【老子道徳経 第三十三章】 見えないは無尽
【今日のこよみ】 旧暦2014年 2月 15日 仏滅 四緑木星
乙酉 日/戊辰 月/甲午 年 月相 13.8
啓蟄 次候 桃始笑(ももはじめてさく)
【今日の気象】 天気 曇り 気温 3.5℃ 湿度 43% (大阪 6:00時点)
知人者智、自知者明。
勝人者有力、自勝者強。
知足者富、強行者有志。
不失其所者久。死而不亡者壽。
【書き下し文】
人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。
その所を失わざる者は久し。死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。
【私的解釈】
他人を理解できる者は、見えるモノがよく見える人であり、自分を理解している者は、見えないモノもよく見えている人である。
他人に勝つ者は、見えるチカラを備え、自分に勝つ者は、見えないチカラを備える。
どんな現状であっても満足する者は見えないモノで富み、常に上を目指す者は見えるモノで富む。
自分の「おもゐ」に添う者は長生きする。自分の「おもゐ」を他者に委ねる者は永遠に生きる。
【雑感】
今回のSTAP細胞の騒動について、ここに記録しておく。
どんなものにもなる万能細胞「STAP細胞」の論文疑惑について、理化学研究所は14日、中間報告を発表した。しかし新たに解明された事実は少なく、謎がいくつも残った。小保方(おぼかた)晴子氏も姿を見せなかった。野依(のより)良治理事長はじめ、俊英を集めた理研で、どうしてこんな論文ができ上がり、世界に広まってしまったのだろうか。 (STAP細胞問題取材班)
■実在?
STAP細胞は本当にあるのか。論文共著者の丹羽仁史氏は今も「実在する」と主張する。実験では細胞を培養し、多能性(いろいろな組織に分かれる能力)の目印が細胞に現れると蛍光が出る仕組みをつくっておく。論文発表後も蛍光の出現が観察されている。
以前、理研に所属していた中武悠樹(ゆうき)・慶応大助教は「これだけでは多能性があるとはいえない。それを示すにはマウスを使った別の実験が必要だ」と述べる。理研も、その先の部分の再現には成功していない。
有力なのは「死にかけた細胞が強い蛍光を発する現象(自家蛍光)」という見方だ。「再現が成功した」といったん報告した関西学院大の研究者は後に「自家蛍光を誤認した」と訂正した。会見でも実在、非実在の決着はつかなかった。ただ理研で研究グループが見ていたものは万能細胞といえるものではなさそうだ。
■演出
意表を突くアイデア、人工多能性幹細胞(iPS細胞)をしのぐ実用性…。世界を驚かせた論文は、若い小保方氏をみこしにかついだ腕自慢の面々による共同作業だった。
「刺激で万能細胞」という構想は、芸術的発想が豊かな大和(やまと)雅之東京女子医大教授と米ハーバード大のチャールズ・バカンティ教授が唱えていた。執筆は、再生医学で日本を代表する笹井芳樹理研副センター長が主導し、マウスの実験は名人として知られる若山照彦山梨大教授が担当した。
小保方氏は、早稲田大で常田(つねだ)聡教授の研究室に所属した後、大和教授に学び、大和教授と知り合いのバカンティ教授のもとに留学し、万能細胞のアイデアを知った。小保方氏が若山氏を訪れたのは2010年夏。理研にいた若山氏は「ハーバードの研究者から頼まれてマウスの実験を引き受けた」と話す。その半年後に小保方氏は理研入り。若山氏は山梨大に去ったが、笹井氏や丹羽氏の知遇を得てユニットリーダーに就いた。
笹井氏は小保方氏を大舞台に押し上げようと奮闘。会見に備え、理研広報チームと笹井氏、小保方氏が1カ月前からピンクや黄色の実験室を準備し、かっぽう着のアイデアも思いついた。
文部科学省幹部は「笹井先生はうれしかったんだと思う。iPSが見つかるまでは、笹井先生が(山中伸弥京都大教授より)上にいた」。会見ではSTAP細胞の優位性が強調された。
■暗転
だが暗転はすぐだった。メディア戦略は理研幹部が「予想を上回った」と驚く成功を収めた。あまりに目立ちすぎたため、疑惑探索の専門家が早速、動きだした。インターネット上での指摘が静かに広がり始め、理研も内々に調査を始めた。ネイチャーが論文を無料公開すると、さらに疑惑探索者が増え、坂道を転げ落ちるように問題点が次々に見つかった。
大和氏は2月5日にツイッターで「博多行きの電車に乗った」との発言を残したまま。笹井氏は沈黙を続ける。
疑惑はどこまで増殖するのか。中辻憲夫京都大教授は「底なし沼」と表現している。
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20140315070914336
この記事が今回の騒動の核心に迫ったものであろう。
科学者とは、世の中を取り巻く見えない力(人間の力が及ばないモノ)を見える力(人間の力が及ぶモノ)に変えて行く人々である。
その過程で自分の「おもゐ」が形作られて行くんだと思う。
老子が言う。
他人に勝つ者は、見えるチカラを備え、自分に勝つ者は、見えないチカラを備える。
どんな現状であっても満足する者は見えないモノで富み、常に上を目指す者は見えるモノで富む。
他人との競争に勝つ者は、権力を手に入れ、自分の欲望に勝つ者は、神秘の力を手に入れる。
今の自分に満足する者の周りには、目にとらえることの出来ない物であふれ、他人との競争に勝ち続ける者の周りには、お金や地位等があふれる。
欲望を増大させて突っ走ると、その先には必ず魔が潜んでいるのが、この世の法則らしい。
今回の騒動で感じることは、天は必ず采配を振るということ。日本に流れる正氣がまだまだ盛んであることを感じさせられた。
今、数学者岡潔の言葉を見直す時期なのだと思う。
「自然科学は間違っている」(1) 岡潔著
講演日:1969年5月11日
於:大阪船舶ビル
【1】 このままでは人類は滅びる
今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。
で、その為に思想の間違いの根本はどこにあるか、それを調べましょう。
一番怪しいと思えるのは自然科学です。それで自然科学から調べます。大体、自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。
だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。それで、これを調べようと思います。
【 2】 自然科学者の時間空間
自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。
が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。
【 3】 五感でわかるもの
物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。
で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。
ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。
これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。それで、これに名前をつけて物質的自然と、そういうことにします、のちに要るでしょうから。
【 4】 自然科学と生命現象
ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。それで自然科学に聞いてみましょう。
人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。
余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。
人は立とうと思えば立てる。この時、全身四百いくつの筋肉が突嗟に統一的に働くから立てるのですが、何故こういうことができるのか。これに対しても自然科学は本質的なことは一言も答えられない。
人の知覚、運動、どれについても本質的なことは一言も答えられない。知覚、運動というのは生命現象の「いろは」でしょう。もすこし突っ込んだものを申しましょう。
人は観念することができる。観念するというのはどういうことをいうのか。一例として、哲学することができる。何故か。自然科学は勿論、一言も答えられない。
人は認識することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。人は推理することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。それじゃあ一番簡単に、人は感覚することができる。何故か。これに対してすら自然科学は一言も答えることができない。
【 5】 自然科学の無知
それじゃあ物質現象なら可成りわかるのか。で、聞いてみましょう。
物質は諸法則を常に守って決して背かない。何故か。
これに対しても自然科学は一言も答えられない。だから物質現象のほんの一部分、非常に浅い部分だけしかわからんのです。
で、それでも人類の福祉に役立ってはいます。たとえば医学は自然科学です。可成り人類の福祉に役立ってはいます。しかしながら、医学の人類の福祉に役立つ役立ち方は、何が何だかわからんままに役立っています。
ところで、間違った思想の洪水から逃れようとするには、智が要ります。無知なままで福祉に役立ってたところで仕方がない。それで物質現象のほんの一部分しかわからんというのは、完全な無知とほとんど選ぶ所がない。
【 6】 唯識論の人間観
それで今度は方向を変えて、仏教に聞いてみましょう。
仏教に聞く聞き方ですが、これから聞きますが、この聞き方をお聞きになったら、人が如何に無知であるかわかるでしょう。仏教にこう聞く外ないのです、何が一体どうなってるのですかと。他に何ともしょうない。そうしますと仏教はこう答えます。
仏教は人の心を層に分かって説明する習慣があります。一つ一つの層のことを識といいます。知識の識です。で、心の一番奥底を第9識といいます。
で、一番初めに第9識というものがある仏教に聞いてますが、第9識は一面唯一つであり、他面一人一人個々別々である。この一人一人個々別々であるという方面から見た第9識を個といいます。個人の個です。
第9識にはこの関係があるだけで、他に何もない。時間も空間も自他の別もない。それが「もの」の始まりです。そういう。
以下、その各々の個について言って行きます。第9識に依存して第8識がある。ここには一切の「時」がある。しかし、他には何ものもない。
第8識に依存して第7識がある。ここに致って初めて大小遠近彼此の別が出る。彼此の別の彼此とは「かれこれ」と書く。彼此の別というのは自他の別のことです。
この第9識、第8識、第7識の現れが自然であり、人々であり、その一人が自分であると、こういうんです。
今、言いましたことのうちで、第8識と第7識との分類法は私、少うし変えました。これは変えた方があとで都合がいいからです。しかし、これは単に分類を変えたんです。つまり言葉だけの問題です。言葉が違っているというだけです。あとは仏教は皆こういってるんです。その点を別にすれば、仏教は皆、今いったようにいっています。今いったことに反対する宗派はあるまいと思う。
【 7】 無差別智(直観)
それで仏教に聞いてみましょう。それじゃあ人は見ようと思えば見えるのは何故であるか。それに対して仏教はこう答える。
人の普通経験する知力は理性のような型のものである。これは意識的にしか働かないし、わかり方は少しずつ順々にしかわかって行かない。
しかし稀ではあるが、たとえば仏道の修行の時とかそういった場合に、これと違った型の知力が働く。無意識裡に働いて、一時にパッとわかってしまう。こういうのを無差別智というのです。
無差別智の智は知るという字の下に日という字を書きます。この下に日を書いた知力といえば知、情、意に働く力という意味です。だから知だけではなく、情、意もそうですね。これしかし、みな同じであって無意識裡に働くんです。そして一時にパッと完了してしまう。そういうのが無差別智です。
無差別智には四種類あります。大円鏡智、平等性智、妙観察知、成所作智。四つありますから四智というのです。
さて、人が見ようと思えば見えるのは四智がことごとく個に働くからと、仏教はそういいます。立とうと思えば立てるのは妙観察知が個に働くからだと、そういいます。人の知覚、運動は全て無差別智が個に働くからと、それでできるのだとそういうのです。
人が観念することができる、たとえば哲学することができるのは、大円鏡智あるによる。人が認識することができるのは、妙観察智あるによる。人が推理することができるのは、平等性智あるによる。人が感覚することができるのは、成所作智あるによる。こういうのです。
【 8】 個人主義と物質主義
そうすると人が現実にその中に住んでいる自然は、単に五感でわかるようなものだけではなくて、無差別智が絶えず働いているような自然でなければならない。
ところが無差別智というのは個に働くのです。だから無差別智の働きというと個の世界の現象です。しかし個の世界は二つの個が一面二つであり、一面一つでなければならない。こういう世界です。だから個の世界は数学の使えない世界です。。
これに反して、物質的自然は数学の使える世界です。だから人は物質的自然には住んでいないのです。
物質さえわかれば全てわかるという考え方、間違ってますが、これを物質主義といいます。また肉体とその機能とが自分であると、そういいましたね。肉体とその機能とが自分であるというのも間違いですね。まあ間違ってるとはっきり言えないまでも、自然科学の間違いから来てるということでしょう。これを個人主義というのです。
肉体とその機能とが自分であるというのが個人主義、物質がわかれば皆わかると思うのが物質主義。どうも物質主義、個人主義が間違った思想の基だと、そう思います。
で、自然科学は間違っている。それから仏教はどういうか一応聞きました。この後、自分の目で見、自分の頭で考えて行ってみる。