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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【改訳 怪談 乳房榎】 第四講 

 

さて、菱川重信は下男の正助を連れまして高田の南蔵院へ赴きました後は、きせと子供の眞與太郎(まよたろう)とお花という下女ばかりでございますから、ここぞと思いましてお淋しかろうというので、磯貝浪江(いそがいなみえ)が毎日欠かさず留守を見舞います。
 
 
それに地折紙(じおりがみ)の竹六も参りましては色々に機嫌を取りまして、ワウワウと言っては、たきやお花を笑わせますから昼の内は随分賑やかですが、皆夕方には、
 
 
「また明日伺います。坊っちゃん、明日は良い物をお土産(みや)にあげます。さようなら。お花どんお気をつけよ」
 
 
と、言っては帰りますので、夜に入ってはひっそりと致します。
 
 
 
殊に柳島辺りでございますから田畑が多く、ただ今のように家並みにはなりませんから淋しゅうござります。
 
 
とある日のことでございましたが、いつも通り浪江と竹六が来まして、暑気払いだと泡盛などを出しましたが、果てはお酒が出まして、呑む口だから竹六はずぶろくに酔いました。
 
 
そのうち日が暮れかかりまして灯ともし頃、浪江は帰ろうと致しまして、
 
 
「コウ竹六、今日は大分酔ったね。灯りがつくよ。もうよかろうお暇致そうではないか。コレ危ない。左様酔っちゃ困るの」
 
 
 
「へぃ、帰りましょう。これからズーゥットご帰宅と致しましょう。ダガどうも今日は大そう頂戴したもんだから大酩酊(おおめいてい)。これはヒドイ。。。。。。これはエライ。
 
どうも名代の本所(ほんじょう)(*1)だけあってひどい蚊だ。これは厳しい。先刻(さっき)から大分食われました。奥様が竹六羽織を脱げ脱げとおっしゃって下さるが、私ゃアわざと脱ぎません。脱がぬのはこうこれを足へ被せておくと少しは足へ蚊が止まらぬ。即席に足だけの蚊帳をこしらえるというはエライ、竹六は知恵者だ。。。。こんなひどい蚊の中に美しい奥様を残して、旦那様は高田へいらっしゃるなんて可哀想だよ。。。。私ゃア、この中へ一人おきますのは可哀想でなりません」
 
 
 
「なんでもよいからお暇致そう。竹六、もう灯りがつくョ。先生がお出でならよいがお留守のことなり。あまり貴公のように物がくどいと奥様がお嫌がり遊ばす。サァ一緒に帰ろう」
 
 
と、言えば
 
 
「いえ浪江様、まぁよろしゅうございます。本当にいつも面白い竹六さんでございますぅ」
 
 
「いえ、それでも余り遅くなりましては済みませんサア。竹六、一緒に出かけよう」
 
 
と、急ぎ立てますが、酒呑みの常で中々立ちませんで、落ち着き腐っており、
 
 
 
「何、一緒に私と帰ろうって、イエご一緒に帰ると仰った。
 
ツテ貴方は撞木橋(しゅもくばし)、私は浅草田原町だから道が違います。私やぁ押上の土手を真っ直ぐに行きますェ。
 
のだからご免こうむります、さようならお暇。お花どん大いにお世話ドッコイショになりましたハハハハ」
 
 
 
と、よい機嫌でヒョロヒョロと立ち上がり内玄関の所から雪駄を突っ付けまして、
 
 
「さようならまた明日伺います。ごきげんよう」
 
 
「アレ危ない。花や、外まで見てお上げ申しな」
 
 
「イエお構いなさいますな。打捨ててお置き遊ばせ。かまうと限(きり)がござりますぬ」
 
 
「ア、真っ暗になったエィ」
 
 
と、一杯機嫌ゆえ急いで参ります。
 
 
浪江は少し後へ残りまして
 
 
「イャ困った奴でござります。お酒をいただくと平常とはガラリと変わりまして、しつこくなりますから誠に。イエ私もお暇いたします」
 
 
「まぁ、貴方。良いではございませんか。お帰りになりますと後は女ばかりでございますから誠に淋しゅうござりまして」
 
 
「お淋しゅうはござりますが、その代わり眞與太郎様がいらっしゃるからお賑やかで」
 
 
「ナニ坊にむずかられますと誠に賑やか過ぎて困ります、オホホホホ」
 
 
と、愛嬌がこぼれる様だ。
 
 
「ナンに致せ、お暇いします。お花どん後をよく締りなさいョ。さようなればごきげんよう」
 
 
「誠に今日は失礼を。花やソノお手燭(てしょく)を、イエなければご籠ぼんぼりでもよいヨ。お送り申して」
 
 
「イエお構い下さいますな」
 
 
と、浪江は礼義正しく立ち出でましたが、門を出たかと思うころ。
 
 
「ァイタタタタ、ひどく差しこみが」
 
 
と、横腹を押えたなり小戻りを致しまして、ウーンと言って玄関の式台の所へ顔の色を変えて倒れました。
 
 
おきせも花もびっくりいたして、
 
 
「浪江様、どうなされました」
 
 
「あなた癪でも」
 
 
「ムム、苦しいわ。。。。。私は。。。。お、折節かような事が。手前の薬入れの中に熊胆(ゆうたん)(*2)が、イェ熊の胆(きも)がござりますから、どうかお湯を一杯頂戴、、、お早くくくく下さい」
 
 
と、男の癪と見えて、見る間に顔の色が青くなり、歯を食いしめまして、
 
 
「苦しいぃ、ウーン」
 
 
と言って反りますから、
 
 
「私が押してあげましょう」
 
 
と、デブデブと太ったお花が、三人力もあるという真っ赤な手をだしまして、
 
 
「私が押してあげましょう。ここでございますか」
 
 
「ありがとう。これははばかり。そこを」
 
 
「もうちっと下で」
 
 
「よろしい。ア、これは苦しいウンムー」
 
 
『本所(ほんじょう)に蚊がなくなれば大みそか』(*3)という川柳がございますが、五月というのだからひどうございます。ブーンブーンと蚊が群がりますから、
 
 
「アア、これはひどい蚊で。あんまり端近だし、ここでは蚊が食うから奥へお連れ申しな」
 
 
「イエここでよろしゅうござります。決してご心配を。今すぐに治まりますからこれでよろしい」
 
 
「イエあなた。ご遠慮をなさいますなョ。こういう時は仕方のありません」
 
 
浪江は油汗をかいて余程苦しい様子でございますから、おきせとお花は気の毒でなりません。
 
 
「さぁ、あなた。奥へお出で遊ばせよ」
 
 
「イエこれでよろしゅうござります。アァ、苦しいどうも痛い。。。。イェ先生がお出でならこちらへ一泊願いたいと存じますが、お留守ゆえやはりこれで。今すぐに、暫時落ち着きますまでお置き下さい」
 
 
「アレ物堅い。そんなご遠慮はいりませんョ、あなた」
 
 
「ほんとうでございますョ。差し込みの時はたまらないものでぁ。これはひどい蚊でございます」
 
 
「それではこう遊ばせ。ここでは冷えますといけませんから。花や客間にお連れして、蚊帳を吊ってお上げしな。あなた少し横になってゆっくり遊ばせバ」
 
 
「イエ決してアイタタ。。。。お構い遊ばすな。やはりここでお花殿に押してもらいまして、ちょっとの間堪(こら)えようござります」
 
 
「アレまだそんな事おっしゃいますよ。奥様があんなにおっしゃりますから、あなたいらっしゃいョ」
 
 
「サァ、せめてあなた客間へ」
 
 
「それではどうも心が済みませんが。。。」
 
 
「サァ、いらっしゃい。サァ私にしっかりおつかまり遊ばせ」
 
 
普段鼻薬が飼って(きかせて)あるから、その親切な事。
 
 
おきせも供に介抱致しまして、辞退を致す浪江を奥の客間へようよう連れてまいり、お花はまめまめしく蚊帳を出しまて吊り、ちょっと郡内縞(ぐんないしま)(*4)かなんぞの小夜着(こよぎ)(*5)を出して、枕元へは煙草盆。盆へ素湯をくんで持ってゆく。よくお手当てが行き届きます。
 
 
この客間というのは八畳で花月床(かげつとこ)というやつで。ここから四尺ほどの栂(つか)の柾(まさ)で張りました廊下を隔て、前がおきせが寝ております六畳の座敷です。
 
 
やはりお花は浪江の胸をさすっております。
 
 
浪江は暫時苦しんでおりましたが、大いに落ち着いたと見えて、癪の癖で少し落ち着くとスヤスヤと眠るもので、お花はさすっておりましたが、浪江が寝た様子でございますから、
 
 
「アノ奥様落ち着きました様で、スヤスヤお眠りなさいましたょ」
 
 
と、小声でいいます。
 
 
「それはマァよかった。そっとしておおき。また目が覚めでもして差し込むといけない。お前そっと蚊帳を出て、表を締めましてお前も寝。ご病人がいらっしゃいますから、いつものように寝坊をしては困るよ。どうぞ目ざとく(注意)しておくれ」
 
 
「ナニあなた。今晩は本当に寝は致しません」
 
 
と、目の覚めぬようにそっと蚊帳を出ました。これから方々の戸締りをいたして、
 
 
「さようなら。お休み遊ばせ。ご用があったらすぐにお起こし遊ばして」
 
 
と、お花は一間隔てました自分の部屋へ参りました。
 
 
おきせも、先へ寝かしました眞與太郎が、今夜は大人しゅうございますから、これも起こすまいと、蚊帳の中へそっと入り、
 
 
「さぁ、坊や。ほんとうに寝んねをおし」
 
 
と、眞與太郎を抱いてスヤスヤと眠りにつきました。
 
 
下女は一日立ち働いて疲れておりますから、床へ入るが否やグウグウと高いびきをかいて寝てしまいます。。。。。。。。。。
 
 
 
 
松井町の鐘は空が雨気を持っているせいか、十間川の流れへ響いてボーン、ボーン、ボーン、ボーン。
 
押上堤の露の含んでおります千草の中ではいろいろな虫が鳴き連れまして、何となくもの寂しい。。。。。。。。
 
 
かの浪江は、時分をはかりましてか、むつくりと起き上がりましたが、癪の差し込みと申したのも元より仮病で、日ごろから惚れ切っております、師匠重信の妻のおきせをどうか口説き落とそうと思うので、先生が留守である今夜こそはと、枕元に置きました脇差を一本差しまして、そっと蚊帳を這い出しまして、おきせの寝ている蚊帳の中を覗いてみますと、有明の行燈の灯が薄くさして、眞與太郎を抱きまして添え乳をしながら眠りましたと見えて、真っ白な乳房が見えております。
 
 
大抵、どんな良い女でも口を開けて寝るなり歯ぎしりをするとか、何なり疵(欠点)のあるもので、寝顔というものはあんまり良くないもので、随分首っ丈に惚れておりましても、寝た顔を見たから愛想の尽きる事があるものですが、このおきせは、三十二相揃っております。美人である上寝顔も良いそうでござります。
 
 
左様でござります柳島路考(やなぎしまのろこう)といわれる程の容貌(きりょう)良しだから、蚊帳越しに見ましたこの浪江、しばらく見とれておりましたが、今夜こそはこの女を抱いてやろうと思うと、さすがにブルブル震えました。
 
 
が、根が大胆な浪江でございますから、そっと蚊帳をまくりノコノコ中へ這い入りまして、おきせの寝ております脇の方から、そっと枕と肩の間の所へ、男の方からグッと手を入れましたから、おきせはハッと驚いて目を覚まし飛び起きまして、ちゃんと畏(かしこ)まりまして、少し声を震わせ、
 
 
「アッマァ、びっくり致しましたョ。呆れ返った。あなた何でここへ」
 
 
「ァ、コレ大きな声だ。静かになさい」
 
 
「イエ、静かにはなされません。何であなた私の所へ」
 
 
「コレ静かになさい。。。。誠に面目次第もござらんが、私の申す事を」
 
 
「イエ、あなた。なぜ私の」
 
 
 
「コレサ静かになさい。誠に男子たる者が恥入った訳で。コレサマア静かにして。
 
ござるが実は、この三月十五日。忘れも致さぬ梅若の縁日小梅の茶店で重信殿とご一緒にお出でなすった所をば、私が床几に掛けて居(お)って初めてあなたを見た時、アァ美しい綺麗だと思いましたがこの身の因果で、命を掛けて惚れました。
 
この浪江どうか不憫と思し召して、たった一度でよろしゅうござるから、望みを叶えて下さい」
 
 
 
「ほんとうに貴方。マァ呆れて物が言えない。どうか返って下さい。花やァ」
 
 
「コレサ、静かになさい。シィー、シィー」
 
 
 

【改訳 怪談 乳房榎】 第五講へ続く

 
 
 
 
【脚注】
本所(ほんじょう)(*1)
『本所(ほんじょう)に蚊がなくなれば大みそか』(*3)

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手前に描かれているのが柳島橋で、この辺りが本所。
この絵を見ると「蚊の名代本所」といわれていたのも分かります。
東京都墨田区南部地名隅田川東岸位置し,1~4丁目に分かれる。1868年(明治1)東京府編入され,78年本所区成立。1944年向島区と合併し,墨田区となった。江戸初期には農村であり,本所村,中之郷村と呼ばれた一帯は,明暦の大火(1657)の後,急速市街地として開発された。1660年(万治3)に本所築地奉行設置され,竪(たて)川,横川,十間(じつけん)川,南割(みなみわり)下水などの堀がつくられ,低地を埋め立てて宅地造成された。

本所 とは - コトバンク

 
 
菱川重信の屋敷があった場所の現在の様子

菱川重信の屋敷のあった場所

 

 
 
 
熊胆(ゆうたん)(*2)
熊胆(ゆうたん)は、クマ由来の動物性の生薬のこと。熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマ胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる[1]
 
 
郡内縞(ぐんないしま)(*4)

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気の遠くなるような手間と工程を経て生まれた「甲斐絹」は、その独特の張り、光沢や風合い、そしてさまざまなデザインで折々の時代、人々の心を捉え続けてきました。江戸時代には井原西鶴の「好色一代男」や八百屋お七で有名な「好色一代女」に郡内縞として登場し、粋を極めたそれら羽織裏地は当時の上流社会で後世にその名を残すほど大評判となり、その後、昭和初期まで高級羽織裏として隆盛を極めることになりました。
 
 
小夜着(こよぎ)(*5)

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袖や襟のついた小形の掛け布団。