彼も驚かれて、
 
 
「そなたのことを懇(ねんご)ろにと、兄分の人から切に愚僧が頼まれ預かったものだ。その人は今松前に参られ、この秋は江戸に帰られ、必ずここに罷り越されるからと、この間もくれぐれも言ってよこした程である。その間にこちらに何か間違いでも起ったりしては、まず愚僧は何よりの迷惑だ。兄分の人がお帰りになられた上で、そなたはどのようなことでも勝手になさるがよろしい」
 
 
と、色々意見なされたので、吉三郎は日頃の恩義のことも考え、
 
 
「仰せには決して背きません」
 
 
と、承服したが、まだ不用心と思われたか、刃物を取り上げ、多勢の番僧を監視役に付けさせたので、詮方なく、吉三郎は自分の部屋に帰った。その人達に向かって、
 
 
「ああ、世間の非難を考えると、残念。まだ若衆を立てている身でありながら、よしなき女の情にほだされてと言われるばかりでなく、その上その人はあの不幸、自分はこの悲しみ。衆道の神も仏も、私も見捨てなさったのだろう」
 
 
と、感極まって涙にくれながら、
 
 
「この上、兄分の人がお帰りになられるようなことになれば、全く面目無くて立つ瀬も無い。それよりは今のうちに早く死んでしまいたい。しかし、舌をかんだり、首をつったりしては、世間の噂も生温い死に方と言うだろう。不惑とおぼしめさるなら、どうぞそなたの腰のものをお貸し下さい。どうせ生きていて何の甲斐も無い命です」
 
 
と、涙ながらに語るのには、そこに居合わせた人は皆もらい泣きし、沁々(しんしん)と同情を寄せるのであった。
 
 
このことを、お七の親達が聞いて、寺へ訪ねて来た。
 
 
「御嘆きはもっともでございますが、お七の最後の時に、くれぐれも申し残しましたには、吉三郎様に誠の情があるならば、浮世をお捨てなされて、いかような御出家になりとお成り下さい。そして、このように刑場の露と消えゆく私のあとを弔い下さるならば、そのお情けはどうして忘れられましょう。夫婦は二世の契り、その縁(えにし)は死んでも朽ちますまい。と、言い残して行きました」
 
 
と、さめざめ言うのであったが、なかなか吉三郎は聞き分けがなく、いよいよ何もかも諦めて、舌を食い切る気色がうかがわれた。
 
 
その時、お七の母親は、彼の耳近くに口を寄せて、しばらく何か囁いていた。何を言ったのか分からなかったが、吉三郎も頷いて、
 
 
「それじゃあ、とにかく」
 
 
と、納得した。
 
 
その後、吉三郎の兄分の人も江戸に立ち帰って来て、条理を尽くした意見を言い聞かせたので、彼はようやく出家することになった。
 
 
その前髪を剃り落とす時の哀れさに、坊主も剃刀を思わず落としたほどであった。咲き誇る花に襲う一陣の嵐のような無残な姿、それを思い比べれば、命があるだけ吉三郎はお七の最後よりも猶もの哀れであった。
 
 
剃髪して見れば、しかし、古今まれな美僧であった。恋が動機で出家なった者は、一身に誠があるもの。
 
 
吉三郎の兄分の人も、郷里の松前に帰ってから、墨染の衣を着る身となったとかいう噂であった。
 
 
男色女色と交錯したこの恋物語はまことに哀れなもののと語り継がれた。
 
 
 
 
 
【完】
 
 
 
薄暗闇をいいことにして、久七が彼の前髪をいじりあそび弄(もてあそ)びながら(*1)

男色に武家の作法が融合したものを衆道という。「若衆道」の略語で、いつから使われ出したかは分かっていない。しかし現在確認できているものでは承応二年(1653年)の江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(遊女并隠賣女)」に出てくるものが、幕府の公式令條としては初出だとされている [10]。そのため、武士の男色は鎌倉時代にはみられ、室町時代に盛んになったが、衆道と呼ばれるようになったのは江戸時代からではないかとされる。

 

徳川将軍15代のうち、7人に衆道関係があったことが知られており[6]、中でも徳川三代将軍・家光衆道耽溺がよく知られている。余りに少年ばかりを愛し女性を近づけようとしなかったので乳母の春日局が心配したという逸話がある[3]。また五代将軍綱吉の下で権勢を振るった柳沢吉保は少年時代に綱吉の寵童だったことが知られている[3]

 

また江戸初期は衆道とは別に、若衆歌舞伎に代表される、売色化した新しい形の男色文化が開花した。「陰間」遊びが町人の間で流行し、遊女ならぬ色若衆と呼ばれる少年達が多数現れ、少年を置いた陰間茶屋が繁盛した。この種の売色衆道は室町後半からあったが、江戸時代に流行し定着した。少年を置いた遊郭は、京、大坂、江戸に多数あり、江戸では、日本橋葭町湯島天神門前町など、京は宮川町、大坂は道頓堀などに集中した[3]

 

男色は当時の町人文化にも好んで題材とされ、井原西鶴の『好色一代男』(1682年)には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。西鶴は他にも『男色大鑑』、『武士伝来記』で男色を扱っており、近松門左衛門(1653年-1725年)も男色を取り上げた作品を書いている。こうして僧侶、公家、武士と続いてきた男色は町人にも広がって、売色としての男色が確立した。この様に近代より前の日本で男色は、倒錯的行為としてや、女色と比較して倫理的に問題がある行為と見なされることは少なかった。

 

ただし江戸初期にあっても、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる動きも現れた。特に姫路藩池田光政(1609年-1682年)は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している[11]。また慶安5年(1652年)には少年売色が盛んだった若衆歌舞伎も江戸町奉行所に禁止された。

日本における同性愛 - Wikipedia

 
 
 
海人(まくり)甘草(かんぞう)(*2)
まくりは、胎毒の治療薬として一般的であった。かつて日本では生後間もない乳児にまくりを吸わせて胎毒を下す習慣がり、これは海人草に大黄・甘草を加えて煎じたものが一般的だったが、その後、甘草・黄連・紅花・大黄からなる甘連湯などもマクリとして有名になった。これには疳の虫を下すとか湿疹体質を予防するといった意味や、新生児黄疸の予防効果があったと考えられる。
 
 
 
兵部卿(*3)の匂い袋
香の名。数種の香を調合したもの匂い袋に入れて用いる。
 
 
 
摺箔(すりはく)(*4)

摺り箔(すりはく)とは金箔接着剤を用いた衣類の装飾技法のこと。皮革の装飾に良く用いられる印金と呼ばれる技術の一種。

印金の技法は中国で完成し、奈良時代ごろ日本に伝来したことが正倉院宝物の調査で推定されている。

大陸との交流が少ない日本では本場中国とは違った発展を遂げ、衣服の装飾として利用されるようになったのは鎌倉時代の後期ごろで、当初はの舞台衣装などに利用されて能とともに発展した。

女歌舞伎や南蛮好みなど豪壮で艶麗な風潮の織豊期に豪奢な外観を好まれ辻ヶ花などと併用されて最盛期を迎える。

しかし、質実剛健を旨とした徳川幕府のもと度重なる倹約令によって禁止されて豪商などの衣装としては衰退、一部上流階級の元にのみ技法が残ったがこのことによって意匠がより洗練された。

現在でも京友禅と併用して婚礼の打掛けなどの装飾に利用される。

摺箔 - Wikipedia

 
 
 
鈴ヶ森(*5)

鈴ヶ森刑場(すずがもりけいじょう)は、東京都品川区南大井にかつて存在した刑場江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いに設置されていた八王子市の大和田刑場(または中仙道の入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸3大刑場といわれた。

元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。[1]

鈴ヶ森刑場 - Wikipedia

 
 
 
火焙(あぶ)りの刑(*6)

江戸時代日本では、火刑は付け火(放火)を行った者などに適用された(西洋でも放火の処罰に行われたことが多い)。市中引き回しを終え刑場に引き立てられた罪人は下働きの非人が馬から下ろし、竹枠が組んである柱に縛り付けられる(罪人を縛り付ける縄は燃え落ちないように泥が塗ってある)。

 

竹枠の周りに萱を積み上げ、顔以外の罪人の体を覆い隠し、足元には薪を積んで踏ませる。一連の作業が終わると弾左衛門配下の手代が検視役の与力に準備が整った旨を伝える。検視役の与力は同心に指示をして罪人に間違いないことを確認し、顔を萱で塞ぐ。検視役与力から命令が出されると風上から火がかけられる。周りでは非人がむしろで仰いで火勢を強くする。罪人が死亡したら最後に止め焼き(男性は鼻と陰嚢、女性は鼻と乳房を火で焼く)という動作を行って処刑は完了となる。

 

その後はと同じく三日三晩晒した後、非人が刑場の片隅に死体を打ち捨てた。あとは、烏や野犬などが処理して「無」に帰った。

 

名和弓雄鈴ヶ森大経寺の住職に聞いたところによると、鈴ヶ森では海からの横殴りの風が強烈に吹くため、罪人を包む炎が燃えたり消えたりを繰り返し、罪人は獣のような叫びを挙げたという。

 

江戸時代の前期、江戸幕府による処罰の記録『御仕置裁許帳』によると、江戸で放火を行った犯人は未遂を含めて火刑に処されることが多いが(放火犯には拷問で牢死する者や中には遠島(島流し)の者もいる)、その刑場は品川と浅草が多く、巣鴨刑場で火刑が行われたケースもある。江戸では火刑場は品川のみとの誤解もあるが、少なくとも江戸前期では火刑場は品川のみではない[1][2]

火刑 - Wikipedia

 
 
 
回向(*7)
 死者の成仏を願って仏事供養をすること。
 

 

 
 
八百屋お七の墓
お七の生家は駒込片町で有数の八百屋であった。
天和2年(1682)近くの大円寺出火でお七の家が焼け菩提寺の円乗寺に避難した。
やがて家は再建され家にもどったが、恋仲になった円乗寺の小姓山田佐兵衛に会いたい一心で付火をした。
放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年火あぶりの刑にされた。
墓は3基あるが、中央は寺の住職が供養のために建てたもの。
右側は寛政年中岩井半四郎がお七を演じたのが縁で建立、左側は近所の人が270回忌法要のために建てたもの。
 

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岩井半四朗(四代目)
四代目 岩井半四郎(よだいめ いわい はんしろう、延享4年〈1747年〉 - 寛政12年3月29日1800年4月22日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者江戸を中心に活躍し、女形の家としての岩井家の基礎を築いた。俳号は杜若、屋号ははじめ雑司ヶ谷屋、のちに大和屋