藤田東湖 『正氣の歌』
正氣の歌
天地正大の氣 粹然(すいぜん)として神州に鐘(あつま)る秀(ひい)でては不二の嶽となり 巍々(ぎぎ)として千秋に聳(そび)ゆ注いでは大瀛(たいえい)の水となり 洋々として八州を環(めぐ)る發(はっ)しては萬朶(ばんだ)の櫻となり 衆芳(しゅうほう)與(とも)に儔(たぐ)ひし難し凝(こ)っては百錬の鐡(てつ)となり 鋭利兜を断つ尽臣(じんしん)皆熊羆(ゆうひ) 武夫ことごとく好仇(こうきゅう)神州誰か君臨す 萬古天皇を仰ぐ皇風六合(りくごう)に洽(あまね)く 明徳太陽に侔(ひと)し世汚(よお)隆なきにあらず 生氣時に光を放つすなわち大連(むらじ)の議に参じ 侃々(かんかん)瞿雲(くどん)を排すすなわち明主の断を助け 焔々(えんえん)伽藍を焚(や)く仲郎かって之を用ひ 宗社盤石安し清麿(きよまろ)かって之を用ひ 妖僧(ようそう)肝胆(かんたん)寒したちまち龍口(たつのくち)の剣を揮(ふる)ひ 虜使(りょし)頭足分かるたちまち起る西海の颶(ぐ) 怒涛(どとう)胡氛(こふん)を殲(つく)す志賀月明(あきら)かなるの夜 陽(いつわ)りて鳳輦(ほうれん)の巡と為り芳野の戦い酣(たけなわ)なるの日 又帝子の屯(ちゅん)に代る或は鎌倉の窟(くつ)に投じられ 憂憤まさに愪々(いんいん)或は櫻井の驛(えき)に伴ひ 遺訓何ぞ慇懃なる或は天目山に殉(じゅん)し 幽囚(ゆうしゅう)君(きみ)を忘れず或は伏見の城を守り 一身萬軍に当る承平(しょうへい)二百歳 この氣常に伸ぶるを獲(え)たりしかれどもその鬱屈(うっくつ)するに当たりては 四十七人を生ずすなわち知る人亡(ほろぶ)といえども 英霊いまだかって泯(ほろび)ず長く天地の間に在(あ)って 隠然(いんぜん)彝倫(いりん)を敍(じょ)す誰かよく之を扶持(ふじ)し 卓立す東海の濱(ひん)忠誠皇室を尊(とうと)び 孝敬天神に事(つか)ふ修文と奮武と 誓って胡塵(こじん)を清めんと欲す一朝天歩艱(かん)し 邦君身先(ま)づ淪(しづ)む頑鈍(がんどん)機を知らず 罪戻(ざいれい)孤臣(こしん)に及ぶ孤臣葛藟(かつるい)に困(くる)しむ 君冤(くんえん)誰に向ってか陳(の)べん孤子墳墓に遠ざかる 何を以てか先親に報(むく)ひん荏苒(じんぜん)二周星 独りこの氣の随ふあり噫(ああ)予(われ)萬死すといえども あに汝と離るるに忍びんや屈伸天地に付す 生死またなんぞ疑はん生きてはまさに君冤を雪(すす)ぎ また四維(しい)を張るを見ん死しては忠義の鬼となり 極天皇基(こうき)を護(まも)らん
藤田 東湖(ふじた とうこ)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。
弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体をとおして現状に対する悲憤を漂わせており、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。
弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。
藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。
安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。
欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか[7]」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか[8]」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります[9]」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。
意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。
以上が通説であるが、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている。結局のところ、崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、従来の通説に疑問が投げかけられている。
神祇を職とする一族の中臣鎌子は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌子はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心たりえる人物を探した。
法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。
645年、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。
入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌子は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えた。
中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。
蒙古人、元の正史(官位・礼部侍郎)として文永の役の翌年、建治元年4月15日(1275年)長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸。一行は捕えられ大宰府へ送られ、8月になってから太宰府は元使を鎌倉へ護送した。1275年9月27日、時の8代執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(現在の神奈川県藤沢市片瀬)にて斬首。享年34。
常立寺はもともと龍口で処刑された罪人を弔うために建てられた真言宗の寺で、第一の元寇である文永の役の翌年、建治元年4月15日(1275年)長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸し、高麗等の各国と同様に元への服従を求める国書を携えた杜世忠ら元の国使ら5名も処刑されこの地に葬られ、五基の五輪塔が建てられた。
元弘元年/元徳3年(1331年)8月元弘の乱が勃発して天皇が京都から逃れるに及び、北長尾の山荘に隠棲していた師賢はこれに供奉して三条河原まで赴いたが、勅命によって天皇の身替りとなり、服装と腰輿を整え、四条隆資らの公卿を従えて比叡山に登った。
元弘3年(1333年)、幕府方の二階堂貞藤が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った。
護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせる。
義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃した。
この時、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残る。
なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍となり力尽き、切腹し自害した。
北条時行の中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、二階堂ガ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王は、時行に奉じられる事を警戒した直義の命を受けた淵辺義博に殺害された。
護良親王は前征夷大将軍であり、親王が時行に擁立された場合には宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであり、一方で鎌倉に置かれていた成良親王は京都に無事送り届けられていることから、直義による護良親王殺害は問題とされることはなかったとみられている。親王殺害の2日後に鎌倉は北条軍によって陥落した[3]。
古典『太平記』では、東光寺の土で壁を固めた牢に閉じ込められたことになっており(土牢は鎌倉宮敷地内に復元されたものが現存)、直義の家臣・淵辺義博に殺された護良親王は、公家の藤原保藤の娘、南方に弔われたと伝えられている。
建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、長男楠木正行と今生の別れを告げる。正行は父に従わんと願ったが、正成曰く「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。時に正行11才である。これが、有名な桜井の別れである。
3月7日に織田信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉などである(一条信龍については信長公記の誤記)。
3月9日に勝頼とその嫡男の信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(大月市)で小山田信茂の裏切りに会い攻撃された。岩殿城入城を拒まれたのである。これには諸説あり、武田家を見限っていた小山田信茂は戦禍を恐れ、領地を守るためにとった行動であるという説や、信茂ではなく笹子峠から攻撃したのは織田軍であるともされている。いずれにせよ、勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡した。
3月11日、家康と穴山梅雪は信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に捕捉された。土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。
しかし、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・桂林院殿は自害し、長坂光堅、土屋昌恒・秋山親久兄弟、秋山紀伊守、大熊朝秀らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった『小桜韋威鎧』(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた。)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。
勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。
6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は3000ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」[3]と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる[4][5][6]。
家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。
元忠は最初から玉砕を覚悟で三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し[7]、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年62。その忠節は「三河武士の鑑」と称された。
このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。
明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は「血天井」として京都市の養源院[4]をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
墓所は京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、福島県いわき市平の長源寺。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。また元忠の子孫が江戸時代に不行跡により2度も改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れた[2][8]。
徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代末期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。