桜咲く頃になると、人妻の容姿自慢の者、美しい娘を持ちそれを人に見せびらかしたい母親と、花を見るためではない人に見られに行く、これが当世の女気質である。とかく、女は化け物、姫路のお城の刑部狐(おさかべきつね)(*1)も却って眉毛を読まれようというもの。
但馬屋一家でも、春の野遊びというので、女駕籠(かご)を仕立て、その後から清十郎が万事の宰領(さいりょう)役となって行くことになった。
高砂曽根の浜は、松も若芽を萌したばかり、砂浜の眺めも格別であった。松葉掻きをてんでに、里の童共が落ち葉をかきわけて、松露(しょうろ)の春子を取ったり、菫(すみれ)つばなを摘んだりしているのも珍しかった。但馬屋一家も、若草の茂みの薄い場所を選んで、花莚(はなむしろ)や毛氈(もうせん)を敷かせた。
終日の遊山である。海は静かであった。夕日も紅々と燃え、但馬屋の女達の小袖に映える。よその花見衆の注目も皆ここに集まって、小袖幕(*2)を張ったその中が何とも気になる、覗きこんでは帰りも忘れていたり、へべれけに酔い痴(し)れ、この美しい女中さん達を肴にと、無性に嬉しがっている者もあった。
幕の内は、女ばかりの酒盛りであった。男といっては、清十郎だけである。駕籠かきの者達は、湯のみで酒をあおり、野放図もなくなって、広い野原もまるで我が物のような顔で、いかにものうのうとした楽しみ、前後不覚という態であった。
そこへどやどやとした人騒ぎ、曲太鼓
大神楽が来たのだ。各所の遊び所を見こんで、
獅子頭を身振り巧みに舞わすのが素晴らしくて、たちまちの人だかりだ。殊に女は物好きな
性質故、ただこれにばかり気をとられてしまって、しきりに、もう一度もう一度と、踊りの終わるのを惜しんでいた。その獅子舞いも、すっかり但馬屋の幕前に落ち着いて、美曲の限りを尽くすのであった。
だが、おなつは舞いを見に行かなかった。一人幕の内に残って、虫歯が痛むなどと、少し気分の悪そうな様子で、袖を枕にしどけなく、帯の空解けもそのままに、女達の替え小袖を積み重ねたものかげに、たぬき寝入りを装うていたのだ。
清十郎は、おなつだけが残って居るのを見つけて、松の茂った後ろの道から近づいて来た。彼を招いたおなつは、一言も言わず、胸ばかり躍らせているのだ。
だが、この獅子舞いも、清十郎が幕の内から出て来たのを見ると、さっと肝心の面白いところを半ばにして止めてしまった。見物の客も興ざめ、物足りぬ思いで散って行った。
名残惜しくもあったが、すでに山々には霞が深くかかり、日も西にかたむいたので、但馬屋の人達も辺りを片付けて、姫路の城下に帰った。思いなしか、おなつの身体つきが少し変わっているようであった。
清十郎は、獅子舞いの役者達に、今日は大変お蔭さまで、と挨拶していた、そうすると、今日の太神楽は実は計画的なものであったのだ。太神楽を手管(てくだ)に使おうとは、神様も知るまいもの、まして浅はかな鼻の先知恵の兄嫁などは、何を知ろうものか。
乗りかかった舟と腹を決めた清十郎は、年の幕もせまった頃、おなつを盗み出し、つらい世帯も二人でするならと、飾磨(しかま)の港より上方にのぼるつもりで、とりあえず旅支度をし、飾磨へ来て、侘しい浜辺の小屋に舟の出を待っていた。
思い思いのその旅支度で、伊勢参宮の人もあれば、大阪の小道具売り、奈良の具足屋、醍醐三宝院(*3)の山伏、大和高山の
茶筅師(*4)、
丹波の蚊帳売り、京都の呉服屋、
鹿島神宮の言触(ことふれ)(*5)と、十人寄れば十國の者の例えのように、種々雑多な土地の者、商売の者が乗り合う、それが乗り合い舟の楽しい所なのだ。
船頭が大声で、
「さぁさぁ、出します。めいめいの心祝いだから、住吉の船霊さまへお初尾を」
と、柄杓(ひしゃく)をふり、頭数を数えて、下戸上戸を問わずに皆が七文づつ出し合い、燗鍋(かんなべ)もないので、小桶に汁椀を入れて酒を酌み、飛び魚をむしりながら急いで三杯ひっかけ、ほろ酔いの良い機嫌で、
「皆さんはお幸せだ。この風は艫(とも)からの追手ですよ」
と、帆に八分目ほどの風をはらんで、一里余り出た、と思う頃、
備前から来た飛脚の男が、はたと横手を打って、しまった、忘れて来たぞ、刀に括りつけておきながら状箱を宿に忘れて来た、と尚もその男は磯辺の方を見て、
「それそれあの持仏堂の脇にもたせかけて来ましたよ」
と、大きな声で喚いた。何を喚くのか、それがここから聞こえるものか、そんな風でお前さん、睾丸は忘れて来なかったか、と船中の者が口々に言うと、この鈍間(のろま)な男は、念いりに操って、
「ええ、ござりますよ。二つございます」
と言うのだ。誰もあきれ果て、大笑いとなり、
「どうもあれじゃあ怒りようもない。舟を戻してやれやれ」
と、あきらめ、飾磨(しかま)の港へ舟を返した。今日の門出は縁起が悪いと、船客が腹を立てる。どうにか舟が汀(みぎわ)に着いてみると、姫路からの追っ手の者が、あちこちと駈け騒ぎながら、この舟には居らぬかと人改めをして来た。おなつ清十郎は今更隠れようもなく、悲しやと言うばかり。
その声も追っ手の情け知らず共の耳には聞き入れられなくて、おなつは警戒厳しい乗り物に入れられ、清十郎は縄をかけられ、姫路に連れ戻された。この愁嘆ごとを眼にした舟の者は、事情を知っているだけに二人を不憫に思わぬ者はなかった。
その日より、清十郎は
座敷牢に入れられ、辛い目にあいながらも、自分のことはさて置き、おなつはおなつはと口走り、あの飛脚の野郎が状箱を忘れさえしなかったら、今頃は大阪に着き、高津町あたりの裏座敷を借りて、年寄り女の一人も使って、おなつと内密話などもしていたのに、それもこれもならなくなるのが残念だ。誰か俺を殺してくれぬのか。いやに長い一日である。もう生きるのも嫌になった身体なんだ、と何度か舌を歯に挟んで噛もうと眼をつぶったりしたが、まだおなつに未練があって、今一度なりとおなつの美しい姿を見たい、と恥も外聞もかなぐり捨てて、男泣きに泣きわめいていた。
見張り番の男も彼の狂乱ぶりを見るに見かね、色々慰めて元気をつけてやり、死ぬようなこともなくて、日が経って行った。
おなつとて同じ思いであった。七日間食を断ち、願文をしたためて、
室津明神に彼の命乞いをしていた。不思議や、その満願の夜半と思う時、老翁が彼女の枕神(*6)に立って、あらたかな御告げがあったのだ。
汝、我の言葉をよく聞け、一体に世間の者共は、自分が悲運にあうと無理な願をかける。その願はこの明神にもままになりはせぬ。慌てて福徳を祈ったり、人の女をどうしようと願ったり、憎い者をとり殺してのと言ったり、降る雨を日和にしたいの、生まれつき低い鼻を高くしてくれの、様々な勝手放題な願い事、どんなにしたって致し様もないと知りながら要らざる神仏に祈願などして、厄介至極。この間の祭礼にも、参詣人は一万八千十六人あったが、どれもこれも大欲な者ばかり、身に過ぎた事を祈らぬ者はなかった。聞いていると実に滑稽であったが、賽銭をあげてくれるから嬉しくて、これも神の役目と聞いているだけはいるのだ。
このお参詣の中に、たった一人信心な者がいた。
高砂町の炭屋の下女で、他になんという願いもなく、無病息災でまたこの次もお参りできましように、と拝んで行きかけたが、ふいに小戻りして来て、私にも良い男を持たせて下さいよ、と申すのだ。それの役は
出雲大社の方じゃ、ワシは知らんよ、と言ってやったけれども、下女には聞こえずに、そのまま帰って行った。
おなつ、その方も、親兄の言う通りになって、夫を持てば無難なものを、色好み等しているからその身にも災難がかかるのだ。汝、自分では惜しくもないと思っているその命の方が長らえ、命を惜しむ清十郎の方がやがて間もなく最後となるのだ、とありありと耳に聞こえた。その夢のことが悲しく、彼女は目覚めてとても心細くなり、その一夜を亡き崩した。
案の定、清十郎は召し出されて、意外な詮議を受けたのだ。但馬屋の内蔵の金戸棚にのせてあった小判七百両が紛失しているというのだ。これを清十郎がおなつに盗み出させ、それを彼が取り逃げしたのだと言い触らされたのだが、場合が場合の時とて、申し開きが立ちかね、哀れ二十五歳の四月十八日に処刑された。村雨のあった夕暮れ時であった。仕置きを見た人は、誠に果敢ない世の中と、誰一人として同情し、眼を曇らせぬ者はなかった。
その後六月の初め、家中の虫干しをしたら、かの紛失したはずの七百両の金子が、置き所が変わって車長持の中から出て来たというのだった。全く物には念を入れるべきものだ、と仔細らしい親父が言っていた。
何事も知らぬが仏とか、おなつは、清十郎の非業な死も知らずに、とやかくと思い案じているその折り節、里の童子たちが袖引き連ねて、清十郎殺さばお夏も殺せ、と唄をうたっているのであった。
それを耳に入れたおなつは、何とも気になって、彼女の乳母に聞いたが、乳母は答えかねてただ涙をこぼすばかりであった。ハッと思い当てたあなつは、すでに狂乱していた。
それからは、おなつは子供達の中に混ざり、生きて思いをさしょうよりも、と音頭をとって歌うのであった。
皆がそれを見かねて、さまざま止めては見たが、やめる気配もなく、泣き崩れた顔のままで、向こう通るは清十郎でないか、笠がよく似た菅笠が、やはんはは、と後はゲラゲラと笑い声を立て、彼女の麗しい姿もいつしかすっかり狂態となり、取り乱した姿でどここことなく彷徨するようになった。ある時、山里に行き暮れて草を枕に寝た。その時につき添いの女まで一緒におかしくなり、しまいにはその女まで狂ったこともあった。
清十郎と長年懇意であった人達が、せめてその跡だけなりと残しておこうと、仕置き場の土草を洗い清め、その屍を埋めて、墓標代わりに松柏(しょうはく)を植え清十郎塚と名付けた。悲しい話である。
おなつは、夜毎ここに現れ、彼の冥福を祈っていた。塚の中に、清十郎の昔の姿をまざまざと見たこともあったであろう。それより日を重ねて、彼の百ヶ日に当たる日、おなつは露に濡れた草に座って、護り脇差を抜いて自害しようとしたのを、寸(すん)ででひきとめ、いまそんなことをしては誰の得にもならぬ、死にたいが誠ならば、髪を下ろして尼となり、後々まで亡き人の冥福を願うのが菩提の道であろう、私たちもそうしてもらいたいのだ、と言えば、おなつも心を鎮め、皆皆の心持ちを推察して、それでは皆様の言う通りになりましょう、と
に入って上人に頼み、十六の夏、墨染めの衣を着るようになったのであった。
爾来(じらい)、朝は谷へ下りて水をくみ、夕には峰に咲く花を手折り、夏を通して毎夜燈明をともして大経の勤めも怠らず、ありがたい
比丘尼(びくに)となったのである。
これを見た人、いずれもその殊勝さにうたれて、伝え聞く中将姫(*7)の再来なぞと噂した。この庵室を見た但馬屋もさすがに発心を起こし、例の七百両の金子を仏事の供養にし、清十郎の亡きがらを弔ったという。
その当時、これを上方では
狂言に仕組み、遠国の村々里々まで回ったので、清十郎おなつの浮名は広く伝わって行った。
♫ おもゐと恋を笹舟にのせて おもゐは沈んで恋は浮く
♫ 小舟作りてお夏を乗せて 花の清十郎に櫓を押さしょ
などと、小唄にも残された、二人の哀れな恋の末であった。