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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【井原西鶴 好色五人女 八百屋お七】 その一  宿縁の邂逅

 
 
天和2年(1683年)も暮れようとする12月28日の夜半、江戸の街を大火が襲った。後の世で天和の大火(てんなのたいか)と呼ばれる火事災害である。
 
駒込の大円寺から出火し、死者が3500名ほど出たとのこと。
 
 
この大火事を機に若い男女の縁が紡がれ交差する。
 
恋は人を盲目にし、邪なるおもゐも増幅させる。
 
ああ、悲しき末路。
 
300年以上経っても語り継がれている、八百屋お七の悲しきおもゐを御紹介します。
 
 

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艮風(ならい/北風)激しく、師走の空の雲足も速かった。
 
 
すでに、町では新春の支度に忙しく、餅をつく家、その隣では各々小笹を手に煤払いに慌ただしい。天秤の針口を叩く金槌の音が甲高く響き、銭勘定のやりとりも昔からのしきたりのこととて忙しかった。
 
 
店の軒先を、ぞろぞろ連れだって歩きながら、「こんこん小盲(こめくら)、お一文下さいませ」と、おこも(物もらい)(*1)の姿もやかましい。
 
 
 
その他に古札納めの乞食、片木(へぎ)売り、榧(かや)、から栗、鎌倉海老(伊勢エビ)のお供えの飾り売りと引きも切らなかった。日本橋、京橋の大通りには、破魔弓の露店、新着店、足袋、雪駄の夜店など、足を空に惑うと書いた兼好法師の年の暮れの描写を思い出されるよう、今も昔にかかわらず娑婆に生きる者の節季はただただ忙しいばかりだった。
 
 
この暮れも押しつまった二十八日の夜半であった。俄かの火事、その町筋では、車長持(くるまながもち)(*2)を引く者、葛籠(つづら)を持ち出す者、掛け子の硯箱を肩にして逃げ惑う者でごった返していた。穴蔵(*3)の戸びらを開け、素早く絹物を投げ込んだりしたが、たちまちの中に燃え失せる。子を呼ぶ親、妻をいたわる者、年老いた母の災いを悲しむ者など、それぞれ知り合いのある者は一先ずそこへ立ち退かなければならなかった。
 
 
本郷の町に、その昔は素性も卑しくない家柄で、八百屋八兵衛という商人がいた。娘が一人あって、名をお七といった。年は十六の娘盛り、評判の縹緻(きりょう)娘であった。
 
 
このお七は、家が火元に近かったので、母親と一緒に日ごろ懇意の檀那寺、駒込吉祥寺(*4)に落ち着いて、当座の難をしのぐことになった。
 
 
彼らばかりではなく、避難の人達が大勢この寺に逃げ込み、長老様の寝室から赤子の泣き声がしたり、仏前に女の腰の物が取り散らしになっていたりする大混雑、夜は召使いの者が主人の体をまたいで歩いたり、子が親を枕にしたり、だらしなく寝転がっていた。夜が明ければ、銅鑼(どら)や鉦(かね)を手水盥(ちょうずだらい)に使ったり、仏の天目茶碗も間に合わせの飯椀にしたりしたが、こんな非常の時しばらくのことであるから、仏様も大目に見て下さることだろう。
 
 
お七は母親に大事に大事に育てられた娘。坊主だとて油断のならぬ世の中だと、ここに来ても万事に注意していた。あいにく、夜となって風が吹きすさび、皆の者が凌ぎかねていると、住持が気の毒がって、寺にある物を全部取り出して貸してくれた。
 
 
その中に、黒羽二重の大振袖に、桐と銀杏の二つの紋、紅裏(もみうら)を山型に裾取りといった色艶(いろなまめ)かしい小袖があった。焚きこめた香の薫りも残っており、それがお七の心に残った。(どのような上物か知らないが、若死になされたそのお方の、形見があっては却って辛い思い出になると、この寺に奉納されたものかも知れない)と、自分の年頃のことも思い出し、お七はその人の運命が哀れにも痛ましくなり、逢い見ぬ火の連想からひどく世を果敢(はか)なんだ気持ちにおち、思えば何もかも夢みたいなもの、何もいらぬ世の中だ、現世よりは来世こそが真かも知れぬと、しおしお沈んでしまって、母親の数珠袋をあけ、念珠を手にかけて口の中でお題目を唱えていた。
 
 
ちょうどその時、気品のあるひとりの若衆が、銀の毛抜きを片手にして、左の人差し指に刺さった小さな刺を、気になるとみえ、夕暮れの障子を開いて抜くのに苦労していた。母親はそれを見かねて、
 
 
「抜いてあげましょう」
 
 
と、毛抜きを取ってやってみたが、年寄りの目のことでさっぱり見当がつかず、刺を見つけるのさえ難しそうであった。
 
 
お七はそれを見て、自分なら目も良い年頃だし、その目ですぐ抜いてあげられることだがと思いながらも、それでも近寄りかねていると、母親が呼びかけて、
 
 
「刺を抜いておあげなさい」
 
 
と言う。
 
 
お七は嬉しく、彼の手を握って、その刺を抜いてあげると、その若衆に思わず彼女の手は固く握り返された。離れたくはなかったけれども、母親の目があるので、心残りながらそのまま別れなければならなかった。だが、別れ際に、お七はわざと毛抜きを持って帰りかけ、気が付いた風にとって返して後を追いかけ、返す際に若衆の手を握りしめた。これから二人は思い思わるる仲となった。
 
 
お七は、日一日とその若衆に思いを焦がし、「あの若衆さまはどんなお方でしょう」と、納所の役僧に聞くと、
 
 
「あの方は、小野川吉三郎とおっしゃる先祖の立派な御浪人衆で、とても優しく、情のこまいお方でございます」
 
 
という答えであったので、ますます恋慕の心を増し、めんめんたる恋文をしたため、密かに人を使ってそれを届けた。
 
 
すると、先方からも入れ違いに、吉三郎の思慕の情を散々書き連ねた文が送られて来た。この手紙の交換で互いのおもゐが知られ一層おもゐが募るばかり、『諸(もろ)おもゐ』とは、こういう二人の場合を言うのであろう。
 
 
二人とも返事を書くこともなしに、いつとなく浅からぬ恋人同士となり、語り合いの良い機を待っていた。
 
 
大晦日も過ぎ、明ければ新玉の年の初め。門松を女松男松と飾り、暦のはじめにも姫始め(*5)とあるのも、思えば妙なものだ。だが、二人には良い機会も無くて、ついに結ばれることもなく、七草も過ぎ、九日十日、十二、十三日、十四日も夕暮れ、松の内も全く空しく過ぎてしまうのであった。
 
 
雨の降る十五日の夜半、榊原の近所から来ましたと、寺の外門を荒々しく叩く。僧たちは夢を破られ、出て聞くと、
 
 
「米屋の八左衛門が長患いしていましたが、今夜亡くなりました。もう分かっていた病人でしたから、夜の内に弔いも済ましたいのでございます」
 
 
という使いであった。
 
 
夜半とて、出家の役目なれば、あまたの法師達を連れて、雨の晴れ間も待たず、傘もとりどりにかざして、お寺を出ていかれた。
 
 
その後には、厨房に働く老婆一人と、十二三の小僧が一人と赤犬が残っているばかりであった。その時、松風の音も寂しく騒ぎ、春初めの雷も激しく鳴り響いたので、皆は驚き、老婆は、雷除けの年越しの夜豆(*6)を取り出しなどし、天井のある小座敷を求めて身を隠してしまった。
 
 
お七の母親はいくつになっても子を思う余り、彼女をいたわり、夜着の下に引き寄せ、雷の激しく鳴る時は、耳を塞げと、心配してくれるのであった。女の身であるから、お七とても限りなく怖かったが、吉三郎様と逢える機会は今夜のほかには無いという考えがあって、
 
 
「世間の人はどうしてこう雷が怖いんでしょう。遅かれ早かれ死ぬ命ですもの、私はちっとも怖くありません」
 
 
と、言はでも良い女に無用の強がりを言って、下々の女達にまでそしられたりした。
 
 
ようよう夜も更けて、人は皆次第に寝入ってしまい、そのいびきの音が軒の雨垂れの音に混ざって聞こえる。雨戸の隙間から幽かな月の光も漏れる静寂の折り、お七は客殿を忍び出た。だが、お七は体が震えて来て、足元が定まらず、大の字なりに寝ていた人の腰骨を踏んだ。はっと驚くと、胸の動悸が激しくなり、のぼせて口もきけなくなって、ただ、手を合わせて拝むだけであった。
 
 
だのに、その人は別に彼女を咎めないので、訝しく思い、注意して見ると、家の飯炊きに使っているお梅という下女であった。それで、それを乗り越えて行こうとすると、その女はお七の裾を引きとめるのであった。また胸騒ぎがし、自分を留めだてするのかと思うと、そうではなく、お梅は小判紙をひと折り、手探りにそっと渡してくれたのだ。なるほど、この女は色事に慣れているのだ。それだけに、こんな慌ただしい瞬間にもよく気が付いてくれたと、却ってその行為が嬉しかった。
 
 
本堂に行ってみたけれども、しかし、あの若衆の寝姿は見えなく、お七は悲しくなって、台所に出てみると、老女が目を覚まし、
 
 
「今夜、鼠のやつが来やせんかな。。。。」
 
 
と、ぶつぶつ言いながら、片手で椎茸の煮しめや揚げ麺、葛袋などを取り片付けるのが可笑しかった。
 
 
しばらくして、その老女はお七に気付き、
 
 
「吉三郎殿のお床は、その何です、その小僧と一緒に、三畳間に、、、、」
 
 
と、肩を叩いて囁いた。意外に通なお婆さん、寺に置くのはもったいないと、親しみを感じて、お七は自分がしていた紫鹿子(むらさきかのこ)の帯を解いてくれたやった。老女の教えてくれた方に歩いて行くと、夜も二時頃であろう、御前の香もすっかり燃え落ち、常香盤(*7)の鈴の音がしばらく鳴り響いて聞こえた。
 
 
小僧は香焚きがその役目でもあっとろう、一人起き上がって、常香盤の糸を掛け直し、香を盛り継いでいて、なかなか座を立つ気配が無く、じれったい限りであった。
 
 
お七はとうとう小僧が寝床に入るのを待ちあぐねて、とっさの思いつきで、髪をばっと被り、恐ろしい顔つきを作って、闇がりから小僧をおどかすと、さすが悟り心を持つ者、この小僧は少しも驚いた様子がなく、
 
 
「汝、元来帯解け姿の、仕様もないいたずら者じゃ。即刻失せるがいいぞ。それともこの寺の大黒(*8)になりたいならば、和尚様のお帰りまで待つが良い」
 
 
と、目をむいて言うのであった。
 
 
お七は興ざめして、
 
 
「お前を抱きに寝に来た」
 
 
と、走り寄ると、小僧は笑い顔になって、
 
 
「それは吉三郎様のことだろう。つい今まで俺と後差しに寝ていたんだ。その証拠にはこの通り、、、、、、」
 
 
と、小服綿(こぶくめ)の袖をかざして見せた。その袖に白菊とかいう香の移り香がしていた。どうもならぬと、お七は夢中になって、その寝間に入りかけると、小僧が声をあげて、
 
 
「ハハァ、お七様。良い所を見てしまった。。。。。」
 
 
と言うのに、お七はまたびっくりして、
 
 
「何でも、そなたが欲しい物を買ってあげるから、黙っておくれ」
 
 
と言う。
 
 
「そんなら、銭を八十と、松葉屋のめくり骨碑(かるた)と、浅草の米(よね)饅頭(*9)五つと、それだけ買っておくれ。今、一番欲しい物なんだ」
 
 
と言った。
 
 
「そんなことは容易(たやす)いこと。明日すぐ買ってあげましょう」
 
 
と約束した。と、もう小僧は寝てしまい、
 
 
「夜が明けたら、三つのものを貰う約束。必ずもらう約束だ」
 
 
と、夢うつつなく言いながら寝静まった。
 
 
その後は気遣いする者もなくなり、お七は、吉三郎の寝姿に身を寄り添わせ、言葉もなく、唯しどけなくもたれかかると、吉三郎も目を覚ましたが、しかし、訳もなく身を震わせて、小夜着の袖を引っ張るのであった。
 
 
お七はそれを引きよけて、
 
 
「髪が乱れますのに」
 
 
と言えば、吉三郎は切なそうな声を出して、
 
 
「私は十六になります」
 
 
と言う。
 
 
「わたしも十六になります」
 
 
と、お七が答えると、今度は吉三郎は、
 
 
「長老様が怖いよ」
 
 
と言う。
 
 
「わたしも長老様は怖い」
 
 
なんともこの恋の始まりは他愛のないことであった。その後は二人とも唯涙を流すばかり、何の埒もあかなかったが、再び、雨の上がり目の雷が激しく鳴り響いた。
 
 
その時、
 
 
「ああ、怖い。ほんに怖い」
 
 
と、お七が吉三郎にしがみついた。それがきっかけとなり、自然と気持ちが打ち解けて来た。
 
 
「すっかり、冷えてしまって、そなたの手も足も、、、、、」
 
 
と、吉三郎が自分の肌に引き寄せると、お七は恨みを込めた言葉で、
 
 
「あなた様だって、あのようなお手紙をくださいましたもの。憎くはないお心がありましょうものを、御自分ではお見えにならずに、、、、ほんに、こんなに冷えたのは、誰がそうさせました」
 
 
と、首筋にしがみついた。いつとなく夢中に愛し合い、縁を結んだ上には、この恋はお互いの命が燃え尽きるまで終わるまいと、言い交す仲となってしまった。
 
 
間もなく、夜明けに近くなり、谷中感應寺(*10)の鐘はせわしげに響き渡り、吹き上げの辺りの榎(えのき)の木に騒ぐ朝風も激しくなった。
 
 
(恨めしいこと、やっと寝温(ぬくも)ったと思う間もないのに、もう別れなければならぬ。世界は広いというのに、昼を夜にしている国の一つもあって欲しい)と、俄かに願ってみたところで、とても叶うものではなく、唯そう心を悩ます内に、お七の母親がこれは大変と探して来たのに見つかって、お七は有無も無く引き連れられて行ってしまった。
 
 
吉三郎は唯茫然として、悲しむばかり。
 
 
小僧は、宵のことを忘れず、
 
 
「さっきの約束の三つの物をくれないなら、今夜の事を言い触らしますから」
 
 
と言うのであった。
 
 
母親は戻って来て、
 
 
「どんなことか知らないけれども、お七が約束した物は、私が引き受けましょう」
 
 
と、言い残して帰って行った。
 
 
いたずら娘を持った母の事とて、おおよそその事情は聞くまでもなく承知し、お七よりも良く気をつけて、その翌日早く、小僧の望んだ品々を買い整えて送り届けたということであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 おこも(*1)

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    • ほいど(ほいと) - 祝人(ほぎ人)が転訛したもの。神楽獅子舞などの縁起者が物乞いも行っていた事から言われるとされる。
    • おこもこもかぶりおこもさん - かつて、乞食がムシロ(こも)を被っていることが多かったため。
    • パイポ - 京都市北部で使用される言葉。ルンペンとほぼ同じように使用される。語源は不明。
    • 勧進(かんじん) - 勧進帳を持って社寺仏閣の建立のための資金を集めるため諸国を巡る僧を指す言葉から転じた。下記の、不治の病の病人の行うものも含む場合がある。
    • へんど - 遍路または反吐(へど)が転訛したもの。四国各地で使用される言葉。不治の病などを持った人が、世捨て人となって、お遍路さんをしながら巡る姿を指す言葉から転じた。また本来の遍路とは全く別に、信仰心の無い者がその怠惰な生活態度から半ば「職業遍路」化して「お接待を受ける」ことに名を借りた物乞いのみで生計を立てる行為がこう呼ばれる。お接待を行う遍路道沿いの信徒たちから軽蔑を受けた。


    乞食にまつわる慣用句

    乞食の嫁入り

    乞食の花嫁は振袖など着られぬところから,「振袖振らぬ」と「降りそうで降らぬ」をかけた洒落(しやれ)。雨が降りそうで降らないたとえ

    乞食のお粥

    言うばかりで実行いない事。湯(言う)ばかりで実少し。

    乞食正月

    二十日正月の石川県での別名。正月の終わりとする節日。正月用の年肴を食べ尽くす日とされた。この日に骨だけになっているブリや腐らないように塩で〆ておいた魚の残りを大根などと一緒に煮て食べたことから

    乞食が馬をもらう/乞食に朱椀/乞食が赤包み

    身分不相応なものをもらって、始末に困るたとえ。

    乞食根性

    むやみに他人のものをもらいたがる卑しい性質

    乞食が米を零(こぼ)したよう

    ちょっとしたことに大騒ぎをすることのたとえ。また、困窮している者がいっそう窮することのたとえ。

    箸も持たぬ乞食 

    何一つない、まったくの無一物であることのたとえ

    乞食の空笑い

    乞食が物欲しさに心にもない笑顔を見せるように、目前の利益を得るために心にもないおせじを言うことを卑しんでいうたとえ

    乞食の朝謡い

    乞食は暇なので、朝から謡をうたう意。乞食は普通の人よりかえって気楽な生活をしていることのたとえ

    乞食に氏無し

    人は、生まれながらにして乞食となるのではなく、その人自身の不始末から乞食になるのである

    鍬をかたげた乞食は来ない

    働く者が貧乏するはずがないこと

    乞食に貧乏無し

    乞食にまで落ちぶれると、もうそれ以上貧乏になることはない

    乞食にも門出

    どんなにつまらない者たちでも、門出のときはそれ相応の式作法があることのたとえ

    乞食も袋祝い/乞食にも身祝い

    乞食でも初めて使う袋には祝いをするように、祝うべきときにはそれ相応の祝いをすべきであるというたとえ

    乞食も身繕(づくろ)い

    乞食でも,相応に身だしなみに気を配る意。粗末でも,それなりに身だしなみに心がけよというたとえ

    乞食の系図話

    乞食がおちぶれる以前の自分の系図について自慢話をする意。言ってみたところではじまらない過去のぐち話を言うたとえ

    乞食の断食

    しかたがなくてすることを,ことさら心がけてしたように殊勝げに言うことのたとえ

    乞食も場所

    何事をするにも場所選びは大切であることのたとえ

    親苦子楽孫乞食

    親は苦労して財産を作り、子は遊んで浪費し、孫の代には落ちぶれれこじきになるという、世の中の浮き沈みを言ったもの

    三人旅の一人乞食

    三人で一つのことをすると、その中の一人は貧乏くじを引いて損をしたり、仲間はずれにされがちであること

    往き大名の帰り乞食

    旅行などに行ったとき、行きにはまるで大名のように贅沢に使うが、必要な経費まで使ってしまい、帰りには旅費が足りなくなるの意から。無計画に金を使うべきではないという戒めを込めて使う

    頼めば乞食が馬に乗らぬ

    こちらから頼むと、本来好きなことでももったいぶってやってくれないこととのたとえ

    慌てる乞食はもらいが少ない

    あわてるとかえって失敗することを戒めるたとえ。急がば回れ

    乞食も三日すれば忘れられぬ

    悪習は染まりやすく,改めるのは困難であることのたとえ

    魚は殿様に焼かせよ餅は乞食に焼かせよ(瓜の皮は大名に剥かせよ柿の皮は乞食に剥かせよ) 

    魚を焼くときは、何度もひっくり返すと身が崩れるため、弱火でじっくりと焼いたほうがよいから、殿様のようにおっとりした人に焼かせるのが良い。餅を焼くときは、たえずひっくり返して焦げないようにしなければならないため、乞食のようにがつがつした人に焼かせるのが良いという意味から仕事には適不適があるものだから、仕事をさせるときには適任者を選べということ。

     

    福沢諭吉の名言

    人生は芝居のごとし、千両役者が乞食役となり、大根役者が大名役をやる。それが役なのだ。乞食になっても千両役者は千両役者。世間はどう評価しようと気にするな。ただ、自分の仕事に打ち込めばいいのだ。

    乞食 - Wikipedia

     

 

 

 

車長持(くるまながもち)(*2)

長持(ながもち)は、主に近世日本で用いられた民具の一つで、衣類寝具の収納に使用された長方形の木箱[1]。箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものを、車長持という。
 
 
 
穴蔵(*3)

庶民の間においては明暦2年、江戸本町2丁目の呉服商和泉屋九左衛門が最初に穴蔵を造ったとされ[1]、翌3年に発生した明暦の大火においては無事であったという。

天保の頃、京阪の富豪が金銀を蓄えるために造られ、中小の商店にも造られた。土蔵よりも安価で築造できる上、火事にも強いため庶民の間に普及した。江戸でも大家では土蔵とは別に、屋敷の裏手に造り、金銀を収めた。一般には火事に備えて家財を安全に保管するために用いられた。

穴蔵 - Wikipedia

 
 
 
駒込吉祥寺(*4)

吉祥寺 (文京区) - Wikipedia

 

 

 

姫始め(*5)

姫始め(ひめはじめ)とは、頒暦(はんれき)の正月に記された暦注の一。正月に軟らかく炊いた飯(=姫飯(ひめいい))を食べ始める日とも、「飛馬始め」で馬の乗り初めの日とも、「姫糊始め」の意で女が洗濯や洗い張りを始める日ともいわれる。

1月2日行事であるが、由来は諸説あってはっきりしておらず、本来は何をする行事であったのかも判っていない。一般には、その年になって初めて夫妻などがセックスすることと考えられている。

かつての仮名暦の正月の初めに「ひめはじめ」とあったのが、その解釈をめぐって多くの説が生じたものである。真名暦には「火水始」とあった。卜部家の秘説があるといわれた。

最も有力な説は、正月の強飯(こわいい。蒸した固い。別名「おこわ」)から、初めて姫飯(ひめいい。柔らかい飯)を食べる日というものである。昔は、の間には強飯を食べ、祭が終わると姫飯を食べていた。

姫始め - Wikipedia

 
 
 
雷除けの年越しの夜豆(*6)
節分の日にまいた豆の残りを仏壇にお供えしておき、春雷の初めて鳴る日にこれを出して来て食べると、雷よけになると言い伝えられてきていた。
 
 
常香盤(*7)
常香をたくための香炉。香が燃えつきると糸が切れ、鈴が落ちて知らせるようになっている。
 
 
 
大黒(*8)
僧侶の妻。梵妻(ぼんさい)

 

 

 
米(よね)饅頭(*9)
山東京伝(さんとうきょうでん1761~1816)は粋な作風で黄表紙・洒落本・読本他を書いた戯作者です。北尾重政門下で北尾政演の画名を持つ浮世絵師でもあったため、浮世絵や多くの絵入文章を書き、好評を博しました。

その京伝が興味を持った米饅頭(よねまんじゅう)とは延宝~元禄年間(1673~1703)頃江戸浅草の待乳山聖天宮門前で売られ、流行った饅頭です。
 
鶴屋、麓屋などの店が名高く、随筆・狂歌にも名物として取り上げられ、店がなくなった後も、文人達に興味をもたれ、その始まりや名前の由来について語られました。
 
鶴屋の娘およねが始めたから米饅頭の名がついたとする説、材料が米であるから従来の小麦粉の饅頭と区別するため米饅頭といった説、よねは女郎の意味であるという説、また娘の名はおよねでなくお千代であるとした説などがありました。
 
京伝は作家として売り出した20歳の時、鶴屋のおよね説を脚色して『米饅頭始』(1780)という本を書きました。町人の幸吉が腰元およねと仲良くなり、駆け落ちし、二人で苦労をしますが最後には父親に貰ったお金で、待乳山のふもとに鶴屋の屋号で店を出し、饅頭を売り出す話です。

作中のおよねは、その頃京伝が通い知った吉原の遊女をモデルにしたことも想像されます。自らの姿を幸吉に重ね、将来を夢見たのかもしれません。十年後、京伝は遊女菊園(前述の遊女とは別人か)と結婚し、その三年後に煙草入を売る店を開いています。

晩年の京伝は戯作から離れて事物の考証に没頭したようですが、その成果『骨董集(こっとうしゅう)』(1813~1815)でも米饅頭について言及しています。ここでは、延宝六年(1678)版の絵本の辻売りの図を引き合いに出し、世に広まっている鶴屋のおよね説に疑問を呈しています。

京伝は浅草並木町に短期間、落雁の店を出したこともあり、菓子好きとも思われますが、噂に聞いたことしかない米饅頭のどこに一番惹かれていたのでしょうか。
 
 
 
 
感應寺(*10)

元禄年間(1688‐1704)ころまでに大半は市街地化したが,とくに慶安年間(1648‐52)以後,神田台方面からの寺院の集中などによって大規模な寺町が成立し,俗に〈谷中八丁に九十八ヵ寺〉といわれた。その中心をなした感応寺(天王寺)は応永年間(1394‐1428)の創建と伝えるが,3代将軍家光の代(1623‐51)に寺域を大拡張した。以来,毘沙門天をまつる巨刹として知られることとなったが,富くじ興業の勧進元としても有名で,のちに湯島天神目黒不動とともに〈江戸の三富〉といわれた。

感応寺 とは - コトバンク

天王寺 (台東区) - Wikipedia