【二宮翁夜話 巻之一 五】 天理人道の論
【今日のこよみ】旧暦2014年 1月 16日仏滅 四緑木星
丁巳 日/丁卯 月/甲午 年 月相 15.2 望月
立春 末候 魚氷に上がる(うおこおりにあがる)
【今日の気象】 天気 晴れ 気温 1.0℃ 湿度 53% (大阪 6:00時点)
翁曰く、夫れ人の賤(いやし)む處の畜道は天理自然の道なり。尊む處の人道は、天理に順(したが)ふといへども又作爲の道にして自然にあらず。如何となれば、雨にはぬれ日には照られ風には吹かれ、春は青草を喰ひ秋は木の實(実)を喰ひ、有れば飽くまで喰ひ無き時は喰はずに居る。是れ自然の道にあらずして何ぞ。居宅を作りて風雨を凌ぎ、蔵を作りて米粟(べいあく)を貯へ、衣服を製して寒暑を障(ささ)へ、四時共に米を喰ふが如き、是れ作爲の道にあらずして何ぞ。自然の道にあらざる明かなり。夫れ自然の道は、萬古廢れず。作爲の道は怠れば廢る。然るに其の人作(にんさ)の道を誤って、天理自然の道と思ふが故に、願ふ事成らず思ふ事叶はず、終(つい)に我世は憂世なりなどといふに至る。夫れ人道は荒荒たる原野の内、土地肥饒(ひぜう)にして草木茂生する處を田畑となし、是には草の生ぜぬ様にと願ひ、土性瘠薄(どせうせきはく)にして艸木繁茂(そうもくはんも)せざる地を秣場(まぐさば)となして、此處には艸(くさ)の繁茂せん事を願ふが如し、是を以て、人道は作爲道にして、自然の道にあらず。遠く隔りたる所の理を見るべきなり。
【雑感】
面白い文章を見つけた。以下の学者の道徳教育に対する論調である。
石原 千秋(いしはら・ちあき)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授
【略歴】
1955年生まれ。成城大学文芸学部文芸学科卒業、同大学院文学研究科国文学専攻修士課程修了、同博士課程中退。東横学園女子短期大学専任講師・助教授、成城大学文芸学部助教授・教授を経て、2003年4月より現職。
受験国語がどうのこうのと書き連ねているが、この学者の言いたいことは、
これからの日本には新しい個性が求められているのだとすれば、いま議論されている「道徳の教科化」は、「ゆとり教育」がもたらした以上の、深刻な結果をもたらすだろう。
「道徳」の内容がナショナリズムに染め上げられる可能性が高いことはひとまず置くとしよう。最大の問題は、「道徳」が人間の世界に対する態度を一つに決めてしまうことにある。そういう教育から新しい個性は生まれにくい。
要するに、道徳教育の復活には反対だということ。
この発言の背景としては、以下のニュースがある。
安倍晋三首相は29日午前の参院代表質問で、小中学校の道徳の教科化について「公共の精神や豊かな人間性を培うため、特別の教科として位置付け、教育の目標・内容の見直しや、教員養成の充実などを図ることで、今後の時代に求められる道徳教育の実現を目指す」と表明した。現在は正規の教科ではない「道徳の時間」として教えられているが、教科に格上げすることに意欲を示したものだ。
首相、道徳教科化に意欲 教育委員会も「抜本的に改革」:朝日新聞デジタル【2014年1月29日13時13分配信】
戦後、道徳教育を抑制する力が働いていたが、安倍首相がこれを見直し、道徳を教科に格上げすることに意欲を見せているみたいである。
この学者は、「道徳」をどのようなものであるかを定義していない。道徳がナショナリズムを高揚させる云々の記述があることから、道徳教育の復活→ナショナリズム高揚→軍国主義みたいな流れを思い描いて、危惧するとのたまっているのだろう。
では、道徳とは一体、何なんだろうか?
徳とは、この漢字の造りを見てもわかるように『行う。自分の心を』という意味となる。道は、上に書いた尊徳翁夜話の言う人道で、『人道に添う習慣』とここでは定義する。
となると、道徳とは、『自分の心の中に基準を設けて、この基準に従って、畜生ではなく人間として行動する習慣を身につけること』と定義できる。
最近のマスコミの論調を聞いていると、「国民は白痴である。だから、分かりやすく情報を届ける手段とし我々が必要なのである。」と私には聞こえてくる。
この学者の論調も同じようなものである。「生徒は白痴である。だから、道徳教育において、国が一定の基準を強制的に押し付けると、個性が死んだ人間しか生みかねない。」と言っている。
『自分の心の中に基準を設けて、この基準に従って、人間として行動する習慣を身につける』ということは、自分で考えて行動するということと同じである。己の信念のもと、自分で考えて行動する人間が活き活きしているのは、道徳教育が当たり前のように行われていた明治時代の偉人の伝記を読めば明らかである。
山岡鉄舟を取り上げたこの小説はお勧めである。
道徳教育を復活させることで、ゆとり教育が生み出した以上の無個性な人間が量産されるとは、私にはとうてい思えない。
この学者のように、大学を卒業してから一貫して大学の中でのみ年を重ねた、純正培養の世間知らずな学者が蔓延っていることに、日本の今の状態を垣間見えてしまう。