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まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第十一章 】  無用の用

【今日のこよみ】 旧暦2013年10月11日友引  五黄土星 

         癸未 日/癸亥 月/癸巳 年 月相 9 

                    立冬 次候 地始凍(ちはじめてこおる)

 

 

三十輻共一轂。當其無、有車之用。

 

挺埴以爲器。當其無、有器之用。

 

鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。

 

故有之以爲利、無之以爲用。

 

 

 

 

【書き下し文】

 

三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。

 

埴(つち)を埏(こ)ねて以(も)って器を為(つく)る。その無に当たりて、器の用あり。

 

戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以って室(しつ)を為る。その無に当たりて、室の用あり。

 

故(ゆえ)に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。

 

 

 

 

 

【私的解釈】

 

車輪は、30本の棒が中心の輪に集まって出来ている。車軸を通すこの輪があいているから車輪は用をなす。

 

粘土をこねて器をつくる。その器の中になにもない空間があるから器は用をなす。

 

戸や窓を打ちつけて部屋をつくる。この囲みに空間が広がるから部屋は用をなす。

 

何かが「ある」ということで利益を得ているということは、「ない」ということが、見えないけれど大きな役に立っているのである。特に逆境に遭遇して、この見えない大きな貢献を感じ尽くすことが大事なのだ。

 

 

 

 

【雑感】

 

よく言われる例えだが、コップに半分入った水をイメージする。

 

ここで、水にしか目に入らないと、半分しか入っていないと不平をたれることとなる。でも、コップ全体を見ることが出来れば、まだ半分入る余地があることに気づき、この状況に感謝する。

 

時は流れており、決して止まることはない。

 

水がコップ一杯に満たさていると、コップを大きくしない限り、流れ込む水は垂れ流され続ける。水しか見えていないので、この状況を見て初めて慌てふためてジタバタする。

 

一方、半分満たされている方には順調に水が注がれ、一杯に満たされるのを静観しながら次の器の準備が出来る。

 

目に見えないモノに気づき、そのモノを存分に活用することが生きる極意なのだろうと思う。

 

 

 

【2015年2月26日追記】

これは有と無ということを比べて、無ということが有を生むということを説いたのであります。有より無の方が上であるということを知れば、自己を捨てるということが即ち自己を全うする道であり、手柄を立てようとしない心持ちから、あらゆる働きが生み出されるということがよく分かります。この事を例えを取って説かれたものであります。

 

例えば、車の輪を作るのに、車の輪の棒が30本もある。この車の輪の棒がこの車の一つの中心に集まって、そうして車の輪が出来る。ところが、車の輪というものは木の棒でしつらえるのであるけれども、棒と棒との間が空いている。空いている所があるから車の輪が出来るのであり、棒ばかりで車の輪が出来るものではない。

 

棒を集めたり、木の丸いものを集めたりして車の輪を作るのだけれども、その車の輪として働きを為すのに何が大切であるかと言えば、その棒も何もない空間があるので、輪として役に立つのである。それと同じことで人間も手柄を立てようとしないことが、あらゆる働きを生み出す元でなければならない。

 

また軟らかい土をこねて器を作るのであるが、その器が器として役に立つのは、その土の無い部分である。茶碗にしても、茶碗がみな土で固まっていては茶碗としての役に立たない。土で囲まれた中に、土の無い空間があるので、これに茶を入れることも湯を入れることも出来る。その空間が無ければ、器の役に立たない。

 

また四方を壁をもって囲んで部屋を造るのであるが、その部屋は空間があるから部屋としての役に立つ。壁が一杯に埋まっていたならば、机を置くことも出来なければ椅子を置くことも出来ない。壁も何もない空間があるから、そこの机も置き椅子も置き、人も住むことが出来るのである。何も無いということが最も大事である。

 

それであるから有というものが役に立つのは、無ということが根本になっているからである。手柄を立てようとか、立派に仕事をしようとかいう者ばかりでは何も本当のことは出来ない。何も手柄を立てまい、何も立派な仕事をすまい、何も自分の力を人の前にさらすまいという心持ちが根本にあって、あらゆる働きが出来、あらゆる仕事をする力が生み出されて来るのである。その根本を捉えることの出来る者が、即ち自然と一致した行いの出来る所の優れた人物と謂うべきであります。

 

小林一郎著『経書大講』