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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【井原西鶴 好色五人女 お夏清十郎】 その一  おもゐの交差

 

【今日のこよみ】 旧暦2014年 2月 16日 大安  四緑木星

         丙戌 日/戊辰 月/甲午 年 月相 14.8  

         啓蟄 次候 桃始笑(ももはじめてさく)    

 
【今日の気象】 天気 曇り 気温 3.8℃ 湿度 46% (大阪 6:00時点)
 
 
寛文2年(1662年)に播州姫路である駆け落ち事件が起こった。運命の糸は悲劇を紡ぎ、時を貫いて、今を生きる私たちに二人がおもゐを投げかける。
 
350年以上、毎年慰霊祭が執り行われて、今後もこの慰霊が継承されていく。当人達の身は悲劇で現世を散らしたが、二人のおもゐは、まだこの世を生き続ける。
 
ああ、これぞ生氣。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その当時、播州室津は、平和な栄えを極めた港であった。
 
 
この港町に、造り酒屋和泉清左衛門という者がいた。家業は繁昌、何一つ不足とてなく、その上、清十郎という男の子があったが、その彼は天性の優男、うつし絵の業平にも勝る美貌であって、いかにも女好きのするタイプであった。
 
 
清十郎は、十四の秋から遊びを覚えた。この港町に八十七人の遊女が居たが、彼は一人として買ってみない女はなかったのだ。女達と交した誓紙(せいし)は数限りなく、彼女達の爪は手箱にあふれ、切らせた黒髪では大綱をなわせ得るといっても誇張ではなかった。この縄にはいかに悋気(りんき)深い女をも繋がずにはいなかったであろうか。
 
 
女達からは日に何通となく届文が舞い込んだし、紋付きの送り小袖も着きれなくて、ほとんどそのまま重ねにされていた。亡者の衣を剥ぐという三途の河の鬼も、これを見たらあきれて欲心も出まい、高麗橋の古着屋もさすがに手も出せまいといった有様であったので、仕方なくこれを蔵に詰め込み、その蔵には「浮世蔵」と名札まで掛けておいた。
 
 
このたわけ者、蔵に詰め込んでおいたところで、そんな物がいつ値が出て来るというのだ、おっつけ自分の名前を勘当帳につけられたのが落ちだろう、と周囲の者が取りざたしつつ案じていたが、こうなっても中々この道ばかりは止め難かった。
 
 
そのころ、清十郎は皆川という女に馴染んでいた。その仲は、一通りのものではなく、命までもと惚れ合って、世評などに頓着なく、日夜に提灯どころか真っ昼間に灯りをつけさせ、座敷の障子雨戸を皆閉めさせて昼中の駄駄羅(だだら)遊び(*1)、放埓の限りを尽くしていたのだ。
 
 
取り巻きの小器用な太鼓持ちを集めて、夜の気分を出すのだと、夜番の拍子木の真似をさせる、蝙蝠の鳴き声をさせる。遣手(*2)に門前の茶をたかせ、歌念仏(*3)を唱えさせ、まだ死にもしない久五郎とかいう僕(しもべ)の男の為だと言って、生霊棚を祭り、楊枝を燃やして送り火の代わりにする。その果ては、夜するほどのことも尽きた、まだ何か慰みごとがないか、と思案の挙句、世界図にある裸島に模した遊びでもしようと、家内の者を残らず裸にした。女郎たちは裸になるのを嫌がったが、それを無理に帷子(かたびら)を脱がせた、肌の見えるのを恥ずかしがる女の風情がまた面白いと興じるのだ。
 
 
その中に吉崎という囲い女郎(*4)がいた。その女が長い間どうにか隠しおおせてきていた腰骨の白斑(しろなまづ)を見つけ、これは生きながらの弁天様、悪戯にかまけて、座中の者が伏し拝んだりしたものだが、却ってふと気分が白けてしまったこともあった。そんなことがあって後は、気をつけるほどに何か見苦しいことばかり気になって、次第に嫌気が募り、遊びも面白くもなくなった。
 
 
そんな時に、清十郎の親父の腹立ちが重なり、耐えかねて、この遊び呆けている所へ訪ねて来たのだ。思いもよらない俄か風みたいで、荷をのける隙もない火事場騒ぎのようであった。
 
 
「。。。。。これで色狂いはぷつりと止しますから、お許し下さい」
 
 
と、清十郎はさまざま手を尽くして詫びたのだが、聞き入れられず、親父は、エエィ、もうお前など何処へでも行ってしまえ、とその場で勘当を言い渡して帰ってしまった。皆川をはじめ女郎どもは泣き出して仕ようもないことになったが、太鼓持ちの中に、闇夜の冶介という者がいて、少しも驚かぬ風を見せ、
 
 
「男は、裸百貫だ。それだけで世は渡れるというものだ。清十郎様、あわてなさんな」
 
 
こんな中でも、この言葉がおかしくなって、それを良い肴にまた酒を飲み、せめていくらかの憂さを忘れようとしたのであった。
 
 
だが、揚屋の方では、親父の勘当言い渡しの効き目たちまち見せて、手を叩いても返事はせず、吸物の出る時分になっても出ないし、茶をくれと言えば、両手に天目二つ一度に持って来るという有様、おまけにその帰りがけには油火の燈心まで清めて行く。女郎はそれぞれ呼んで引かせてしまう。薄情は色里の習い、人の情も一歩小判のある間だけのことであるといいながら、皆川の身にしては何としても哀しいことであったろう、一人後に残って、涙に沈んでいた。
 
 
清十郎もすっかり口惜しくなって、よし死んでやろう、と口に出したいところであったが、うっかりそう言うと、この女も一緒に行きます、と言うだろうことが可哀想でもあるし、どうしたものかと思い沈んで居た。すると、皆川がその顔色を見てとって、
 
 
「あなたは死にそうな御様子ですが、それは本当に馬鹿げておりますわ。私もご一緒にと言いたいところですけど、どうしても私はまだ世の中に未練があります。それに勤めをしている身では、商売気になるのもご免なさいね。あなたとの間ももうこれまで、何もかも昔話と思ってお諦め下さい」
 
 
と、言い捨て立って行ってしまった。
 
 
あまりのことに、思惑の外れた清十郎は、すっかり滅入って、いかに商売の傾城(けいせい)でも、いままでの二人の誓いをこんなに簡単に捨てて顧みないあさましさ、あんまりだ、と口惜し涙をこぼしながら、立ち出ようとした。と、再び皆川が駈け込み、彼にしがみついて来たのだ。女は白装束になっていた。
 
 
死なずに何処へお行きになるのです、さぁ今すぐに、と二挺の剃刀を前に出した。この思いがけなさに、清十郎はこれはと、女の本心に嬉しくなった瞬間、家内の者が出て来て、二人を引き分け、それも駄目になってしまった。皆川はそのまま抱え主の元へ連れられて行き、清十郎は、また大勢の者に附き添われて、せめて親父へのお詫び言の一助にも、と言うので、それからすぐ旦那寺永興院へ送り届けられた。
 
 
清十郎が十九の年である。あたらこの若さで、出家の望みもないのに寺住まいとは、哀れなことであった。
 
 
ほんの少し今しがたのことだよ、はよう外科医を呼べ、気付け薬は、と立ち騒いでいる。何事かと聞けば、皆川が自殺したというのだ。皆が、可哀想に、どうだろうと噂している内に、もうことぎれてしまった。果敢ないものであった。十日あまりもこの話は秘されていたので、清十郎は心ならずにも死に遅れ、遂に心中沙汰にもいたらなかった。
 
 
そのうちに、清十郎の所へ、母からそっと教えて来た一言に、不図その気になり、惜しからぬ命を長らえて、密かに永興院を脱け出し、同國姫路の城下に知己のあったのを訪ねてみた。昔の好(よしみ)を忘れずに親切にしてくれた。幾日か経つ中に、但馬屋九右衛門というところで、店をまかせる手代に欲しいと言われ、後々は良い事もあろうと考えて、厄介になっていた家の肝いりで、彼は初めて奉公する身となった。
 
 
清十郎、もともと育ちは良いのだし、気立ても優しく、利口な性質なので、人に気に入られるのは当然のことだ。殊に、女には好かれる質である。けれども、今の清十郎は、いうならばいささか解脱気味で、なりふり構わずの色恋にも飽きて、ただ律儀一方に勤めるのであった。自ずと信用も得、主人の九右衛門も万事を任せ、彼の働きで金の貯まるのを楽しみに、清十郎を行く末の頼みと思うほどになった。
 
 
九右衛門に、お夏という妹があった。すでに十六になるというのに、器量好みのきつい娘で、定まった縁もなかった。それだけまた彼女は、田舎に稀というよりも京都でさえ素人女には見えられぬほどの綺麗な女であった。この前、島原遊郭に揚羽(あげは)の蝶の紋所を付けた太夫があったが、それをもしのぐ美人だと、京都の人の噂にも出た。それだけでもう一々美点をあげていうまでもなく、想像がつくだろうし、情もさぞかし細やかであろうと思われた。
 
 
ある時、清十郎が、放蕩時代の名残の龍門の普段帯を持ち出し、女中のかめに、この帯は広くて嫌だから、良い加減に仕立て直してくれ、と頼んだ。かめが早速解いてみると、紙敷きにして十四五枚もあったろうか。宛名は、皆「清さま」とあったが、しかしその裏書きは皆別々の女名であった。
 
 
花島、うきふね、小太夫、明石、卯の花、筑前、千尋、長州、市之丞、こよし、松山、小右衛門、出羽、みよし、といづれも皆宝津の遊女の名である。しかも、どれを読んでも、みな女の方から深く打ち込んだものばかりで、命も掛けたおもゐを寄せたものであった。勤めのわざとらしい艶気(つやけ)もなく、真心のあふれた文面であった。これなら何も遊女とて嫌らしいものでもない、清十郎にすれば、放蕩のし甲斐もあったであろう、何か他人には分からぬ良いところが彼にはあるのだろうか、こんなに多くの女が打ち込んで来るからにはと、いつからおなつも、清十郎を床しく想い、恋心を寄せるようになった。
 
 
それからというもの、おなつは明けても暮れても、清十郎を思い詰めてばかり、魂は身を離れて清十郎の懐に行ってしまい、自分の言うことも分からぬという有様であった。春花秋月、四季の風物にも興味がまるで失せ、盆も正月もなく、一切が夢うつつで、しまいには彼女の愛情を包みきれなくなって、知らず知らず彼に秋波(ながしめ)を遣るし、かえす言葉も意味ありげに色っぽくなって来るのだ。世間には別に珍しいことでも無い事だし、彼女のおもゐを叶えてやりたい、と但馬屋の女供が同情している中に、やっぱり、そういう彼女達もそれぞれが清十郎に恋想するようになった。
 
 
縫物をする縫物師の女は、針で血をしぼって、血書して自分の心のたけを書いて来る。女中は、男に文を書いてもらって、それを彼の袂へ投げ込む。小間使は要らぬ茶を店まで運んで来る。乳母は主人の小さい子供にかこつけて近づいて来、わざと清十郎に抱かせて膝へ小便を垂れさせたりして、坊やも大きくなったら、この方にあやかりなさいと、私も良い子を産んでからこの子の乳母に来ましたが、亭主というのが働きのない男でしてね、今は肥後の熊本に奉公に行っているそうですよ、でも夫婦別れをする時にとちゃんと離縁状を取ってあるので、今は男の無い身なんだが、という様な思わせぶりを言った挙句、私は生まれつき横太りで、口も小さく髪も少し縮れては来たけれど、中々舌たるい独り言を低い声で言うもおかしかった。下女は下女で、金杓子を片手に、目黒(さんま)の船場煮を皿に盛る時、骨付きの頭の方をよって清十郎にと、気を配ってくれるのも有り難迷惑みたいなものであった。
 
 
こうして、あちらこちらで心を掛けてくれるのは、清十郎には嬉しくもあったが、情けなくもあった。商売の方が他になって、女たちとやり取りする挨拶に隙が無くなり、しまいにはうるさくて参ってしまい、ともすると夢にまで見て悩まされるような有様であった。
 
 
それでもおなつが辛抱強く、伝手(つて)を求めては度たびの恋文をよこすので、清十郎もいつか情を動かされ、おなつの心には従いながら、人間の多い家のことで、何ともうまい首尾をして逢うことは出来なかった。ただ、お互いに胸を焦がすだけで、身体も瘠せやつれて行く始末。そのまま月日は過ぎて行くのに、何のこともない、やっと互いの声を聞くだけを楽しみにして、いつになったら寄り合い、語り合うことが出来るかと、そればかり考え詰めていたが、その想いの通路には兄嫁がちゃんと寝床を据えていて、夜毎油断もなく、中戸を閉ざし、火の用心が来ると奥の戸まで閉める。その車戸の音が、二人には全く雷よりも恐ろしく響いたことだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
駄駄羅(だだら)遊び(*1) 
遊里で、金銭浪費して遊ぶこと。転じて、無意味な遊び

駄駄羅遊び とは - コトバンク

 

 

 

遣手(*2)

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 妓楼遊女新造,かむろ(禿)を監督する女。遣手婆(やりてばば)ともいい,また香車(きようしや)の別称がある。遊女らの行動を監視するほか,遊客品定めして遊興程度をはかるなど,遊女屋の最前線を統轄する役であり,細見(さいけん)類にも名まえが掲載された。営業に反する遊女をせっかんする悪婆として描かれることが多いが,大店(おおみせ)では行儀のしつけや相談相手などの世話をした。遊女上がりなどの遊郭関係者でなければ務まらないが,給料無給少額で,祝儀金や遊興費の歩合収入とした。

遣手 とは - コトバンク

 

 

 

歌念仏(*3) 

 念仏に節をつけて俗謡風に歌ったもので,《人倫訓蒙図彙》(1690)によると,菅笠をつけた僧形のものが,鉦鼓(しようこ)を首にかけて門付(かどづけ)をしている姿が描かれているが,これが歌念仏である。《竹豊(ちくほう)故事》(1756)に,寛文(1661‐73)ころ歌念仏を得意とした日暮林清,林故,林達の名が見える。元禄から享保(1688‐1736)にかけて浄瑠璃風に語るようにもなった。詞章としては近松《五十年忌歌念仏》の中にお夏清十郎の歌念仏がある。

歌念仏 とは - コトバンク

 

 

 

 

囲い女郎(*4) 

(「鹿恋」とも書く)江戸時代、上方遊女で、太夫天神に次ぐ位の者。囲い女郎。「名を知らぬ―さへ、これはと心を動かすは」〈浮・一代男・七〉 

囲い とは - コトバンク