まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【老子道徳経 第一章】 愚者は言葉を紡ぎ、賢者はおもゐを紡ぐ

 

 

道可道、非常道。名可名、非常名。

 

無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。

 

此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

 

 

 

【書き下し文】 

道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。

 

名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にしてその妙(みょう)を観、常に有欲にしてその徼(きょう)を観る。

 

この両者は同じきに出でて而(しか)も名を異にす。同じきこれを玄(げん)と謂い、玄のまた玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。

 

 

   妙…(言葉で言い表せないほど)すばらしい姿 

   徼…上辺の姿 

   玄…空間・時間を超越し、天地万象の根源となる神秘法則

 

   衆妙の門…この世を支配する神秘法則

 

 

 

 

 

 

 

【Isegohan的解釈】  

これが人生だとダラダラと言葉で講釈できるようなモノなど真の人生などではない。これが勝ち組だと言葉で説明できるモノなど、永久不変の勝ち組などではない。 

 

この世に産まれた赤ちゃんは、この世界のあらゆるモノの意味を知らなくてもスクスクと育ち、モノに言葉による意味づけをしながら、陰と陽の世の中の仕組みを体験し、成長して行く。

 

だからこそ、赤ちゃんの心に帰れば、この世の神秘の法則を垣間見られるが、垢にまみれた大人の心ではこの世の上辺の姿しか見られず、勝手に意味づけされた名(勝ち組・負け組、人の肩書きや地位など)に振り回されてしまうのだ。

 

赤ちゃんの心で観るこの世界(理屈で言葉にしない世界)と大人の心で観るこの世界(理屈で言葉にする世界)は、元は一つしか存在しない世界であるのに、それぞれの立ち位置で見え方が異なる。まるで一つの空間に二つの世界が存在しているかのようだ。

 

この元の世界を支配する何かを、「神秘法則」と名づけた。この神秘法則もまた別の大きな神秘法則により包まれているのだ。これこそ、宇宙を支配する神秘法則なのだ。

 

  

 

 

【雑感】 

 

言葉があるからあらゆるモノに自分勝手に意味づけをしていく。そして、これを言葉で説明し尽くそうと躍起になる。

 

ふふふ、このブログもそう。 

 

でも、そんなの不可能。だって人の「おもゐ」って目に見えないから。

 

この「おもゐ」を何とかして相手に伝えようと、「あ~だ。こ~だ」と論理を構築して、言葉を積み重ね、塗り重ねて行く。これがコミュニケーションだ。そして、このやり方がいわゆるグロバールスタンダードってやつだと思う。

  

でも、日本人は何とかして言葉を減らして相手に伝えたいと考えた。 

 

そして、産まれたのが和歌や俳句なんだと思う。   

 

 「花の色はうつりにけりないだづらに わが身世にふるながめせしまに」

  

この有名な小野小町百人一首の歌は、なぜ1000年以上も日本人に詠み継がれて来ているのか。 

 

言葉による理屈以上にこの歌が放つ雰囲気が日本人の心をうつんだと思います。この歌が自ら人の心に語りかけ、匂いを届けている。この心をうつ感じを藤原定家は幽玄と意味づけした。 

 

幽玄とは、 「物事の趣が奥深くはかりしれないさま」と辞書にある。 

 

まぁ、いつものように言葉によって意味づけしてしまったからこの時点で上辺の姿しか人には伝えない。でもこの上辺の姿だけでも1000年以上詠み継がれるパワーがこの歌には備わっているのだと考えるとスゴイのひと言。

  

言葉を被う『雰囲気』が持つ底知れぬパワーの存在を感じると子供にキラキラネームなんか付けられないんじゃないかと思う。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」を被う『雰囲気』も、この老子の教えに通ずるところがあると自分は思う。

  

この『雰囲気』こそが宇宙の神秘法則が醸し出すパワーだと思う。

 

  

 

 

【2015/2/20追記】

この第一章においては、自然の道というものが全ての物の元であるということを説いてあります。

 

人間が世の中に生きていれば、誰でも何らかの道を守るということを知らない者はいない。親子の間に道があり、兄弟の間、夫婦の間、友人の間にも道があり、家にも国にも様々な道というものが立てられ、また実行されている。ところがその世間でいう道というものは時代により、場合によって変化する。百年も二百年も同じことが行われてはいない。またその国によって違う。日本で良いことだと言われていることが、必ずしもイギリスで良いとは言われない。イギリスで大事にしていることが、必ずしもインドや支那で重んぜられないというようなわけで、普通世間の道というものは一定不変のものでなくして、時により所により、場合によって異同のあることを免れない。それであるから世間で言う道というものばかりを道だと思っていると、要するに道というものは当てにならないものだという議論になってしまう。これが『道の道とすべきは、常の道に非ず』ということであります。

 

『道とすべき』というのは『世間の人が認めて道とする』という意味で、世間の人が認める道ばかりを道であると思っていると、そのいわゆる道というものは永遠不変の道ではない。『常の道』というのは永遠不変なものでなければならぬ。千年経っても万年経っても変わらないものを『常の道』と言う。世間の道ばかり知っている者にはそういう不変の道は分からない。それであるからその世間の道というものの根拠に、もっと深入りして、一体何を元としてこういう道とか教えとかいうものが出来ているのか、何に基づいてこういう区別が立つのかという、その根本を求めて行く必要がある。そうすると人間というものは自然の中から生まれた者であるから、この自然の大道を根底としなければならぬということに気付くのである。この自然の大道こそがいわゆる『常の道』であって、永遠に変わらないものである。この変わらない道に基づいた人間の行いというものは、その場合に応じ、その時に応じてしかるべくこれを変化せしめて行くということが必要である。それで初めて世の中も治まるし、人々も意義のある生活が出来る。その根本を深く究めないで、ただ目の前のことばかり主にしていると、極めて浅いものなってしまって、道も教えもほとんど意味を成さないということになるのである。

 

また、人間が世の中に生きていると種々の区別が立つ。物事を区別して、一々それに名付けるから、様々な名というものが出来る。「山」というのは物の名であり、「川」というのも物の名である。また「白い」というのは色の名であり、「黒い」というのも色の名である。或いは「良い」と言い「悪い」と言い、「正しい」と言い「正しくない」と言う。皆これは名であって、名というものは要するに区別である。ところがこの区別なるものも、前に道というものについて考えたと同じように、決して一定不変ではない。世間の区別それぞれに違う。ある国で「良い」という名を付けている事に、他の国では「良くない」という名を付け、ある時代においては「正しい」という名を付けている事に、ある他の時代においては「正しくない」という名を付けるという有り様であるから、この名というものについても、世間の人が認めている名だけを見るならば、決して『常の道』ではない。すなわち永遠に変わらない所の区別ではないのである。

 

それでこれももう少し深入りして、一体人間がこの様々な区別を立てるのは何によって立てるのかと考えなければならぬ。これは人間の本性に基いて立ったものであるが、人間の本性というものは、どのように定まるのであろうか。これは自然の道によって定まるのであるいうような所まで見極めて行くと、一時の差別に囚われないで、人生における様々な区別の根本をしっかりと捉えることが出来る。この事を深く考えなければならない。この意味を『名の名とすべきは、常の名に非ず』と言うのであります。

 

それであるから『無名』ということが天地の始めである。天地万物は皆自然の中から生まれたものである。自然には名がない。自然の道というものは初めから一つである。この一つの道が天地の間に永久に行われていて、この行われている道が様々な働きを産み出し、この様々な働きが発展して、天ともなれば地ともなれば、山ともなれば川ともなれば、人ともなれば物ともなったのであるから、その一番始めのことを考えれば、万物の始めにおいてはただ一つの自然の道があるだけである。これには区別もなければ、名もない。

 

しかし自然の道というものがあるだけでは、人間も出て来なければ、山川草木というようなものも出て来ない。この人間とか山とか川とかいうものを生み出したのは、どうして生み出したのかと言うと、それは自然の道から差別的な働きが生じたからである。上と下の区別が立つ。右と左の区別、重いと軽いの区別が出て来る。明るいと暗いの区別が出て来るというように、段々と種々の働きがそこに発展して来たから、今我々の生きているこの天地間の万物というものが成り立った。そうしてそこに種々の差異があるから、その種々の異なったものにそれぞれ名が付いたのである。それであるから種々の名が付くようになってこそ万物が生み出され、万物が成り立ったいうわけで、『名有るは万物の母』というのであります。

 

我々はこの両方面をよく観察しなければならない。一番始めに天地自然の道のみがあった場合を考えなければならない。そこからこの一つ道から生み出された目の前の天地万物というものは、千差万別して限りなく変化し、限りなく差別が立って行くので、この現在の有り様をも考えなければならない。その元となるものは自然の道であるけれども、しかしとにかく我々がこう言う世の中に生きているのであるから、生きている目の前のことをわきまえなければ、ここに自分が存在することは出来ない。一面においては自然の道を考え、一面においてはその道によって生み出された、変化極まりなき我々の周囲の状態、人間の有り様というものを深く観察するということを忘れてはならない。

 

そこで、一番初めに自然の道があるだけであるから、欲というようなものはない。欲というものは相対立して初めて出来るものである。甲と乙とが対立するから、あの物を自分の物にしようとか、あの者を自分に服従させようとかいうような欲望が出て来る。その相対立しない時代においては欲が無いから、そこで欲の無い時代、すなわち物と物とが対立しない一番初めの状態をよく考えて、そうしてこの自然の道の中から万物が生み出された所の、実に不思議な働きをよく理解するということに努めなければならない。これが『その妙(みょう)を観』ということである。『妙』というのは実に微妙な働きである。ただ一つの道から天地万物が皆生み出されて、これが千年万年ずっと続いて、絶えず変化している。これは実に微妙と言わなければならぬ。この微妙な働きが自然の中から出て来たという、根本の所を明らかにしなければならない。

 

それからまた物と物とが相対し、人と人とが相対すれば、互いに欲というものが起こるのである。この欲というものが起こって、人々の活動もその中から出れば、全ての物の変化も又その中から出て来る。この欲の出来た後の状態というものをもよく究めて、そうして『その徼(きょう)を観る』ということが必要である。『徼(きょう)』というのは『つまる所』という意味である。始めは自然の道のみであったけれども、その自然の道がどこまで発展して行くか、どんなに変化して行くかという、その発展して行く末の末までもよく見極めるということが必要である。

 

それでこの二つのもの、すなわち始めにあった所の自然の道と、この自然の道が発展して形を成した所の天地万物というものは、異なったように見えるけれども結局は一つである。元来一つの道が発展して天地万物となったのであるから、つまり同じ所から出て、そうして異なった名が付いたのである。いかに変化しても、その変化して行く中をずっと一貫して、千万年を通じて変わらない所の道というものが存在しているのである。これを『玄』と言う。そこをしっかりと見極めるということがすなわち『玄』ということである。『同じきこれを玄(げん)と謂い』とあるが『同』というのは変化を超越した根本のものをいうので、この根本を一つ見極めた時に、それは実に奥深いものであると知ってこれを玄という。玄というのは玄妙という意味で、非常に奥深いことであります。そこで『玄のまた玄』というように段々深く究めて行くと、結局自然の道ということに帰着する。この自然の道なるものがすなわち『衆妙(しゅうみょう)の門』である。あらゆる不思議な働きを生み出す所の元であると、こう言うのであります。『門』というのは、人が外に出る時に門を通らなければ出られないのと同じように、この自然の道というものが発展しなければ、山もなければ川もなく、人もなければ物もない。この自然の道なるものが、あらゆる不思議な、微妙な働きを生み出す所の元であるという意味であります。

 

これは人間社会の事と全くかけ離れた説のように見えますけれども、要するに人間はお互いに向い合っていると、差別の方にばかりにとらわれやすいものであって、自分と他人との区別を立て、親しいと疎いの区別を立て、遠いと近いの区別を立てる。そうすると好き嫌いが出来て来る。好き嫌いが出来ると、好きなものは自分の方に取り、嫌いなものは人に押し付けるということになって、そこで争いが起こり、争いがまた争いを生むということになって、世の中が煩わしいばかりとなる。それであるからこの煩わしい世の中に立つ我々としては、こういう差別の起こった根本の自然の道というものを考える必要がある。そこまで根本をズバッと深入りして行けば、いたずらに差別に囚われたり、いたずらに争い合ったり、戦い合ったりしている浅ましい行いを反省しなければならないという考えが始めて定まるのであります。こういう意味から言って、この第一章の説は我々にとって大きな力となるものと言うべきものでありましょう。

小林一郎著「経書大講」】