まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

皆既日食を経ての春分の日。。。何かが始まっています。

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 2月 2日 先負

        丙申 日/庚辰 月/乙未 年 月相 0.7 潮 

                          春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)

          マヤ長期暦 13.0.2.5.0 マヤ365日暦  13 Cumku  マヤ260日暦 5 Ahau

 

 【今日の気象】 天気 晴れ 気温 8.0℃ 湿度 33% (大阪 6:00時点) 

 

 

今日は春分の日である。

太陽は星々の間を移動していて、その通り道を「黄道」といいます。また、地球の赤道を天にまで延長したものを「天の赤道」といいます。黄道天の赤道は、お互いが傾いているために2点で交わり、その交点のうちの一方を「春分点」、もう一方を「秋分点」と呼びます。そして、太陽が春分点秋分点の上を通過する瞬間がそれぞれ「春分」「秋分」と定義され、「春分」「秋分」を含む日のことを、それぞれ「春分日」「秋分日」と呼ぶのです。

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季節が冬から春に移り変わり、ペルシャ暦の元旦(ノウルーズ)でもある。

 

  

 

昨日は、特定の地域で日食もあった。

 

日食・スーパームーン春分の日の三重奏―欧州の一部で

2015 年 3 月 20 日 18:01 JST 更新

 

欧州の一部地域では20日、天体に関する3つの現象が重なることになる。スーパームーン皆既日食春分の日だ。

日食はめったにないが、月が地球に接近して通常よりも大きく見えるスーパームーンは年に数回見られる可能性がある。春分の日は年に一回で、北半球では春の到来を意味する。しかし、この3つの現象が同時に起こるのは極めてまれで、天文愛好家は興奮気味だ。

英国王立グリニッジ天文台では20日に、特別に調整した12台の望遠鏡を用意するという。

皆既日食は地球上のどこかでは平均18カ月に一回の割合で起こっているが、同一地点で発生するのは360~410年に一度だ。月は太陽よりも400倍小さいが、地球に400倍近いことから、地球から見るとほぼ同じ大きさに見え、皆既日食の際には太陽がほぼ全面的に月に隠れる。

皆既日食を見ることができる帯状の地域(および海域)を示す皆既帯は、長さが通常1万マイル(約1万6000キロ)あるが、幅は約100マイル(約160キロ)に過ぎない。

北極圏の一部と欧州の極北地域では20日に皆既日食を目撃できるはずだが、欧州の大半とアフリカ北部の一部地域では部分日食となる。英国の大部分では、月が太陽の85%を覆う。

米国で次に皆既日食が見られるのは2017年8月21日だ。

スーパームーンはいわゆる錯覚のようなものだ。月の軌道のために、地球から見た場合、満月の大きさが違って見える。例えば日食が通過する英国のスコットランド北方沖にあるフェロー諸島などでは、20日はスーパームーンのために日食の見え方が影響を受ける。この日は月が地球に近いことから太陽の隠れる部分が通常より若干大きくなる。

 

皆既日食スヴァールバル諸島

youtu.be

 

皆既日食フェロー諸島

youtu.be

 

spaceinfo.jaxa.jp

 

地球太陽のまわりを公転し、月は地球のまわりを公転しています。そのため太陽地球と月の位置によって、日食や月食といった現象が起きるのです。

 

月が太陽を隠す日食

 

日食とは、見かけ上、月が太陽を隠す現象です。月が太陽地球の間にきたとき、つまり新月のときに、月の影が地球に落ちて日食が起こります。しかし、新月のたびに日食が起こるわけではありません。これは、地球の公転軌道と月の公転軌道の傾きのあいだにわずかなずれがあるためです。そのため、多くの場合は月の影が地球の上や下を通り、日食が起こらないことのほうが多いのです。また、月の影は小さく、地球上のわずかな場所にしか落ちないため、日食を見ることのできる地域や時間は限られています。

日食。太陽を取りまくコロナのようすがはっきり見えます。
日食。太陽を取りまくコロナのようすがはっきり見えます。

太陽と月の位置で決まる日食のようす

太陽と月の見かけの大きさがほぼ等しいために日食は起こりますが、月と太陽の軌道上の位置の変化により、日食のようすもちがってきます。地球太陽のまわりを公転していますが、その軌道の形がわずかに楕円であるため、季節によって太陽からの距離が異なります。月も同様にして、地球からの距離が変化します。そのため、両者の見かけの大きさが変化し、日食のようすが変わってくるのです。太陽よりも月のほうが見かけの大きさが大きい場合、太陽がすべて隠される「皆既日食」となります。このときはコロナを見ることができます。逆に、月よりも太陽のほうが見かけの大きさが大きい場合は「金環日食」となります。また、月が太陽をかすめるような場合、太陽をぜんぶ隠さずに「部分日食」となります。

地球の影が月を隠す月食

月食とは、地球の影が月を隠す現象です。地球太陽と月の間にきたとき、つまり満月のときに、地球の影が月に落ちて月食が起こります。月食も日食同様、満月のたびに月食が起こるわけではありません。月食は日食と異なり、月が出ている場所であればどこででも月食を見ることができます。

 

地球の影の通り道で決まる月食のようす

月食の見え方も、月が地球の影のどの部分を通るかによってちがってきます。太陽は点光源ではなく面積をもって見えますので、月から見て太陽がまったく見えなくなる「本影」と、太陽の一部が見えている「半影」とがあります。月全体が本影に入ったときは月がすべて隠され「皆既月食」となります。しかし、月が見えなくなるわけではありません。地球には大気があるため、そこで屈折した太陽の光が月に届くためです。地球の大気中を通る際に青っぽい光は吸収されてしまうため、皆既月食中の月は赤銅色に見えます。月の一部しか本影に入らないときは、月の一部が欠ける「部分月食」に、半影にしか入らない場合は「半影月食」となります。半影月食は、月がわずかに暗くなる程度で肉眼ではほとんど見分けることができません。

星も月に隠される

日食や月食があるのと同じく、月が恒星や惑星を隠してしまう現象もあり、前者を「星食(せいしょく)」、後者を「惑星食(わくせいしょく)」といいます。このようすは、月の満ち欠けによってもさまざまですが、三日月や上弦の月のころは見えやすく、1等星などの星食の場合、望遠鏡を使えば昼間でも見ることができます。星食は、望遠鏡を使えば年に100回以上見ることが可能で、星々が月に隠れるようすは興味深いものがあります。星や惑星が月のどの部分を通るかは観察する場所によって異なり、各地で観察した様子を合わせることによって、月の縁の凹凸を詳細に調べることもできるのです。なお、天体が別の天体に隠される現象のことを、まとめて「掩蔽(えんぺい)」と呼びます。

 

 

新月・日食の翌日が春分の日という巡り合わせから考えても、宇宙を流れる時から見て地球が新しい時代に突入したようです。そして、ペルシャ暦の国は日食・新月と共に新年を迎えるという絶妙なタイミング。  

 

 

あのクルド人ペルシャ暦を使用しています。今年はペルシャ暦を使用しているイランや中央アジアの国々で色々と何かが始まる予感がします。 

 

 

 

 

【二宮翁夜話 巻之一 三十二】 聖人にならんとて聖人になりたるにあらず

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 27日 先負

        壬辰 日/庚辰 月/乙未 年 月相 26.1 若潮 

          啓蟄 末候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)

          マヤ長期暦 13.0.2.4.16 マヤ365日暦  9 Cumku  マヤ260日暦 1 Cib

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 8.4℃ 湿度 58% (大阪 6:00時点) 

 

 

 

翁曰く、聖人も聖人にならむとて、聖人になりたるにはあらず。日々夜々天理に随ひ人道を盡して行ふを、他より稱して聖人といひしなり。

 

僥舜も一心不乱に、親に仕へ人を憐み國の爲に盡せしのみ、然るを他より其の德を稱して、聖人といへるなり。諺(ことわざ)に聖人聖人といふは、誰が事と思ひしにおらが隣の丘が事かといへる事あり、誠になる事なり。

 

我昔鳩ケ谷驛を過し時、同驛にて不士(ふじ)講に名高き、三志(さんし)と云ふ者あれば尋ねしに、三志といひては誰もしるものなし、能々問ひ尋ねしかば夫は横町の手習師匠の庄兵衛が事なるべし、といひし事ありき、是におなじ。

 

 

 

 【私的解釈】

 

尊徳翁が次のように言われた。

 

「聖人と呼ばれる人も聖人になろうとして、聖人となったのではない。コツコツと天理に従い、人道を尽くした振る舞いを他人が賞賛して、聖人と言われるようになったのだ。

 

僥舜も一心不乱に親に仕え、人民を思い遣り、国の為に尽くしたから、他人からその徳を賞賛されて聖人と呼ばれるようになったのである。ことわざに『聖人聖人と呼んでいるのを誰のことかと思ったら俺ん家の隣の丘(孔子)のことだったよ』というのがある。誠に的を射た言葉である。

 

私も昔、鳩ケ谷の宿場で過ごした時、この宿場には富士講で有名な三志(さんし)という者が居ると聞いていたので尋ねたが、三志と言っても誰も知る者がなかった。多くの人に聞き尋ねてみて、やっとそれが横町の手習師匠の彦兵衛であるということが判明したということがあった。まぁ、そういうことだ。」

 

 

僥舜

、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。、次いでに封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。『史記』「五帝本紀」によれば、の次子として生まれ、嚳の後を継いだ兄から禅譲を受けてとなった。羲仲羲叔和仲らに命じ、天文を観察してを作らせたという。

 

治世中に大洪水が発生したので、この治水工事に誰を送るかを決める時に臣下はを推薦した。堯は鯀を採用するのは良くないと思ったが、臣下が試しに使ってみれば良いと言ったので試して見たが、堯の予想通り失敗し、堯は鯀を殺した。治水工事は鯀の息子のが後に実行する事になる。

 

堯には丹朱と言う息子がいたがこれを後継者とはせずに、後継者を定めるために臣下から推薦者を挙げさせた。その中のを選んで人格を見る事にした。まず自分の二人の娘を舜に降嫁し人格者である事を見極めた後に、舜に人民を治めさせ、その手腕を見極めた所で舜を自身の後継者と定めた。その後、8年が経ってから崩御した。

 

また、『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。

 

別の書物での堯の伝説として、羿(羿の字は羽の下に廾、姓は后)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である羿に何とかして来いと命令すると、羿は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。

 

後世には舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。

 

堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報2000年山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。また1993年郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目される。

 

含哺鼓腹(がんぽこふく) 

人々が豊かで、太平な世を楽しむたとえ。食べ物を口に含み、満腹になって腹つづみをうつ意から。

 

帝尭陶唐氏帝嚳子也。其仁如天其知神。就之如日、望之如雲。
都平陽。茆茨不剪、土階三等。

【帝尭陶唐氏は、帝嚳(こく)の子なり。其の仁は天の如く、其の知は神の如し。之に就けば日の如く、之を望めば雲の如し。平陽に都す。茆茨(ばうし)剪(き)らず、土階三等のみ。 】


治天下五十年、不知天下治歟 、不知歟、億兆願戴己歟、不願戴己歟。
問左右不知。問外朝不知。問在野不知。

【天下を治むること五十年、天下治まるか、治まらざるか、億兆己を戴くを願ふか、己を戴くを願はざるかを知らず。左右に問ふに、知らず。外朝に問ふに、知らず。在野に問ふに、知らず。】 

乃微服遊於康衢、聞童謡曰、

【乃(すなわ)ち微服して康衢(かうく)に游(あそ)び、童謡を聞くに曰はく、】

 

「立我烝民 莫匪爾極。不識不知 順帝之則」

【「我が烝(じょう)民を立つるは、爾(なんじ)の極に匪(あら)ざる莫(な)し。識らず知らず帝の則に従ふ」と。】

 

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、

【老人有り、哺(ぽ)を含み腹を鼓(う)ち、壌(じょう)を撃ちて歌ひて曰はく、 】

 

「日出而作 日入而息。鑿井而飲 耕田食。帝力何有於我哉。」

【「日出でて作し、日入りて息(いこ)ふ。井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや。」と。】

 

【現代語訳】

尭陶唐帝は、嚳帝の子である。その仁の心は天のように広く、その知恵は神のように聡明であった。近づくとその心は太陽のように暖かく、遠くから見ると恵みの雨を降らす雲のように偉大であった。 尭は、平陽を都とした。宮殿のかやぶき屋根の端を切りそろえることはなく、宮殿にあがる階段は、土で3段築いただけであった。


尭が天下を治め始めてから50年になるが、世の中が平和に納まっているのかいないのか、人民が自分が天子であることを願っているのか、それとも自分が天子であることを願っていないのかがわからなかった。側近にきいてもわからないし、民間人にきいてもわからない。


そこで、お忍びの格好で大通りを出歩いてみたところ、子どもたちが歌を歌っていた。

 

「私たちの生活を成り立たせているのは、あなた様の人徳のおかげです。人々は、知らず知らずのうちに帝をお手本にして暮らしています。」

 

再び歩みを進めると、とある老人がいた。その老人は、口の中に食べ物をほおばり、腹鼓(はらつづみ)みをうち、足で地面をたたいてリズムを取りながら歌っていた。

 

「日が昇ったら仕事をし、日が沈んだら休む。喉が渇いたら井戸から水を飲み、お腹が空いたら畑の野菜を食らう。俺達の暮らしに帝の恩恵など全くないぞ。俺達自身の力だけで生きているのだ」

 

羿(げい)

羿(げい、Yi、イー)は、中国神話に登場する人物。の名手として活躍したが、妻の嫦娥に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。

 

堯 - Wikipedia

(しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は(よう/とう。子孫は媯水のほとりに住み媯(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。

 

舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所には3年で都会になるほどだった。そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。

 

この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。

 

帝位についた舜は洪水を治めるためにを採用し、禹はこれに成功した。その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。

 

南風歌という歌を作ったと言われている。

 

陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。ちなみに白川静は舜は元々帝の事であっての始祖とされていたと言う説を挙げている。 

 

南風歌

南風之薰兮, 可以解吾民之愠兮。

【南風の薫れるや、以て吾が民の愠(いか)りを解くべし。】

南風之時兮,可以阜吾民之財兮

【南風の時や、以て吾が民の財を阜(おお)くすべし。】

 

【現代語訳】

南から風が吹き来たれば、わが民草(たみくさ)の苦悩は解かれる。

南から風の吹くとき、わが民草(たみくさ)の宝を殖やしてやろう。

 

 

孔子家語 巻第八 「辯樂解第三十五」』

 

子路鼓瑟。孔子聞之、謂冉有曰。

 

甚矣由之不才也。夫先王之制音也、奏中聲以爲節。流入於南、不歸於北。夫南者生育之鄕、北者殺伐之域。

 

故君主之音、溫柔居中、以養生育之氣、憂愁之感、不加於心、暴戾之動、不在於體。夫然者、乃所謂治安之風也。

 

小人之音則不然。亢戾微末、以象殺伐之氣。中正之感、不戴於心、溫和之動、不存於體。夫然者、乃所謂亂亡之風也。

 

昔舜者彈五絃之琴、造南風之詩。

 

其詩曰『南風之薰兮。 可以解吾民之愠兮。南風之時兮。可以阜吾民之財兮。』

 

唯修此化。故其興也勃焉。德如泉流。至于今公大人、擧以爲誡。

 

夫舜起布衣、積德含和、而終以以帝。紂爲天子、荒淫暴亂、而終以亡。非各所修之致乎。

 

今由也匹夫之徒、曾無意於先王之制。而習亡國之聲、豈能保其六七尺之體哉。

 

冉有以子路告。子路慴而自悔。靜思不食。以至骨立。

 

夫子曰、『過而能改、其進矣乎』。

 

 

【書き下し文】 

 

子路瑟(しつ)を鼓す。孔子これを聞き、冉有(せんゆう)に謂つて曰く。

 

甚だしいかな、由の不才なるは。それ先王の音を制するや、中聲を奏して以って節と爲す。流れて南に入り、北に歸らず。それ南は生育の鄕にして、北は殺伐の域なり。

 

故に君主の音は、溫柔(しんじゅう)中に居り、以って生育の氣を養い、憂愁(ゆうしゅう)の感、心に加えず、暴戾(ぼうれい)の動、體にあらず。それ然る者は、乃ち所謂治安の風なり。

 

小人の音は則ち然らず。亢戾(こうれい)微末(びまつ)にして、以って殺伐の氣に象(かたど)る。中正の感、心に戴(さい)せず、溫和の動、體に存せず。それ然る者は、乃ち所謂亂亡(らんぼう)の風なり。

 

昔(むかし)者舜は五絃(げん)の琴を彈(だん)じ、南風の詩を造った。

 

その詩に曰く、『南風の薰ぜる、 以って吾民(ごみん)の愠(いきどおり)を解くべし。南風の時なる、以って吾民の財を阜(ゆたか)にすべし』と。

 

唯だ此化を修む。故にその興るや勃焉(ぼつえん)たり。德は泉流の如し。今に至るまで王公大人、擧(かか)げて以って誡(いましめ)と爲す。

 

それ舜は布衣より起こりて、德を積み和を含み、而して終に以って帝たり。紂(ちゅう)は天子と爲り、荒淫(こういん)暴亂(ぼうらん)にして、終に以って亡びたり。各々修むる所の致(ち)にあらずや。

 

今由(ゆう)や匹夫(ひっぷ)の徒、曾って先王の制に意なし。而して亡國の聲を習う、あに能くその六七尺の體を保たんやと。

 

冉有(せんゆう)以って子路に告ぐ。子路慴(おそ)れて自ら悔い、靜思して食わず。以って骨立するに至る。

 

夫子曰く、過ちて能く改(あらた)む、それ進まんかなと。

 

 

【私的解釈】

子路が瑟(しつ)を弾いていた。孔子がこれを聞き、傍らの冉有(せんゆう)におっしゃられた。

 

ひどいものだな、由(子路の名前)の能力の無さは。古代の聖王たちが音色(ねいろ)を世の中に広めて来たわけだが、その際、中庸のとれた音域を基準にして曲調を定め、南方に流れていくようなメロディーにして、北方には向かわないようにしたのだ。なぜなら、南というのは万物を生み育てる場であり、北と言うのは殺し滅ぼす場であるからだ。

 

君子というのは、音色で世の中の雰囲気を柔らかで温かいものとし、万物を生み育てる力を世の中に満たす。一方で憂い悲しむ気持ちや怒り暴れようとする衝動を世の人々の心にも体にも湧き出させることがない。これが「安らかに治まる詩の風」というものだ。

 

しかし、ちっぽけな人間ではこうは行かない。彼らが好む音色は、華麗さを第一とし、微妙な細部にこだわる。だから万物を殺し滅ぼそうとする力が世の中に満ちあふれる。中庸で和やかな気持ちや温かで柔らかな動きを世の人々の心にも体にも湧き出させることがない。これこそ「乱れを起こす詩の風」というものだ。

 

昔、聖帝舜は五本の弦をわたした琴を弾きながら「南風の詩」を作った。その詩の歌詞にいう、『南から風が吹き来たれば、我が民草の苦悩は解かれる。南から風の吹く時、我が民草の宝を殖やしてやろう』と。

 

舜は、ただ南風に音色を載せるだけで世の中の雰囲気は変わることを知っていた。南風が吹く時を予報する能力を身に付けるだけで、その南風の力によって国の勢いが増し、世の中に泉のごとく徳風が流れるのだ。だから、今の時代まで王侯や立派な人間は、この詩を掲げて自らへの戒めへとしている。

 

だから舜は平民の出にもかかわらず、南方の音色で世の中に徳を積み和を含ませた。そして遂には帝にまで登り詰めた。一方で殷の紂王は、北方のひね曲がった音色を好んだから、四海を支配する王でありながら、その滅亡すること速やかであったのだ。好んだ音色によって両極端な結果となったのだ。

 

子路めはそのようなことを全く分かっていないようだ。古代の聖王たちが広めて来た音色を勉強するでもなく、国を滅ぼした紂王が好んだという北方の音色を練習しているようである。国王であった紂王でさえ滅んだのに、あいつなどあの6、7尺ほどの自分の体も無事にすむはずなかろうが。

 

冉有(せんゆう)が子路に孔子が言われたことを告げると、子路は自分のして来た事を恐れ、後悔した。そしてじっと考えこんで食事も喉を通らなかった。だから骨が浮き出るほどにまでなった。

 

孔子はその様子を見て言われた。

 

己の間違いに気付いてよく改めたものだ。これこそ進歩というものだと。

 

 

 

 【雑感】

このような話題が巷を騒がす日本は平和である。

 

佳子さま「シャネルスーツ」騒動の真相 「一着100万だとしてもなぜ悪い」の声も

2015/3/16 18:33

 

 「美しすぎるプリンセス」として日本中の視線を集める秋篠宮家の次女、佳子さまが一部報道によって思わぬ批判に晒されている。

岡山県訪問時にお召しになっていた「シャネル風スーツ」について「シャネルのスーツ」などと報じられたことが原因だ。

「『シャネルスーツ』はシャネル以外にはありえない」

秋篠宮さまと佳子さまは2015年2月28日から3月1日にかけ、地方事情視察で岡山県倉敷市を訪問された。佳子さまにとっては成年皇族として初の地方公務だった。

1日目にチャコールグレーのスーツを召されていた佳子さまは、2日目には春らしいベージュのスーツで登場された。ツイード素材のノーカラージャケットとタイトスカートを合わせたシンプルなカーディガンスーツで、いわゆる「シャネル風スーツ」と呼ばれるもののようだ。

高級ファッションブランド「シャネル」の創業者、ココ・シャネルが考案したカーディガンスーツ「シャネルスーツ」は、現在では女性スーツの人気デザインとして広く定着している。厳密に言えばシャネルブランド以外のものは「シャネルスーツ」ではないため、「シャネルタイプ」「シャネル風」などとして販売されているという。

「シャネルの戦略-究極のラグジュアリーブランドに見る技術経営-」(長沢伸也氏編著/杉本香七氏著)にはこんな記述もある。

繊研新聞元編集主幹でファッションビジネス総合研究所の松尾武幸代表によると、繊研新聞時代に若い駆け出しの記者が他社のコレクションで『シャネルスーツ』と書いたら、日本法人シャネルK.K.から直ぐ抗議が来たそうである。『シャネルスーツ』はシャネルだけのものであり、シャネル以外にはありえないので、使わないでください、と」

 しかし、これをいくつかのテレビ情報番組や週刊誌が「シャネルスーツ」との文言で報じた。「FRIDAY」(講談社)3月20日号では「眩しすぎるシャネルのスーツ姿」「ベージュのスーツはシャネルのもの。国内ブランドを愛用されることが多い秋篠宮家には珍しいチョイスだ」などと、スーツが「シャネル」のものであると断定的に紹介した。

女性セブン「『シャネルの商品でないこと』を確認」

そのため、インターネット上では「税金の無駄使い」「1着100万くらいか」といった批判的なコメントが一部で書き込まれた。しかし、どうやらこれは「誤報」だった可能性が高いようだ。当初から「シャネル風」と報じていたという「女性セブン」(小学館)は、3月26日号で佳子さまのスーツについて調査。その結果「シャネルの商品でないこと」が確認できたという。

さらに同誌では皇室ジャーナリストの神田秀一氏のコメントを紹介。神田氏は、秋篠宮家は皇族費6710万円で生活費や衣装代、人件費などすべてを賄わなければならないという事情を説明した上で「佳子さまに100万円を超える洋服を買うことなどできるわけがありません」と指摘している。

もっともインターネット上では

「むしろもっと高い服着てくれよ」
「別にシャネルスーツだったとしてもかまわんと思うけどね」
「シャネルじゃないのにシャネルに見えるなんて、素敵だと思うけど」
「正真正銘のプリンセスに100万のスーツを着せるとはケシカラン」

などと、シャネル着用を歓迎する声や、一部批判への疑問の声が大半だ。

ちなみに「女性セブン」2013年10月24・31日号によると、日常的な服装では、女子大生に人気の「ローリーズファーム」や「ローズバッド」などを愛用していることが伝えられている。

佳子さま「シャネルスーツ」騒動の真相 「一着100万だとしてもなぜ悪い」の声も : J-CASTニュース

 

佳子様が、シャネルの創業者ココ・シャネルが1955年にデザインしたスーツによく似たスーツを召されていたことでこのような騒ぎとなる。本当に日本は平和な国である。

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今から半世紀以上も前のデザインが現在の洋服のデザインに脈々と継がれて取り入れられているって物凄いことだと思う。 そして、伝統となって継がれているデザインのスーツを皇室の方が召されるということは、国民としてはそのご存在に安心感を感じられるのではないでしょうか。大騒ぎすることでもなんでもないですね。

1955年[世界の出来事100年史]

1955年に起きた日本の出来事 

 

正に聖君僥の時代の以下の漢詩の様相が今の日本を照らしている。本当に有難いことです。

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、

【老人有り、哺(ぽ)を含み腹を鼓(う)ち、壌(じょう)を撃ちて歌ひて曰はく、 】 

「日出而作 日入而息。鑿井而飲 耕田食。帝力何有於我哉。」

【「日出でて作し、日入りて息(いこ)ふ。井を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや。」と。】

 

【現代語訳】

老人が、口の中に食べ物をほおばり、腹鼓(はらつづみ)みをうち、足で地面をたたいてリズムを取りながら歌っていた。

 

「日が昇ったら仕事をし、日が沈んだら休む。喉が渇いたら井戸から水を飲み、お腹が空いたら畑の野菜を食らう。俺達の暮らしに帝の恩恵など全くないぞ。俺達自身の力だけで生きているのだ」

 

 

【伝教大師最澄 山家学生式】 万物の霊長たるゆえん

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 24日 赤口

        己丑 日/庚辰 月/乙未 年 月相 23.1 二十三夜月 

          啓蟄 次候 桃始笑(ももはじめてさく)

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【今日の気象】 天気 雨 気温 7.1℃ 湿度 63% (大阪 6:00時点) 

 

 

國寶何物、寶道心也。有道心人、名爲國寶。

 

故古人言、徑寸十枚、非是國寶。照于一隅、此則國寶。

 

古哲又云、能言不能行、國之師也、能行不能言、國之用也、能行能言、國之寶也。三品之内、唯不能言不能行、爲國之賊。

 

乃有道心佛子、西稱菩薩、東號君子。

 

惡事向己、好事與他、忘己利他、慈悲之極。

 

釋敎之中、出家二類、一小乘類、二大乘類。

道心佛子、卽此斯類。

 

今我東州、但有小像、未有大類。大道未弘、大人難興。

 

誠願先帝御願、天臺年分、永爲大類、爲菩薩僧。

 

然則枳王夢猴、九位列落、覺母五駕、後三增數。

 

斯心斯願、不忘汲海。利今利後、歷刧無窮。

 

 

 

【書き下し文】

 

國寶とは何物ぞ、寶とは道心なり。道心有るの人を名づけて國寶と爲す。

 

故に古人の言はく、徑寸(けいすん)十枚是れ國寶にあらず。一隅をも照らす、此れ則ち國寶なりと。

 

古哲(こてつ)又云はく、能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは、國の師なり、能く行いて言うこと能わざるは、國の用なり、能く行い能く言うは、國の寶なり。三品(さんぽん)の内、唯(ただ)言うこと能わず行うこと能わざるを、國の賊と爲すと。

 

乃(すなわ)ち道心有るの佛子(ぶっし)を、西には菩薩と稱(しょう)し、東には君子と號(ごう)す。

 

惡事を己に向かえ、好事を他に與(あた)え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。

 

釋敎(しゃくきょう)の中、出家に二類あり、一つには小乘の類(たぐい)、二つには大乘の類なり。道心あるの佛子は、卽(すなわ)ち此(こ)れ斯(こ)の類なり。

 

今、我が東州には、但(ただ)小像(しょうぞう)のみ有りて、いまだ大類有らず。大道いまだ弘まらざれば、大人興り難し。

 

誠に願わくは、先帝の御願(ぎょがん)、天臺(てんだい)の年分は、永く大類と爲し、菩薩僧(ぼさつそう)と爲さん。

 

然るときは則(すなわ)ち枳王(きおう)の夢猴(むこう)、九位列(つらな)り落ち、覺母(かくも)の五駕(ごが)、後の三、數を增さん。

 

斯の心、斯の願(がん)、海を汲むことを忘れず。今を利し後を利して、刧(こう)を歷(ふ)れども窮(きわ)まり無けん。

 

 

 

【私的解釈】

 

国の宝とは何なのでしょうか?国の宝とは正しい道を求める心です。

この正しい道を求める心を持つ人を国の宝と言うのです。

 

だから、古(いにしえ)の人物が言っています。

「3cmの大きさの宝石10個など国の宝でも何でもなく、自分の周りの一隅(いちぐう)を照らす者こそ国の宝である」と。

 

古代の哲人はこうも言っています。

「自分の意見をよく述べるが、言ったことを実行に移さない者は国の師であり、自分の思い付いたことをよく実行に移すが、意見を述べようとしない者は国に欠かすことの出来ない者であり、自分の意見をよく述べ、かつ言った側から実行に移す者は国の宝である。一方で、この3種の人間のいずれにもあてはまらない、自分の意見を述べることもせずに、自分の思い付いたことを実行に写しもしない者が国の害となるのだ」と。

 

すなわち、正しい道を求める心を持つ仏の弟子のことを、印度では菩薩と呼ばれ、支那では君子と呼ばれているのです。

 

悪い事を自分で引き受けて、良い事は他人に与え、己のことをひとまず置いておいて他人の為に働くことこそ、本当の慈悲なのである。

 

釋迦の教えの中には2種類の僧侶がいます。一つは小乗に添う僧侶であり、もう一つは大乗に添う僧侶である。正しい道を求める心を持つ仏の弟子とは、この大乗に添う僧侶のことを言うのです。

 

今、わが国の現状をこれにあてはめると、小乗に添う者のみばかりで、大乗に添う僧侶は全く見当たりません。大乗の道に添う教えが広まっていないので、大乗に添う国の宝が生まれ出ていないのです。

 

私が真心から願うことは、先帝がお望みになられたように、天台の教えに添う年分度者を末永く大乗に添う国の宝に変えて行き、菩薩のような僧侶にしたいということなのです。

 

これが実現されれば、枳王(きおう)が見た夢のように9匹の猿が滑り落ち、智恵を生み出す母(文殊菩薩)が持つ五つの駕籠の内、三つの駕籠の数が増えることとなるでしょう。

 

このほとばしる私のおもゐ、私のねがゐは、海の水を吸い尽くしても国の宝を発掘することを止めようとはせずに、今の世の中、未来の世の中に利益を与え続け、未来永劫その勢いが衰えることは無いでしょう。

 

 

 

【雑感】

「大好きだよ」瓦礫に母残し4年 19歳が誓った言葉

2015年3月11日16時24分

東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことば

 

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

 

あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 

しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 

そんな体験から今日で4年。

 

あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。

 

しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

 

震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

 

最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。

 

「大好きだよ」瓦礫に母残し4年 19歳が誓った言葉:朝日新聞デジタル

 

 

東日本大震災から4年が経った今年の追悼式での遺族代表のことばは多くの日本人の心を打った。だが、時間が経つにつれてわだかまる何かが澱となって皆の心に沈殿し始めた。私もその一人である。

あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

 

しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

 

ここでは、これ以上の詳細を述べない。ただ、こちらの新聞の投書の叫びと比べれば人として感じるところは同じであろうと思う。

 

読売新聞:人生案内(2011年5月23日)

 

大学生の女の子。何をしていてもあのことばかりを思い出してしまいます。あの日私は祖母と一緒に逃げました。でも祖母は坂道の途中で「これ以上走れない」と言って座りこみました。私は祖母を背負おうとしましたが、祖母は頑として私の背中に乗ろうとせず、怒りながら私に「行け、行け」と言いました。私は祖母に謝りながら一人で逃げました。

 

祖母は三日後、別れた場所からずっと離れたところで、遺体で発見されました。気品があって優しい祖母は私の憧れでした。でもその最後は、体育館で魚市場の魚のように転がされて、人間としての尊厳などどこにもない姿だったのです。

 

助けられたはずの祖母を見殺しにし、自分だけ逃げてしまった。そんな自分を一生呪って生きて行くしかないのでしょうか。どうすれば償えますか。毎日とても苦しくて涙が出ます。助けて下さい。

 

 

【回答:心療内科医 海原純子

お手紙を読みながら涙が止まらなくなりました。こんなに重い苦しみの中でどんなにつらい毎日かと思うとたまりません。ただあなたは祖母を見殺しにしたと思っていらっしゃいますが、私にはそうとは思えません。

 

おばあさまはご自分の意志であなたを一人で行かせたのです。一緒に逃げたら二人とも助からないかもしれない。でもあなた一人なら絶対に助かる。そう判断したからこそ、あなたの背中に乗ることを頑として拒否したのでしょう。

 

おばあさまは瞬時の判断力をお持ちでした。その判断力は正しくあなたは生き抜いた。おばあさまの意志の反映です。人はどんな姿になろうとも外見で尊厳が損なわれることは決してありません。たとえ体育館で転がされるように横たわっていても、おばあさまは凛とした誇りを持って生を全うされたと思います。

 

おばあさまの素晴らしさはあなたの中に受け継がれていることを忘れないで下さい。

 

おばあさまが生きていたらかけたい言葉、してあげたいことを周りに居る人たちにかけたり、してあげたりして下さい。そのようにして生き抜くことが憧れだったおばあさまの心を生かす道に思えます。

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どんな困難な状況に出くわしても人として手離してしまっては駄目なモノがある。それを備えているからこそ人間が万物の霊長として分類され、この地球上に存在することが許されているのだ。これを手放すことは人間として生まれてきたことを拒絶することと同じであり、自らの手で人間としての自分の存在価値を否定したこととなるのだ。そして、人としての正しい道から外道に外れることとなる。

 

今後も必ず日本で災害が起こる。私も被災者となることが充分あり得る。その時、私は霊長なるモノを離さずにいられるのかを災害にあっていない今、己に問いかけてみたいと思う。

 

 

【丹波の傳說】 比地山の天女

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 23日 大安

        戊子 日/庚辰 月/乙未 年 月相 22.1 下弦 

          啓蟄 次候 桃始笑(ももはじめてさく)

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丹後国丹波郡の西北隅の方に比地里(ひぢのさと)という所がある。この里の比治山の頂上に井戸があって、その名を眞名井というのであるが、今は既に沼となっている。

 

大昔のことであるが、かってある日のこと、どうしたことかこの井戸へ天女が八人舞い降りてきて、水を浴びていた。丁度その時、この村にはずいぶん欲張りな老夫婦があった。その名前はお爺さんの方が、和名佐老夫(わなさおきな)と言い、お婆さんの方が和名佐老婦(わなさおうな)と言うのであった。二人はふとこの井戸に行って、天女が井戸の中で水を浴びて遊んでいるのを見て、ひそかにその天女の内の一人の羽衣が木の枝にかけてあるのを取り隠してしまった。

 

さて、水浴びが終わると、天女達は美しいからだを見せて上がって来て、羽衣のある天女は皆直ちにそれを着けて天に飛び去ることが出来たが、羽衣を取り隠されてしまった一人の天女だけは、飛び去ることが出来ないで一人水に隠れて恥ずかしがっていた。

 

そこで翁はその天女を見て、

 

「私はこの年になるまで子宝に恵まれないので困っている。どうぞ我が子になってとどまってくれないか」

 

と頼んだ。ところが天女がそれに答えて、

 

「私だけ一人がこの国に取り残されてしまったので、仰せに従わない訳には行きますまい。何と致しましょう。どうか先ず私の大切な羽衣をお返し下さい」

 

と言う。

 

そこで翁は不審に思って、

 

「いやいや、それは私を欺いて飛び去ろうと思って、羽衣を返せと言われるのであろう」

 

と言うと、天女は情けない顔をして、

 

「この国の人には偽りの心があるでしょうが、天国の人は誠をもって元としているのにどうしてそのように疑って、羽衣を返して下さらぬ」

 

と答えて、さめざめと泣いた。

 

翁がそれを聞いて又言うには、

 

「疑いの心が多くて誠の少ないのはこの国の人の様である。だからこの心をもって許さないとしているのであって、別に他の意味があったわけではない」

 

と言って、とうとう許さず天女を自分の家につれて帰ってしまった。それから後は十余年の長い間一緒に住んでいた。

 

ところがこの天女はこの家に来てからいつも良いお酒を造った。そしてそのお酒を一杯飲むとどんな病でもみな直ぐに治るというので、天女はこのお酒を売ってたくさんの利益を得た。そこでお金を車に積んで、翁の家に送ったので翁の家はたちまちに豊かになった。土形(ひじかた)富む様になった。だからその後、この所を土形の郷と言い、後の世に比地の郷と言うようになったのである。

 

ところがその後になって、翁と媼(おうな)はふとした事からこの天女を喜ばないようになった。ある日のこと天女に向かって言うには、

 

「お前は元々我が子ではない。しばらくの間仮に我が子となったものであったのだから、もう用は無いからさぁ早く去れ」。

 

それを聞いて天女はあまりのことに驚いて泣き叫び、嘆き悲しんで、

 

「私はもともと私が来たくて来たのではありません。あなたがお頼みになったからこそここに留まっていたのに、どうしてそのように急に嫌がってすぐに私を追い返そうとなされるのですか」

 

と言うたが、翁は一向に聞き入れないで、ますます怒って強く追い出そうとするので、天女も力が尽きてしまい、とうとう泣きながら翁の家を出て、しほしほとあてもなく歩いて行くと、一人の郷人に出会いました。そこで天女は郷人を見て、

 

「私は長い間この国の人となったため、今では天に帰る道がふさがっているので、元の国に帰ることが出来ません。その上親しい家族も居ないので行こうとする所さえも無いのです。どうしたら良いでしょうか」

 

と言いながら、またさめざめと涙を流して嘆き悲しみ天を仰いで、

 

「天の原 ふりさけみれば 霞たち 家路まどひて ゆくへしらずも」

 

とうたい、とうとう退きさって荒塩村に行き着きました。そしてその村人に出会った時、翁や媼の心を思うと自分の荒塩にも似ていると言ったというので、比地の郷を又荒塩村とも言うと伝えられている。こうして天女は、丹波国のある郷村に至って、槻(けやき)にもたれて泣いたので、その村をそれから哭木村(なきむら)というようになったのであると。天女はこうして遂に竹野郡船木郷奈具村に至って留まった。そして郷人に出会った時、天女は、

 

「自分の心は奈具志久(なぐしく【穏やかに】)なった」

 

と言ったというので、この村をそれから後には奈具村と言う様になったのであるという。ちなみにこの天女は竹野郡奈具社(なぐのやしろ)に在(ましま)す豊宇賀能命(とようかのみこと)のことであると語り伝えられている。

 

 

日本の昔話である。このような昔話を読み解いていくと中々面白く、想像力を働かせると私のおもゐが肉体を離れ、翼を広げて現代から神代へと時空を超えてあっと言う間に行き着いてしまう。

 

今回は丹後地方の天女伝説を取り上げ、次回に浦島子伝説を取り上げたいと思う。

  

 

上の物語を読むと、意地悪な老夫婦が天女をだまして縁組み(自分たちの子供に)し、必要がなくなったら縁を切って放り出したというとんでもない物語で、この物語が神代の時代から現代まで語り継がれて来ていることそれ自体に大きな意味がある。

 

色々と調べてみるとこの地域は砂鉄の一大産地であり、諸説があるみたいだが、比地(ひじ)の郷の名前の由来は土形(ひじかた)から来ており、土形とは土型つまり鉄製品を作る鋳型のことを言うらしい。『天女の八人組がやって来てこの地域が土形富むこととなった』と、上の物語にあることから、当時日本に無かった絹や酒や鉄等の製造技術や灌漑や耕作などの土木技術を持った渡来人の職人集団がこの地域にやって来て、その技術によりこの地域が豊かになったのだと見ることが出来る。

 

この説を裏付けるように丹後半島には徐福が渡来した地だとの伝説が残る新井崎神社が存在する。また、日桙(ひぼこ)が定住したという地も隣接している。

 

天橋立を有する宮津市の北、舟屋で有名な伊根町の新井崎(にいざき)には「徐福伝説」が伝わる。地名のイネは稲に通じ、古代に大陸から稲作がもたらされた言い伝えにちなむと伊根町誌に記されている。地形は急峻で幾段にも棚田が築かれている。海を望む切り立った断崖上にその徐福を祀る新井崎神社があった。足元はゴツゴツとした大きな黒い火山岩が重なる海岸だ。町の郷土史家、石倉昭重さんは「ここ新井崎が徐福上陸の地です」と語る。

秦の時代、司馬遷によって著された中国の正史『史記』では、徐福は「斉の国(現在の山東半島の南)の人で、身分は秦の始皇帝に仕える方士(ほうし)」となっている。方士とは呪術や占術、医薬、天文など森羅万象、諸学に通じた者で、なかでも徐福は始皇帝の信頼がもっとも厚かった。始皇帝の命により不老長寿の薬を求めて「童男童女三千人、五穀の種子、百工(さまざまな技術)」を伴い、不老長寿を体得した神仙(仙人)が住む、遥か東方海上にあるという三神山をめざし、船出したという。紀元前219年のことだ。

大陸から海流に乗って徐福一行が辿り着いたのが新井崎だ。「このとき徐福がもたらしたのが稲作技術や鋳鉄の技術、漢方医学や神仙思想です。ここから東方の海に浮かぶ冠島(かんむりじま)と沓島(くつじま)は神仙思想の仙人が住む島です」と石倉さんはいう。そして、『史記』は徐福のその後をこう記している。「…(その地で)王となり帰って来なかった」と。

徐福が実際に新井崎に上陸したかどうかは定かではなく、伝説も日本各地に残るが、石倉さんが強調するのは、徐福が渡来したとされる時期が丹後半島の文化の黎明期(弥生時代)と重なる点だ。丹後半島には、日本海側で最大級の遺跡や、王墓を想像させる古墳が次々に発見されている。網野銚子山(あみのちょうしやま)古墳神明山(しんめいやま)古墳は「他地域と比べても傑出したもの」という。

峰山町大田南5号古墳からは、「青龍三年」の紀年銘のある日本最古の鏡が出土している。青龍三年は魏の年号で西暦235年のこと。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の国に使節を遣わす4年前、つまり邪馬台国以前に丹後国は大陸と交流していた可能性が考えられるという。鉄器やガラス製品など中国大陸の遺物も大量に出土し、丹後国に強大な勢力があったことを示している。  

 

丹後の伝承|伝説・伝承に彩られる丹後半島:JR西日本

 

ある時、大陸からの渡来人たちがこの地域に流れ着いて、磯砂山(比地山)をご神体とする和名佐を長(おさ)とする氏族がその内の何人かを捕らえ、この地域に強制的に住まわせた。そして、彼等の持つ技術を総て吸収すると村から追い出して、その先端技術を自分たちで独占するために渡来人達を丹後半島に閉じ込めてしまったという、恐ろしい話が実態なのかも知れない。その渡来人たちの恨みを慰める為に天女の伝説を創り、豊宇賀能命(とようかのみこと)を神様として祀り上げたのだと考えることも出来る。

 

このことを裏付けるように天女が最終的にたどり着いたという奈具神社の周辺に大きな古墳が点在している。

 

 

また、この地域にはシンボル的な山を単位として上の物語と同じような天女伝説がたくさん残っている。

 

 

磯砂山(比地山)

乙女神社

祭神:豊宇賀能賣神(ウカノメノカミ) 


さんねもと天女 - YouTube

 

下の地図を見ても分かるように、この物語は上述した物語とは比治山(磯砂山)に対して裏側の山深い地域で語り継がれて来ている物語であり、他の天女伝説とは別に七夕伝説も加わることで趣きを異にしている。土着の狩猟を糧にしていた氏族(安達氏)の伝承だと思われ、今も血の繋がる安達家では神代からの伝承の慣習が継がれていることには驚きに値する。 

 

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比治の里にはもう一つの天女伝説が存在する。峰山町鱒留(ますどめ)の集落に古くから伝わる「さんねも・羽衣」の伝説だ。比治山に八人の天女が舞い降り、水浴びをしているところまでは同じだが、三右衛門(さんねも)という猟師が天女の衣を家に持ち帰る。「どうか羽衣を返してください」と天女が懇願しても「家宝にするのだ」と返さない。天女はとうとう諦め、さんねもの妻となり三人の娘をもうける。

天女は美しいばかりでなく、蚕飼いや機織り、米づくりや酒造りを教え、村はみるみる豊かになり人々は幸せに暮らした。しかし、天女は天が恋しくてたまらず、ある日、隠してあった羽衣を見つけ三人の娘を残して天に舞い上がる。悲しむさんねもに「7日7日に会いましょう」と天女は言い残したが、ようすを窺っていた天邪鬼が「7月7日に会いましょう」とさんねもに教えた。それでも嘆き悲しむさんねもに、天女はゆうごう(夕顔)の種を渡す。種を蒔くと、つるはどんどん天に伸び、さんねもはつるを登った。そこは天上の世界、天女はせっかく来てくださったのだからと、「天の川に橋をかけてください」とさんねもに請う。「ただしその間、私のことを思い出さないでください。そうでないと一緒に暮らすことはできません」。さんねもは一生懸命に橋をつくり、もう少しで完成というとき、嬉しさのあまり、天女の姿を頭に思い浮かべてしまった。とたんに天の川は氾濫し、さんねもは下界に押し流されてしまった。

この話は七夕の発祥とされる。谷あいの集落には天女の長女を祀る「乙女神社」があり、天女を嫁にしたさんねもの子孫の家もある。その安達家の家紋は「七夕」、屋号も「たなばた」で、現在の当主は「この家の庭から天女は天界に昇ったそうです」と教えてくれた。代々そうして語り継がれてきたのだろう。

 

丹後の伝承|舞い降りた天女、二つの「羽衣伝説」:JR西日本

 

七夕のとき、安達家ではいくつかの儀式が行われるが、昭和30年頃までは見学に訪れる人達の為に当日臨時バスが出たほどだったという。

 

安達家は和奈佐老夫婦の子孫ということであるが、谷川健一氏はカンピョウのたぐいは朝鮮では天空をかたどるものとされ、泉の神を老翁と老嫗であらわすのは朝鮮の昔話にも出てくるから、この伝承は大陸渡来系のものかもしれないとする。伴とし子氏は大呂(おおろ)を筑前国風土記逸文に「高麗の国の意呂(おろ)山に、天より降り来し日桙(ひぼこ)の苗裔、五十跡手是なり」とある「意呂」に語源を尋ねる考え方もあり、羽衣伝説は、天日桙の足跡と関連して考察することもできるという。

 

ただ、比治山の羽衣伝説を単純に朝鮮渡来の伝説とみなすことはできない。

 

 

大江山・日浦嶽

元伊勢外宮豊受大神社・・・主祭神豊受大神

御由緒(豊受大神社由緒書による)

 

当社は旧号を与佐宮と称へ豊受大神を御主神として仰奉り、境内末社には全国の名神大社の神々が奉斎されています。大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、国民に篤い御加護を垂れさせ給ふ大神に座します。

 

皇祖天照大御神天孫降臨以来皇居に奉斎されていましたが、人皇第十代崇神天皇の代に至りまして天皇のお住まいと同じ皇居にお祭りしているのは誠に畏れ多いと思召され、即位六年に倭国笠縫邑に御遷座になりまして、皇女豊鋤入姫命が祭事を掌っていられました。この地に三十三年間御鎮座になりましたが、別に大宮地を求めて鎮め祭れとの天照大御神の御神勅がありましたので、同三十九年に当地を大宮地と定め給いて大和国笠縫邑より遷御されたのであります。


当地で初めて宮殿を建立され大御神を奉斎されたのであります。此の時同時に豊受大神を合わせ祀られたのが当社の創始であります。


境内を比沼の真名井ヶ原と称へ孤立した一丘陵を形成し、御神霊の静まり座すに相応しい神秘な霊域で一萬余坪の御山であります。天照大御神は四年間御鎮座になりましたが、更に大宮地を求めて当地を出御されます。豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれましたので、途中第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぎになられ、垂仁天皇二十五年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と定められ御鎮座にになったのであります。笠縫邑を出御されてより五十年間の歳月を経ております。

 

然しながら豊受大神は御鎮座以来御移動がなく、此の真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されてきました。ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇二十二年に、皇祖天照大御神の御神勅が天皇にありました。その御神勅は「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告でありました。同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもありましたので、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ給いて直ちに伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立され、大佐々命をして豊受大神を御遷座になったのであります。

 

然しながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいるのであります。

元伊勢内宮皇大神社

 

 

③眞名井嶽【久次(くじ/ひさつぎ)岳・咋石(くし)岳とも呼ぶ】

伝承①

咋石嶽は豊受大神現身の移り住まわれた地で、神代に月読命を饗膳したことにより斬り殺された土地である。今も大饗石があるがこれは饗膳を供し
た霊跡である。その下に御手洗滝があるが、これは豊受大神を切った月読命が手を洗った神跡と伝わる。その上には大神社というところがある。その右の方に来迎山がある。これは月読命豊受大神がお迎えした古跡である。切果渓(この谷の下に桐畑村あり)は豊受大神月読命が切り果たした地であると伝わる。

 

伝承②

『丹後旧事記』にいう咋石嶽はこの山である。また『丹後風土記』の比治山伝説の地として、磯砂山(足占山)とその本家を争っていることは各所で述べて来た。『同旧事記』によるとこの地はもと与謝郡の内であったが、和銅六年、丹波の国のうち五郡を割いて丹後ノ国としたとき、丹波郡となり、咋村(くいむら)の後の山を、一般に久次嶽(くじは咋の仮名がき)といい、宇気持神(注、保食神とも)が天から降った地で、山頂に二間四方の岩があり、昔この岩をもって神とあがめてまつったとかいっているが、岩の表面に人の死形があり、これを宇気持ノ神の死なれた姿であるといい伝えている。中古、真言宗で四十余院の坊官(宿坊、坊院)があり、今も寺々の跡や鐘楼の跡などが数ヵ所にあると述べている。


神の死形があるという大岩〔高十二尺、縦十八尺、横十三尺)は、登山路の中腹、杉林の中にあり、山腹から転落したもので、死形は岩が転倒したため下面となってみることはできない。この山は、久次農家の草刈場で、山頂まで牛を飼いに上ることもあり、頂は平地で、日本海の眺望がよい。
咋(くい)石(クシ)は奇石で、大きな岩が九個あるから、九石(くしい)の名がもとであるともいわれ、熊野郡では石(いし)が嶽とよんでいる。大石を神としてあがめたものであろう。

 

一般に久次岳(ひさつぎだけ)といい、私どもは子供の頃から真名井山(さん)、あるいは真名井ヵ嶽とおしえられ、親しんで来た。伝説にある八人の天女が水浴したという池、または沼の跡はないが、山腹からふもとにかけて滝や泉など清水に恵まれ、大昔こうした土地から水田耕作がひらかれていったことは容易にうなずかれ、そうした水源を、神から授けられた霊水であると尊敬し保存したのは不思議でない。


問題の「比治山」という名は、こうした一つの山に与えられた名ではなく、久次、磯砂山系全体につけられた総称であるとみる説が多い。しかし、かなりの距離と、平野を隔てて対立する二つの高山を総称して比治山とよんだとするならば、どうも不自然である。『丹後風土紀』の本文に「丹後ノ国丹波ノ郡の郡家の西北の隅に比治の里あり。この里の比治の山の頂に井あり。その名を真井(まない)という。今すでに沼となる」と書き出している。この丹波郡を支配する役所(郡家)の位置は、丹波郷であったというが、丹波郷の区域も広いし、風土記の紀事が、立地的に方角が正確で、あったかどうか断定しかねる。しかし、たとえ、方位や場所に疑問はあっても『風土記』の作者は、必ず一つの山の一つの沼を指摘して、比治山の真井と定めて、この豊宇賀能売命(奈具社神話)の神話を綴ったにちがいないと私は思う

比沼麻奈為神社・・・主祭神豊受大神

藤社(ふじこそ)神社・・・主祭神豊受大神

由緒書き

往古崇神天王の御代、比治山に降臨されたと伝える豊受大神を祀り、その御神徳は稲作を初め五穀豊穣養蚕守護神としての尊崇篤く 古老相伝によると丹波道主命の創始とも伝え、社号の藤は比治又は泥(ひじ)の転語であると言われている

 

北麓の鱒留にある藤神社は藤社(ふじこそ)神社ともいわれ、祭神について五箇村誌草稿に「田畑(たなばた)女神及ワナサ老夫婦を祭神とす境内の藤桜称すべし」とあるといい、このタナバタ女神は棚機つ女(たなばたつめ)であろう。

 

筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、海または海に通じている川を通って年に一度やってくるカミを、村ごとに海岸や川端の人里はなれたところに小屋をつくって、棚機つ女(たなばたつめ)とよばれるカミの妻となるべき処女を住まわせ、棚機つ女(たなばたつめ)はカミが訪れてきたとき、カミに着せて一夜妻になるため、ふだんはカミの着物を機にかけて織っていたという。そして、一年に一度だけ男女がいきかうことや、織女=棚機つ女(たなばたつめ)という名前の似通っていることなどから、シナから牽牛織女の七夕の星祭が伝えられたとき、わが国固有の棚機つ女(たなばたつめ)のカミ祭りの風俗と大変素直に結びつけて、同化することになったというのが折口信夫『たなばたと盆祭りと』であきらかにされているという。

 

伊去奈子(いさなご)嶽【比地山のこと】の天女も棚機つ女(たなばたつめ)ということになり、伊去奈子嶽の羽衣伝説は、朝鮮半島から伝わってきたものもが習合される以前に、伊去奈子嶽には棚機つ女(たなばたつめ)による祭祀がすでにあったわけである。


筑紫申真氏によれば、この棚機つ女(たなばたつめ)がアマテラスの本当の姿である。何故なら、アマテラスは女で、カミのためにみずから機を織っていたからであるという。スサノオ高天原に乱入したとき、アマテラスは神衣を織っていたが、アマテラスが自分のために神衣を織るのは理屈に合わず、この話はアマテラスがかっては神の衣を織りながら神を迎える棚機つ女(たなばたつめ)だったことを示しているという。

日本書紀にみられるアマテラスオオカミは、はじめは太陽そのものであり、つぎに太陽神をまつる女となり、それから天皇家の祖先神と三回ほどカミの観念のうえで変化しており、日神→オオヒルメノムチ→アマテラスという三つの段階のカミの名が一つの神格のように表現された合成品なのであって、アマテラスが男の蛇であり織姫であるのは当然のことだという。

 

伊去奈子(いさなご)嶽【比地山のこと】にも棚機つ女(たなばたつめ)による神迎えの祭祀があったとすれば、天照が祭られていても不思議ではないともいえるが、海部氏の祖神である天照国照彦火明命は男で天照国照という称号を持つことから、丹後が独自に棚機つ女(たなばたつめ)を天照神として祭ったとは考えにくい。棚機つ女(たなばたつめ)が天照大神として天皇の祖神とされた以後、その影響によって伊去奈子嶽の棚機つ女(たなばたつめ)と天照の結びつきも始まったのであろう。ただ、伊去奈子嶽の棚機つ女が祭っていた神が、元々から太陽神であった可能性はある。


伊去奈子嶽の山麓には藤神社や富持神社などフジ神社があり、それはヒジが訛ったものといわれる。しかし、最初からそれらはフジ神社だった可能性もある。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、『諏訪明神絵詞』で守矢神が鉄輪で戦うのをミナカタが藤の枝をとって降伏させたのは、藤が竜蛇だったからで、それに対応する高砂族の民話が施翠峰著『台湾の昔話』に載っているという。「蛇の子」というその昔話では、ツォウ族の若者が、山の中で、大蛇が抱いていた子供を拾ってきた。この子は十二、三歳になると、蕃社中で一番の強者に成長した。敵がこの村を襲ってきたとき、この蛇の子は、まず藤を腹に巻いて鎧とし、疾風の速さで駆け出して敵に向かった。ふしぎなことに、敵が彼を切ろうとすると、たちまち一匹の大蛇となり、敵を切るときは人に化るので、敵は恐ろしさにキモをつぶし、ことごとく死んでしまったという。

 

 

④藤岡山

眞名井神社【久志濱宮(くしはまのみや)・比沼真名井(ひぬまない)神社】

・・・主祭神豊受大神

御由緒

真名井神社の地における祭祀の始まりは大変古く、少なくとも弥生時代まで遡ることが出来ます。

 

真名井神社の裏には古代の祭祀形態である磐座(いわくら)が鎮座し、その磐座(神が宿る石)で神祀りが行われていました。神を祀る常設の社殿(神社)という形態ができたのは仏教伝来以降とされています。それまで古代人は高い木や岩石、島や川などに神々が籠もると考え、それらを崇拝対象として神祀りを行っていたのです。真名井神社の地では神代の昔から石や磐に神が籠もっていると信じられ、磐座で神祀りが行われてきました。

 

真名井神社境内地からはすでに縄文時代から人々が住んでいた証である縄文時代の石斧や掻器などが出土し、また弥生時代のミニチュア祭祀土器破片や勾玉が出土しています。そのため真名井原一帯は縄文時代から人間が生活を営み、神々をお祀りしていた神聖な地と考えられます。


真名井原では海部家の始祖彦火明命(天火明命)が豊受大神を創祀し、二代目の天香語山命が磐境(いわさか)を起こし、「匏宮(よさのみや)」を創建し、磐座の豊受大神主祭神として神祀りを行っていました。天香語山命は、三代目の天村雲命が高天原より真名井原に持ち下った天の真名井のご霊水をヒサゴに入れ神祀りを行っていたと伝えられています。匏宮の鎮座する山は天香語山或いは藤岡山と呼ばれています

 

天女伝説

神代の昔、八人の天女が真名井神社の神域に舞い降り、粉河(こかわ)と呼ばれる川(当社奥宮の横の真名井川)でお酒を造っていました。その時、塩土翁(しおつちのおきな)が天女に欲を出し、一人の天女の羽衣を隠してしまい、天女は天に帰れなくなりました。そのため、しばらく翁と夫婦となり、この地で酒造りに精を出しました。

 

天女はいつも光を放ちながら空を飛び、その光景はまるで鳥籠から光を放っているようでした。この天女が与謝のこの地に降臨すると、与謝宮(よさのみや)が造られ、そこにお祀りされるようになりました。籠から光を放つことから、籠宮(このみや)と呼ばれました。この天女は天照大神豊受大神にお供えする食べ物を天からたくさん降らせました。そしてこの天女は丹波の与謝宮から伊勢神宮の所管社である御酒殿(みさかどの)の守護神・醸造神として勧請されました。これが日本酒の始まりとなりました。

丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 京都丹後日本三景天橋立

丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) 京都丹後日本三景天橋立

 

籠神社の御神幸の神事は、藤の花を冠にかざすことが千古の慣例になっていて、社伝では欽明天皇の御代に始まったと見えているというが、海部穀定氏によれば、「花開けば、真名井の水を結ぶという。藤と真名井に関する神秘は、今尚、千古の古儀を伝えて、与佐宮、後の籠神社祭礼の伝統は、この神事を中心に存続されている。」のであり、御饌の井には、その周辺に藤が植えられていて、藤池とも云っているのであって、藤は即ち比治なのである。」とするが、藤が単に比治の転化だとすれば、これほどに藤へのこだわりが生じるであろうか。真名井神社の本当の祭神が熊野の大神すなわちクナトノ大神であり、諏訪大社では出雲神族とタテミナカタと藤が結びついているということは、丹波においても最初から竜蛇神をあらわす藤だったのではないだろうか。

 

下の日本地図を見てみるとよく分かる。日本列島はまるで巨大な砂嘴(さし)のようだ。朝鮮半島の東側沿岸から船を出すと、沈没しない限り日本列島に必ず到着することが見てとれる。この地形により、大昔から多くの渡来人が訪れていたことを想像することは容易である。

 

はるか昔からこの地に住む土着氏族と大陸からやって来た氏族が争い、勝者がこの地を支配する。支那や朝鮮の国内の騒乱によりこの地に逃げて来た氏族も居るであろうし、日本海を股にかける海賊も居たであろう。大小の小競り合いを繰り返し繰り返し、一つの一大勢力が覇者となり生き残った。それが籠神社を中心とした海部氏なのであろう。しかし、盛者必衰がこの世の理。この海部氏も後に大和朝廷の支配を受けることとなる。

籠神社は宮津にありますが、宮津とは吉佐宮の港(津)に由来する。宮津といえば天橋立が有名ですが、この天橋立はかつて籠神社の社領地であり、参道でした。一度でも天橋立を歩いたことがある方ならば、いかに籠神社が権勢を誇っていたかを想像できると思います。

 

下のグーグルマップを眺めれば分かるように籠神社はこの地域で一番発展した港を見下ろす場所に位置している。そして、天女はこの地域から山を隔てた丹後半島の裏側に追いやられている。また、籠神社の対面にはまるで高台で見張りをするかのように、縄文時代から平安時代にかけて発展した浦入(うらにゅう)の港を目にすることが出来るのだ。歴史は勝者が記録し、敗者の記録は抹殺されるか捏造される。ただ、日本では敗者を神隠しにしてしまう風習がある。敗者を神に祀り上げてこの世から隠してしまうことがよくあるのだ。天女の伝説をこの風習にあてはめて思いを巡らせると、私の思いは時空を超えてこの時代の一住人となっている。この瞬間が心地良い。

 

 

最後にこの地域の特色をよく表している有名な小説をご紹介する。

宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良ゆらの港に来た。ここには石浦というところに大きいやしきを構えて、田畑に米麦を植えさせ、山ではかりをさせ、海ではすなどりをさせ、蚕飼こがいをさせ、機織はたおりをさせ、金物、陶物すえもの、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫さんしょうだゆうという分限者ぶげんしゃがいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のないしろものがあると、山椒大夫がところへ持って来ることになっていた。


港に出張っていた大夫の奴頭やっこがしらは、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、餓鬼がきどもを片づけて身が軽うなった」と言って、宮崎の三郎は受け取った銭をふところに入れた。そして波止場の酒店にはいった。

森鴎外 山椒大夫

 


丹波の天女伝説と豊宇賀能命

 

 

【参考:大陸側から見た日本列島】

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【Crémet d’Anjou】 ふわっふわのクレーム・アンジュを作る

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 17日 大安

        壬午 日/庚辰 月/乙未 年 月相 16.1 立待月 大潮 

          啓蟄 初候 蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)

          マヤ長期暦 13.0.2.4.6 マヤ365日暦 19 Kayab  マヤ260日暦 4 Cimi

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 6.8℃ 湿度 60% (大阪 6:00時点) 

 

 

パリからTGVで約1時間30分、フランス西部の町アンジェ。この地方の郷土菓子クレーム・アンジュ(クレメ・ダンジュ)は、新鮮なフロマージュブランをたっぷり使ったふわっふわのデザートです。

 


HAPPY We Are from ANGERS - FRANCE - YouTube


: Ville d'intérêtVille d'intérêt visites, infos pratiques, évènements | 日本 - フランス観光開発機構オフィシャルサイト

 

 

でも中々新鮮なフロマージュブランが手に入らないし、日本のチーズは値段が高すぎます!そこで、お手頃な水切りヨーグルトを使ってクレーム・アンジュを作ってみました。

 

ヨーグルトもこれを使って作るとコストを大幅にダウン出来ますよ。これは買った方が絶対いいです。 

 

 

レシピです。

水切りヨーグルト・・・200g◎

マスカルポーネ・・・100g◎

生クリーム・・・200cc●

砂糖・・・10g●

卵白・・・卵1個分☆

砂糖・・・20g☆

水・・・50ml★

砂糖・・・35g★

 

1.

まず、イタリアンメレンゲを作ります。☆の卵白と砂糖を混ぜて5分くらいに泡立てます。並行して鍋に★の水と砂糖を入れ、煮立てます。

 

2.

鍋が煮立ったら泡立てたボールに少しずつ加えていき、さらに泡立てながら角が立つメレンゲを作ります。

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3.

別容器に◎を合わせてよく混ぜます。

 

4.

別のボウルに●の生クリームと砂糖を入れ5分くらいに泡立てます。

 

5.

4のボウルに3を入れて混ぜ合わせます。

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6.

5にメレンゲを3回くらいに分けて入れて泡を潰さないように切るようして混ぜ合わせます。

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7.

コーヒーフィルターに6を入れて上部を絞って冷蔵庫に入れて1時間以上寝かせます。水分が出て来るのでその都度捨てます。 

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待ちきれないのでマスカルポーネに付属していたエスプレッソ・ソースをかけて試食♬

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ふわっふわでお口の中で溶けていきます。酸味がきいて美味しすぎです。

 

今の季節ならイチゴを刻んでレモン汁と砂糖でお好みの甘さに仕立て、ひと煮立ちさせた温かいソースとそのままのイチゴを添えて、紅茶といっしょに食べるとサイコーです!

 

 

【山岡鉄舟】剣法と禅理の一如

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 12日 赤口

        丁丑 日/庚辰 月/乙未 年 月相 11.1 長潮 

          雨水 末候 草木萠動(そうもくめばえいずる)

          マヤ長期暦 13.0.2.4.1 マヤ365日暦 14 Kayab  マヤ260日暦 12 Imix

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 5.3℃ 湿度 66% (大阪 6:00時点) 

 

 

 

餘、少壯の頃より武藝を學び、心を禪理に潛むること久矣(ひさし)。感ずる所は必ず形に試み、以て今日に至る。

 

年九歲の頃、初めて劍法を久須美閑適齋(くすみかんてきさい)に學び、續ゐて井上淸虎千葉周作、或は齊藤、桃井等に受け、其他諸流の壯士と共に試合をする事、其數幾千萬なるを知らず。

 

如斯(かくのごとく)にして刻苦精思する事凡そ廿(二十)年、然れども未だ嘗て安心の地に至るを得ず。是(ここ)に於いてか鋭意進取して劍道明眼の人を四方に索(もと)むると雖(いえど)も、更に其人に遇ふ能はず。

 

偶々(たまたま)一刀流の達人淺利又七郞義明と云ふ人あり。奧平家劍法師範中西子正(しせい)の次男にして伊藤一刀齋景久の傳統を嗣(つ)ぎ、頗(すこぶ)る上達の人と云ふ。

 

餘、之を聞き喜び、行きて試合を請ふ。果して世上流行する所の劍術と大に其趣を異にするものあり。外柔にして内剛なり。精神を呼吸に凝し、勝機を未擊(いまだうたざる)に知る。眞に明眼の達人と云ふ可(べ)し。

 

是より試合するごとに、遠く其不及(およばざる)を知る。爾後(じご)修業不怠(おこたらず)と雖も、淺利に可勝(かつべき)の方法あらざるなり。

 

是より後、晝は諸人と試合をなし、夜は獨り坐して其呼吸を精考す。眼を閉ぢて專念呼吸を凝し、想ひ淺利に對するの念に至れば、彼れ忽(たちま)ち餘が劍の前に現はれ、恰(あたか)も山に對するが如し。眞に當るべからざるものとす。

 

餘が修業如斯(かくのごとし)と雖(いえど)も、未だ其蘊義(うんぎ)に撤入(てつにゅう)せざる所以のものは性來の愚鈍と忠誠の足らざるとに因らんずばあらず。

 

餘、嘗(かつ)て滴水(てきすい)に參じて禪理を聞く。

 

先づ吾れ、劍法と禪理とを合せ、其揆一(きいつ)なる所を細論す。

 

滴水の曰く、善哉言也(よきかなげんや)。然れども愚僧等の道を以て包みなく一言すれば、貴下の現在は恰(あたか)も眼鏡を隔てて物を視るが如し。眼鏡素より明白にして多分の視力を妨げずと雖も、本來肉眼に一點の疾(やまゐ)なき人は、如何なる明鏡と雖も尋常物を視るに於いて之を用ゆるの要なきのみならず、用ゆれば變則なり。用ひざるを以て自然とす。

 

貴下の現在は既に此境に達せり。若し一度此障物(さわりもの)を去る事を得ば、忽ち御所望の極底(きょくてい)に達することを得べし。況(いわ)んや貴下は劍禪兼至(かねいた)るの人なり。一朝豁然(かつぜん)として悟道せられなば、殺活自在、神通遊化(しんつうゆうげ)の境に到らん、なぞとて深く餘を勵まし、且つ曰く、要は唯だ無の一字のみと。

 

餘は此の公案を受けて日夜精考する事約十年に近しと雖も、猶ほ釋然たらざるものあり。

 

二度滴水に參じて所存を述ぶ。

 

滴水又更に公案を擧げて曰く、

 

兩刄交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)。

好手還同火裏蓮(こうしゅかえりてかりのはすにおなじ)。

宛然自有衝天氣(えんぜんおのづからしょうてんのきあり)。

 

と。以て餘に其思考を促す。

 

餘其句の頗る興味あるを感じ、紳(おおおび)に私書して以て考察具(つぶさ)に至る事約三年の久しきに涉(わた)る。

 

偶々(たまたま)豪商某(なにがし)、餘に揮毫(きごう)を乞ひ來つて坐側に侍り、自己の經歷を談ず。語中頗る神妙の言あり。曰く。

 

世の中は妙なものであります。私は自分ながら不可思議に思ふなり。私は元來赤貧の家に生れたりしが、今日は不計(はからず)も巨萬の富を致せり、誠に案外なり。

 

然るに私が唯一つ靑年の頃より是はと思ふ事は、嘗て金の四五百圓計(ばか)り出來たるときに商品を仕入れたりしが、豈計らんや物價が下落の氣味だとの世評なるが故に早く賣り拂ひたしと思ひしに、同僚輩が何となく弱身に附込(つけこ)んで蹈落(ふみたお)さんとするより、一增(いっそう)自分の心は動機々々(どきどき)せり。其動機の爲めに何となく胸が騷々しくなれり。其處で眞實世閒の相場も分らずなれり。其れが爲めに彼是迷ふて非常に狼狽せり。

 

是に於て、自分に斷念して構はず放任して置きたり。

 

それにより日數を經て、再び商人共が來りて、元價に一割高く買うべしと云へり。今度は自分に於て前と打ち替つて、一割の利にては賣らずと答へり。然る處、又妙に五分突上(つきあ)げて來れり。

 

其處にて賣りおかばよかりしに、自分が慾に目眩(めくら)んで高く賣(うろ)う賣うと思ふ内に、畢竟二割以上の損をなして賣れり。

 

此時初めて商法の氣合を悟れり。若し蹈込(ふみこ)んで大商をなさんと思へば、總て勝敗利損にびくびくしては商法はならぬものなりと思へり。たとえば、事必らず勝利を得んと思へば、胸が動機動機致し、損をするならんと思へば己身(おのがみ)が縮まるやうなり。

 

其處で自分は、如斯ことに心配をなすは迚(とて)も大事業をなすこと能はずと思ひ、爾後何事を企(くわだ)つとも、先づ我が心の明かなる時に確(しか)と思ひ極(き)め置き、而して後仕事に着手でば決して是非に執着せず、ズンズン遣ることに致せり。其後は大畧損得に拘らず、本統(ほんとう)の商人になりて今日に至れり、云々、……

 

との談話は前の滴水の「兩刄交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)」の語句と相對照し、餘の劍道と交へ考ふる時は其妙味言ふ可からざるものあり。時に明治十三年三月廿五日なり。

 

翌日より之を劍法に試み、夜は復(ま)た沈思精考する事約五日、同月廿九日の夜、從前の如く專念呼吸を凝らし、釋然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覺ゆ。

 

時既に夜を徹して三十日拂曉(ふつぎょう)とはなれり。此時、餘猶坐上にありて、淺利に對し劍を振りて試合をなすの形をなせり。然るに從前と異なり、劍前更に淺利の幻身を見ず。

 

是に於てか、竊かに喜ぶ、我れ無敵の極處を得たりと。

 

直(すぐ)に門人籠手田(こてだ)安定を招き、餘自ら木刀を攜へ、一場の試合をなさしむ。

 

木刀出沒、未だ餘が手腕を試むるに足らず、安定叫んで言ふ、乞ふ先生恕(ゆる)せよと。

 

餘、刀を止めて其由を問ふ。

 

安定の曰く、吾れ先生に接すること既に日ありと雖も未嘗て今日の如き刀勢の不可思議なるを見ず。吾れ到底先生の身前に立つこと能はず、斯(かく)の如きも人力もて爲し得べきものなるや、なぞとて頗る驚嘆の色あり。

 

是に於て餘は又更に劍師淺利義明を招きて角技(かくぎ)を請ふ。淺利喜び諾して木刀を攜へ、餘に敵せしむ。一聲忽ち電光石火の勢なり。

 

淺利、突然刀を抛(なげう)ち兜を脫し容(かたち)を正して曰く、

 

子既に達せり矣(し)。到底前日の比にあらざるなり。餘亦及ぶ所にあらず、吾れ豈其祕を傳へざるべけんや、とて一刀齋が所謂無相(想)劍の極致を以て遂に餘へ傳へらる。時は是れ明治十三年三月三十日なり。

 

然れども餘猶ほ安ずる能はず、愈々(いよいよ)擴充精究して聊(いさ)さか感ずる所あれば、未熟を顧ず今茲(ここ)に無刀流の一派を開きて以て有志に授く。

 

以上記するが如く、餘の劍法や只管(ひたすら)其技を之れ重ずるにあらざるなり。其心理の極致に悟入せん事を慾するにあるのみ。換言すれば、天道の發源を極め、倂せて其用法を辨ぜんことを願ふにあり。猶切言すれば、見性悟道なるのみ。以下不可言(いうべからず)。

 

嗚呼、諸道の修業も亦(また)如斯耶(かくのごときのみ)。古人云ふ、業は勤むるに精(くわ)し、勤むれば必らず其極致に達すと。諸學人、請ふ、惣怠(おこたるなかれ)。

 

一.

學劍勞心數十年(けんをまなびしんをろうしすうじゅうねん)。

臨機應變守愈堅(りんきおうへんまもりいよいよかたし)。

一朝壘壁皆摧破(いっちょうるいへきみなさいはす)。

露影湛如還覺全(ろえいはたんじょとしてかへりまったきをおぼゆ)。

 

二.

論心總是惑心中(こころをろんずればすべてこれしんちゅうにまどひ)。

凝帶輸贏還失工(ゆえいにちたいすればまたたくみをうしなう)。

要識劍家精妙處(けんかせいみょうのところをしらんとようせば)。

電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)。

 

明治十三年四月

山岡鐵太郞 書

 

 

 

【私的解釈】

 

我、少年の頃から武芸を学び、心を禅の精神に浸すること久し。そして、心に浮かんだ想いを必ず実践し、事とすることを試み、今日に至る。

 

九歳で、初めて剣法を久須美閑適斎(くすみかんてきさい)に学び、続いて井上清虎千葉周作、或いは斉藤(弥九朗)桃井(春蔵)等に指導を受け、その他諸流の壮士と相対して試合をすること、その数幾千万回とも分からないほど多い。このように想いを深く凝らして、苦しんで苦しんでやって来たこと約二十年、まだまだ完全だと安心する所には辿り着けていない。ここに来て更に専心して取り組むために剣道の心眼を拓いた人物を四方に求めているのだが出会えないでいた。

 

たまたま一刀流の達人浅利又七郎義明という人の話を聞いた。この方は奥平家の剣法師範をされていた中西子正(しせい)の次男であり、伊藤一刀斎景久からの流派の伝統を継いで来た大層な達人とのことであった。

 

我、この話を聞いて喜んで、早速訪ねて試合をお願いしてみると、なるほど世の中で持て囃されている剣術とは全く趣きを異にするものであった。外観に現れる氣は柔らかなものであるが、内に滾(たぎ)る氣は剛直そのものであった。精神を呼吸で調えて、一手を打つ前にすでに勝機が相手に掴まれているのだ。まさにこれぞ誠の心眼の達人と呼べる方であった。

 

以後、試合をするごとに自分の力量では遠く及ばないことを思い知る。修業を怠らずにいても、浅利に勝てる方法が見つからなかったのだ。

 

この時から昼は諸人と試合をし、夜は独り座禅に耽り、その呼吸というものを考え抜いた。眼を閉じて呼吸に意識を集中させ、浅利と対決している場面を思い浮かべれば、たちまちにして浅利の姿が自分の剣の前に現れ出る。それはまるで山と対峙しているようであり、正に圧倒されて打ち当たって行けないのであった。

 

我がこのように修業を行っているのだけれども、 まだその奥義に辿り着けないでいるのは、自分の生来の愚鈍さと熱意の不足であること以外に原因はないと考えた。

 

我はかつて滴水師のもとで禅理の指導を受けたことがある。

 

その時、我は剣法と禅理とは元を辿ると合わさった一つの源に辿り着くのではないかということを詳しく述べた。

 

すると滴水師の言うには、

 

「お前が言うことはその通りだ。しかし、自らの想いに従って遠慮無く言えば、現在のお前は眼鏡を通して物事を見ているようなものだ。確かにレンズが透き通っているから、視力は全く損なわれていないと言える。だが、元々肉眼に何の病も無い人は、どんなに良いレンズであっても、そもそもそれを用いる必要が無いのみならず、用いることが変則であり、使わないことが自然なのだ。

 

現在のお前は既にこのことが障りとなる境地にまで来ている。もし眼鏡という障害物を取り去ることが出来れば、たちまち望み通りの極致に達することとなろう。ましてお前は、剣と禅との二つの道共にもう一歩というところまで究めて来ている。一度、はっきりと道の正体というものを悟ったならば、殺活自在神通遊化(しんつうゆうげ)の境地に至ることとなろう」

 

と、私を励ましてくれ、さらに「結局は無という一字に尽きる」と、言うのであった。

 

我はこの「無」の公案を受けて 、昼も夜もその境地に挑み続けること十年近く、だが、どうしても釈然たる境地に達せないでいた。

 

そこで、再び滴水師の元を訪れ、我の想いの丈を述べた。

 

滴水師は又公案を授けてくれた。

 

それは、

 

両刃交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)。

好手還同火裏蓮(こうしゅかえりてかりのはすにおなじ)。

宛然自有衝天気(えんぜんおのづからしょうてんのきあり)。【注1】

 

という言葉であり、この公案についてよく考えるように促されたのだ。 

 

我、その言葉に引かれる所があり、大帯に書き付けて常日頃この公案に接し、考えを凝らし続けること三年の月日が過ぎた。

 

ある日、私の揮毫(きごう)を求めて訪ねて来た豪商の某(なにがし)が自分の過去を振り返り語り出した。その物語の中に非常に興味深い言葉があった。

 

「世の中は不思議なものです。私はその不思議を実感して生きて来ました。すごく貧しい家に生まれた私が、今では思いがけずに巨万の財産を手にしているのですよ。本当に意外なことです。

 

ただし、私の若い頃の経験の中で唯一つ貴重な体験をしたと思っているのは、四、五百円のお金が出来て商品を仕入れたのは良かったのですが、どうしたことか物価が下落気味だという評判が立って来たのです。私は早く売りさばかなければと焦っていると、知人たちが私の弱味に付け込んで安く買い叩こうとかかって来るものですから、私の焦りが一層募って胸はドキドキし通しでした。そして、この動悸の為実際の世の中の物価の事情も分からなくなってしまいました。あれやこれやと迷い、周りに振り回されて、すっかり狼狽してしまったのです。

 

ここに至って、私はもうどうにでもなれという心境となり、放って置きました。

 

すると、数日後に又商人がやって来て、私が買った値段の一割増しで商品を売ってくれと言うのです。今度は私に欲が出て、一割増では売らないよと突っぱねたのですが、そうするともう五分上乗せしようと値段を上げて来るではありませんか。

 

この時売っておけば良かったのですが、私は欲に目がくらんでしまい、もっと高く売ろう売ろうと思っている間に、結局は二割以上の損を出して売る結果となってしまいました。

 

この時初めて商売の呼吸というものを悟りました。もし、気負い勇んで大商いをしようと思えば、四十損得にビクビクすることとなり、とても永続的な商いは出来ないであろうということを思い知りました。例えるならば、行う事を必ず勝利で終えようと思えば胸がドキドキし、損をしないでおこうと力めば自分の心身が縮み上がるような気分となるような感じです。

 

そこで私は、こんな風に心を振り回されているようではとても大事業など出来ないと思い直し、以後、たとえどんなことを計画しても、先ず自分の心がしっかりと落ち着いている時に想いを定めて置き、いざ仕事に取り掛かれば、その途上で必ず沸き起こってくるあれこれに執着せずに、ドンドンと計画した事を実行して行くことにしました。その後は、その損得は別として、一人前の商人になれたものと自認して今日までやって来たわけであります。等々………」

 

この話を前述の滴水師が私に述べた「両刃交鉾不須避(りょうばほこをまじえさくるをもちゐず)」という公案の言葉と照らし合わせ、その上で我の剣道と関連させて考えてみると、そこから湧き出て来た妙味は言葉に出来ないものであった。時に明治十三年三月二十五日の出来事である。

 

翌日よりこの言葉に出来ない妙味を剣法で形にしようと試み、夜は夜で沈思精考すること約五日、同月二十九日の夜、いつものように呼吸に集中していると、突如として天地の間には何物も存在しないのだという心境に陥っている自分の存在を感じ得たのである。時は既に夜が明けて三十日の早朝となっていた。この時、我は座ったまま浅利に対して剣を振り、心中で試合をしている姿勢をとってみた。そうすると以前とは異なり、剣前に山のように迫り来る浅利の姿を認めることがなかったのだ。

 

ついにやったのだ。我、無敵の境地に立ち入ったのだ!と、ひそかに喜んだ。

 

すぐに門下の籠手田(こてだ)安定を呼び、我木刀を手にして試合をやってみた。

 

二人の木刀が対峙し、まだ我の掴んだ境地を試してもいないのに、安定が「先生、参りました」と叫ぶのだった。

 

我、木刀の動きを止めて「どうしたのだ」と聞くと、

 

安定は、

 

「私、先生の教えを受けて来た者でありますが、いまだかつて今日の先生の刀ほど不思議な勢いを見たことがありません。私のような者では、先生と対峙することさえも出来ません。このような事が人間の力でなし得るものなのでしょうか」

 

と言って、驚嘆の表情を示すのであった。

 

私は次に剣師浅利義明を招いて試合をお願いしたところ、浅利喜んで木刀を手にして我に対峙してくれた。一声の気合とともに飛びかかって来ようとする勢いであった。

 

だが、浅利は突然刀を捨て、面具を外し改まって言った。

 

「あなたは遂に掴まれましたね。これまでとは段違いの腕前です。私といえども敵わないでしょう。奥義をお伝えしなければならないようですね」

 

と言って、伊藤一刀斎のいわゆる「無想剣」の奥義が遂に我に伝えられたのである。時は明治十三年三月三十日のことであった。

 

しかし、それで我が安心したわけではない。その後も色々と考究を重ねて、幾分なりとも形に出来たものがある。それゆえ、自分の未熟も顧みずに、このようにここに無刀流の一派を継いで有志の志士に授けようといているのである。

 

以上の記述で分かっていただけるであろうが、我の剣法はただ技術を重視するものではない。心の限界の極限にまで自分を追い込みむことだけを目標にしている。言い換えれば、天道の発する源を見極め、同時にその正しい活用方法を追究して行くことを願っているのである。一言で言うならば「見性悟道」つまり妄想邪道にはまり込まずにどんな境遇を得ても臨機応変に本道を突き進むということである。それ以上の言葉は見つからない。

 

ああ、その他のどんな道も、究めるということはこのようなことなのだ。古人は言う、業(なりわい)を勤めれば技となり、さらに勤めれば必ずその極致を得ると。学び究めようとする人よ。請う。怠るなかれと。

 

一.

学剣労心数十年(けんをまなびしんをろうしすうじゅうねん)。

【剣の道を数十年心を砕いて学んできた。】

臨機応変守愈堅(りんきおうへんまもりいよいよかたし)。

【臨機応変の不敗の極致に到達したようだ。】

一朝塁壁皆摧破(いっちょうるいへきみなさいはす)。

【そして今、最後の障壁を突き崩したのだ。】

露影湛如還覚全(ろえいはたんじょとしてかへりまったきをおぼゆ)。

 【その先に広がるのは、露に反射する光を湛える完全無欠の静かな境地であった。】

 

二.

論心総是惑心中(こころをろんずればすべてこれしんちゅうにまどひ)。

【心の中の想いを言葉にしようとすると、惑いは増す。】

凝帯輸贏還失工(ゆえいにちたいすればまたたくみをうしなう)。

【勝負にこだわれば技の切れを失う。】

要識剣家精妙処(けんかせいみょうのところをしらんとようせば)。

【剣の極意を知りたければ教えてやろう。】

電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)【注2】。

 【春風を一気に断ち切るのみ。】

 

明治十三年四月

山岡鉄太郎 書

 

 

【注1】 

【正(平等)と偏(差別)を相互に転換運動させる。正とは本体、体・君・空・真・理・黒など。偏とは現象、用・臣・色・俗・事・白など】

正中偏   三更初夜月明前、 莫怪相逢不相識、 隠隠猶懐旧日嫌。
偏中正   失暁老婆逢古鏡、 分明覿面更無真、 休更迷頭還認影。
正中来   無中有路出塵埃、 但能不触当今諱、 也勝前朝断舌才。
偏中至   両刃交鋒不須避、 好手還同火裏蓮、 宛然自有衝天気。
兼中到   不落有無誰敢和、 人人尽欲出常流、 折合還帰炭裏坐。

 


正中偏
三更初夜月明の前、怪しむなかれ相い逢って相い識らず、隠隠として猶お旧日の嫌を懐く。

 

偏中正

失暁の老婆古鏡に逢う、分明覿面(てきめん)なるも更に真無し、更に頭に迷い 還た影を認むることをやめよ。

 

正中来

無中に路有り塵埃を出ず、但だ能く当今の諱(いみな)に触れずんば、也た前朝の断舌の才に勝れり。

 

偏中至

両刃鋒を交えて避くるをもちいず、好手還って火のなかの蓮に同じ、  宛然として自ずから衝天の気有り。

 

兼中到

有無に落ちず誰か敢て和せん、人人尽く常流を出でんとほっす、折合して炭裏に還り帰して坐す。 

洞山五位

 

 

電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)【注2】

乾坤孤筇卓無地

【乾坤(けんこん)地として孤筇(こきょう)を卓(た)つる無し】

喜得人空法亦空

【喜び得たり人空(にんくう)法も亦(また)空】

珍重大元三尺劍

【珍重(ちんちょう)す大元(おおもと)三尺(さんじゃく)の劍(けん)】

電光影裏斬春風

【電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬る】

無学祖元 - Wikipedia

無學祖元 - 维基百科,自由的百科全书

禅語「電光影裏斬春風」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

 

【参考】1880年(明治13年) / 明治時代年表

 

 

 

【雑感】 

 

痛ましい事件です。無残に命を落とした上村遼太君の無念さを思うと心が張り裂けそうです。ご冥福を心よりお祈りします。

 

事件翌日LINEに「何でこうなったんだよ」

3月1日 18時39分

川崎市の男子中学生が殺害された事件で、逮捕された少年3人のうち、事件の翌日、17歳の1人の名前でインターネットのLINEに「何でこうなったんだよ」などと書き込みがあったことが分かりました。17歳の2人は「18歳の少年の指示で中学生の服を燃やした」などと話していることが捜査関係者への取材で分かり、警察は書き込みがあったいきさつなどを慎重に調べています。
川崎市の中学1年生、上村遼太さん(13)は、先月20日、多摩川の河川敷で首を刃物で刺されて殺害され、警察は18歳と17歳の少年2人の合わせて3人を殺人の疑いで逮捕しました。
事件が起きた翌日、17歳の1人の名前で、インターネットのLINEに「何でこうなったんだよ」とか「もう俺のせいだよ」「もう会えないと思うとめっちゃ悲しいよ」などと書き込みがあったことが分かりました。
この事件では、現場近くの公園のトイレで、上村さんの衣服や靴が燃やされていますが、捜査関係者への取材で17歳の2人は殺害への関与を否認する一方、このうちの1人が「18歳の少年の指示でライターで火をつけて燃やした」と供述し、もう1人も同じ内容の供述をしているということです。警察は書き込みがあったいきさつなどを慎重に調べています。事件について18歳の少年は「当時のことは今は話さない」と答えているということです。


事件翌日LINEに「何でこうなったんだよ」 NHKニュース

 

遊びの誘い知り中学生呼び出したか

3月2日 4時59分

川崎市で中学生が殺害され少年3人が逮捕された事件で、事件前日の夜、3人が一緒に居たときに、このうちの1人に中学生からLINEで遊びの誘いがあり、これを知ったリーダー格の18歳の少年が指示して中学生を呼び出したとみられることが、捜査関係者への取材で分かりました。警察は、供述を慎重に突き合わせ、いきさつを調べています。
川崎市の中学1年生、上村遼太さん(13)は先月20日、多摩川の河川敷で首を刃物で刺されて殺害され、警察は知り合いの少年3人を殺人の疑いで逮捕しました。
これまでの調べによりますと、事件が起きる前日の夜、3人が一緒に居て酒を飲んでいたとき、上村さんから17歳の1人にLINEで「先輩遊びましょう」とメッセージが届きました。18歳の少年がメッセージの相手を問いただし上村さんと分かると、指示して呼び出したとみられることが、捜査関係者への取材で分かりました。
18歳の少年はことし1月、上村さんに暴行したことで、この日の1週間前、別のグループに家に押しかけられ謝罪を求められる騒動が起きたばかりでした。警察は、この騒動をきっかけに、18歳の少年が上村さんを逆恨みするようになったとみています。
調べに対し、17歳の2人はともに殺害への関与を否定し、このうちの1人は「18歳の少年が刺した」と話しているほか、18歳の少年は「当時のことは今は話さない」と答えているということです。警察は、3人の供述を慎重に突き合わせ、上村さんを呼び出した状況や現場でのいきさつなどを詳しく調べています。


遊びの誘い知り中学生呼び出したか NHKニュース

 

私たちの少年の頃の日本ではあり得ない事件です。18歳の高校生が複数でよってたかって中学1年生をなぶり殺すなんて全くもってあり得ない。

 

おい!その辺にしておけ
集団を作ると上に立つ者が必ずいた
暴走しないように歯止めをかけた


( - ゛-) ぱふ


そういう奴がいたから不良はまとまる
上に立つ者を優遇し責任を持たす
大人がやってたことだ


リーダーとして育てるのです
不良もそうだった


川崎中1殺人事件
不良は後輩をシメるのがお仕事
イイ悪いはともかくとしてね


土手に呼び出しシメる
よくあるパターンなんだけど
不思議なのはなんで殺したのだ?


普通は誰か止める
後輩をシメるのは下っ端である
上の人間は下っ端にシメさせるだけ


後輩を直接シメることはない
役割としてはイイ人を演じられます


「おい!その辺でやめとけ」


そう言って後輩に慕われる
怖い役と懐の深い役を演じるのです
自然にそうなる


そうしないと地域を束ねられない
これは重要なんだよね


恐怖だけで支配する
そうすると殺し合いに必ずなる
殺さなければ逆に殺されるからね


元々恐怖で支配しようとするやり方
これは朝鮮半島や中国の文化だ
日本の文化ではない


日本人は心理による統治
このやり方がうまい民族である
リーダーの資質のある人を伸ばした
大人も応援し学ばせたのだ


もし川崎中1殺人事件
日本の伝統を受け継ぐ不良がいたら
殺しまでは行かなかっただろう


古い日本は不良にも美学を入れた
積極的に文化レベルまで高めた


現在の日本の不良
外国のギャングでしかない
恐怖でしか人と接することができない
嫌われ者である


朝鮮人のマネはやめとけ
日本の不良のスタイルを教えるべき


昔は地域のやんちゃなおっさん
そう言う人が若い不良を束ねてた
地域から阻害されんように導いてた


そういう役割があったから
もめごとをそう言う人に頼んだ
大抵商売していた


地域に役立つ人になってたから
お店は地域の人で繁盛してた
みんなが利用してた


平等教育で失敗したな


縛って一方的に暴力をする
イスラム国ゴッコか知らないけど
日本人は後輩をシメるにも
こんなやり方はしない


お手本がいなくなったのだ
その結果程度の低い奴らが壊れた
メディアの影響だけを受けた


壊したのはリベラルなんだけど
保守もかなりヒドいからね
当然かな

ひとりごと: 川崎中1殺人の防ぎ方

 

古き良き日本はもはや存在しないのかもしれない。日本では有史以来行われて来なかった恐怖による支配が身近に迫っている。その恐怖での支配に対抗するにはどうすれば良いのだろうか?

 

正にこの無学祖元の電光影裏斬春風(でんこうえいりしゅんぷうをきる)の句の中にヒントがある。

 

乾坤孤筇卓無地

【乾坤(けんこん)地として孤筇(こきょう)を卓(た)つる無し】

喜得人空法亦空

【喜び得たり人空(にんくう)法も亦(また)空】

珍重大元三尺劍

【珍重(ちんちょう)す大元(おおもと)三尺(さんじゃく)の劍(けん)】

電光影裏斬春風

【電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬る】

 

 

【私的解釈】

この広大無辺な大地の中で、お前達「元」の武力による支配に屈して安寧する身などありやしない。

 

私は幸いに一切皆空の真理を会得することが出来たので、この世に執着するものなど何一つもない。ただの心境なのだ。

 

私を斬ると言うけれど、言ってみればお前が持つその珍しい大刀も『空』、私も『空』。空で空を斬ることなど出来るわけがないのだ。

 

あたかも稲妻がピカリと瞬(またた)いて、春風を斬るようなものではないか。さぞかし、手応えの無いことだろうよ!

 

死ぬもよし、生きるもよし、どうぞ自由にこの坊主の首を斬るのならば斬れば良い、さぁ斬りなさい!

 

 

 この句は次のような状況で読まれた。

鎌倉円覚寺開山かいさん仏光ぶっこう国師は名は祖元そげん、別に無学むがくと号し、いわゆる南宋なんそうの末期、モンゴル民族のげんの中国征服が着実に進みつつある時代に生まれ、十余歳にして径山きんざん無準ぶじゅん和尚に弟子入りし、研鑚けんさんすること数年、ついに禅定ようやく熟して、師の法を嗣ぐに至ったのです。師の禅定の深さについては古来より評が高く、あるときなど、禅定に入ったまま、三日三晩、木仏の如く微動だにすることなく、ついにこれを見た僧たちは師が死んだのではないかと疑い、近くに寄って見ると微かに息をしていたので安心したという逸話も伝わっているほどです。


後に台州だいしゅう真如寺しんにょじに住しましたが、南下した元の兵が国土を蹂躙じゅうりんし、至るところで乱暴狼藉ろうぜきを働く噂を聞いて、温州うんしゅう能仁寺のうじんじに難をのがれます。しかし、元軍の侵攻は急で揚子江を渡り、温州に攻め入り能仁寺にも乱入して来ます。一山の僧たちは逃げまどうけれども、無学祖元禅師、ただ一人踏み止まります。


禅堂にどっかと坐り禅定ぜんじょう三昧ざんまいに入って、泰然たいぜん自若じじゃく、動ずる気配もありません。群がり囲んだ元兵の一人が大刀をふるって、師の首に当て、「坊主!て!」と怒鳴ります。そこで初めて禅定を出た禅師は、やおら、一円相いちえんそうを描いて静かに上述の句を唱えます。

 

すると、さすがの乱暴者も師の生氣に圧せられて、振り上げた大刀を収めてそそくさと退散したのです。

 

そう、恐怖の支配には生氣で対抗する、これが東洋の伝統なのだ。

 

ちなみに上の詩は臨刃偈(りんじんげ)と呼ばれ、唱えた無学祖元は後に鎌倉幕府執権北条時宗に請われ日本にやって来て、北条時宗の生氣を涵養させる師となった。そして、後の元寇での蒙古襲来を予言するなど時宗の蒙古撃破を精神面で支えたのである。

 

生氣とは何か?言葉にすると陳腐であるが「公明正大に事を行う気概」となろう。生氣については古来から詩となり今に伝わっている。

藤田東湖 『正氣の歌』 - まどゐ。

吉田松陰 『正氣の歌』 - まどゐ。

文天祥『正氣の歌』 - まどゐ。

 

戦前の子供たちは学校教育で当たり前の如く上の詩に接していたが、戦後の学校教育では上の詩はことごとく排斥された。

 

学校教育を建て直すには相当な時間を要する。となれば、家庭での教育を充実させるしか道は無いであろう。インターネットが普及した現在は教育の環境は家庭でも充分過ぎるほど整っている。

 

後は親のやる気のみである。私自身も一隅を照らして行こうと思う。

 

 

【小泉八雲】怪物禍(か)の物語

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 7日 先勝

        壬申 日/己卯 月/乙未 年 月相 6.1 中潮 

          雨水 次候 霞始靆(かすみはじめてたなびく)

          マヤ長期暦 13.0.2.3.16 マヤ365日暦 9 Kayab  マヤ260日暦 7 Cib

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 5.8℃ 湿度 60% (大阪 6:00時点) 

 

 

小泉八雲は、今の日本人が忘れてしまった「日本人のおもゐ」というものを思い出させてくれる物語を数多く残しています。不定期で小泉八雲の珠玉の作品を紹介して行きたいと思います。

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の正氣を浴びて - まどゐ。

 


小泉八雲の生涯|小泉八雲記念館

 

 

 

百を持てる者は千を望む。千を持てる者は十萬を持たんと欲す。十萬を持てる者は王國の主を望む。王國を持てる者は天界を所持せんと願う。富貴や智慧(恵)の所有者すらも、貪慾(欲)に迷わされて、人の決して為さざるべき事どもを行い、人の決して求むまじき事を求む。・・・さればぞ己が悪しき欲情を養う者どもの為、『法苑珠林』第四十六巻より採りしこの物語をここに記す。

 

日の光今よりも輝しく照り、花の香今よりも芳(かんば)しく、世界の色彩見て今よりも麗しく、神々が地上を歩み居たりし頃に、不幸というもの更に無き或る幸福なる王國ありき。

 

宝玉は又は黄金は、有り余るばかりに多く、収穫は太陽の如くに無尽蔵に、市邑(しゆう)は蟻塚よりも住める者多かりき。戦いというもの無くして経る年余りに永く続きたれば、その國の大なる都会の城壁に草木覆いて、その根の蛇の如き力もてその塁壁の石を離し外しぬ。またその國至る所に黄河の流れの如く絶えざる音楽の幽音聞こえ、快楽の追求を防ぐるはただ眠るのみにて、眠れる者の夢すらも悪夢に暗くせらるることかってあらざりき。病というもの無く、何らの欠乏というもの無く、人各々一百の歳を保ち、死する折は快楽の後に休息を求むる者のごとくに―歓喜の陶酔の後の熟睡の穏やかさをを味わいて―苦痛なく身を横たえるなりしなり。

 

ある日その國の王その顧問と大臣と主な官人(マンダリン)ことごとくを招きて彼等に問うて言いぬ。

 

「聞けよ、我が大寺院の保存さるる或る古き年代記にて読みたるうちに、『古昔禍(か)この國を訪れぬ』という言葉ありき。汝らのうちに禍(か)とは如何ようなる動物にや語り得る者ありや。禍(か)とは如何なる物になぞらえ得べきや」

 

されど、顧問と大臣と官人とは全て答えぬ。

 

「王よ、我らは未だかってそれを見たることあらじ、また如何ようなる動物なるべきか言うこと叶わじ」

 

ここにおいて王はその大臣の一人に命じ、己が國より小さき國々を訪ね、禍(か)とは如何ようなる動物かを尋ね、もし買い得るものならんには―その値一国の値ならんとも―如何なる値にても求めしめぬ。

 

ここにある天神あり。この事を見かつ聞きて、直ちに化して人間と成り、鉄の鎖にて繋がりし禍(か)を伴ないて、隣れる一王國の最も大なる市場に赴きぬ。禍(か)の形状は巨大なる猪の形状なりき。かくしてこの大臣その隣国なる市場を訪ね、そこなる柱に繋がれたるその動物を認めて、そは何と名付くる動物にやとその天神に尋ねぬ。

 

「禍(か)の母と呼ぶもの」と天神は言いぬ。

 

「売らんとにや」と大臣は問いぬ。

 

「さなり」と天神は答えぬ。

 

「値は」

 

「黄金百萬片」

 

「日々の食は何ぞ」

 

「縫い針二斗」

 

山吹色なる純良の黄金百萬片を払いてその動物を得たる後、大臣は強いてもそが為に食物を得ざるべからずなりぬ。されば縫い針を手に入れんと、あらゆる市場に、また仕立て物師と織物師との店に、また國内なるあらゆる地方のあらゆる官人に使者を送りぬ。この為多大な災難、縫い針の乏しきが為のみならず、國人が被る苦痛の為に、この國土に出来しぬ。縫い針を持たざる者は竹もて打たれ、官人は王の大臣の命に従わんと欲して過酷なる事多く行いたればなり。縫い針にて生ける仕立て師どもはやがて憐れなる身となりぬ。また縫い針造る者どもは、努めんとはすれど、過労の為に死する者は多かりしが、かの動物の飢えを満たさん量を造ることは叶わざりき。縫い針一本の値あまたの緑玉金剛石の値の如くなり、富める者は、その口地獄の口の如くに満たさるることあり得ざるこの獣の食物得んとて、その財産全てを没収されぬ。かくて諸州の人々、飢餓の為官人の過酷なるが為、自ら捨てて立ちて反乱し、人命幾千万を損ずる戦争を起こしぬ。川は血に流れぬ。されどかの大臣は、それに食いましめん縫い針の足らざるが為にその獣を宮殿に伴い帰ること叶わざりき。

 

かかりければ彼は國王に一書を送りて言いぬ。

 

「禍(か)は我その母なるものを見出して買い求むることは為し得しも、父なるものは之を得ること能わざりき、また陛下の許容を得て之を探すことは為さざるべし。思い給え、その母なるものは早(はや)この國の物質(もの)を食い尽くしたり。かかる怪物を宮殿に伴なわんこと我これを試むることをえせじ。されば余は陛下に願う、この恐ろしの獣を殺さん許可を我に与え給わんことを。余は陛下が印度の賢者の言を記憶し給わんことを信ず、『忠言に耳藉(か)さんと欲せざる王なりとも信実なる顧問の言をば聞くべきなり』との」

 

國王は既に飢饉と革命とに恐れを抱けることとて、即その獣を殺すべしと命じぬ。

 

かくして禍(か)の母はその村の外なる人気無き所に引き出され、鉄の鎖にてしかと繋がれぬ。かの大臣は屠殺者にそを殺せと命じぬ。されどもその皮堅くして刃(やいば)を迎えず、斧も刀もそを傷つけること叶わざりき。されば兵士に命じてそを殺さしめぬ。されど射手の矢はその眼に射当てつるもその鋼の尖(せん)は平たく鈍りつ、眼は金剛石の如く輝きまた硬かりき。またそを殺さんとの愚かの努力に折れ砕けたる劔(つるぎ)と槍とは数限りなかりき。

 

かくて大臣は大なる火をつくらしめ、その火の裡(うち)にその怪物を縛り、瀝青(れきせい)と油と脂多き木材とを山とその火の上に積み上げしかば、火は熱く燃え上がりて、人はそを隔たること十里の内に近寄ること叶わずなりぬ。しかるにその獣は焼くること無く、月のごとく輝きて初め赤熱となり後白熱となりぬ。その鎖は蝋(ろう)のごとく溶けたれば、その獣は遂に脱し出て火龍のごとくに國人の中に走り出でぬ。かくて焼け死にたる人多かりしが、かの獣は村に入りて村を破滅し、市に入りて市を破滅し、進むにつれていよいよその熱を増して尚も疾(と)く走りて首府に入り来たり、その中を貫き走りまたその上を屋根の上を走り過ぎ、その宮殿なる國王すらも燃やし尽くしぬ。

 

かくてこの國王の愚かなるが為、その王國は荒廃破滅し、ただ蜥蜴(とかげ)と蛇と悪鬼とが住む一砂漠となりぬ。・・・

 

小泉八雲全集』より

 

 

 

【雑感】

 

この2枚の写真を見て欲しい。韓国の成人式の様子である。

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違和感を感じませんか?私は嫌悪感や気持ち悪さを感じてしょうがなかったです。

 

何故真ん中の女性のみ顔を露(あら)わにしているのでしょうか?たまたまの出来事では無く、意図的にこの女性だけの顔だけを露(あら)わにし、他の女性の顔を隠したりボカしたりしているのが分かると思います。

 

私の意見に疑いを持たれる方々、では、この写真をみた感想を教えて下さい。

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私はここに女性の容姿に対する差別的な意図を感じました。この記事(中日韓の女性の成人式を比較_中国網_日本語)からの引用ですので他の写真や中国、日本の写真と比べてみて下さい。

 

奇皇后 ―ふたつの愛 涙の誓い―|NHK BSプレミアム 海外ドラマ

 

 

ちょうど、良いタイミングでこのドラマをNHKで流しています。

 

奇皇后 - Wikipediaを一読してみてください。

 

この物語は女性を物として扱った貢女(こうじょ)のお話に過ぎないのです。こんな物語を嬉々としてテレビドラマに仕立てる精神を私は理解することが出来ません。

貢女朝鮮語: 공녀、コンニョ)とは、一般に女性を朝貢品の1つとして献上することである。朝鮮時代においても続いていたが、ここでは高麗からの場合のみを説明する。高麗時代の献上先は蒙古()、契丹であり、貢女だけでなく多くの朝貢を強いられていた。

 

この史実から韓国は伝統的に女性には容姿端麗が求められていることが分かると思います。だからこそ、美容整形が国の観光産業とまでになっているのです。


韓国整形観光協会 韓国美容整形・自毛植毛・美容外科

 

 

今、韓国人の反日思想と日本人の嫌韓思想で両国は対立の真っ最中です。上の例を見るまでもなく、日本人の価値観の対極にいるのが韓国人だと私は思っています。まさに日本にとって小泉八雲の上の物語の『怪物禍(か)』が韓国という国なのです。

 

日本人は朝鮮と日本との関係史を自らの意志で学ぶべきだと思います。間違っても学校教育とマスコミの教えを鵜呑みにしてはいけないです。

 

女性を物として扱っていた史実のある国から日本は性奴隷の国だとか何とか言われたくないですね。

 

なぜ、日本の嫌韓感情は極端に流れるのか?

カン・ギルソン全北大学BIN融合工学科教授

2015.02.25  10:46:13

 

最近、日本の韓国に対する感情が極端な嫌韓に走る異常を見せている。特に隣接する国々の史実をも無視し、決して認めることのない行動を一貫している。その理由は何だろうか?

 

まず、韓日関係を古代史から見てみよう。日本の源流は西暦660年に遡る。新羅と唐の連合軍の侵略により滅びた百済王族とその豪族は難民となって金剛を後にして、後の復興を夢見て日本に一時避難する。

 

しかし、その復興軍さえ663年に白村江(今の金剛河口堰)の戦いで完全敗北することになる。日本書記ではこの時の様子を次のように記述している。 「百済という名前も今日で終わりだ。ご先祖様の墓地を再び訪れることが出来るであろうか? 」と。

 

そうなのだ。倭(日本)から見れば、私たちが住む朝鮮半島は彼等の先祖の国なのである。日本人の心の中では、韓国は今もご先祖様が眠る国であり、ここから一種のコンプレックスが生じ、今の韓日関係に影響を与えているのである。

 

とにかく百済王族の難民とご先祖様の国(韓国)との縁はこれで完全に途絶えたのである。そして、彼等は倭の最高権力者である天皇一家と合流して倭を支配することとなる。それにより、倭は統一新羅を始め高麗·朝鮮からのあらゆる文化や経済の知恵を学ぶこととなった。以後、朝鮮を師匠の国、先輩の国として仕えるようになったのだ。

 

そして、15世紀初頭にポルトガル商人に会って欧州先進技術に接するようになる。烏銃という新兵器を手に入れた豊臣秀吉が日本を統一した後、各派閥(大名)間の内部対立の葛藤を払拭させようとして壬辰倭乱つまり、自分たちの過去の土地を探し、奪還する為に壬辰の乱を起こしたのだ。

 

1867年に明治維新が起こり、再び征韓論が台頭した。この時まで朝鮮は師匠の国、援助を与える国だったにもかかわらずにだ。帝国主義のもとで外国の技術を受け入れながら、李朝鮮を征服しなくては、つまり韓国を追い越さなければ、日本の未来はないという事実を知ったのだ。

 

一方で、明治維新直後に日本はアジア各国にスパイを送り各国の情報を収集し、満州の原野に広開土大王碑があることを知り、この碑文を書き換えて、朝鮮半島伽揶地域が日本の植民地であった任那日本府であったという漫画のような主張をすることになるのだ。

 

また、石上神宮に保管されている七支刀に彫られた60文字を作為的に解釈して、倭が百済から贈られた物であると操作した。そして、三国遺事三国史記などは信じるに値しないものであり、日本書紀の記述だけが信じられると主張し、征韓論の口実をでっち上げたのだ。結局は、脱亜入欧をスローガンにして韓国と中国を植民地化し、アジアの盟主を自任するようになる。

 

私たちが住む朝鮮半島を日本の一部として考えている最も典型的な出来事が、公州扶余一帯に日本の天皇墓を移そうとまでしたことであり、これは単なる征韓ではなく、自分たちの昔の地を取り戻そうとする領土回復の野心の現れであった​​。

 

明治維新から現在までの約150年を日本はアジアの盟主と自任して来たが、最近、韓国の政治·経済が発展し中国も大国に発展する一方で、逆に日本の代表企業であるソニーをはじめとする多くの企業が、サムスンをはじめとするいくつかの中国や韓国の企業に制圧されることとなった。この出来事により、日本人に明治維新以前の古代·中世史の悪夢が蘇ることとなったのだ。

 

さらに、最近、日本では自然災害が続出し、これにより日本人の不満と不安が限界に近づいた。これにより、彼ら自身の問題を外部に責任転嫁して見ないでおこうとする特有の島国根性がよみがえったのだ。つまり、独島をはじめ諸問題に無理難題を吹っかけて来て、韓国が上手く行っていることを妬ましく思って牽制しているのである。つまり、日本人の中に内在している一種のコンプレックスの露出なのである。

 

数日後に96回目の3・1節を迎える。今、私たち大韓民国国民は克日 ·抗日を超えて、私たち自身が壬辰の乱以前の大国に戻らなければならない。少なくとも日本に対しては、師匠の国・祖先の国・両親の国そして日本の源流の国であることに立ち返り、私たちの度量·謹厳さを示さなければならない。 

 


[새바람] 일본인들의 반한감정은 왜 극단적으로 흐르는가? - 전민일보

 

この記事を読んでみても韓国と日本の世界観が対極にあるのが分かると思います。今後どう運んでもこの双方の世界観が融和することがないことは明らかだと思います。そして、日本に対する韓国の視線には、視野狭窄した何とも言えない気持ち悪さを感じることと思います。

 

これに対抗するには、人間関係と同じように韓国とは適度の距離を保ち、関わらないことを徹底する。簡単に言ってしまえば無視していればいいのです。この世界には韓国と日本しか国が存在しないわけではないのですから。

 

相当の期間日本と韓国との首脳会談が実施されていないにもかかわらず、我々の生活に支障は出て来ていません。逆に日本の株価は上昇を続けています。このことからも韓国の存在など眼中に入れる必要が全くないのです。下手に眼中に入れるから感情が乱されるだけなのです。

 

以後、当ブログでも韓国の存在を黙殺して行きたいと思っています。

 

 

【2015年3月11日追記】

韓国人の歴史認識は一体どうなっているのだろうか?色々と調べてみて上の大学教授の見解が史実と大きくかけ離れているのでここに記録しておく。

明治維新直後に日本はアジア各国にスパイを送り各国の情報を収集し、満州の原野に広開土大王碑があることを知り、この碑文を書き換えて、朝鮮半島伽揶地域が日本の植民地であった任那日本府であったという漫画のような主張をすることになるのだ。

 

この主張に対して、調べてみると史実はこうであった。

【史実】

1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信参謀本部に持ち帰った資料の中に、好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。その後、参謀本部で碑文解読に当たったのは文官である青江秀横井忠直であり、これが倭の五王以前の古代日本を知る重要史料とわかったため、漢文学者の川田剛丸山作楽井上頼圀らの考証を経て、1888年(明治21年)末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。

 

 

【酒匂本を研究対象にした在日コリアンの考古学、歴史学者の李進熙が唱えた、旧大日本帝国陸軍による改竄・捏造説】

 

その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は

百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民

百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済倭寇新羅を破って臣民とした。〉

と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗百済新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。

 

しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済新羅朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。

 

これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された[9]

 

1974年(昭和49年)に上田正昭北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった[10]

 

その後、2005年(平成17年)6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一であるとされた。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され[11]、これにより改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。

 

東北大学名誉教授関晃は「一介の砲兵中尉にそのような学力があったとはとうてい考えられないし、また酒匂中尉は特務機関として行動していたのであるから、そのような人目を惹くようなことができるはずもない」と述べ、改竄・捏造説を否定している[要出典]。

 

なお、この説が唱えられる以前の1963年(昭和38年)、北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、同国の調査団が現地で調査を実施した結果、改竄とは言えないという結論を出した[12]

 

次に以下の記述である。

石上神宮に保管されている七支刀に彫られた60文字を作為的に解釈して、百済が倭に贈った物であると操作した。 

学会の定説は、

銘文についてはこれまで様々な研究がなされてきた。銘文の判読はもちろん、彫られた場所についても「表は東晋で鋳造された際に刻まれ、裏は百済で刻まれた」などの説もある。しかし内容は「百済王が倭王に贈った」との解釈が定説とされ、当時の背景として、高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟を求め、贈られたとされている。

七支刀 - Wikipedia

 とされ、大学教授が主張していることは定説ではないことが分かる。

 

韓国の教授が主張していることは余りにも一方的なのだ。本来、学説に争いがある所はその旨を明らかにするか、両論を併記してから自分の考えを主張すべきだと思うのだが、全くその配慮が見られない。大学教授がこういう論理を展開しているのである。

 

全くもって話にならない。相手にするだけ時間の無駄である。こういうヤカラは無視するに限る。

 

【二宮翁夜話 巻之一 三十一】 一言を聽きて勤惰を知る

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 6日 赤口 

        辛未 日/己卯 月/乙未 年 月相 5.1 中潮 

          雨水 次候 霞始靆(かすみはじめてたなびく)

          マヤ長期暦 13.0.2.3.15 マヤ365日暦 8 Kayab  マヤ260日暦 6 Men

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 7.1℃ 湿度 50% (大阪 6:00時点) 

 

 

 

翁曰く、一言を聽いても、人の勤惰は分かるもの也。

 

東京は水さへ錢が出るを云ふは、懶惰者(らんだしゃ)なり。水を賣りても錢が取れるといふは勉强人なり。夜は未だ九時なるに十時だと云ふ者は、寝たがる奴なり。未だ九時前なりと云ふは、勉强心のある奴なり。

 

すべての事、下に目を付け、下に比較する者は、必ず下り向の懶惰者(らんだしゃ)なり。たとへば碁を打って遊ぶものは、酒を飲むよりよろし、酒を呑むは博奕(ばくえき)よりよろしと云ふが如し。上に目を付け上に比較する者は、必ず上り向なり。

 

古語に、一言以て知とし一言以て不知とすとあり(*)。うべなるかな。

 

 

 

【私的解釈】

 

尊徳翁が言われた。

 

「一言を聞くだけでその人物が勤勉であるか怠惰であるかが分かるものだ」と。

 

東京は水を飲むのにも金がいると言う者は怠惰な者である。水を売ってもお金を稼ぐことが出来ると言う者は勉強人である。夜がまだ九時なのに十時だという者は寝たがる怠惰な奴である。まだ九時前であると言う者は勉強熱心な奴である。

 

あらゆる事象の下層に目を遣り、自分より下層で起こっている事象と自分のいる場所で起こる事象を比較する者は、人生の下り坂を転げ落ちて行く怠け者である。例えば、碁を打って遊ぶのは酒を飲むよりは良いことだとか、酒を呑むのは博打にはまるよりは良いことだとか言うようなヤカラのことである。逆に自分より上層部の事象と自分の周りの事象を比較する者は 、人生の階段を着実に登っている際中の勉強人である。

 

いにしえの言葉に「一言でも良いことを言えば、自分が物を知っているとうことを人に認められるし、一言でも間違ったことを言えば、自分が愚かであるということを人に見透かされるのである」とあるが、言い得て妙である。

 

 

 

古語に、一言以て知とし一言以て不知とすとあり(*)

陳子禽謂子貢曰、子爲恭也、仲尼豈賢於子乎。

子貢曰、君子一言以爲知、一言以爲不知。

言不可不愼也。

夫子之不可及也、猶天之不可階而升也。

夫子得邦家者、所謂立之斯立、道之斯行、綏之斯來、動之斯和。

其生也榮、其死也哀、如之何其可及也。

論語 子張第十九】

 

 

(書き下し文)

陳子禽(ちょうしきん)子貢(しこう)謂(い)って曰く、子の恭(きょう)をなすや、仲尼(ちゅうじ)も豈(あに)子より賢(まさ)らんや。

 

子貢曰く、君子は一言(いちげん)を以(もって)知(ち)と爲(な)し、一言を以て不知(ふち)と爲す。

 

言(げん)は愼(つつしま)ざるべからざるなり。

 

夫子(ふうし)の及(およ)ぶべからざるや、猶(なお)天(てん)の階(かい)して升(のぼ)るべからざるがごときなり。

 

夫子にして邦家(ほうか)を得(え)ば、所謂(いわゆる)之(これ)を立(た)つれば斯(ここ)に立ち、之を道(みちびけ)ば斯に行き、之を綏(やす)んずれば斯に來(き)たり、之を動(うご)かせば斯に和(わ)するなり。

 

其(そ)の生(せい)や榮(えい)、其の死や哀(あい)、之を如何(いかん)ぞ其れ及ぶべけんや。

 

 

経書大講による解釈】

これもやはり子貢が自分の師である孔子を言葉を尽くして称えまして、自分の平生より心服している心持ちを表したのであります。

 

陳子禽(ちょうしきん)という人が子貢に言うには、あなたは『恭を爲す(実に立派な行いをしていらっしゃる、礼を実行している)』方である。あなたの師の孔子でも、あなたより上と言うことは出来ないであろう。

 

こう言って誉めたところが子貢が言うには、そういう途方も無いことを言うものではない。君子たる者は一言でも良いことを言えば、自分が物を知っているとうことを人に認められるし、一言でも間違ったことを言えば、自分が愚かであるということを人に見透かされるのである。それだから言葉というものは慎まなければならない。

 

あなたは私を師の孔子よりも上だと言われるが、そういうことはこれから慎んで言わないようにしてもらいたいものである。先生の孔子という方は実に我々の及ぶべからざる方である。丁度天が高く到底登ることが出来ないのと同じことである。どんな高い所でもハシゴを掛ければ上まで登ることが出来るのであるけれども、天に届くハシゴというものは無い。ハシゴを掛けて天に登ろうと思っても、到底登ることは出来ない。それと同じことで、孔子に勝る者になろうなどと思っても、到底出来ることでは無いので、そういうことを仮にも考えるべきではない。もし自分の先生の孔子が国の一番重要な地位に立って、一国の政治をことごとく任されるということになったならば、必ずや仁政を行って、人民全体を満足させるに違いない。

 

すなわち『之を立つる』というのは人民に教えを与えて、人民の毎日の行いをこういう標準でなければならぬということを教えれば、『斯(ここ)に立つ【その教えが実行されて、人民は皆その教えられる通りになる】』のである。また『之を道(みちび)く【人民を導いて】』、どういう仕事をしなければならぬとか、国の為にこういう風に尽くせとかいうようなことを教えれば、人民はその導かれた通りの道を歩いて行って、国家に貢献することが出来るのである。

 

また、人民を安んずる為に仁政を行うことが相当の歳月を経れば、人民は皆その仁政に懐いて、自分の国ばかりではない、他の国の者までも皆その徳を慕ってやって来るようになるのである。

 

また、『之を動かす』すなわち人民を働かせることとなれば、その指摘に少しの無理が無いから、皆和合一致して、喜んで働くようになるのである。

 

これだけの働きは自分の師である孔子には必ず出来るのであって、こういう人が一日でも長く生きていられるということは全ての人の幸せであるり、またこういう人がもし死ぬならば、一国が挙って悲しむべきである。実に偉大な人であって、到底他の者が追い付こうと思っても追い付かれるものではない。しかるに孔子よりも弟子である自分の方が勝っているなどということを言うのは誠に法外なことで、これからはそういうことは決して言わないようにしてもらいたいと思いまして、平生自分がいかに師である孔子を敬服しているかということを遺憾なく申したのであります。

 

 

 

【雑感】

 

こちら【衆議院インターネット審議中継】から民主党 山井和則氏の発言をお聞き下さい。何やら相当エキサイトしております。

 

安倍首相:「日教組」やじを陳謝 不用意発言で批判を増幅

毎日新聞 2015年02月23日 21時24分(最終更新 02月24日 01時00分)

 

◇西川氏追及かわしが裏目に

安倍晋三首相は23日の衆院予算委員会で、日本教職員組合日教組)を巡る自身のやじを陳謝した。民主党を同じ土俵に引きずり込んで西川公也農相の献金問題への追及をかわそうとしたが、不用意な発言でかえって批判を増幅させた。西川氏は同日辞任。自民党「1強」のゆるみが与党の今後の国会運営に影響する可能性が出てきた。

 

発端は19日の衆院予算委。民主党玉木雄一郎氏が西川氏の政党支部への献金問題を取り上げていたさなか、首相は「日教組はやっている」と答弁席からやじを飛ばした。自民党大島理森予算委員長が「静かに」と制止しても、首相は「日教組はどうするのか」と言葉を重ねた。さらに翌20日の予算委で民主党前原誠司氏から謝罪を求められると、「日教組が(国から)補助金をもらい、(日本)教育会館から献金をもらっている民主党議員がいる」と主張した。

 

首相は23日の予算委でも日教組出身の民主党の神本美恵子参院議員の実名を挙げ、文部科学政務官時代に「教育会館という隠れみのではなく、日教組からダイレクトに献金をもらっていた」「日教組からパーティー券(購入)を受けていた」と批判した。

 

首相はこれまで西川氏の献金問題について「政治資金規正法上は問題ない」との認識を示してきた。日教組民主党の関係を繰り返し批判したのは、同党へのけん制だ。

 

しかし、首相のやじや国会答弁には事実関係に誤りがあり、かえって民主党に付け入る隙(すき)を与えた格好になった。同党は(1)日教組補助金をもらっていない(2)日本教育会館は献金していない(3)神本氏は政務官時代に政治資金パーティーを開催していない−−と反論している。

 

首相は23日の予算委で「先般の前原委員の質問に対する答弁の中に正確性を欠く発言があった」と認めた。民主党山井和則氏から「教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいるという答弁は間違いか」と詰め寄られ、「献金をもらっていたかどうかは詳細に調べてみないと分からない」と根拠なく発言したことを自ら告白する場面もあった。

 

午前中の予算委で防戦に回った首相は午後、民主党後藤祐一氏が西川氏の問題を「七つの大罪」と表現したのに対し、「大罪という言葉は取り消した方がいい」と反撃を試みた。論戦は泥仕合になりかけたが、後藤氏は「ちょっと強い言葉を使ったことは謝罪する。私は言い過ぎたことを謝罪する見識は持ち合わせているつもりだ」と切り返し、首相を皮肉った。

 

「首相のやじが(過去に)あんまり多くないのは事実だ」。自民党谷垣禎一幹事長は23日の記者会見で、首相にやんわりと苦言を呈した。【福岡静哉、水脇友輔】

安倍首相:「日教組」やじを陳謝 不用意発言で批判を増幅 - 毎日新聞

 

 

動画の 1:31:15からの下村文部科学大臣の発言はこう言っている。

 

民主党の議員が日教組からですね、政治献金をもらったということはですね、今までもあります。一つはですね、、、、(民主党からのヤジで答弁を妨害される)日教組関係から寄付金をもらった事例はあります」

 

これに対して、山井氏は、

 

「委員長、委員長、教育会館から献金をもらっている議員が民主党におられるということを安倍総理は答弁をされたんです。その事実関係!」

 

と述べている。

 

 

山井氏や民主党は総理大臣のヤジを批難しときながら、下村文部科学大臣日教組から献金を受けている件の詳細を述べようとするとヤジで答弁を妨害して述べさせなくしている。自分たちに都合が悪いことはヤジで答弁を妨害して言論を封じでいるのである。

 

そして、上の毎日新聞の記事は民主党民主党の議員が日教組から献金を受けている事実があるというこのやりとりに関しては全く触れていない。

 

もうね。いいかげんにしていただきたいですね。。。。。

 

 

上で二宮尊徳翁が言われている

 

一言以て知とし一言以て不知とす(一言でも良いことを言えば、自分が物を知っているとうことを人に認められるし、一言でも間違ったことを言えば、自分が愚かであるということを人に見透かされるのである)

 

の格好の事例としてここに記録しておく。

 

【二宮翁夜話 巻之一 三十】 靑木村の件

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 3日 先負 

        戊辰 日/己卯 月/乙未 年 月相 2.1 三日月 大潮 

          雨水 初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)

          マヤ長期暦 13.0.2.3.12 マヤ365日暦 5 Kayab  マヤ260日暦 3 Eb

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 1.1℃ 湿度 47% (大阪 6:00時点)  

 

 

 

常陸國靑木村のために、力を盡くせりし事は、豫が兄大澤勇助が、烏山藩の菅谷某と謀りて起草し、小田某に托し、漢文にせし、靑木村興復起事の通りなれば、今贅(ぜい)せず。

 

扠(さて)年を經て翁其の近村灰塚村の、興復方法を扱はれし時、靑木村、舊年(きゅうねん)の報恩の爲にとて、冥加人足と唱へ、每戸一人づつ無賃にて勤む。

 

翁是を檢して、後に曰く、今日來り勤むる處の人夫、過半二三男の輩にして、我が往年厚く撫育せし者にあらず。是表に報恩の道を飾るといへども、内情如何を知るべからず、されば我此の冥加人夫を出せしを悅ばずと。

 

靑木村地頭の用心某、是を聞きて我能說諭せんと云ふ。翁是を止めて曰く、是れ道にあらず、縱令内情如何にありとも、彼舊恩を報いん爲とて、無賃にて數十人の人夫を出せり、内情の如何を置いて、稱せずばあるべからず。且薄に應づるには厚を以てすべし、是れ則ち道なりとて人夫を招き、舊恩の冥加として、遠路出で來り、無賃にて我が業を助くる、其の奇特を懇々賞し、且謝し過分の賃銀を投與して、歸村を命ぜらる。

 

一日を隔てて村民老若を分たず、皆未明より出で來て、終日休せずして働き賃錢を辭して去る。

 

翁又金若干(そこばく)を贈られたり。

 

 

 

【私的解釈】

 

尊徳翁が常陸の国の青木村の復興の為に尽力された事は、我が兄大澤勇助が烏山(からすやま)藩の菅谷某(なにがし)と相談して起草し、小田某に依頼して漢文にしてもらった『青木村復興起事』の通りであるのでここでは述べない。

 

さて、年が経ち尊徳翁が青木村に近い灰塚村の復興に取り組んでいた時、青木村の村民が積年の報恩の為に各家から一人ずつ無賃にて冥加人足として手伝った。

 

尊徳翁が彼らを指揮して、その後に述べた。

 

「今日手伝いにやってきた人夫たちは、大半が次男三男の男たちであって、私があの当時に撫育した者たちでは無かった。このことは、表面上は報恩の道に添っているように見えるが、内実はどうなっているのかがうかがい知れない。だから私はこのような冥加人夫がやって来たことを悦ばない」と。

 

青木村の地頭の使用人某(なにがし)がこれを聞いて、

 

「私がよく言い含めましょう」

 

と言った。

 

尊徳翁はこれを制止して、

 

「それは道に添わない。たとえ内実がどうであれ彼等は積年の恩に報いる為、数十人の無賃の人夫を出したのである。内情がどうかは置いておいて、その行為を称えなければいけない。『薄に応ずるには厚を以てすべし』、この実践こそが道に添っているのだ」

 

と言って、人夫たちを呼び集め、積年の恩に報いようとして遠路はるばるやって来て、無賃にて私の事業を助けてくれたことは有難いことであると心を込めて賞賛し、感謝の言葉を述べ、多くの賃金を与えて村に帰らせた。

 

その一日後に青木村の村民が老若問わず、皆夜が明けない内からやって来て、終日休まず働いて賃金を受け取ることを辞退して帰って行った。

 

これを受けて、尊徳翁は後に青木村に幾らかのお金を贈られたのである。

 

 

 

青木村復興事業 

青木村は桜町に三里、領内桜川の堰が度々破れて、これを修繕する民力がなく、3、4年前から村民が仕法を二宮金次郎に懇願して来ていたが、機が熟して領主からも願い出て来たのである。

 

二宮金次郎は小田原藩主だけの人物ではなくなったのだった。藩から来る役人も、尊徳を先生と呼ぶと、他郷から入門を望む者も出て来て、『報徳仕法こそ、世直しの新しい教えである』と、信じられ始めた。この道が、仏教や儒教と同じく報徳教の名を以って世に伝わると、各地に報徳講が興されて、今に多くの信徒を持つのは、ここに発して来ているのだった。

 

が、この道は実践から生まれて、実践を以って立つ。難しく言えば、日本思想に根本している独立学派で、経済的倫理学説を持つもの、尊徳はこれに戯れに名をつけて『神儒仏正味一粒丸!』と、自ら言った。

 
「正味とは人界に切用なるをいう」とも言っている。「国に用いれば国病が癒え、その他荒れ地が多いのを憂え患う者がこれを飲めば開拓がなる。負債多きを患う者が飲めば返済がなる。資本の無いことを患う者が飲めば、資本が得られ、家無きを患う者が飲めば家屋が得られ、農具が得られる。その他貧の病、奢りの病、放蕩病、無頼病、怠惰病、皆これを飲んで治らぬものはない。」
 
同じ時代に国学の泰斗、平田篤胤の門人に数えられている佐藤信淵(さとうのぶひろ)が出羽の国に居て、諸藩の政治の立て直しをやり、「農政本論」「天柱記」等を書いた。これと報徳の道はやや同じであるが、人民の実践を説いているところは、政治を建前とする信淵と違っているのだった。
 
どこまでも、この報徳の道は人の行いを元とした。至誠を根として勤労によって得た物を、分度を立てて生活を安泰にし、ここに推譲の実を世のため、人のため、子孫のために諭すのだった。
 
この教えを受けようと、陣屋の門をくぐる者や、仕法を受けて家を立て、村を興し、領地を再復しようとする者も多く、尊徳はこれを諭し、これを励まして、奮起せしめた。
 
ただ、主たる者が居るにもかかわらず、その配下の役人や人民からの懇願だけでは、その仕法を施すことをしなかった。
 
「主に従ってこれを行うのが良いのであって、主に隠し、主に逆らうのは道ではない」と、応じないのだった。
 
が、今青木村の領主村民一致の懇願を聞くと、尊徳はその荒れ地の茅を刈らしめて、これに代償を出し、桜町領内から物井村の名主村民をやって、この茅で社寺の屋根を葺かしめ、更に民屋を葺かしめた。これは、村の野火から火事が起こることの多いのを聞いてこれを防ぎ、敬神の心を失っているのを興し、その上に住居を繕うという、一石三鳥の法なのであった。
 
しかしながら、尊徳は青木村仕法を受けなかった。
 
「止めるが良い。こうした我が方法は、お前達に行えるものではなく、先々苦しみが多いから出来るものではない」
 
と、言うのだった。これには仕法の一端を見せられて歓喜した村民が、落胆して泣かんばかり。
 
「どんな苦労でもします。どうか村の苦しみを救って下さい」
 
と、一生懸命すがっていた。 
 
ここで尊徳は初めて頷くと、村中が一致団結して荒廃した地を先ず拓くのならば、これの出来た時に桜川に丈夫な堰を造って、田水を充分にしてやろうと約束したのだった。青木村の全村民は大いに勇み立つと、長年の間荒廃したまま放ってあった土地を、ほんの1年ほどの間に、大部分元の田に拓いてしまった。あとで、『茅を刈ったのは開田の用意であったのだ』と、初めて皆が悟った。
 
天保4年(西暦1833年)の春、尊徳は初めて青木村に出向いた。開田の早かったことを褒めると、桜川に行って流水の有り様を観察し、平常の数倍の賃金をやって、山から多くの大木や岩石を切り出させ、これを両岸に積み一方で川幅に応じて水の流れの上に茅屋を造らせた。
 
「堰を造らないで家を造る。変なことをする」
 
と、これを笑う者さえあったけれど、尊徳は平然たるもの、既に桜町陣屋に居た時、そこが両岸水底共に灰のような細かい砂地と聞いて、心に計算していたのだ。家が出来ると、誰も恐れて、綱を切って水中に落とす者がないので、進んでこれを切って歩いた。
 
家が一揺れして川に落ちると、尊徳はその屋根に立っていた。
 
「はは、危ないことは無かったぞ!それ!そこの木や石を投げ入れろ!」
 
と、命令した。
 
この堰は、茅屋が砂をせき止めるので水が少しも漏らず。それもほんの10日あまりで出来上がったので、噂を聞いた者でこれをわざわざ見に来て驚かない者は無かった。昔から大金をかけて村中が総掛かりで賦役に出て2月余りもかかった堰でさえ、大水があるとすぐ破れてしまうのに、その後数十年経っても、この堰は少しも狂うことが無かったのだ。貯水も下々の村まで潤して、永くその徳を謳われた。
 
ここで、荒れ地もたちまち良田となって、生産も増倍し、領主も村民も貧窮を免れて、やがて国中でその僥(たわわ)なのを羨まれるようになったのだった。
 
当時、近くの辻村の名主源左衛門、門井村の名主藤蔵が、領主にあまりにも貢税を責め取られるので相談して桜町領の住民となることを願いに来たことがあった。尊徳はこれを諭して、主恩に背くことを不可として許さないばかりか、領主から貢用を命ぜられたならば、家財全部をも差し出す覚悟を持つべきよう教えた。
 
源左衛門はこれを聞いても欲心を捨てなかったので、遂に村を放逐されたが、藤蔵は真心から主恩の為に身代を投げ出す決心をした。領主もこの覚悟を知っては、さすがにそれをさせることが出来ないで、藤蔵は却って一家を保って、永く安全なるを得たのであった。
 
昭和17年発行 福田正夫 著『皇農二宮尊徳

  


青木築堰 - いっつ・あ・さくらがわーるど

 

 

 

【雑感】

 

戦後、人の道やさらにその奥に広がる自然の道というものを説く人間が居なくなった。私を捨てて一途に国の為に尽力する日本人を見かけなくなって久しい。


【衆院予算委】安倍首相VS辻元氏(上)辻元氏「フィットネス、ゴルフ、映画…」 首相「健康を保つのも重要な仕事」 議論の行方は-(2/3ページ) - 産経ニュース

2015.2.20 15:19
 
民主党辻元清美政調会長代理が20日の衆院予算委員会で、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人殺害脅迫事件をめぐる安倍晋三首相や菅義偉官房長官の対応を批判した。しかし、耳を疑うような指摘も少なくなく、政府・与党席からは失笑が漏れた。論戦の主なやり取りは次の通り。
 
辻元氏「(殺害された)後藤健二さんの拘束に政府が心証を得た昨年12月19日の翌日から首相はフィットネスクラブに行き、21日にはゴルフに行った。28日にはコンサートに行き、その後はずっと六本木のホテルにほぼお泊まり。元旦は映画鑑賞。2日はフィットネスと映画鑑賞。3日はゴルフをした」
 
辻元氏「首相は休暇を取っていけないとは思っていない。しかし、映画に行ったり、コンサートに行ったり、別荘に行ったり、ゴルフをしている間、(拘束された)2人の命の危険と日本の国家としての危機はぐんぐん上がっていたとは思わないか」
 
首相「細々と私の日程をご紹介いただいた。第1次政権の経験から首相は心身ともに健康を保つことも重要な仕事だ。基本的にはどっしりと構え、さまざまなものに対応していく。つかさつかさでしっかりと対応していくということだろう」
 
首相「その(指摘の)段階では(拘束したのが)ISIL(イスラム国)とはっきりしているわけではない。邦人が一時的に不明になることは日本国中である。今回の危機対応において私がこういう行動を取っていたことにより問題があったということではない」
 
首相「同時に人質案件というのは、1年、2年、3年、4年と続く場合もある。そうなればその間、首相は他のことに手が付かないことになってしまう。なるべく平常心、平常の行動を心がけることも職責の一つだろう」
 
首相「辻元さんみたいな批判の仕方もあるかもしれない。しかし、そういう批判にいちいち反応するつもりはない。今後ともしっかりと心身ともに健康を保っていきたい」
 
辻元氏「首相に『休みを取るな』と言っているわけではない。この時は特例の年末年始だ。自分の子供が誘拐されて、行方不明になって、その家族がゴルフをしたり、映画を見たりするか? 首相は『すべての国民の命を私が守る』と言っていた。官邸を挙げて対応すべきだった。菅さん、止めなかったのか」

 


辻元清美vs安倍総理『一生懸命、貶めようとしている努力は認めますよ』 - YouTube

 

衆議院インターネット審議中継

 

 

。。。。言葉遊びの国会にはうんざりする

 

オレオを土台にしたチーズケーキを焼く

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 2日 友引 

        丁卯 日/己卯 月/乙未 年 月相 1.1 繊月(せんげつ) 大潮 

          雨水 初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)

          マヤ長期暦 13.0.2.3.11 マヤ365日暦 4 Kayab  マヤ260日暦 2 Chuen

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 3.4℃ 湿度 46% (大阪 6:00時点)  

 

 

クッキー生地はイチから作ってもいいのですが、昨今バターが手に入りにくい状況なので、市販品を代用しました。オレオはクリームが挟んであるので、使うバターの量を節約できます。また、ココア風味の生地なので普通のチーズケーキに飽き足らない人にはピッタリですよ。

 

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【材料】

クリームチーズ・・・200g★

生クリーム・・・200cc★

卵・・・2個★

砂糖・・・60g★

レモン汁・・・大さじ1★

薄力粉・・・50g★

無塩バター・・・30g

Nabiscoオレオ・・・2パック

バニラエキス・・・数滴★

お好みの洋酒・・・大さじ2~4★

(今回はオレンジリキュールのグランマルニエを使用)

 

さぁ、クッキー生地を作っていきましょう。オレオと小口に切り分けた分量バターをフードプロセッサーに投入して、ガーっと粉々にします。ちなみに今回の型は直径18cmです。この大きさだとオレオを2個くらいつまみ食いしても余裕で足りますので、つまみながらガーっとして下さい。 

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こういう感じになると思います。

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で、これを液だれを防ぐためアルミホイルで周囲を覆った型の土台にスプーンを使って押さえながら敷き詰めていきます。

こんな感じです。

 

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で、このタイミングでオーブンを180℃に予熱しときます。

 

次に材料の★印を全て、一度洗って水気をふいたフードプロセッサーに投入してガーとよく混ぜます。本来ならここはミキサーを使った方がベターです。フープロですと液がどうしても漏れてきてしまいます。。。

 

まぁ、ミキサーが家には無いのでフープロでココは強行しました。。。

 

 

バニラエキス、グランマルニエって何?という方はこちらをご覧ください。

 

有機バニラエキストラクト59ml

有機バニラエキストラクト59ml

 

  

グランマルニエ コルドンルージュ 700ml
 

 

 

 

混ぜた液を型に流し込みます。

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予熱が完了しているオーブンに入れて180℃で45分焼き上げます。

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40分あたりからオーブンの前に張り付いて焼き具合を確認すると失敗がないです。竹串を刺して生地がベトッと付かなければ焼き上がりです。

 

いい具合に焼き上がりました。

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粗熱をとってから型を外します。今回は竹串を菜箸で代用した為、穴が目立ってますね。。。。でも、冷めれば目立たなくなりますから大丈夫。

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焼き立ての温かいのも好きなので即いただきました。でも、冷蔵庫に冷やして1日たったくらいのが最高に美味しいですよ。

 

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オレオの土台のホンワリとした苦味がチーズケーキにマッチして最高に美味しかったです。

 

クリームチーズが値上がりしたようなので、今後は水切りヨーグルトをクリームチーズの代用として使った方がお得においしく作れると思います。バターもこちらで作ったココナッツオイルで代用出来そうですね。次回試してみようと思います。