まどゐ。

~ おもゐを嗣ぎ、おもゐを纏ひ、おもゐを遣る ~ 

【山岡鉄舟 門生聞書】鉄券之説(てっけんのせつ)

 

【今日のこよみ】旧暦2015年 1月 1日 先勝 元旦

        丙寅 日/己卯 月/乙未 年 月相 0.1 朔 

          雨水 初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)

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今日は旧暦のお正月です。


Year of the Sheep: Lunar New Year celebrated across Asia - Photo Galleries - World - CBC News

 

旧暦を日常に取り入れると潤いが生じます。

戦後に途絶えてしまった慣習を今一度思い出し、日常の生活に取り入れて行きたいですね。


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ブログ:ノルマ!!: 2009年1月9日

 

 

 

大燈國師曰く、鐵券難分付(てつけんはぶんぶしがたし)と。

 

今此の語の表面を平たく云はば、三千世界を一通に認(したた)めたる此の鐵券狀は遣りたくても遣られないといふ程の語なり。

 

此の鐵券は實に天に倚るの長劍にして、假令(たとえ)兩手に分與するも言下に大悟領掌する人無し。惜い哉。

 

然らば此の大切なる地券狀はいかにして得らるるぞと云ふに、躬(み)づから辛苦し、白汗一囘して㘞地一下(かぢいっか)の時、始めて領掌するものなり。決して他より得るものに非ず。

 

世界の人ども、此の自家の地券狀を失ひし故に遂に他國に流浪して他人の仕事をする日傭人(ひやといにん)とはなれるなり。悲しき事の限りに非ずや。

 

されば、我と思はん者は高く精彩を着けて、一番此の地券狀を取り返へして見よ。此地券狀を取り返へして見れば、啻(ただ)に一地球のみならず、普(あまね)く三千世界の主となりて無上無比なる心王(しんのう)の位に卽(つ)き、彼の一世界を總轄せる梵天も帝釋も悉く來りて此の心王の足を戴き、慇懃に禮拜恭敬す。

 

故に古人曰く、王は心王に及ぶもの無しと。古人、豈我を欺かんや。

 

然り而して此の心王は何れの國土に蹲居(そんきょ)し給ふぞと云ふに、所謂無爲の都に安住せり。

 

嗚呼、此の如き無比の富有を得、此の如き無比の常樂を得、此の如き無比の尊位を得らるる無比の妙道は那邊に存在するやと云ふに、決して他より贖(あがな)ひ來るべきものにあらず。各自皆御所持なれども、今時の諸人は唯眼前の利のみに耽りて之を尊信すること能はざるのみならず、動(やや)もすれば卻て罵詈して冥(くら)きより冥(くら)きに入り、六道輪廻の苦を脫出すること能はず。

 

古人曰く、無爲の都は樂ししと雖も、貧瞋(どんてん)癡慢(ちまん)邪見(じゃけん)の人は遊ぶことを得ずと、信なる哉。

 

今や有爲の世閒智は月々に增長すれども、無爲の妙智は日々に消耗す。

 

そもそも世閒有爲の法は轉變夢の如くにして、一つも恃(たの)むに足らざれども、凡愚の人は彼の慥(たし)かなる鐵券を見ざるが故に、此の有爲の法を確乎として拔くべからざるもののやうに迷醉して、黑(くら)く貪着せるこそおろかなれ。

 

秦の始皇は暴威を以て四百餘州を一統し、内には宏大壯麗なる阿房宮を造りて三千の宮女を貯へ、外には萬里の長城を築きて强勁(きょうけい)の北狄(ほくてき)を禦(ふさ)ぎ、矛戟(ぼうげき)を鑄て金人を造り、王號を改めて皇帝と稱し、朕を始皇として二世三世より萬世に及ぼすべしと慾ばり、かへりて組織たる天下も僅か二世三世に至りて項羽の咸陽(かんよう)を屠(ほう)るや、流石に雲を凌ぐ阿房宮も忽ち一撮(いちさつ)の灰燼と化し、花を欺く三千の宮女も悉く敵軍の慰勞品に歸し、庫(くら)に盈(み)つるの七珍萬寶も皆楚人の玩弄物と爲り去れり。

 

漢高は數年の戰勞に因りて天下を掌握し、種々と心配して數十代を繼續せしが、終に王莽の爲に簒奪せられたり。

 

我が朝、源平の興亡、北條、足利、織田、豐臣、德川諸氏興廢の如きも、其勃興の曉には嘸(さぞ)や歡喜の眉を開いて飛び立つように嬉しかりなん。其滅亡の夕(ゆうべ)には千憂胸に塞がり萬感腸(はらわた)を割きたりけん。

 

器世界(きさかい)有爲の法は、興隆も滅亡も、今より觀れば畢竟(ひつきょう)一場の夢の如し。當年の英雄安(いずく)にか在(あ)るや。百年の後より今日を視れば、亦復(またまた)此の如けんのみ。

 

金剛經に曰く、一切有爲の法は夢の如く幻の如く、泡の如く影の如く、露の如く電(いなずま)の如しと。金口(きんこう)の言、信なる哉。

 

茲(ここ)に佛法は、心王を保護して世に顯現せしめ、所謂鐵券も亦おのづから至らしむるの法にして、是れ全くの他の物にあらず。

 

各自の靈性は實に廣大な如意寶珠(によいほうじゆ)にして、人々本より持ちながら妄想の爲に蔽(おおひ)晦(く)らまされて眞黑の凡夫と成り果てたり。五大州中幾億萬の人も、之を知るもの幾人かある。

 

世に金銀を無上の物と心得、或はダイヤモンドを世界第一の寶なりと稱するは實に憐れ至極の者と云ふべし。是の心を所持せざるものは詮方なし、苟も心あるほどのものは何ぞ是の心を呼び起して心王の位に卽(つ)かしめ、みづから鐵券を領掌して永く三千世界の主とは爲らざる。

 

之を得ざるものは、假令(たとい)高位高官なりと雖も只是れ高位高官の凡夫なり。博識多能なりと雖も只是れ博識多能の凡夫なり。之に氣の付かぬものは以て智と云ふべからず、之に信の起らぬものは以て賢と云ふべからず。

 

之を得たるものを强て名づけて神とも佛とも聖人とも云ふなり。之を得ざる閒は、假令聖人を推し退け、佛より釣を取るほどの辨論智識を有するも、畢竟微細の妄想にして、名相上の皮相論者のみ、六道中の浮沈連中のみ。

 

焉(なん)ぞ眞如の月を眺めて無爲の樂都に安臥することを得んや。

 

昔、楠(くすのき)正成公は討死の前夜、湊川廣嚴寺の主極俊禪師に參禪して無爲の大道に徹し、所謂鐵券とも如意寶珠とも云ふものを得られたり。故に廣嚴寺の記に記して曰く、討死を潔死すと。後人、黃門公の嗚呼忠臣楠氏の墓と誌るされたる墓標に感ずるもの多けれども、潔の字に感心する人蓋し鮮(すく)なし。此の潔の字は、實に是れ楠公の知音にして能く公を見徹したる一字なるべし。


世人は無爲寂然などと云へば佛語なりとて之を嫌ひ、或は無爲と云へば山に入りて仙術にても修する事のやうに思へり。

 

仙術魔術も遠く及ばず、別に超然と脫出したる所の道なる故に無上妙道とは云ふなり。

 

そもそも無爲とは、爲すこと無くして爲(なら)ざること無きの謂ひなり。例へば、屋島壇浦(だんのうら)の亂軍中に在(あり)て奮戰激鬭するも、鬢(びん)の毛もそそけぬが故に無爲と云ふなり。古人曰く、終日行じて一事も行せず、終日語りて一語も言はず、と。又、法華經には寤寐(ごび)同一と云へり。此の世務(せいむ)繁劇、奔走運爲の上、直に酣醉(かんすい)鼻鼾(はないびき)の時と亳(すこし)も異なること無し、是れ無爲寂然の處なり。

 

然れども此般の事は先達の鉗鎚(けんつい)を受けざれば到底蘊奧(うんのう)を盡すこと能はざれば、我こそ丈夫と思はん人は須(すべから)く一番修業すべき事なり。

 

倂し、此く論じ來ればとて世閒有爲の技藝學術を無下に蔑視するには非ず。一たび無爲の妙道を得れば、有爲卽ち無爲にして、有爲無爲、畢竟二あるに非ざるも、之を得ざれば所謂心王を取放し鐵券を取失ひ、聊(いささ)か神經の學術技藝上に達したるまでにて、一の神經病者たるを免かれず。

 

畢竟、此の煩惱妄想を解脫し得ざるが故に、佛法に之を迷ひの衆生とは云ふなり。

 

卽今何の處と思ふや。寶山に登りて手を空しくして歸ること勿(なか)れ。

 

 

 

 

【私的解釈】

 

大燈国師曰く、「鉄券難分付(てつけんはぶんぶしがたし)」と。

 

今、この言葉を分かり易く言い直せば、三千世界の主となる権利を一通にしたためたこの鉄券状は、与えたくても与えることが出来ないという意味の言葉である。

 

この鉄券は実に天に寄りかかるほどの長剣のようなもので、たとえ両手に受け取らせたとしても、この長剣が象徴する真理を悟り切った上で受け取る事のできる人物は、ちょっとやそっとのことでは出てこないのだ。残念なことである。

 

では、この値打ちある地券状はどのようにしたら得られるのであろうか。自らが汗をかきながら苦しみ抜いた上で、カッ!と悟りの声を発した時に初めて受け取ることが出来る物なのだ。決して他人から与えられる物ではないのである。

 

世界中の人たちが、元々自分の物であったこの地券状を失っているが故に他国に流浪して彷徨い歩くこととなり、天が自分に割り当てた固有の使命を忘れて他人の日雇い人夫となっているのが世界の現状なのである。悲しいことこの上ないではないか。 

 

だから、我と思う者は、大いに踏ん張って、真っ先にこの地券状を自分の手に取り返してみよ。この地券状を取り返せれば、この世界だけでなく広く三千世界の主となり、無上無比である心王の位に就くこととなる。かの世界を治める梵天帝釈天でさえも心王である貴様の前に参内し、足元にひれ伏して慇懃に礼拝され、恭敬を尽くされることとなるだろう。

 

だから古人も言っているのだ。「いかなる王も心王には及ばない」と。古人の言っていることは真理なのだ。

 

では、この心王なる者はどこの国土に居られるのかと言うと、いわゆる「無為の都」に安住されているのだ。

 

ああ素晴らしい、このように溢れかえった財産や尽きることの無い楽しみや他と比べることの出来ない尊い地位を与えてくれる無比の妙道はどこに存在するのかと言えば、決して他人から示されて明らかになるものではない。求める者各々が全員この妙道を身近に見つけることが出来るのだが、今時の人たちはただ眼前にぶら下げられた利益のみに気が奪われているので、目の前に広がるこの妙道に気付くことが出来ないばかりか、ややもするとこの妙道を馬鹿にして、闇から闇を彷徨い歩くこととなり、いつまでも六道輪廻の苦しみから抜けられないでいるのだ。

 

古人は言う、「無為の都は楽しい所であるが、貪欲な者・怒れる者・愚痴る者・驕り高ぶる者・邪な考えを持つ者は、ここでの楽しみを享受することは出来ぬ」と。もっともなことである。

 

今の時代、賢しらなコトである処世の為の智恵はどんどんと生じているが、無為の境地にある妙智は日ごとに廃れて行っているのだ。

 

そもそも賢しらなコトである処世の為の智恵というものは、場面場面で刻々と変化して行ってしまい、夢の中でしか通用しないようなもので、信頼できるところは何一つも無いのであるが、 凡愚のヤカラはかの確固とした鉄券が目に入ることが無い為、この智恵こそが絶対に間違いのないものであると惑わされて、闇雲に執着してしまうのだ。嘆かわしいことである。

 

秦の始皇帝は武力を傘に四百余りの国を統一し、宏大壮麗な阿房宮を建造し、三千もの宮女を囲い、万里の長城を築いて強力な北方民族の攻撃を防ぎ、矛を鋳直して金像を造り、自らは王の称号を改めて皇帝と称した。そして、「余を始皇帝とし、この皇統を二世三世から万代へと永く続けるのだ」と欲張り、組織を整えたのであるが、天下はたったの二代三代と続いただけであった。楚の項羽が咸陽を占領すると、雲を凌いでそそり立った阿房宮もたちまちの内に灰燼と化し、華のような三千もの宮女もことごとく敵軍の慰み者とされ、宝庫に満ちた七珍万宝は全て楚の兵士のおもちゃとされてしまった。

 

ついで、漢の高祖が数年の内乱を経て天下を統一した。その漢も色々な苦心を重ねて数十代までは続いたが、ついに王莽によって天下を奪われてしまった。

 

わが国でも、源平の興亡、北条・足利・織田・豊臣・徳川の諸氏の興廃があり、彼らが自身の権力が勃興した時には、さぞや歓喜の眉を広げ、飛び立つ思いで嬉しがったに違いない。しかし、その一方で滅亡に瀕した時は様々な憂いで胸が塞がって、その無念たるや腹わたが裂けるほどであったであろう。

 

この世の中が収まった器のごとき世界で用いられる、賢しらなコトである処世の為の智恵が場面場面で刻々と繰り広げられたのではあるが、今から振り返って見ると興隆も滅亡も結局は夢のように儚いものである。当時の英雄は一体どうなってしまったのか。今から百年後に今日の様子を振り返れば、未来の人たちも自分たちの時代の様相についてやはり同じような思いを抱くこととなろう。

 

金剛経にこうある。「一切有為の法は夢のごとく幻のごとく泡のごとく、また影のごとく、露のごとく稲妻のごとくである」と。まったくその通りでないか。

 

仏法は、心王を保護して世に現れるように促しており、前述の鉄券もその人自身の手に掴むことが出来るように説き、鉄券がその人自身の内にあるものであることを次のように主張している。

 

人間各自の霊性は、実に広大無辺な如意宝珠であり、元から一人ひとりの手中にあるにもかかわらず、妄想の為にそのことに気づかずに、全く暗愚な凡人と成り果てているのだ。何億人もの世界中の人々の中でこのことに気付いている人が果たして何人居るのだろうか。

 

世の中では金や銀が無上に貴い物であるとされたり、ダイヤモンドは世界中で一番の宝であるとされているが実に憐れむべきことである。霊性を持っていないというならば仕方がないが、いやしくも心ある人々は、それぞれの霊性を呼び起こして心王の位に就いて、鉄券も自らの力でで手に入れて末永く三千世界の主となるべきではないか。

 

これを手にしていない者は、例え高位高官に就いていてもただ高位高官に就いているだけの凡夫であり、博識多能なる者であってもただ博識多能であるだけの凡夫なのだ。このことに気付いていない者を智恵者とは呼べず、このことを信じない者を賢者とは呼べないのだ。

 

これを手中に収めた者だけを神とも仏とも聖人とも呼ぶのであり、そうでなければ、例え聖人を論破し、仏とやり合って釣り銭を取るほどの弁論知識を持つ者であっても、ただ妄想が細かいというだけであり、単なる物事の表面だけにしか気付かない者であり、単なる六道輪廻の際中で浮いたり沈んだり翻弄されている者にしか過ぎないのだ。

 

こういうヤカラは、真如の月を眺めながら無為の都で楽しく安らかに過ごすことなど出来やしないのだ。

 

昔、楠木正成公が討ち死にする前夜に、湊川広厳寺極俊禅師を訪ねて禅の教えを乞い、そこで無為の大道について大悟し、鉄券とも如意宝珠とも言うべきものを手にしたのである。だからこそ、広厳寺の記録には、討ち死にを「潔く死す」と記してあるのだ。のちの人は、水戸光圀公が「嗚呼忠臣楠氏の墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と記した墓標に感心する者が多いのであるが、この「潔く」の字に感心する人はとても少ない。しかし、この「潔く」という言葉こそ、楠公の生き様を良く知り、その性格を見抜いている人でなければ述べることの出来ない言葉であったのだ。

 

世の中の人は、「無為寂然」などと言われれば仏教用語だと毛嫌いし、又、「無為」と聞くと、山にこもって仙術の修業をすることとのように考える。


仙術や魔術なども遠く及ばない、これらとは別の次元に超然として抜けん出ている道であるが故に無上の妙道と呼ぶのである。

 

そもそも、無為とは、動くことが無くてしかも同時に全てが動いているということを言うのである。例えるならば、屋島や壇ノ浦の激しい戦いの乱戦の中にあって孤軍奮闘するも、鬢に少しのほつれも見せないような有り様を無為というのである。古人はこのように言っている。「一日中行っていながら、実は何一つも行っておらず、一日中語ってはいても、実は一言も語っていない」と。又、法華経には「寤寐同一(ごびどういつ)ー目覚めているのと眠っているのとは同じこと」という言葉がある。この世の中で日常の務めに極めて忙しくし、その為に奔走し仕事をこなしていても、酔っ払って高いびきをかいて寝ている時と少しも変わったところを見せない。これこそが無為寂然の境地である。

 

しかしながら、このような境地には、先達に厳しく鍛えられ教え導かれないと到底到達することが出来ないのであり、我こそ丈夫と思う人は何よりもまずこの修業に没頭しなければならない。

 

このように論じて来たわけではあるが、私は世の中の有為の技芸や学問を一概に蔑視しているわけではない。一度無為の妙道に添うことが出来れば、有為事象無為事象へと転じ、有為無為とが両極の境地では無くなるのではあるが、無為の妙道に添うことが出来なければ、心王の位を保つことが出来なくなり、鉄券も失ってしまい、その者は学問や技芸のことに関してだけ少しばかり神経が過敏に働くだけの只の神経病者になってしまわざるを得ないのである。

 

つまり、このような煩悩や妄想から抜け出ることが出来ないが故に、仏法ではこのような者を迷いの衆生というのである。

 

貴様たちは自分が今どこに居ると思っているのだ。宝の山に登っていながら手ぶらで下山するようなことがあってはならぬぞ。

 

 

【雑感】

 

昭和13年に発刊された小林一郎氏の著書「経書大講」の中で上述の「無為の大道」「無上の妙道」について次のように述べている。

世の中がどんなに変化しても、人間が人間として生きている以上は、人間の踏むべき道が根底からひっくり返ってしまうはずはない。科学が大変に進歩して、その科学の知識が応用されるようになってから、人間の生活状態が変わって来たものであるから、それで多くの人は新しいものほど良いものだというような考えを持つようになって来た。例えば明かりを点けるのでも、我々の小さい子供の時には行燈というものを覚えている。我々が学校に通うにようになるともう行燈というものは無くなって、石油のランプであった。その石油のランプが無くなってガス燈、電気燈というものになって来た。乗る物でも、我々の子供の時代には人力車より他は無かった。それが今では汽車もあれば電車もあれば自動車、飛行機もあるというようになった。

 

こういう風に見ると、一年一年と世の中の状態が変わって、一年一年と新しい良い物が出来るから、教えも又そういうものではないか。今はお釈迦様の教えとか、孔子様の教えというものが大変優れていると言うけれども、それはランプの時にはランプが一番明るいと思っていたが、そのランプに代わって、それよりももっと明るい所のガス燈、電気燈が出来たと同じように、聖人賢人の教えでも、もっと優れた教えが今に出て来るのではないかというような疑いを抱くような人も、随分あるようでありますが、我々はそういう風には考えない。

 

人間が人間としての人生を送る以上は、その踏み行うべき道は、千万年を通じて変わらないものでなければならぬ。例えば人の髪の飾りとか、着物の様子とかは、いかに変わっても、人の顔は千年二千年まえと同じである。上の方に目が付いていて、真ん中に鼻があって、下に口があるということは何時までたっても変わりはない。和服を着る時代も、洋服の時代の人も、単衣(ひとえ)を着ても綿入を着ても、決して変わりはしない。どんなに器量が悪いと言っても、額の真ん中に口が付いている人間は一人もありはしない。これは人間として備わっている形であるから変わらない。

 

それと同じことであって、人間の心の持ち方には、色々あるだろうけれども、人の人として踏み行うべき道、根本の教えといういうものは、たとえ世の中の生活状態が変わり、風俗習慣が変わろうとも、断じて変わるべきものではない。人間が人間として守るべき所は、千年も万年も一貫して守って行かなければならぬということを堅く信じてよろしかろうと思うのであります。

 

そういうことを堅く信じまして、今にもっと良いものが出来るだろうというような、そんな浅はかな心持ちをやめて、誠に自分の心を傾けて、聖人の教えを学び賢人の教えを学び、仏の教えを学ぶということにおいて、始めて我々の毎日の生活が誠に意義あるものになれるのである。こう考えてみだりに自分を軽んじてはいけませぬけれども、又少しばかり物が分かったからといって、自ら独りで思い上がって、聖人賢人の教えを軽んずるということのないように、何時も敬虔の心持ちで、慎み深い心持ちを以って多くの経典を読み、そうしてその教えをよく味わって、自分の力とするということを心掛けなければならぬと思うのであります。

 

 

 また、孔子論語の学而第一においてこのように述べている。

 

子曰。

【子曰く、】

学而時習之。不亦說乎。

【学んで時に之を習う、また說(よろこ)ばしからずや。】

有朋自遠方來。不亦樂乎。

【朋(とも)有り遠方より来たる、また楽しからずや。】

人不知而不慍。不亦君子乎。

【人知らずして慍(いきどお)らず、また君子ならずや。】

 

 

【私的解釈】 

 

孔子先生が言われた。

 

昔から伝えられて来た人の道(無為の大道・無上の妙道)について学び、折々に何度も何度も自分の学んだことについて繰り返し繰り返し考えて、折々に分かったことを実行してみる。そうすると、前にはただひと通りの理屈として学んだことが徐々に自分のものとなって来ているのを実感する。誠に愉快なことではないか。

 

同じ道を探し求めている者同士が集まり、お互いの意見を交わす。また、遠くからも同じ志を持つ者が訪ねて来て、お互いに親しみ合って、各自の悦びや信ずる所を語り合う。これほどの楽しい時間はないではないか。

 

自分が苦心に苦心を重ねてやっとの思いで自分の内に広がる無為の大道を探し求めることが出来たにもかかわらず、世間の人には全くこの事実を知られることがない。こういう状態になっても世間の人に憤りの念を見せたりすることがなく、自分の心の中で大いなる悦びを噛みしめる。全くもって君子ではないか。

 

 

 

 

あらゆる悦びは他人から与えられるものではなく、自分の心の内から湧き出るものなのだ。

 

 


MANDALA DUALISM ― 両界曼荼羅リファレンス 各院・各会・全諸仏解説

 

【山岡鉄舟 門生聞書】仏教之要旨 其の2

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 23日 仏滅

        戊午 日/己卯 月/乙未 年 月相 21.6 中潮 

          立春 次候 黄鶯[目見][目完](おうこうけんかんす)

          マヤ長期暦 13.0.2.3.1 マヤ365日暦 14 Pax  マヤ260日暦 5 Imix

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 6.2℃ 湿度 53% (大阪 6:00時点) 

 

 

【山岡鉄舟 門生聞書】 仏教之要旨 其の1 - まどゐ。

  

然るに世の妄想家或は曰く、佛法は文明政治を裨補(ひほ)するの力無く、畢竟幽冥界に割據(拠)するに過ずと。或は曰く、高尙なる士君子の爲めに用ゐらるるに足らずと。或は曰く、文明の宗敎に適せざる故に、理世界智世界の進むに隨ひ、蹤(あと)を潛めて遠く遁れんと。

 

是れ、己が驕心慢心より出放題の言を吐き散らし以て己が小智小見を證(しょう)明するものなり。己が少許(ばかり)の文學に誇りて佛敎の一斑(はん)をだに窺はず、迷妄霧裡に彷徨し、是非海中に浮沈したる六道輪廻の一衆生たるを知らざるものなり。

 

試みに問はん、汝が謂はゆる高尙の君子とは其れ何物ぞ。恐らくは是れ惡知惡覺を長じて囂々(ごうごう)理屈を竝べ、金銀財貨を貯へて揚々人を睥睨(へいげい)し、金徽(きんき)銀章を紆(むす)び索(ち)らして玉堂瓊殿に堰息し、閨には傾國の美人を蓄へ當世の才子を邀(むか)へ、山海の珍味を擁して内外の美酒に醉ひ、盛に歐州の文明を稱揚して大に米國の自由を喝采し、眉を擧げ髭を撫でて、亞細亞の堯舜禹湯文武周公孔子釋迦は焉(いずくん)ぞ此の文明開化を知らんやと放言するものならん。

 

凡眼を以て看る時は英雄なり豪傑なり。慧眼を開いて照らし來れば世智辨聰のみ、俗情妄想のみ。

 

若し一朝、賊難火災免官罷職虎病惡疫に取付かれなば、迷霧忽ち起り胸中黑暗となりて顛倒狼狽、手足の處置無き事、恰も沸湯に墮ちたる蜘蛛と一般ならん。

 

是時に方(あた)りて、汝が文明は何の邊にかある、汝が自由は何の處にかある。揚々自得の顏色は底を拂ひて一點を留めず、不羈獨立の氣象は烟と消えて一片を殘さず、手を束ね首を俛(た)れて思ふが儘に煩惱の惡賊に呵責屠殺せらるるこそ憐れなれ。

 

是、他なし、平生卑劣を認めて高尙と思ひ、野蠻を視て文明と爲し、不自由を自由と誤り、不快樂を快樂と感じて三世に貫ける活眼を開かず、長安に透(とう)れる大道を踏まざる罪報なるのみ。

 

汝、何ぞ顛倒狼狽の中にも揚々自得し、災厄疫病乃至一息斷絕の閒にも不羈獨立せる丈夫、卽ち眞個の高尙の君とはならざる。汝、若し顛倒狼狽の中にも顛倒狼狽せず、災厄疫病の閒にも災厄疫病せず、一息斷絕の時にも超然死せざる底の大丈夫の漢(おとこ)とならんと慾せば、須べからく三世貫通の活眼を劈(へき)開して、獨脫無依の主人公を活捉せよ。此の主人公こそ前に謂ふところの天眞佛にして、獨此の一地球のみならず、三千大千世界の森羅萬象、有情非情を引包(ひつくる)みて遺さるる靈物なれば、汝が此上なく思へる理世界智世界は、大海の一滴、九牛の一毛にだも當らず、誠に笑止の至りなり。

 

我國には、何の幸か、天も覆ふこと能はず地も載すこと能はず、理世界智世界を方寸の中に收めて富貴貧賤も蕩(と)かすこと能はず、白刀威武も屈すること能はず底の大丈夫を造り出すべき無上妙道あり。

 

之を得て以て天下に君臨し、之を得て以て大政に參與し、之を得て以て外交に施し、之を得て以て軍陣に臨み、之を得て以て商工耕作に從事せば、往くとして善からざるは無し。

 

果して然らば、眞の文明は我國に現出して赫々(かつかく)の光輝を地球の表に揚げん。國家を尊嚴にして政治を裨補する、是より大なるはなし。

 

果して茲(ここ)に至らば、汝が珍重する理世界智世界こそ片隅に蹤(あと)を潛め、汝が信仰せる「ユテリアン」敎こそ幽冥界に割據すらめ、呵々。

 

五大洲中にも絕て無き所の無上妙道ありて存するも、宿福薄弱にして根機下劣なる輩は之を崇信する事能はず。驕慢の魔には眼睛を瞎卻(かつきゃく)せられ、妄想の賊には耳膜を破卻さられて傲然と呼て曰く、佛法は文明政治を裨補するの力無く、幽冥界に割據するに過ぎずと。又曰く、高尙なる士君子の爲めに用ゐらるるに足らずと。又曰く、文明の宗敎に適せざる故に、理世界智世界の進むに隨ひ、蹤を潛めて遠く遁れんと。

 

豈是れ佛敎の咎ならんや。實に後世天下の士が丈夫の志操を失ひて卑劣の妄想に甘んずるの咎なるのみ。卑劣とは何ぞや、妄想の爲に己が主人公を生捕られ、外物を逐い囘りて奴朗を分たざる凡愚の迷倒心を謂ふなり。

 

 

 

【私的解釈】

 

けれども、世の妄想にとらわれた人はこのように言う。

 

「仏教の教えには文明や政治を発展させるような力など無い。つまるところ、妄想による戯言に過ぎないのだ」

 

とか、

 

「立派な侍や君子に仏教の教えなど役には立たない」

 

とか、

 

「高度な文明社会を持つ国の宗教には適さない為、理智の世界が発達するにつれて、仏法は跡形もなく消え去ってしまうに違いない」

 

と。

 

これらの言葉は、己の驕心慢心から出る言いたい放題の言葉であり、結局は自分の小智小見を証明しているようなものである。自分の学を誇り、仏教の教えの実践など一顧だにしない。これは邪道を邁進しながら霧の中を彷徨(さまよ)い歩いている状態であり、自分が世の中の現象に翻弄される途上にいる、六道輪廻の一衆生であることにすら気付いていないのである。

 

試しに聞こう。

 

「貴様たちが言う立派な侍や君子とはどういう人のことを言うのだ。恐らく、悪知恵ばかりが達者で何やかんやと理屈をこねながら金銀財貨を手許にかき集めて、得意になって人を見下し、勲章をこれ見よがしに飾り付けて豪勢な邸宅を住まいとし、美女を愛人に囲んで、有名人と交遊し、山海の珍味を取り寄せて世界中の美酒をあおり、西洋の文化にかぶれてアメリカの自由こそが最高だとのたまい、眉を整え髭を撫でながら、東洋の周公孔子釈迦などに高度な西洋の文明を理解できるものかと放言する奴のことを言うのだろう。」

 

平凡な見識からすれば、なるほど彼等は英雄豪傑であろう。だが、鋭い真心の眼(まなこ)で照らして見れば、このヤカラはただ小賢しいだけのくだらぬ存在にすぎないのだ。

 

一旦、 賊に襲われたり、火災にあったり、降格人事や解雇をされたり、大病を患うなどの災難に見舞われれば、たちまち目の前が真っ暗となり胸中は絶望に慄き、七転八倒手足の置き場所も安まらずに、あたかも熱湯に落ちた蜘蛛のごとくジタバタともだえ苦しむに違いない。

 

そうなった時に、貴様たちがいう西洋文明が何の役に立つというのか。貴様たちがいう自由がそこにあるのか。自信満々の顔色は一変して跡形も無く消え失せ、独立不羈に溢れた気概は煙のように消え去り、ただ手をこまねいて首をうなだれ、煩悩という悪賊に蹂躙されるがままとなろう。全く憐れなことである。

 

こうなってしまうのも当然で、日頃から卑劣な事象を高尚な事象と誤解し、野蛮を文明とし、不自由を自由、不快を快楽と誤って感じているものだから、過去・現在・未来を一筋に見渡すことの出来る活眼を開くことが出来ずに、都の活気あふれる大通りの様相が映し出す真理にきちんと向き合わないことによる罪の報いを受けることとなるのだ。

 

顛倒狼狽の中にあっても自信に満ちあふれ、災厄疫病が身に振りかかって来て息が絶え絶えとなっている際中でも独立不羈を保っていられる益荒男(ますらお)、つまり本物の立派な人物に貴様たちは何故なれないのか教えてやろう。もし貴様どもが、他人から見れば顛倒狼狽しているように見えても実際は顛倒狼狽しておらず、他人から見れば災厄疫病が身に振りかかっているように見えても実際は災厄疫病が身に振りかかっておらず、他人から見れば息が絶え絶えとなっているように見えても死から超然としている、底をうかがい知ることの出来ない益荒男になりたいのならば、何よりもまず、過去・現在・未来の三世を貫き通す活眼を開き、己の心の奥深くに鎮座する何物にも寄りかかることなく超然と存在している貴様のご主人様と邂逅せよ。このご主人様こそ前に述べた天真仏であり、この地球だけではなく三千大千世界の森羅万象を、有情非情すべてを引っ括めて存在させている神秘あふれる大本(おおもと)なのである。これと比べると、貴様たちがこの上なく有難いと思っている理世界や智世界などは大海の一雫(いちしずく)、多くの牛の中の1本の毛にも相当しないものである。本当に馬鹿げたことである。

 

何の幸いか、わが国には、天も覆い隠すことが出来ず、地にも載せきることの出来ない、理智の世界など一片に収めてしまって、どんな富貴貧賤にも頓着せず、白刃や武力にも屈することのない底抜けの益荒男を産み出すことの出来る、この上のない妙道が存在する。

 

この妙道に添って天下に君臨し、政治に参与し、外交を行い、軍事を整え、商工耕作に従事すれば、どんなことでも成し遂げられないことはない。

 

だとすれば、 真の文明が築かれるのはわが国においてのことであり、この日の本から煌々たる光を地球上に放つこととなろう。国家を尊厳なるものとし、政治を助け補う道としては、これ以上のものはない。

 

どうだ!この道の前では貴様たちが大切にする理智の世界こそ片隅に引っ込み、貴様たちが信仰するユニテリアン教こそがあの世に閉じこもってしまうこととなるではないか、アハハハ。

 

わが国には世界中のどこにも存在しない、この上のない妙道が存在していると言っても、前世の福徳が薄く、心魂が下劣なヤカラでは、この道の存在に気付くことは出来やしない。そのようなヤカラが、驕慢の魔に付け込まれて見識が暗くなり、妄想の賊に耳の中まで入り込まれ、驕り高ぶって叫び出すのだ。

 

「仏法は文明政治を助け補う力を持たず、あの世に立てこもっているだけである」と。

 

また、

 

「立派な侍や君子の役に立つことは無い」と。

 

また、

 

「文明社会の宗教としては不適切であるが故に、理智の世界が発達するにつれて消え失せてしまうであろう」と。

 

どうして、 この道に添うことが出来ないことが仏教の責任だと言えるのか。単に世の中の侍が益荒男としての志操を忘れてしまって、卑劣な妄想に翻弄されているがためのことだけなのである。卑劣とはどういうことを言うのかと言えば、妄想によって己の真心の奥に鎮座するご主人が幽閉され、大本ではないモノに翻弄される、つまり、奴僕と主人との区別さえつけることの出来ない凡愚なヤカラの彷徨い歩く心のことをいうのである。

 

 

 

【雑感】

 

日本は世界でも稀有な国である。

 

山岡鉄舟が言う

何の幸いか、わが国には、天も覆い隠すことが出来ず、地にも載せきることの出来ない、理智の世界など一片に収めてしまって、どんな富貴貧賤にも頓着せず、白刃や武力にも屈することのない底抜けの益荒男を産み出すことの出来る、この上のない妙道が存在する。

とはどういうことかを考えてみる。

 

日本人は日の出に遭遇すると手を合わせて拝む。太陽をあらゆる命を育んでくれる有難い存在だと、文明が発達した現代でも当たり前のこととのように日本人は考えている。

 

一方、外国ではどうだろうか。少なくとも先進国では、日の出を拝むことなど未開の野蛮人がすることだと考えている節がある。

 

そう、外国では太陽そのものを拝む習慣はとうの昔に途絶え、唯一神のゴッドなるものが太陽を創り出したのだという理屈をひねくり出したりして、太陽そのものを拝むことは無い。しかし、この外国でもはるか遠い昔は太陽を拝んでいたことが史実として残っている。人間が太陽を拝む行為は人類の真心の現れであり、素直な行為なのだ。

 

文明が発達すると、人間というものは色々と理屈をこねくり回して拝む対象を人間が創り出してしまう。世界に広がる宗教にしても全て救世主やら預言者やら悟りを開いた者など、共同体からはずれた特殊な人間が体験したことや導き出した真理を基に世界観が確立されて来た。太陽が存在しなければ人類が絶滅してしまうという科学的な事実があるにもかかわらずにだ。

 

こういう中で日本人だけが原始時代の人々が太陽に対して感じた気持ちをそのまま文明社会となった今でも素直に表現している。

 

多くの日本人は気付いてはいないが、これはとてつもないことである。他の民族が封印してしまった人類共通の素直な心を日本人だけが普通に表現しているからだ。

 

この素直な心を発露させると、山岡鉄舟が言うようなことが可能となることが理解できる。

この妙道に添って天下に君臨し、政治に参与し、外交を行い、軍事を整え、商工耕作に従事すれば、どんなことでも成し遂げられないことはない。だとすれば、 真の文明が築かれるのはわが国においてのことであり、この日の本から煌々たる光を地球上に放つこととなろう。国家を尊厳なるものとし、政治を助け補う道としては、これ以上のものはない。

 

まだまだ多くの日本人がこのことに気付かずに眠ったままである。しかし、近い将来人類共通の真心を当たり前のように発露させる日本人が人類からだけでなく太陽や地球からも求められることとなるのは確実であろう。

 


140912 富士山御来光 Sunrise@Mt.Fuji - YouTube

 


富士山 御来光 Sunrise Mt.Fuji - YouTube

 

【マヤ暦占い】 超簡単なマヤ暦占いの方法をお教えします

 

この記事【【マヤ暦占い】 インターネット上にあふれるマヤ暦占いの選び方】を掲載したところ某サイトから嫌がらせを受けてしまいました。まぁ、占いでお金儲けをしているみたいなので、私の記事が営業妨害だと受け取られたのでしょう。

 

今は電話占いというのもあるのですね。本当、人の弱みにつけこんだエゲツナイ商法にはビックリします。マヤ暦セミナーって何ですか?お金とるのですか??新興宗教???怪しすぎます(笑)

 

こんな状況の中、運良くこのサイトにたどり着いた皆様に、現段階で一番簡単で、かつ、私の周りで非常に喜ばれている日本初紹介のマヤ暦占いの方法を全て開示します。

 

しょうもないサイトにお金を捨てる前に一度この方法をお試し下さい。また、周りの知り合いの方々を占って差し上げて下さい。そして、節約されたお金で豪華なランチでも召し上がり、マヤ暦占いの話題で盛り上がっていただければ最高に嬉しいです。

 

 

【マヤ暦占いシート】

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さぁ、上のシートを埋めていきましょう。有名人の方を例に占いを進めて行きます。


井上真央と「嵐」松本潤この秋にも結婚へ (東スポWeb) - Yahoo!ニュース

 

このニュースより、井上真央さん【生年月日1987年1月9日】をマヤ暦で占って行きます。ちなみに上のシートを画像処理サイトに読み込んで進めていくとお手軽だと思います。 

【オススメ画像処理サイト】


Skitch | Evernote

 

 

まず、西暦の誕生日をマヤ暦に変換します。このサイトの中頃【【マヤ暦占い】 インターネット上にあふれるマヤ暦占いの選び方 】のお好みのソフトで変換して下さい。

 

 

井上真央さんの西暦の誕生日1987年1月9日→マヤ暦(ツォルキン暦/260日暦)3白い風(Ik/イク・Ik’/イック)と変換されます。3という数字は銀河の数、白い風というのはマヤ暦特有のキャラクターです。詳細はこちらのサイトを見て下さい。

【マヤ暦占い】 260日に息吹く20の精霊たち 【改訂版】 - まどゐ。

 

 

下の【表1】により、マヤ暦に変換された3イクからKinを導き出します。

 

 

【表1】f:id:isegohan:20140210115945p:plain

 

数字の上にあるドット(・)とヨコ線に注目して下さい。数字1から4をドット、数字5をヨコ線で表しています(例:ドット1個とヨコ線2本→11、ドット4個とヨコ線1本→9)。

 

井上真央さんのマヤ暦3白い風(Ik/イク・Ik’/イック)のKinは上から2番目、右へ3番目のKin42となります。

 

 

ここまでをシートに埋めるとこうなります。

f:id:isegohan:20150205105701p:plain

 

真ん中の銀河の数が決まると全ての銀河の数が決まります。銀河の型を次のサイトで調べます。

【マヤ暦占い】 銀河の数が意味するもの - まどゐ。

 

 

結果はこうなります。

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マムは、下表により青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ) 、Kinは【表1】より236 27となります。

 

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f:id:isegohan:20150329210917j:plain

 

銀河の数の合計は数字を全部足し54(=53+1)。

 

 

次に空欄のKinを埋めて行きます。誕生日のKinを基準に縦方向は+-8、ヨコ方向は+-6していきます。

 

 

結果は以下の通りです。

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【上の図の修正事項:マムのKinは27です】 

 

全てのKinが判明したので、【表1】と、こちらのサイト【マヤ暦占い】 260日に息吹く20の精霊たち 【改訂版】 によりキャラクターを割り出して行きます。

 

 

すると、このようにシートが完成します。 

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 【上の図の修正事項:マムのKinが2となっていますが、正しくは27です】 

 

 

最後に下のシートを使い、影響を受けるキャラクターを導き出します。

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Imox → 赤い龍(Imix/イミシュ・Imox/イモッシュ)

Iq → 白い風(Ik/イク・Ik’/イック)

Aqabal → 青い夜(Akbal/アクバル・Ak'ab'al/アカバル)

K'at → 黄色い種(Kan/カン・K'at/カット)

Qan → 赤い蛇(Chiccan/チクチャン・Kan/カン)

Kame → 白い世界の橋渡し(Cimi/キミ・Kame/カメー)

Keh → 青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ) 

Q'anil → 黄色い星(Lamat/ラマト・Q'anil/カニール)

Toh → 赤い月(Muluc/ムルク・Toj/トッホ)

T'zi → 白い犬(Oc/オク・Tz'i/ツィ)

Baatz → 青い猿(Chuen/チェウエン・B'atz'/バッツ)

Ey → 黄色い人(Eb/エブ・E/エー) 

Ah → 赤い空を歩く人(Ben/ベン・Aj/アッハ)

Ix → 白い魔法使い(Ix/イシュ・I'x/イッシュ)

Tz'ikin → 青い鷲(Men/メン・Tz'ikein/ツィキン)

Ahmak → 黄色い戦士(Cib/キブ・Ajmaq/アハマック)

Nooh → 赤い地球(Caban/カバン・No'j/ノッホ)

Tihax → 白い鏡(Etz'nab/エツナブ・Tijax/ティハッシュ)

Kavok → 青い嵐(Cauac/カワク・Kawoq/カウーク)

Hunahpu → 黄色い太陽(Ahau/アハウ・Ajpu/アッハブ)

 

 

上で完成したシートをこのシートに以下のように反映させていきます。

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このように完成しました。最後に◯が重なっているところの銀河の数を足します。

Ahmak → 黄色い戦士(Cib/キブ・Ajmaq/アハマック) ⇒ 14(=10+4)

Q'anil → 黄色い星(Lamat/ラマト・Q'anil/カニール) ⇒ 11(=2+9)

 

 

井上真央さんの性格は、黄色い戦士と黄色い星の影響を受けます。銀河の数の差が大きいほど、そのキャラクターの影響を大きく受けることとなります。

 

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どうでしょうか?簡単ですよね。占いの信ぴょう性については私の周辺では皆に驚愕されており、自信を持っております。みなさんもご自身やご家族、お友達を占ってみてビックリして下さい(笑)。

 

このマヤ暦占いを使えば相性占いもバッチリです。おいおいご紹介していきたいと思っています。

 

今回記載した専門用語は以下のサイトに詳細を記入しておりますので、よろしければ参考にして下さい。

 

【改訂版】マヤ暦を使った本場グアテマラの占いを紹介する【KINの算定】 - まどゐ。

 

【マヤ暦占い】 260日に息吹く20の精霊たち 【改訂版】 - まどゐ。

 

【マヤ暦占い】 銀河の数が意味するもの - まどゐ。

 

【マヤ暦占い】 マヤ太陽暦の元日(El Mam)の解説 - まどゐ。

 

【マヤ暦占い】 ツォルキンと天上界の相性 【相性編】 - まどゐ。

 

【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる - まどゐ。

 

【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる(続編) - まどゐ。

 

【MASTER KEATON Re : Dear Antoniya 其の1】 Dubrovnik , Republic of Croatia (ドゥブロヴニク包囲)

  

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 10日 先負

        乙巳 日/戊寅 月/乙未 年 月相 8.6 小潮 

          大寒 次候 水沢腹堅(さわみずこおりつめる)

          マヤ長期暦 13.0.2.2.9 マヤ365日暦 2 Pax  マヤ260日暦 6 Muluc

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 0.8℃ 湿度 53% (大阪 6:00時点)

 

 

 

 

【 Quest 2 親愛なるアントニヤへ】

 

ドゥブロヴニク。1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。

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Dubrovnik - Croatia on Vimeo

 

 


Croisière en Adriatique avec Ponant on Vimeo

 

ドゥブロヴニク - Wikipedia

 


Travel to Croatia: Travel Inspiration Dubrovnik and beyond

 

 

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War Bombings in Dubrovnik - YouTube

 

ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世ラグーサ共和国アマルフィピサジェノヴァヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家ヴェネチア共和国だけであった。巧みな外交術と豊富な富に支えられ15世紀から16世紀にかけてはとくに特筆するほど発展している。

 

1970年代、恒久的に戦争による破壊から守るために非武装化されたが、1991年ユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲(ドゥブロヴニク包囲)され砲撃により多大な損害を蒙った。 

 

ドゥブロヴニク包囲戦【 The Siege of Dubrovnik (Croatian: Opsada Dubrovnika, Serbian: Blokada Dubrovnika)】

 

期間 19991年10月1日~1992年5月31日(7ヶ月4週2日)

 

ドゥブロヴニク包囲戦(クロアチア語:Opsada Dubrovnika、セルビア語:Blokada Dubrovnika)は、クロアチア独立戦争ドゥブロヴニク市街の攻防戦でユーゴスラビア人民軍(以下JNA)とクロアチア軍との間で起こった軍事衝突。

The Siege of Dubrovnik (Croatian: Opsada Dubrovnika, Serbian: Blokada Dubrovnika) was a military engagement fought between the Yugoslav People's Army (JNA) and Croatian forces defending the city of Dubrovnik and its surroundings during the Croatian War of Independence

 

JNAは、1991年10月1日に侵攻を開始し、その月の終わりには、ドゥブロヴニクを除くアドリア海に突き出たペリシャツ半島とプレヴラカ半島の間の全地域を実質支配に置いた。次にJNAは、ドゥブロヴニクへの爆撃(ユネスコ世界遺産に指定された旧市街を含む)に着手し、1991年10月6日、その爆撃は最高潮に達した。このJNAの爆撃は、世界中から強い非難にさらされ、セルビアモンテネグロの外交面と経済面で国際的な孤立を招き、クロアチア独立への国際的な承認の機運となった。

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The JNA started its advance on 1 October 1991 and by late October had captured virtually all of the territory between the Pelješac and Prevlaka peninsulas on the coast of the Adriatic Sea—except for Dubrovnik itself. The JNA attacks and bombardment of Dubrovnik, including the Old Town—a UNESCO World Heritage Site—culminated on 6 December 1991. The bombardment provoked a strong international condemnation of the JNA and became a public relations disaster for Serbia and Montenegro, contributing to their diplomatic and economic isolation and the international recognition of the independence of Croatia.

 

1992年5月、JNAはドゥブロヴニクから沿岸1km(0.62マイル)以内のボスニアヘルツェゴビナ領内に撤退を始め、新しく編成されたスルプスカ共和国軍(以下VRS)にドゥブロヴニク東部の指揮権を引き渡した。クロアチア軍(以下HV)は、その間に西側から攻撃を開始し、JNA・VRS軍をドゥブロヴニク西側からクロアチアボスニアヘルツェゴビナの国境線に押し戻した。そして5月の終わりには、HVと市街を防衛していた民兵とが合流を果たした。そして、HVとユーゴスラビア軍との攻防戦の中、ドゥブロヴニク西側に陣取るユーゴスラビア軍の勢いが徐々に弱まって行くこととなった。

In May 1992, the JNA pulled back from Dubrovnik to Bosnia and Herzegovina, less than 1 kilometre (0.62 miles) from the coast in some places, and east of the city to hand over its equipment to the newly formed Army of Republika Srpska (VRS). During this time, the Croatian Army (HV) attacked from the west and pushed back the JNA/VRS from the areas west of Dubrovnik, both in Croatia and in Bosnia and Herzegovina, and by the end of May linked up with the HV unit defending the city. Fighting between the HV and the Yugoslav troops east of Dubrovnik gradually died down.

 

この包囲戦とユーゴスラビア海軍の海上封鎖により、クロアチア市民82人から88人、クロアチアの兵士194人が犠牲となった。対してJNAの犠牲者は165人。1992年の終わりまでに、タイガー作戦やコナヴレの戦いによって占領された領域を奪回したが、この一連の戦いでHVの417部隊が全滅した。この攻撃によりドゥブロヴニクに逃げ込もうとして15000人の難民が生じた(大部分はコナヴレで発生)。およそ16000人の難民がドゥブロヴニクから海路、避難用小型モーターボートや輸送船による護送により逃げ出し、町は再び封鎖された。11425棟のビルや家屋がJNAにより破壊され、多くの家や会社、公的機関の建物が荒らされ、放火された。

The siege and a naval blockade by the Yugoslav Navy caused the deaths of between 82 and 88 Croatian civilians and 194 Croatian military personnel. The JNA suffered 165 fatalities. By the end of 1992, when the entire region was recaptured by the HV in Operation Tiger and the Battle of Konavle, 417 HV troops had been killed. The offensive displaced 15,000 refugees—mainly from Konavle—who fled to Dubrovnik. Approximately 16,000 refugees were evacuated from Dubrovnik by sea and the city was resupplied by blockade-evading runabouts and a convoy of civilian vessels. 11,425 buildings suffered a degree of damage and numerous homes, businesses, and public buildings were looted or torched by the JNA.

 

JNAの作戦は、まず、ドゥブロヴニクを占領し、ここを拠点に北に侵攻(ヘルツェゴビナ西部から侵攻したダルマチア北部のJNA部隊と合流)することを目論む作戦司令部が描いた計画の一部であった。この攻撃は、「クロアチア軍の部隊がコトル湾に侵攻し、占領しようとしている。この攻撃は平和を守る戦いであり、古い街などはJNAの攻撃の対象ではない」というモンテネグロでの戦争プロパガンダの後、即座に開始された。モンテネグロの大統領ミロ・ジュカノヴィッチは、政敵とセルビアから非難にさらされながらも、2000年にこの戦いに着手したことを謝罪した。

The JNA operation was a part of a plan drawn up by top JNA officers aimed at securing the Dubrovnik area and then proceeding north-west to link up with the JNA troops in northern Dalmatia via western Herzegovina. The offensive came immediately after war propaganda in Montenegro, which said that Croatian troops were about to attack and capture the Bay of Kotor and that the offensive was a "war for peace", and that the Old Town was not being targeted by the JNA. Montenegrin President Milo Đukanović apologized for the attack in 2000, eliciting an angry response from his political opponents and from Serbia.

 

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、JNAのユーゴスラビア海軍司将校3人の有罪判決を宣告し、セルビア側関係者の4分の1が訴追のために引き渡された。ICTYの訴追委員会はこの攻撃はドゥブロヴニククロアチアから切り離し、不成功に終わった1991年11月24日のドゥブロヴニク共和国設立宣言を通して、ドゥブロヴニクセルビア人が支配する地域と統合してしまうことを意図したものであったと明言した。付け加えて、モンテネグロは6人の元JNA兵士をモリンジ収容所での捕虜虐待で告発したが、2012年現在、最終評決は下されていない。クロアチアもJNAの元ユーゴスラビア海軍将校数人とボスニアセルビア人共同体の元指導者を戦争犯罪で告発したが、これらの裁判はまだ結審していない。

The International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia (ICTY) convicted three JNA or Yugoslav Navy officers and handed over a fourth to Serbia for prosecution. The ICTY indictment stated that the offensive was designed to detach the Dubrovnik region from Croatia and integrate it into a Serb-dominated state through an unsuccessful proclamation of the Dubrovnik Republic on 24 November 1991. In addition, Montenegro charged six former JNA soldiers with prisoner abuse in the Morinj camp, but as of 2012 no final verdicts had been rendered. Croatia also charged several former JNA or Yugoslav Navy officers and a former Bosnian Serb leader with war crimes but no trials have yet resulted from these indictments.

 

背景

1990年8月にクニン周辺、リカ地方・コルデゥン地方・バノヴィナ地方の一部のダルマチア地域奥地のセルビア人居住区で暴動が集中(丸太革命)し、セルビア人が多く住むクロアチア東部への移住がクロアチア国内で起こった。これらの地域は後にクライナ・セルビア共和国(RSK)と呼ばれ、セルビアへの統合を目指す旨を宣言したので、クロアチア政府は、RSKの行為は反乱行為だと宣言した。

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In August 1990, an insurrection centred on the predominantly Serb-populated areas of the Dalmatian hinterland around the city of Knin,[1] parts of the Lika, Kordun, and Banovina regions, and settlements in eastern Croatia with significant Serb populations took place in Croatia.[2] These areas were subsequently named the Republic of Serbian Krajina (RSK) and after declaring its intention to integrate with Serbia, the Government of Croatia declared the RSK a rebellion.[3]

 

1991年の3月までには、争いが拡大し、クロアチア独立戦争が勃発した。1991年6月にクロアチアユーゴスラビアからの独立を宣言した。3ヶ月の猶予期間の後、10月8日に独立宣言は効力を発した。RSKクロアチア系住民に対して民族浄化を徹底して行い、1993年始めにはセルビア人以外の住民のほとんどを駆逐してしまった。1993年の11月までには、RSK内のクロアチア人の人数は、国連軍に守られた南防衛区と呼ばれた地域に400人以下、北防衛区には1500人から2000人以上となっていた。

By March 1991, the conflict had escalated and the Croatian War of Independence erupted.[4] In June 1991, Croatia declared its independence as Yugoslavia disintegrated.[5] A three-month moratorium followed,[6]after which the decision came into effect on 8 October.[7] The RSK then initiated a campaign of ethnic cleansing against Croatian civilians, expelling most non-Serbs by early 1993. By November 1993, less than 400 ethnic Croats remained in the United Nations (UN) protected area known as Sector South,[8] and a further 1,500 – 2,000 remained in Sector North.[9]

 

JNAに対するRSKの支援が増し、クロアチア警察軍ではこの状況に対処不能となったので、1991年5月にクロアチア国家警備隊(以下ZNG)が編成された。11月にはZNGはクロアチア軍(以下HV)と名前を変えた。HVの増備は、9月に導入された国連軍による監視により妨害されたが、クロアチア国内での軍事衝突は、8月26日に衝突したヴコヴァルの戦いを皮切りに拡大を続けた。

As the Yugoslav People's Army (JNA) increasingly supported by the RSK and the Croatian Police was unable to cope with the situation, the Croatian National Guard (ZNG) was formed in May 1991. In November, the ZNG was renamed the Croatian Army (HV).[10] The development of the military of Croatia was hampered by a UN arms embargo introduced in September,[11] while the military conflict in Croatia continued to escalate with the Battle of Vukovar, which started on 26 August.[12]

 

ドゥブロヴニクは、最南端に位置する主要なクロアチアの町である。アドリア海沿岸に位置している。旧市街として知られている城壁に囲まれた中心街は、その多くがラグーサ共和国時代に建造された歴史的な遺跡や遺産的価値のある建造物となっており、街全体がユネスコ世界遺産として登録されている。1991年の街の人口はおよそ50,000人で、この内の82.4%がクロアチア人、6.8%がセルビア人であった。クロアチアの領土はペリシャツ半島から西側に伸びて広がり、東のコトル湾の入り口に位置するプレヴラカ半島はモンテネグロの国境に接している。この地域の領土は大変狭く、特にドゥブロヴニク近辺はそれが顕著で、海岸部は500mから15km(0.31から9.32マイル)の幅となっている。

Dubrovnik is the southernmost major Croatian city. It is located on the Adriatic Sea coast. The walled city centre, known as the Old Town, is a site of historical monuments and heritage buildings largely dating to the Republic of Ragusa; the city has been placed on the list of UNESCO World Heritage Sites. In 1991, the city had a population of approximately 50,000, of whom 82.4% were Croats and 6.8% were Serbs. Croatian territory surrounding the city stretches from the Pelješac peninsula to the west and the Prevlaka peninsula in the east at the entrance to the Bay of Kotor on the border with Montenegro.[13] This territory is very narrow, especially near Dubrovnik itself,[14] and consists of a 0.5 to 15 kilometres (0.31 to 9.32 miles) wide coastal strip of land.[15]

 

序章

1991年の中頃、ユーゴスラビア連邦防大臣のヴェリコ・カディイェヴィッチ将軍、JNA参謀総長のブラゴイェ・アジッチ将軍、国防副大臣のスタン・ブロベット中将を含むJNAの上層部が、西に進軍するJNAを、かってこの地域に展開していたJNA第9クニン部隊と合流させる為にヘルツェゴビナ西部に向かわせることによって生じることとなる、ドゥブロヴニク地区への攻撃を含む軍事攻撃を計画した。ジェヴェレ・コキッチ将軍がアジッチJNA参謀総長の承認を得るためにドゥブロヴニク攻撃計画を提出した。

In mid-1991, top JNA commanders—including Yugoslav Federal Defence Minister General Veljko Kadijević, JNA Chief of the General Staff General Blagoje Adžić and deputy defence minister Vice Admiral Stane Brovet—planned a military offensive entailing an attack on the Dubrovnik area followed by a westward JNA advance towards western Herzegovina to link up with the JNA 9th Knin Corps in northern Dalmatia once the area was secured. General Jevrem Cokić submitted the plan of the Dubrovnik offensive to Adžić for his approval.[16]

 

1991年9月、民族衝突の回避とユーゴスラビア連邦を維持するためにもモンテネグロの領土の保全を図る必要性があるため、ドゥブロヴニクを攻撃し緩衝地帯を設けるべきであると、JNAとモンテネグロの指導者が言及した。モンテネグロのミロ・ジュカノヴィッチ首相は、現在の国境は、「ボルシェビキの無教養な測量家」により線引きされたものであるため、クロアチアとの国境線は見直されるべきであると述べた。JNAのパヴレ・ストルガー上級大将の30000人のクロアチア軍隊と7000人のテロリストとクルド人傭兵部隊がモンテネグロに攻撃を仕掛け、コトル湾を占領しようとしているという主張によって醸成されたプロパガンダにより、モンテネグロの多くの国民がクロアチアが実際に侵略して来ようとしていると、信じさせられてしまった。ポジェーダ紙がこのプロパガンダ拡大に寄与した一番の新聞社であった。1991年7月、セルビア人の高級官僚ミハイ・ケルテスがニクシッチの集会で、セルビア人の国をネトレバ川が伸びているモンテネグロの西側のドゥブロヴニクに創り、その首都とし、ニクシッチの海と名称を変えるべきであると発言した。

In September 1991, the JNA and the leaders of Montenegro said that Dubrovnik should be attacked and neutralized to ensure Montenegro's territorial integrity, to prevent ethnic clashes and to preserve the Socialist Federal Republic of Yugoslavia. Montenegrin Prime Minister Milo Đukanović stated that Croatian borders needed be revised, attributing the existing border line to "poorly educated Bolshevik cartographers".[17] The propaganda, compounded by JNA Colonel General Pavle Strugar's allegations that 30,000 Croatian troops and 7,000 terrorists and Kurdish mercenaries were about to attack Montenegro and seize the Bay of Kotor led many in Montenegro to believe that Croatia had actually started an invasion.[18]The newspaper Pobjeda was the most significant media source that contributed to the spread of the propaganda.[19] In July 1991, high-ranking Serbian official Mihalj Kertes said at a political rally in Nikšić that a Serbian state was to be established west of Montenegro extending to the Neretva River with Dubrovnik—renamed Nikšić-at-Sea—as its capital.[20]

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1991年9月16日、JNAはクロアチアとの関係が険悪化していることを根拠に、モンテネグロで軍隊を動員した。9月17日、JNA第2チトグラード部隊によるラジオ放送の呼びかけにもかかわらず、かなりの人数の予備兵が呼びかけに応えることを拒絶した。9月18日、ジュカノヴィッチは脱走兵と動員の呼びかけを拒絶した者を厳罰に処すると圧力をかけた。この動員とプロパガンダは、ベルグラードのユーゴスラビア連邦当局がドゥブロヴニクを攻撃することなどあり得ないとの確証とは対照的なものであった。JNAのクロアチアを攻略する戦略計画には、ドゥブロヴニクを含むクロアチアの南部をクロアチアの領土から切断する為の攻撃が含められていた。

On 16 September 1991, the JNA mobilized in Montenegro citing the deteriorating situation in Croatia. Despite a radio broadcast appeal by the JNA 2nd Titograd Corps on 17 September, considerable numbers of reservists refused to respond to the call-up.[21] On 18 September, Đukanović threatened harsh punishment of deserters and those refusing to respond to the mobilization.[19] The mobilization and the propaganda were in contrast with assurances from Yugoslav federal authorities in Belgrade that there would be no attack against Dubrovnik.[22] The JNA's strategic plan to defeat Croatia included an offensive to cut off the southernmost parts of Croatia, including Dubrovnik, from the rest of the country.[23]

 

9月23日、JNA砲兵隊がコナヴレの東側に位置するヴィタリーニャ村とドゥブロヴニクの東側に位置するブルガートを攻撃した。2日後、ユーゴスラビア海軍がドゥブロヴニクへの海路を封鎖。9月26日、JNAはヘルツェゴビナ東側展開部隊を第2展開部隊とし、連邦国防省とJNA司令部の直属部隊とした。コキッチ将軍が第2展開部隊の隊長に任命されたが、コキッチ将軍の乗ったヘリコプターが10月5日に撃墜された為、ミレ・ルチノヴスキー将軍が後任に就き、10月12日にはパヴレ・ストルガー上級大将がルチノヴスキー将軍の後任となった。

On 23 September, JNA artillery attacked the village of Vitaljina in the eastern part of Konavle and Brgat to the east of Dubrovnik.[19]Two days later, the Yugoslav Navy blockaded maritime routes to the city.[19] On 26 September, the JNA renamed its Eastern Herzegovina Operational Group the 2nd Operational Group and subordinated it directly to the Federal Ministry of Defence and the JNA General Staff.[24] Cokić was appointed the first commanding officer of the 2nd Operational Group but was replaced by General Mile Ružinovski on 5 October following the shooting down of Cokić's helicopter. Strugar replaced Ružinovski on 12 October.[16][25]

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 【其の2に続く】

 

 

 

 

エキストラ・ヴァージン・ココナッツオイルの作り方

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 9日 友引

        甲辰 日/戊寅 月/乙未 年 月相 7.6 小潮 

                          大寒 次候 水沢腹堅(さわみずこおりつめる)

          マヤ長期暦 13.0.2.2.8 マヤ365日暦 1 Pax  マヤ260日暦 5 Lamat

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 2.5℃ 湿度 61% (大阪 6:00時点)

 

 

ココナッツオイルがブームみたいです。


食べると痩せる魅惑の油 ココナッツオイルで体質改善 | KARAMEMO

  


ミランダ・カー愛用、ココナッツオイルの使い道が豊富すぎる! - NAVER まとめ

 

 

アルツハイマー病の予防・改善にも役立つようです。 

アルツハイマー病がどのように始まるのかは、まだわかっていませんが、脳の障害は、症状が出現する10年以上も前に始まっているとみられます。症状のない、発症前の段階においても、脳の中では害のある変化が起こっています。蛋白の異常な沈着により、脳のいたるところにアミロイド斑とタウ蛋白からなる神経原線維変化が生じ、もともとは健康であったニューロンが、効率よく機能しなくなってきます。時間の経過とともに、ニューロンは、相互に機能して連絡し合う能力を失い、最終的には死滅します。

やがて病変は、脳内で記憶を形成するのに必要不可欠な、海馬と呼ばれる構造体に広がります。ニューロンがさらに死滅するにつれて、影響を受けた脳領域は萎縮し始めます。アルツハイマー病の後期までに障害は広範囲に及び、脳組織は著しく萎縮します。

アルツハイマー病は、脳が栄養源であるブドウ糖を受け付けなくなることにより発症するという説があり、この為脳に栄養が届かずに萎縮していくプロセスみたいです。

通常、食事で糖質を取ると体内で糖質はブドウ糖に分解されます。このブドウ糖が人間が活動するのに必要なエネルギーとなっています。では、エネルギーの元ともなる糖質を食べるのをやめたらどうなるのか。当然、糖質を摂取しないので、ブドウ糖に分解されずエネルギーが不足してしまいます。ところが、人間にはもう一つエネルギー源となる物質があります。それが、「ケトン体」です。主食であるお米などの炭水化物を食べるのをやめるとお腹が空きますよね。人間は飢餓状態になると、体に蓄えてある脂肪を肝臓で分解し、ケトン体を作り出します。そして、そのケトン体がブドウ糖に代わってエネルギーとなります。

 

ココナッツオイルは脂肪として蓄積されず、ココナッツオイルは摂取するとすぐに肝臓でケトン体に代わります。

ブドウ糖を受け付けなくなった脳でもケトン体を栄養源として受け付けていることは分かっています。これが、ケトン体がアルツハイマー病を改善するシステムのようですね。

 

で、ココナッツオイルを買いましょうと値段を見ると、、、、高すぎです。完全にぼったくっていますね!! 

エキストラバージンココナッツオイル 474ml

エキストラバージンココナッツオイル 474ml

 

こっちは「こんな商品は買わない」という権利を使って、エキストラ・ヴァージン・ココナッツオイルを簡単に作っちゃいましょう。

 

 

 今回は近くのスーパーに売っていたこの商品を使いましたが、

ユウキ ココナツミルク(4号缶) 400ml

ユウキ ココナツミルク(4号缶) 400ml

 

 

 

こちらの方が良さそうです。

 

さて、エキストラ・ヴァージン・ココナッツオイルを作る工程はややこしいのでしょうか。。。。。いえ、簡単すぎます。ただ煮込むだけ。

 

缶をパカッと開けるとこんな感じです。 

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冬場は気温の関係で既にオイルが分離されています。これこそエキストラ・ヴァージン・ココナッツオイルです。すくってなめてみてください。美味しいですよ。

 

まあ、これをそのまますくい取ればいいんですが、別容器に移し変えたいのと缶の壁にこびり付いているオイルも余すこと無く取り出したいので煮込んでいきます。

 

 

スプーンを使ってフライパンや鍋なりにガバッと入れると、こんな感じです。

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 さぁ、煮込んで行きます。

 

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煮込んでいる時にスプーンで少量をすくって缶の中に入れ、缶やフタに残っているココナッツミルクをこそぎ落としましょう。

 

ドンドン煮込んでいくとこんな感じととなります。

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透明感が出てきているのが分かりますでしょうか。これ以上煮込んでも透明感が進むだけですので、これくらいで火を止めます。

 

そして、空きビンに入れます。

 

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今回400mlのココナッツミルクから1/4の100mlのエキストラ・ヴァージン・ココナッツオイルが取れました。

 

これを冷蔵庫で冷やせば白く固まります。パンに塗ったり、炒めものに使ったり、コーヒーに入れたり大活躍です。

 

どうですか♪簡単すぎますよね。クソ馬鹿高い市販のエキストラ・ヴァージン・ココナッツオイルなんて買う気しないんじゃないでしょうか。

 

まぁ、1回騙されたと思ってお試し下さい。

  

 

【山岡鉄舟 門生聞書】 仏教之要旨 其の1

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 5日 仏滅

        庚子 日/戊寅 月/乙未 年 月相 3.6 中潮 

                          大寒 初候 款冬華(ふきのはなさく)

          マヤ長期暦 13.0.2.2.4 マヤ365日暦 17 Muan  マヤ260日暦 1 kan

 

【今日の気象】 天気 晴れ 気温 6.5℃ 湿度 75% (大阪 6:00時点)

 

 

 

金剛般若波羅蜜多經に曰く、「世界非世界、是名世界(せかいはせかいにあらず、これをせかいとなづく)」と。

 

そもそも此の「世界非世界」とは、知らず、何の道理ぞ。

 

此れは是れ、參學の人、身命財を擲(なげう)ち棄て、自性の根源を見徹せんと志し、晝夜閒斷なく精神を勵まして徹骨徹髓、如何ん如何んと究め來り究め去り、生鐵を咬むが如くに工夫する時、一旦髑髏(どくろ)裏を穿過し來りて本來の面目に撞着(どうちゃく)す。

 

是時に方(あた)りては世界世界を失ひ、虚空は虚空を失ひ、王侯も其貴(とうと)きを失ひ、晋楚も其の富を失ひ、賁育(ほんいく)もその勇を失ひ、子都も其の美を失ひ、男女彼我も男女彼我を失ひ、謂はゆる海涸れて底を見る底の時節到來す。此の地位を是れ「世界非世界」とは說けるなり。

 

此れに至りて、正に名相の實相にあらず、言句の眞實に違ふことを了知して立派に名相言句を離る。之を文殊の根本智とも云ひ、如來の大圓鏡智とも云ひ、永覺大師は本源自性天眞佛と云ひ、老子は無名は天地の母と云ひ、古人は天地同根萬物一體などと云ふ。言ふ辭(辞・ことば)は替れども、皆此の根源を見徹するの謂ひに非ざるは無し。

 

偖(さて)、此の根源を見徹し來りて眼を瞠(みは)れば、天あり地あり山あり河あり、貴あり賎あり男あり女あり、今日の奉職者は奉職し商工者は商工し、農夫は耕作し、漁者は佃漁(でんぎょ)し、それぞれの事務上に於て毫釐(すこし)も罣碍(けいがい)無く、造次顚沛(ぞうじてんぱい)、頭々上に明らかに物々上に顯(顕)はれて、恰(あたか)も白日靑天に長安の大道を行くが如し。

 

之を差別智平等智後得智と云ひ、又普賢の妙行とも云ふなり。

 

偖、上の文殊の地位を占め、此の普賢の境界を得て世に處し事を理する時は、一切の言行動作みな慈悲三昧の中より運び出で來りて、爲す事作(な)す事悉(ことごと)く拔苦與樂の衆生濟度(しゆじようさいど)に非ざるは無し。此の地位を名づけて觀音三昧と云ふ。謂はゆる「慈眼視衆生(じげんしゆじようをみる)」とは此の事なり。

 

尤も、此の三心は三卽一なるが故に、古人は此の境界を文殊普賢大人の境界と云へり。

 

假令(たとえ)身は藁(わら)屋の中に居て、業は卑賤の勤に服(つ)くも、三界の主となりて生死を染まず涅槃に任せず、奉職商工耕作佃漁、いづれの業(なりわひ)に居り何れの勤に服(つ)くも宇宙無雙日(うちゆうにそうじつなく)、乾坤只一人(けんこんただいちにん)、活脫遊戲自在三昧(かつだつゆうぎじざいざんまい)なり。

 

此に至りて卽身成佛と稱(称)するも既に娘生(ろうせい)の好面に黥(いれずみ)し、娑婆卽寂光土(しゃばそくじやくこうど)と說くも更に好肉を剜(さき)て瘡(かさ)を生ず。

 

豈愉快にして目出度き世界ならずや。此の端的を「是名世界(これをせかいとなづく)」とは云ふなり。

 

 (続く)

 

 

 

【私的解釈】

 

金剛般若経に「世界非世界、是名世界(せかいはせかいにあらず、これをせかいとなづく)」とある。

 

一体、この「世界非世界(せかいはせかいにあらず」とは、どういうことを言っているのだろうか?

 

仏教の教えを学ぼうとする者は、己が肉体や精神や財産に対する執着を投げ捨てて、万物の根源を見極めようと決意し、昼夜休むこともなく精神を奮い起こして「真髄はこうなのか?いや違うのであろうか?」と究め尽くそうとするのだが、その努力は正に生鉄を咬むようなものである。だが、あらゆる工夫を積み重ねていくと、己の内から光が放たれて自分の頭蓋骨を突き抜けて、万物の根源を照らし出す瞬間がやってくる。

 

この瞬間、この世界は今までの世界ではなくなり、空間は空間を失い、王族からはその貴さが失せ、からはその栄華が失せ、秦の孟賁(もうほん)や周の夏育(かいく)のような勇者からはその勇が失せ、の美男子と言われた子都からはその美が失せ、この世のありとあらゆるモノがありとあらゆるモノであるということを失うこととなるのだ。言うなれば海が割れて隠されていた底が露(あらわ)となってしまうである。このような瞬間を「世界非世界(せかいはせかいにあらず」と言っているのである。

 

このような時に至っては、名は既に実態を表さず、言葉にされたモノと実態とは別のモノであったことを思い知り、あらゆるモノがその名前や形や言葉から引き離されるのである。この境地に至ることを文殊が説く「根本智(無分別智)」とか、如来が説く「大円鏡智」と言うのである。同じことを永覚大師は「本源自性天真仏」と言い、老子は「無名は天地の始め」と言い、いにしえの人は「天地同根万物一体」などと言っている。これらは言葉は違うけれども、どれも皆万物の根源を見極めようとして生み出された言葉なのである。

 

このような根源を見極める眼が備わると、目の前には天があれば地があり、山があれば河があり、高貴な者が居れば卑賤な者も居り、男が居れば女も居るという両極共存の対等な世界がただ広がり、この対等な世界の中で公僕は公僕に勤しみ、商工者は業を商いし、農夫は耕作をし、狩人は狩猟をし、その各々が従事する職業によって社会に身分制度が出来上がっているにもかかわらず、その職務が何のわだかまりもなく遂行されて、世の中が円満に回っているという奇跡のような有り難さを一瞬のうちに悟ることとなるのである。例えるならよく晴れた日に広々とした都の大通りを歩くと目に飛び込んでくる活気あふれる光景みたいなものだ。

 

こういう体験を(無)差別智・平等(性)智・後得智が働くといい、又普賢の妙行というのである。

 

さて、最初に記した文殊の境地の「根本智(無分別智)」と、この普賢の妙行の境地とを我がものとしてこの世の中を歩いて行き、目の前に現れる現象に対処する時、その人のあらゆる言行や身の振る舞いは、溢れだす慈悲のおもゐから湧き起こるものとなり、すること為すことのことごとくは、他人の苦を取り除き楽を与える衆生済度に他ならないこととなる。この境地を名付けて観音三昧と言う。いわゆる「慈眼視衆生(じげんしゅじようをみる)」とは、この境地を言うのである。

 

もっとも、この三心(文殊の根本智・普賢の妙行・観音三昧)は三位一体であるわけで、この三心を身につけている人と身につけていない人の境界を、いにしえの人は「文殊普賢大人の境界」と名付けているのだ。

 

この三心を身につける境地となれば、例えワラ小屋に住み、卑賤な仕事についていたとしても、三界の主となってこの世の中での生き死にを超越し、しかも涅槃の境地に安住もせずに、公僕・商工・耕作・狩猟のどのような職業のどんな仕事についていても、天に太陽が二つとないように、自分自身はこの世界で唯一無二の存在であることを心から信じることが出来、三界をいつでも自由自在に行き来できることになるのである。

 

このような境地になってしまえば、この世の中で即身成仏と念仏を唱えることが、若い女性の美しい顔にわざわざいれずみを入れるようなことと思え、娑婆卽寂光土(しゃばそくじやくこうど)と念仏を唱えることが、きれいな肌を刃物でえぐってわざわざかさぶたを生じさせることと思えてくるのである。つまり、あらゆる念仏がただの賢しらごとに思えてくるのである。

 

どうだ、愉快で素晴らしい境地ではないか。たちまち起こるこの境地の有り様を「是名世界(これをせかいとなづく)」というわけなのである。

 

 

(続く) 

 

 

 

【雑感】

 

この文章を理解するに当たり仏教用語満載でなかなか難しいなと思いながら、ネットで色々検索していると一枚の絵図に導かれた。山岡鉄舟が言っている世界とはこの絵図に広がる世界なのではないだろうかと、即座に合点した。

 


熈代勝覧(きだいしょうらん)4K版-江戸の絵巻図9分10秒のパン映像 - YouTube

 


熈代勝覧(きだいしょうらん)-江戸の絵巻図9分30秒のパン映像 - YouTube

 

熈代勝覧 - Wikipedia

https://www.teikokushoin.co.jp/teacher/junior/re_exp/time_t/time_t_09.pdf

 

 

 この絵図の世界には江戸時代当時のそのままの姿が描き出されている。

 

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上の矢印はゴザを敷いてものもらいをする乞食手前の武士の雪駄を直している職人。草履は履き捨てていたが、武士や商人が履いた雪駄は高級品であった為、其の都度補修して履いていた。

 

赤囲みは辻占い師。女性が2人並んで、手のひらをかざしています。

 

オレンジの囲みは琵琶法師。琵琶法師は盲人なので杖をついて歩いています。

 

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上の矢印は木製の車いすに乗った障害者。江戸時代は脚気を患い不具となる者が多かったようです。

 

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上の絵の左の矢印は虚無僧、右の矢印はお供を連れて馬に乗る武士

 

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一番右の矢印は、お供を連れずに馬に乗る女性、その他の矢印は、杖を持って歩く老人たち。

 

赤囲みは、独り者の女性が引っ越ししている様子。オレンジの囲みは、杵をかついで臼を転がしながら歩く搗(つ)き米屋。呼ばれれば、玄米を精米したり、お餅をついたりした。

 

青囲みは、読み売り。笠で顔を隠して、お上の批判や、仇討ちや心中や殿中での事件を読み上げながら瓦版売っている。読売新聞の社名はここから来ている。

 

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矢印は、ワラをまとって物乞いをしながら歩く乞食。

赤囲みは、琵琶法師を紐で引く盲人。

 

 

私は、学校の教育で江戸時代は士農工商という身分制度で固められた不自由な社会であったと教えられた。士農工商の下には穢多非人という最下層の人たちが居て差別で苦しめられたとも教えられた。

 

この絵にはその不自由な社会が垣間見えない。乞食が町への入り口という特等席でものもらいをしたり通りを物乞いをしながら歩き、木製の車いすに乗った人物や盲人の琵琶法師や按摩師が通りの真ん中を当然のごとく移動し、周囲もそれを当たり前のこととしている有り様。

 

杖をついた老人が普通に町を闊歩し、女性が一人で馬に乗ったり、単身の女性が引っ越しをしている。この通りでは、あらゆる職業の人々、あらゆる階層の人々が自由に行き交っている。もしかしたら、この絵図からは今の世の中よりも自由の風を感じられるのではないだろうか。

 

 

このような根源を見極める眼が備わると、目の前には天があれば地があり、山があれば河があり、高貴な者が居れば卑賤な者も居り、男が居れば女も居るという両極共存の対等な世界がただ広がり、この対等な世界の中で公僕は公僕に勤しみ、商工者は業を商いし、農夫は耕作をし、狩人は狩猟をし、その各々が従事する職業によって社会に身分による階層が出来上がっているにもかかわらず、その職務が何のわだかまりもなく遂行されて、世の中が円満に回っているという奇跡のような有り難さを一瞬のうちに悟ることとなるのである。

 

例えるならよく晴れた日に広々とした都の大通りを歩くと目に飛び込んでくる活気あふれる光景みたいなものだ。

 

このように山岡鉄舟が言っていることは、上の絵図を見れば即座に腑に落ちることとなる。そして、このような自由あふれる雰囲気が、ある時気づいたら自然と出来上がっていたとは、とても思えない。

 

岡潔が以下のように言っている。

白隠禅師が大悟して、郷里静岡県のどこかの町で寺の住持をしていた。その時その町の豆腐屋の娘がいたずらをして子を産んだ。娘は父親が怖しかったので、父親は禅師に傾倒していたから、禅師の子だといえば叱られないだろうと思ってそういった。ところが父親は裏切られたと思ってますます腹を立て、寺へ行って黙ってその子を禅師に押しつけた。

 

すると禅師も黙ってその子を受け取って、乳を貰い歩いて育てた。丁度季節は冬で、その日は朝からはげしく雪が降っていた。禅師は赤ん坊が風邪を引かないように懐に入れていたわりながら、悪い路をいつものように乳を貰いに歩いていた。その姿が見るから神々しかった。娘はそれを見ると、泣いて父親に実を告げた。寺の教化は期せずして遠近に及んだということである。

 

白隠禅師の行いは、禅師が善行を行っているのではなく、善が自ら行われているのである。自分が善行を行うという善行を、禅では染汚ぜんなされた善行という。自分がという穢いものが入ってけがされてしまっているのである。勿論真の善行ではない。

 

シュバイツァーはアフリカで黒人の病気を直し、虫一つ殺さなかった。実に感心であるが、まだ自分が善行を行うという域を出られなかったのである。シュバイツァーの場合は前頭葉が命令して運動領(頭頂葉と前頭葉の中間にあって運動を司る)が行うから、自分が行うになるのである。

 

善行の素も頭頂葉に実るので、そうすると頭頂葉が運動領に命令することになるから、意識しないで善行を行うことになるのである。娘は善行を行うことは出来なかった。しかし善行の崇高さはよく分かったのである。テレビかラジオにたとえると、善に対する受信装置は、日本民族は皆持っているらしい。

岡潔講演録(10):【 20】 心打つ真の善行 (意識しないだけに崇高)

 

日本では、仏教の教えが日常の中に融け込んでいるのだ。上の岡潔の表現を借りれば、仏教の教化が期せずして遠近に及んでいるのである。

 

最初に記した文殊の境地の「根本智(無分別智)」と、この普賢の妙行の境地とを我がものとしてこの世の中を歩いて行き、目の前に現れる現象に対処する時、その人のあらゆる言行や身の振る舞いは、溢れだす慈悲のおもゐから湧き起こるものとなり、すること為すことのことごとくは、他人の苦を取り除き楽を与える衆生済度に他ならないこととなる。この境地を名付けて観音三昧と言う。いわゆる「慈眼視衆生(じげんしゅじようをみる)」とは、この境地を言うのである。 

 

このような教化が遠近に及んでいる日本人は、上の白隠禅師のような大悟した人物と親しく身近に接することで山岡鉄舟がいう 「慈眼視衆生(じげんしゅじようをみる)」という境地がどういう状態であるのかを知っている。岡潔風に言うならば受信装置を持っているのである。

 

この日本人の稀有な資質を戦後の教育は無茶苦茶に破壊したのだ。今の教師の中に「慈眼視衆生(じげんしゅじようをみる)」の境地に達した人物はほとんどいないであろう。

 

現代の日本の町の風景を見てみれば良い。障害者が当たり前のように車いすで行き交う姿は滅多に見かけないし、ベビーカーを押している女性の姿もあまり見ない。そして、乞食の存在は町並みの影に隠されてしまった。

 

私自身が持つ善に対する受信装置のことを今一度振り返ってみたいと思う。

 

 

【マヤ暦】 イスラム国による日本人誘拐と日本赤軍の点と線

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 2日 先勝

        丁酉 日/戊寅 月/乙未 年 月相 1.6 大潮 既朔

                          大寒 初候 款冬華(ふきのはなさく)

          マヤ長期暦 13.0.2.2.1 マヤ365日暦 14 Muan  マヤ260日暦 11 Imix

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 1.4℃ 湿度 41% (大阪 6:00時点)

 

 

【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる - まどゐ。

【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる(続編) - まどゐ。

 

 

 

上の記事を書いたところ早速大きな出来事が起こった。人質になられているお二人が早期に無事解放されることを願ってやみません。

ISIS、日本人2人の殺害警告身代金要求

2015.01.20 Tue posted at 18:19 JST

 

(CNN) イスラム過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」は20日、インターネット上に日本人2人の殺害を警告する映像を公開した。日本に対し、72時間以内に身代金2億ドル(約230億円)を支払うよう要求している。

 

映像では、オレンジ色の服を着てひざまずいた男性2人の後ろに、覆面をした黒装束の男が刃物を持って立っている。背景には荒野が広がっている。

 

2人は昨年8月にシリアで拘束された湯川遥菜さん(42)、フリージャーナリストの後藤健二さんとみられる。日本のメディアによると、在ヨルダンの日本当局者は湯川さんの解放に向け、関係組織と接触するなど努力を続けていた。

 

男は警告の理由として、イラクとシリアでISISと戦う米主導の有志連合を日本が支援していることを挙げた。安倍晋三首相に向け、「日本はイスラム国から8500キロも離れているのに進んで戦いに参加した」と非難している。

 

中東歴訪中の安倍首相は20日、警告映像の情報を受けたエルサレムでの記者会見で、国際社会はテロリストに屈することなく対処しなければならないとの考えを示した。身代金支払いや解放交渉の可能性について明確には否定しなかった。

 

菅義偉官房長官は映像の真偽を確認中としたうえで、事実だった場合は「強い憤りを覚える」と述べ、政府として「関係各国と連携し、解決に向けて全力を挙げる」との方針を示した。

 

ISISは昨年8月以降、米国人と英国人の人質の殺害映像を相次いで公開している。

 

米国は8月にイラクでISISへの空爆を開始し、9月からはアラブの有志国とともにシリアにも空爆を拡大した。

 

日本は憲法で自衛以外の軍事行動が認められず、空爆には参加していない。安倍首相は18日、エジプト・カイロでの演説で、ISIS対策の人道支援などとして2億ドルの資金を拠出すると表明していた。


CNN.co.jp : ISIS、日本人2人の殺害警告 2億ドル要求 - (1/2)

 

 

この事件を受けてマヤ暦によって今年とシンクロしている1972年(昭和47年)から1974年(昭和49年)の出来事を精査していると興味深いことが分かった。

 

まずは、イスラム国(ISIS)とはどういう組織なのだろうか?


池上彰が読み解く「イスラム国の真の姿」 | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

2015年01月07日

 

米国のノーム・チョムスキーの版元として知られるセブン・ストーリーズ・プレスは、いわゆるビッグ5と呼ばれる大手出版社が、非アメリカ的として出さないような問題作を出し続ける特異な存在。そのセブン・ストーリズ・プレスが先月出版をし、話題になっている1冊の本がある。

 

著者はイタリア人の女性エコノミストのロレッタ・ナポリオーニ氏。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで哲学修士号を取得した彼女が一躍有名になったのは、テロ組織のファイナンスを専門とした2005年の著作『Terror incorporated:tracing the dollars behind the terror networks』からだ。パレスチナ解放機構PLO)やアイルランド共和国軍IRA)などを分析してきた彼女がいち早く注目していたのが「イスラム国」だった。

 

これについてまとめた本が、日本でも文藝春秋から1月7日に発売になる『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』。「イスラム国」とイスラエル建国と比較するなど、「イスラム国」を単なる武装組織としてとらえてきたこれまでの報道とはまったく違うユニークな切り口の本となっている。

この本によれば、「イスラム国」のリーダー、バグダディはアルカイダの失敗を、米国という「あまりに遠い敵」に第二戦線を開いたこと考え、ジハードに「建国」の意味を初めて持ち込んだのだという。領土をとり、石油を確保し、経済的に自立。支配地域には、電気をひき、食糧配給所を設け、幼児に対する予防接種まで行う。その最終目標は、英仏によってひかれた中東の国境線をひきなおし、失われた真のイスラム国家を建設することだという。

その話題の書を、自らも中東を長年取材してきた池上彰氏が解説、その全文を掲載する。
(編集部)
 
「過激テロ国家」は思い込みなのか
 

日本国内では、北海道大学の学生が「就職活動に失敗したから」という理由で参加しようとして注目を浴びた「イスラム国」。世界各地から多くの若者を引き付ける磁力を持った組織が、日本の若者たちをも誘引しようとしていたことは、衝撃を持って受け止められました。

 

2014年12月に公表された警察庁の「治安の回顧と展望」は、北大生のような若者が出たことについて、「今後も参加を企図する者が出てくる可能性は否定できない」と警戒感を表明しています。

 

リーマン・ショック以降、世界各地が陥った不況と、それに続くEUのユーロ危機は、世界各地で閉塞感を強めています。そんな現状を打ち破ってくれそうな新たな希望の星。先進国の一部の若者たちにとって、それが「イスラム国」という存在なのでしょう。

 

第二次世界大戦後、東西冷戦の中にあって、西側先進国の若者たちに魅力があったのは「社会主義」でした。しかし、当時のソ連や中国の実態が伝わるにつれ、既存の「社会主義国家」に失望した若者たちは、過激な組織へと傾斜します。彼らが目指した地は、やはり中東。ただし、イラクやシリアではなく、パレスチナでした。

 

世界各地から集まる若者たち

 

イスラエル建国によって故郷を追われたパレスチナ難民の中から誕生した過激組織(たとえばPFLP=パレスチナ解放人民戦線など)には、世界各地から若者が馳せ参じました。日本からは赤軍派が参加。「日本から来た赤軍」という意味で「日本赤軍」と呼ばれました。彼らは、1972年、イスラエルのロッド空港で無差別テロを決行。民間人ら100人以上が死傷するテロ事件を引き起こしました(彼らが日本赤軍と呼ばれるようになるのは、この事件の後)。

 

当時の日本は、安保条約の自動延長に反対する学生運動が、1970年を境に急速に衰退。学生運動参加者の中に閉塞感が強まっていました。彼らにとって、中東で「人民のために戦う」という組織は、とても魅力的に映ったのです。

 

しかし、東西冷戦が終わり、イラン・イラク戦争湾岸戦争などを経て、中東情勢も様変わり。パレスチナ自治政府が誕生したものの、パレスチナ人の自治組織は、ファタハハマスに分裂し、かつてのような影響力を失いつつあります。

 

そして現代。「社会主義」は無残な失敗に終わり、ソ連から変わったロシアや中国は、古典的な帝国主義丸出しの戦略を打ち出し、西側先進諸国のひんしゅくを買っています。

 

その一方、「社会主義」に勝ったはずの資本主義国も、新自由主義の下、格差が拡大し、人々の不満は高まっています。

 

社会主義も資本主義もダメ。中東の既存のパレスチナ人組織も信用できない。そんな八方塞がりを打破してくれそうだと人々に期待を持たせたのが、「アラブの春」でした。チュニジアの独裁政権を倒した民衆の民主化運動は、瞬く間にエジプト、リビアに飛び火。次々に独裁政権を打倒し、遂にシリアにまで到達しました。

 

しかし、シリアのアサド政権はしぶとく、ロシアやイランの後押しもあって、容易に倒れることはありません。その間に、リビアは内戦状態となり、エジプトも軍事クーデターで軍事政権に逆戻り。若者たちは、再度絶望することになったのです。

 

こうなると、シリアとイラクの双方で反政府活動を展開する「イスラム国」こそが、最後の希望になってきます。

 

では、「イスラム国」とは何者なのか。それをいち早く解き明かしたのが、この本です。「イスラム国」とは、単なる過激派の集団ではありません。それは、グローバリゼーションと最新のテクノロジーによって成長した「国家」なのだと著者は指摘します。彼らの「近代性と現実主義」が、これまで成功してきた理由です。

 

著者ロレッタ・ナポリオーニは、ここで衝撃的な比喩を持ち出します。イスラム国」の第一義的な目的は、「スンニ派のムスリムにとって、ユダヤ人にとってのイスラエルとなることである」というのです。「かつての自分たちの土地の権利を現代に取り戻すこと」であり、「たとえ自分が今どこにいるとしても、必ずや守ってくれる宗教国家」になること。この目標は、ユダヤ人がイスラエルを建国した目的とそっくりです。これこそ著者ならではの独自の視点です。

 

そして、「イスラム国」を分析すればするほど、この「国家」が、洗練された組織であることがわかってきます。

 

イスラム国」は封建国家ではないのか

 

私たちが日本国内で接する「イスラム国」のニュースには、覆面した男たちが銃を高く掲げて登場します。あれだけを見ていると、イスラム国」は、単なる武装集団のような印象を受けます。しかし、その内実は、しっかりとした財政基盤を持ち、決算書も作成し、都市のインフラを整備し、新しい市場を建設。住民の心をつかむ政策を実施していると、著者ロレッタ・ナポリオーニは解き明かします。驚くべきことではありませんか。「イスラム国」は、時代錯誤の封建国家ではなく、近代化された国家だというのです。

 

そうなると、近未来、イラクとシリアにまたがる地域に誕生した「イスラム国」を、国家として承認する国が出てくるのでしょうか。「国家」として認められる要件は、領土があり、住民がいて、周辺国から国家として承認されることです。そう考えると、「イスラム国」は、限りなく国家に近い存在と言えるでしょう。

 

イスラム国」のカリフ(預言者ムハンマドの後継者)を宣言したアブ・バクル・アル・バグダディは、イラク国内の米軍の収容施設に入っていたことがあります。

 

2009年、この施設を出所した彼は、ニューヨーク州出身の米兵に向かって、「ニューヨークでまた会おう」と言ったそうです。これを聞いた米兵は、冗談だと受け止めましたが、カリフ制国家としての世界征服を目指す「イスラム国」が急成長している今、これは冗談としては受け止められなくなっているのです。 

 

【参考】アラブの春 - Wikipedia

 

 

そう、イスラム国は、昭和48年に暗躍したパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と相似した組織なのだ。このパレスチナ解放人民戦線(PFLP)が昭和48年前後に起こしたテロは以下の通り。

1970年9月6日西ドイツフランクフルトTWA航空機と、スイスチューリッヒスイス航空機など5機をほぼ同時にハイジャックし、ヨルダンにあるイギリス空軍用に使われていたドーソン基地に着陸。服役中のゲリラ解放を要求。これにヨルダン国王が激怒。ヨルダン内戦の引き金になる(詳細はPFLP旅客機同時ハイジャック事件を参照)。
1973年7月20日日本赤軍丸岡修を含む混成メンバーが日本航空機をハイジャックした。いわゆるドバイ日航機ハイジャック事件
1974年1月31日日本赤軍と共同でシンガポールロイヤル・ダッチ・シェル石油精製施設を爆破し、その後船舶をシージャックした(詳細は「シンガポール事件」を参照)
1974年2月6日日本赤軍と共同で、シンガポール事件を行ったもののシンガポール当局に包囲されていた犯人グループの解放を目論み、在クウェート日本大使館を占拠した(詳細は「在クウェート日本大使館占拠事件」を参照)。

 

【関連組織が起こしたテロ】

ミュンヘンオリンピック事件ミュンヘンオリンピックじけん)は、1972年9月5日、旧西ドイツミュンヘンパレスチナ武装組織黒い九月」により行われた人質事件。実行グループの名前から「黒い九月事件」とも呼ばれる。ミュンヘンオリンピック開催中に発生し、イスラエルアスリート11名が殺された殺人事件として知られる。

 

あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器保養所浅間山荘」において連合赤軍人質をとって立てこもった事件である。

 

テルアビブ空港乱射事件(テルアビブくうこうらんしゃじけん)は、1972年5月30日イスラエルテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現・ベン・グリオン国際空港)で発生した、後に「日本赤軍」を名乗る日本人極左過激派組織(以下、「日本赤軍」と表記)によるテロ事件。別名はロッド空港乱射事件。また、英語では「Lod Airport massacre(ロッド空港の虐殺)」と呼ばれる。日本赤軍側はリッダ闘争と呼ぶ。リッダ(Lydda)はロッドの非ヘブライ語での名称である。

 

ハーグ事件(ハーグじけん)とは、1974年9月13日に、オランダハーグで発生した、日本赤軍によるフランス大使館占拠事件。

 

 

パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と日本赤軍がガッツリ繋がっていることが分かる。

 

 

そして、今回イスラム国に拉致されている後藤健二さんについて興味深い記事があった。

 

【インタビュー】国際ジャーナリスト・後藤健二〜それでも神は私を助けてくださる〜

2014年5月30日11時32分

混乱と激戦が続くシリア。4年前の内戦勃発以来、この地で取材を続ける一人の日本人ジャーナリストがいる。日本基督教団田園調布教会の信徒であり、国際ジャーナリストとして活躍する後藤健二さんだ。後藤さんは映像制作会社を経て、1996年に映像通信会社「インディペンデント・プレス」を設立。以来、世界各国の紛争地帯、貧困やエイズなどの問題を抱える地域を取材。その様子を、NHKニュースや各ドキュメンタリー番組、テレビ朝日報道ステーション」、TBS「ニュース23」などを通して伝えている。近年では、主にシリアに出向き、取材を重ねている。

 

シリアへの出国を翌日に控えた5月27日、後藤さんにインタビューをする機会を得ることができた。柔和な笑顔で出迎えてくれた後藤さんは、「明日、シリアに行ってきます」とどこか楽しい所にでも旅へ行くかのように告げた。今回の取材は、来月3日に控えたシリア大統領選が主な目的だという。「人々の心が乱れ、不安な今だからこそ、日本の人々に訴えたいことがある」とその胸のうちを話してくれた。

「私が取材に訪れる場所=『現場』は、『耐えがたい困難がある、けれどもその中で人々が暮らし、生活を営んでいる場所』です。困難の中にある人たちの暮らしと心に寄り添いたいと思うのです。彼らには伝えたいメッセージが必ずあります。それを世界に向けてその様子を発信することで、何か解決策が見つかるかもしれない。そうすれば、私の仕事は『成功』ということになるのでは」

彼が神の計画のうちに、信仰を持ち、救われたのは、何がきっかけだったのだろうか。きっかけは、ある冬のクリスマス礼拝だったという。当時、クリスマスの「イベント」の一つとして、教会を訪れた後藤氏は、そこで何か大きな存在がこの世にいることに気づき、そして今までのどこか傲慢であった自分の人生を大きく悔いた。90年代初めの出来事であった。

すでに、国際ジャーナリストとして駆け出していた彼は、常に「死」と隣り合わせにいた。そのことを不安や恐怖に思わなかったわけではない。紛争地に出向くときは、ほとんど一人で飛行機に乗り、現地で通訳やドライバーなどとチームを組む。しかし、日本から一人で危険地帯に出向き、そこで死を迎えるようなことがあれば・・・。

「もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と後藤さん。しかし、当時の牧師に「われわれの信じる神様は、われわれが死ぬときのためにいらっしゃるのではないのですよ」と咎められ、はっとした。それからは、毎日生きていることに感謝し、神様に守られ、今も生きていることに感謝しているという。

受洗後の歩みの中でも多くの奇跡を目の当たりにしてきた。当時、混乱を極めていたチェチェン共和国。まだ取材経験の浅かった後藤さんは単身でチェチェンに向かった。チェチェン行きの飛行機では、隣の席にスペインから来たジャーナリストたちがいた。どこに泊まるのか、通訳はどうするのか——何もかも決まっていない状況だったが、彼らがすべてを手配してくれた。初めて会った若き日本人ジャーナリストに。

「何か大きな力に突き動かされている気がしました。彼らに出会わなかったら、チェンチェンを取材することはおろか、生きて帰って来られたかもわかりません。神様が守ってくださったとあの時も感じました」

シリアや他の紛争地での取材中、大きな選択に迫られる時がある。どちらの道に行ったら安全に目的が遂行できるか。まさに命をかけた「選択」だ。その時にいつも彼の頭をよぎるのは、「主なる神を試してはならない」(マタイ4:7)という聖句だった。選択を迫られたとき、「自分は神様を試しているのではないか?」と常に頭で考えながら、祈り、そして決断するという。父なる神は、決して自分を見捨てない。その言葉を信じての決断だ。

最後に後藤氏は、小さな聖書を差し出してくれた。いつも取材に出かけるときに手放さず持っている聖書だという。十数年前に同教会の牧師から頂いたものだと言い、大切そうにページをめくっていた。そこには、「神は私を助けてくださる」(詩篇54:6)という言葉が。「この言葉を、いつも心に刻み込んで、私は仕事をしています。多くの悲惨な現場、命の危険をも脅かす現場もありますが、必ず、どんな方法かはわかりませんが、神様は私を助けてくださるのだと思います」

柔和な笑顔の奥に秘められた強い信仰。何者かに全てを委ねた安心感と、それに背中を押されて飛び立っていく彼の姿は、キリスト者であるがゆえの愛ある強さなのではないかと感じた。人々の心に寄り添った彼のシリアからの言葉に、祈りをもってこれからも耳を傾けていきたい。

【インタビュー】国際ジャーナリスト・後藤健二〜それでも神は私を助けてくださる〜 : インタビュー : クリスチャントゥデイ

 

 

後藤さんが信徒となっている日本基督教団について調べてみる。

こんなに怪しい日本基督教団をどう思いますか? やっぱり「平和の国際連帯」ですか(笑) 会員番号4153番

 

この事件にも繋がって来るようである。

イラク日本人青年殺害事件 - Wikipedia

 

 

まとめてみると、

 

イスラム国(ISIS)→パレスチナ解放人民戦線日本赤軍・・・日本基督教団後藤健二→アグネス・チャン氏

 


アグネス・チャン 友人の後藤さん拉致にショック (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

 

 

上の池上彰さんの記事にこのようにある。

イスラム国」は、単なる武装集団のような印象を受けます。しかし、その内実は、しっかりとした財政基盤を持ち、決算書も作成し、都市のインフラを整備し、新しい市場を建設。住民の心をつかむ政策を実施している

 

この記事は簡潔に書かれているが、決算書を作っているといういことは、イスラム国には収支を報告するべき利害関係者が存在するということだ。イスラム国に対して資金を提供(投資)している国やら組織やらが存在しており、イスラム国がテロ活動によって強奪したお金から配当を得ている悪魔のような集団が存在するのである。

 

上に記した組織と個人の関係が繋がるとすれば、その悪魔のような集団は日本人の身近に存在するかも知れないのである。

 

 

ここまで調べて、改めてマヤ暦とシンクロする時代の出来事の中で政治に関する事象を振り返ってみる。

 

1889年(明治22年)

  2月11日 森有礼文相が刺殺される

10月18日 大隈重信外相が爆裂弾による襲撃を受け右脚を失う

10月25日    黒田内閣総辞職(三條暫定内閣

 

1972年(昭和47年)

 6月17日    佐藤栄作首相退陣表明。

12月18日   アメリカ軍、北爆再開(ベトナム戦争

10月17日   第四次中東戦争

12月20日   バスク分離主義者が政府によって処刑されたことに対する報復として、

         首相のルイス・カレロ・ブランコがマドリードで暗殺される。

 

内外の閣僚に対するテロ事件や内閣の総辞職そしてベトナム戦争と第4次中東戦争

 

これを見れば、2015年から2016年にかけて世界は荒れると言わざるを得ません。日本国内でもテロ事件が起こるでしょう。備えだけはしておきたいものです。

 

ただ、前の記事にも書いたように嘘は必ず暴かれる時代の流れとなっています。これからも影で暗躍している亡者共がどんどん日の元にさらけ出されてくることでしょう。

 

マヤ暦のシンクロは侮ることが出来ません。

 

 

【参考サイト】 

蘇る日本赤軍の悪夢

 


安倍首相がISと戦う国々を支援すると発言した直後に身代金が要求されたが、ISの黒幕は米国の疑い | 《櫻井ジャーナル》 - 楽天ブログ

 

 

【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる(続編)

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 12月 1日 赤口

        丙申 日/戊寅 月/乙未 年 月相 29.1 朔

          大寒 初候 款冬華(ふきのはなさく)

          マヤ長期暦 13.0.2.2.0 マヤ365日暦 13 Muan  マヤ260日暦 10 Ahau

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 3.7℃ 湿度 54% (大阪 6:00時点)

 

 

 

マヤの長期暦はグレゴリオ暦で紀元前3114年8月11日にカウントをスタートした。

 

紀元前4千世紀にどのような世界が広がっていたのかを記す。

紀元前3114年8月11日にカウントをスタートした長期暦が一巡するのが1,872,000日後。そして、その日が西暦2012年12月21日であったことから「世界の終わり騒動」があったことは記憶の新しいことと思います。

 

ここに来て計算の不備から本来は2015年がマヤ長期暦の終わりだったと騒ぎ立てるヤカラ共が居てますが、こういう人たちは不安を煽って楽しんでいる一種の悪魔ですから相手にしないのが一番です。

 

世界の終わりなど来るわけがなく、ただ新しい時代の幕が開かれるだけなのです。ただ、このマヤ長期暦の1,872,000日の一巡が私たちが生きている時代にやって来た意味は軽いものではありません。遙か昔にマヤ人達が考えた宇宙時間を写しとっと長期暦の一巡。その一巡したその先の時代をマヤ人達は希望あふれる神が住む時代だと考えたはずです。1,872,000日後に地球で生活している現代人の私たちはマヤ人の目から見ると神そのものなのです。しかしながら、その神が古代と同じようにあいも変わらず欲望にまみれて争い合っている現状。。。。

 

マヤ人達はマヤ文明の時代から1,872,000日も経てば人間が神に進化するだろう。1,872,000日経っても神になっていなければ人類は滅亡するであろうと考えていたようです。こういう背景の中で、日本人の果たすべき役割が高まっています。上の年表を見て下さい。

 

 

日本人は紀元前3500年から今この現代まで日本人以外の他の民族に国土を征服されたことがありません。上の年表のメソポタミア文明・シュメール文明・エジプト文明黄河文明そしてマヤ文明は他民族に国土を蹂躙され征服されて消え去りました。地球上で日本だけが現代まで連々と紀元前3500年の文明を継いで来ているのです。この事実はとてつもなく大きいです。なぜ、日本人だけがそれを出来たのかを歴史を振り返って確認することが今、日本人に求められていると思います。

 

話を戻します。

 

今年のマヤ暦の元旦は、4月2日です。

 

そして、マヤ暦の元旦の日のツォルキン(マヤ暦の詳細はこちら:【改訂版】マヤ暦を使った本場グアテマラの占いを紹介する【KINの算定】 )は、不思議なことに4種類のキャラクターが順番に現れます。

 

① 青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ)

② 黄色い人(Eb/エブ・E/エー)

③ 赤い地球(Caban/カバン・No'j/ノッホ)

④ 白い風(Ik/イク)・Ik’/イック)

 

このマヤ暦元旦、マヤ365日暦の0Popの日のマヤ260日暦のツォルキンは特別なものとされ、マム(Mam)と呼ばれていました。言うならば、その年の太陽神です。

 

特徴は以下のとおり。

 

① 青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ)・・・天界を司る神

  世界の4つの世界(天界・生の世界・人間界・死の世界)を司る全知全能の神

 

② 黄色い人(Eb/エブ・E/エー)・・・生の世界(お母さんのお腹の世界)を司る神

  天界から人間界に生まれ出るものに対して使命を与え、守護する神

 

③ 赤い地球(Caban/カバン・No'j/ノッホ)・・・人間界を司る神

  生まれ出てきた人間に対して宇宙の叡智を与える神  

 

④ 白い風(Ik/イク)・Ik’/イック)・・・死の世界を司る神

  死に行く人間の肉体から魂を抜き取り、次の生に誘う神

 

 

マヤ暦の昨年(2015年4月1日まで)のマムは、青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ)で今年(2015年4月2日から)は、黄色い人(Eb/エブ・E/エー)です。

 

昨年を振り返って見て下さい。国内では、嘘がバレたことによる不祥事が多かったですよね。全知全能の青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ)の力の前で人間の自分勝手な小賢しい嘘など無駄なのです。世界を見ても特定の国が己の欲望の為に世界を思い通りにしようとする企みはスムーズに進まなかったと思います。天が望まないことは阻止された年だったと言えるでしょう。

 

今年は、黄色い人(Eb/エブ・E/エー)の力により日本人の忘れている使命を思い出す年となります。マヤ暦は輪廻転生をその思想としています。日本人の使命は縄文時代から連綿と遺伝子に刻み込まれて現代の人に受け継がれて来ています。この使命を思い出し、行動に移す人が増えるでしょう。

 

これは世界の各民族にも言えます。イスラム教を信仰する民族、イスラエルユダヤ人、ロシアの人々等、各民族の遺伝子に組み込まれた使命をそれぞれが思い出し、行動に移す人が増えます。結果、各国が右傾化することは避けられません。世界各地で様々な対立が浮かび上がって来るでしょう。しかしながら、各民族の遺伝子には人類共通の使命も刻まれており、その使命を思い出し、行動に移す人も少数ですが出て来ます。特に日本人にこの傾向が強く出て来ます。

 

 

ここで、昨日の記事(【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる )を振り返り、2015年について、シンクロしている時代の年表を対比して言えることを列挙していきます。

 

 

2015年の見通し

 

昨年から継続して、気候の極端な変動が顕著となり、これを起因とした洪水、大雨、寒波、酷暑、地すべり等の災害が多発する年となりそうです。

 

これも昨年から継続して火山活動が活発な年となります。マヤ暦において今年とシンクロしている昭和47年と昭和49年に噴火した九州の阿蘇山、桜島、明治21年に噴火した会津磐梯山のある東北地方の活火山そして三宅島のある小笠原諸島の活火山も注意が必要だと思います。

「地理院地図」に西之島付近の噴火活動関連情報を掲載しています -12月4・10日に撮影した西之島-|国土地理院

 

火山活動と連動して地震も多い年となりそうです。

 

昨年そして昭和47年~49年に航空機事故が頻発しています。今年も東南アジア方面の航空機には特に注意が必要だと思います。

 

昭和47年~49年に日本赤軍というテロリスト集団が暗躍しています。今年は日本国内の特定集団によるテロ活動に注意が必要だと思います。

 

昭和47年のイギリスによる北アイルランド問題と昨年のロシアによるウクライナ問題がシンクロしており、昭和49年の中国と南ベトナムとの西沙諸島の戦いと昨年の南沙諸島での石油採掘を巡るベトナムと中国と衝突 もシンクロしています。領土をめぐる紛争が今年も継続して起こりそうです。

 

明治23年に起きたアメリカでのインディアン虐殺(ウンデット・ニーの虐殺)と最近の中国国内の少数民族への民族浄化がシンクロしています。中国では今年もこれに関連した出来事が起こると思います。

 

1893年恐慌 - Wikipediaそして、昭和48年のオイルショックとのシンクロを考えると経済面で日本も苦しい年となるでしょう。発端は情報を統制している中国からとなりそうです。宇宙の流れが他人や他国を欺く嘘を許容しない流れとなっている中で、中国がこの流れに逆らい続けることも限界があります。

  

 

暗い出来事ばかりを列挙しましたが、幸運な事に昨年(2015年4月1日まで)のマムが青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ)で、今年(2015年4月2日から)が黄色い人(Eb/エブ・E/エー)です。青い手(Manik/マニク・Kiej/キエッヒ)は人類の自分勝手な行動を許しません。そして、黄色い人(Eb/エブ・E/エー)は人類の忘れている使命を思い出させてくれ、使命を実行する者を守護してくれます。この使命遂行の歓びの前では、どんな困難も小さなこととなるのです。

 

繰り返して書きますが、神代が今に続く日本人が世界の中で果たす役割の重要性が高まっています。古代のマヤ人から見ると今を生きる私たちは神そのものなのです。マヤ暦によって託された、今は亡き古代マヤ人のおもゐに応える為にも、私たち日本人ひとりひとりが心の奥に眠っている使命を思い出す時なのだと思います。

 

 

 

【マヤ暦】 2015年をマヤ暦で読み解いてみる

 

【今日のこよみ】旧暦2014年 11月 29日先負

        乙未 日/戊寅 月/乙未 年 月相 28.1 中潮

                          小寒 末候 雉始[句隹](きじはじめてなく) 

 

【今日の気象】 天気 曇り 気温 3.6℃ 湿度 67% (大阪 6:00時点)

 

 

2015年の世の中がどのようになるかをマヤ暦を使って読み解いて行く。

 

一つ強調しておきたいことは、西暦では1月1日で新年となるのだが、マヤ暦ではまだ新しい年が到来していないということ。西暦で1月1日となれば、マヤ暦でも同時に新年を迎えているというのは西暦を使っている私たちの錯覚に過ぎないのだ。

 

 

本日(2015年1月19日)のマヤ暦は

ツォルキン(260日)暦

9青い嵐(Cauac/カワク・Kawoq/カウーク)

ハアブ暦(365日)暦

12ムアン【1年を18月に分けた(20日/月×18月+5日)14番目の月の12日目】

 である。

 

そして、今年のマヤ暦の元旦は、西暦2015年4月2日(木)となるのである。

 

従って、マヤ暦で読み解く限り、3月までは旧年のマヤ暦の影響を受け、4月以降に新年のマヤ暦の影響を受けることとなる。

 

マヤ暦では時は直線的に経過するのではなく、螺旋状に経過するものだと考えられている。従って過去を読み解くことにより未来を読み解くことも可能となると考えられている。

 

この考えに従って過去を読み解いて行くと、下の期間のマヤ暦と西暦がシンクロしていることが分かる。

 

西暦2014年(平成26年)3月1日から西暦2016年(平成28年)2月28日

 

西暦1972年(昭和47年)3月1日から西暦1974年(昭和49年)2月28日

 

西暦1888年(明治21年)3月1日から西暦1890年(明治23年)2月28日

 

 

つまり、昨年から来年初めまでの世界の動きが、昭和48年前後と明治22年前後の世界の動きと相似した形になるのである。

 

では、それぞれの期間がどのような時代であったのかを振り返ってみる。

 

 

西暦1888年(明治21年)から西暦1890年(明治23年) 

1888年(明治21年)

3月11日   米国東海岸大寒波(死者四百名)(Great Blizzard of 1888)

6月  5日   ラプラタ川流域で中地震(Rio de la Plata Earthquake 1888)

7月15日   磐梯山が千年ぶりに噴火山体崩壊(発生した泥流などにより  

                461名が犠牲)

 

1889年(明治22年)

1月16日  オーストラリア最高気温記録
    (摂氏53度、クイーンズランドクロンカリー英語版

1月30日 オーストリア=ハンガリー帝国ルドルフ皇太子が謎の情死 

    (マイヤーリンク事件)

 2月11日 大日本帝国憲法皇室典範衆議院議員選挙法公布

       森有礼文相が刺殺される

 5月31日 米国ペンシルベニア州ジョーンズタウン英語版で大洪水

     (死者2209名、ジョーンズタウンの大洪水英語版参照)

 6月 6日 米国シアトルで大火

    (25街区壊滅、シアトルの大火英語版参照)

 8月26日  十津川大水害など、紀伊半島南部で大雨被害

10月18日 大隈重信外相が爆裂弾による襲撃を受け右脚を失う

10月25日   黒田内閣総辞職(三條暫定内閣

 

1890年(明治23年)

4月16日 三宅島でM6.8クラスの地震発生

9月16日 オスマン帝国軍艦が和歌山県串本沖で遭難

    (エルトゥールル号遭難事件)

12月29日 米国でウンデット・ニーの虐殺

 

1893年恐慌 - Wikipedia

 

 

西暦1972年(昭和47年)から西暦1974年(昭和49年)

1972年(昭和47年)

1月  7日   イベリア航空機がイビザ島で墜落、104名死亡。

1月26日 JATユーゴスラビア航空機爆破事件

1月30日 北アイルランドロンドンデリーカトリック系住民のデモと

      イギリス部隊が衝突。市民13人死亡(血の日曜日事件)。

2月19日 連合赤軍によるあさま山荘事件2月28日に全員逮捕。

3月24日 北アイルランド問題

      イギリス政府が北アイルランドの直轄統治を宣言。

5月  5日 アリタリア航空DC-8機、パレルモ西で衝突事故、115名死亡。

5月30日 イスラエルテルアビブ空港日本赤軍乱射事件。24人死亡、

      100人負傷。

6月14日 日本航空ニューデリー墜落事故

6月15日 キャセイ・パシフィック航空700Z便爆破事件

6月17日 ウォーターゲート事件発覚。

      佐藤栄作首相退陣表明。新聞記者を全員退去させ“テレビ主

                導”となった前代未聞の退陣会見に。

6月27日 イギリス、ポンド変動相場制移行。

9月  5日  ミュンヘンオリンピック事件。オリンピック選手村でゲリラが

       イスラエル人選手らを殺害。

10月2日  桜島が噴火。

11月2日  北海道奈井江町の石狩炭鉱でガス爆発による落盤事故があり、

       作業員31人全員が生埋めにより死亡。

11月6日  国鉄北陸トンネル内で列車火災

    (北陸トンネル列車火災事故

       羽田空港福岡空港行きの日航機がハイジャックされる

              (日本航空351便ハイジャック事件)。

11月28日   日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故

12月4日   八丈島東方沖地震が発生。

12月18日   アメリカ軍、北爆再開(ベトナム戦争

12月22日 ニカラグアM6.25の地震マナグアを中心に死者1万2千人

                  を超える。

 

1973年(昭和48年)

  2月14日 為替レート・1ドル=308固定相場制から、変動相場制

                   移行

  7月11日 リオデジャネイロパリ行きのヴァリグ・ブラジル航空820便

                   ボーイング707型機でパリのオルリー空港への着陸進入中火災

                   が発生、不時着を試みたが滑走路端5キロの地点に墜落し乗員

                   乗客135名中124名が死亡。

                   →ヴァリグ・ブラジル航空820便墜落事故参照

  7月20日 日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件発生。

10月17日    第四次中東戦争オイルショック・モノ不足

10月21日    滋賀銀行女子行員9億円詐取事件

10月23日    江崎玲於奈ノーベル物理学賞受賞が決定する。

12月20日    バスク分離主義者が政府によって処刑されたことに対する

                   報復として、マドリードで首相のルイス・カレロ・ブランコ

                   を暗殺。

 

1974年(昭和49年)

1月15日  西沙諸島の戦い

1月31日  シンガポール日本赤軍ロイヤル・ダッチ・シェルの石油タ

       ンク爆破

4月22日  インドネシアバリ島パンアメリカン航空ボーイング707

                  機が墜落。日本人は29名を含む107名全員が死亡

4月25日  カーネーション革命ポルトガルの独裁体制が崩壊。

4月26日     山形県大蔵村の松山(標高173m)で大規模な土砂崩れが発

                  生。全壊18戸、死者17名。

5月9日       伊豆半島沖地震が発生。30人が死亡、102人が負傷。

8月末      熊本県阿蘇山1965年以来9年ぶりの噴火

9月13日    日本赤軍オランダハーグにあるフランス大使館を占拠

               (ハーグ事件

11月9日    東京湾LPGタンカー第十雄洋丸とリベリア船籍の貨物船が衝

                 突しタンカーが爆発炎上、両船舶の乗員33人が死亡(第十雄洋

                 丸事件)

 

 

 そして、昨年【西暦2014年(平成26年)】の出来事を振り返ってみる。

2月13日  インドネシア東ジャワ州ケルート山が噴火

2月21日  ウクライナ騒乱

       中華人民共和国雲南省昆明市昆明駅前で無差別殺傷事件発

                    生、翌2日までに少なくとも29人が死亡、140人以上が負傷。

3月 8日   マレーシア航空の旅客機370便(乗客乗員239人)がタイ湾

                   トーチュー島付近で消息を絶つ(マレーシア航空370便

3月18日      ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国の編入を表明

                (ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入

4月  1日     チリ沖を震源とする、マグニチュード8.2の地震が発生

               (イキケ地震 (2014年)

4月16日  大韓民国全羅南道珍島沖で、仁川港から済州島へ向け航行して

                  いたクルーズ旅客船「セウォル号」が沈没、死者294人を出す

                  海難事故が発生(2014年韓国フェリー転覆事故)。

5月  2日     アフガニスタン北東部バダフシャーン州アルゴ地区で大規模の

                  地滑りが発生、多数の死者発生(アフガニスタン地滑り災害

5月13日    トルコマニサ県ソマの炭鉱で爆発事故、301人死亡

               (ソマ炭鉱爆発事故

5月14日    ベトナム南沙諸島での石油採掘を巡り中国と衝突                

5月22日    タイ軍がクーデターを宣言。憲法を停止。

                 タイ軍事クーデター (2014年)参照

6月  8日    同日深夜、パキスタンカラチジンナー国際空港ターリバ

                  ーンが襲撃、ターリバーン戦闘員10人を含む29人が死亡

7月  8日    イスラエル軍は本格的なガザ攻撃を開始した

                 (ガザ侵攻 (2014年))

7月17日    ウクライナドネツク近郊で、オランダスキポール国際空港

                 発マレーシアクアラルンプール国際空港マレーシア航空

                 ーイング777撃墜され、乗客乗員298名全員死亡(マレーシア

                 航空17便)。

7月24日    アルジェリア航空5017便墜落事故

8月  8日    西アフリカエボラ出血熱流行

8月27日    1945年以来69年ぶりにデング熱の国内感染が発覚する。

9月27日    日本の長野県岐阜県県境に位置する御嶽山で7年ぶりの

                 噴火 (2014年の御嶽山噴火)。登山客ら50人以上が死亡し

                た。

12月28日   インドネシアジャワ島東部、スラバヤにあるジュアンダ国際

                  空港からシンガポールチャンギ国際空港に向かって飛行して

                  いた航空便が現地時間(UTC+7)、2014年12月28日の朝5時35分

                  に出発した後、現地時間6時17分に消息を絶った(インドネシ

                  ア・エアアジア8501便

 

 

これらを見比べると共通していることが多いことが分かるだろう。

  

火山活動の共通事項

1888年(明治21年)7月15日

磐梯山が千年ぶりに噴火山体崩壊(発生した泥流などにより461名が犠牲)

 

1972年(昭和47年)10月2日

桜島が噴火。

 

1974年(昭和49年)8月末

熊本県阿蘇山1965年以来9年ぶりの噴火

 

2014年(平成26年)

9月27日

長野県岐阜県県境に位置する御嶽山で7年ぶりの噴火2014年の御嶽山噴火)。登山客ら50人以上が死亡した。

11月25日

熊本県阿蘇山で21年ぶりにマグマ噴火が起こった。その後も噴火の活発化が続いている。

 

2015年(平成27年)

 

2013年8月18日と同規模噴火の可能性 桜島の解説情報第004号発表 - 西日本新聞

 

 

航空機爆破事故の共通事項

1972年(昭和47年)

1月26日 JATユーゴスラビア航空機爆破事件

6月15日 キャセイ・パシフィック航空700Z便爆破事件

 

2014年(平成26年)

3月 8日   マレーシア航空の旅客機370便(乗客乗員239人)がタイ湾

                トーチュー島付近で消息を絶つ(マレーシア航空370便

7月17日    ウクライナドネツク近郊で、オランダスキポール国際空港

                 発マレーシアクアラルンプール国際空港マレーシア航空

                 ーイング777撃墜され、乗客乗員298名全員死亡(マレーシア

                 航空17便)。

 

 

航空機事故の共通事項

1972年(昭和47年)

6月14日 日本航空ニューデリー墜落事故

 

1974年(昭和49年)

4月22日  インドネシアバリ島パンアメリカン航空ボーイング707

                  機が墜落。日本人は29名を含む107名全員が死亡

 

2014年(平成26年)

12月28日   インドネシアジャワ島東部、スラバヤにあるジュアンダ国際

                  空港からシンガポールチャンギ国際空港に向かって飛行して

                  いた航空便が現地時間(UTC+7)、2014年12月28日の朝5時35分

                  に出発した後、現地時間6時17分に消息を絶った(インドネシ

                  ア・エアアジア8501便

 

 

国際関係の共通事項

1972年(昭和47年)

3月24日 北アイルランド問題

      イギリス政府が北アイルランドの直轄統治を宣言。

 

1973年(昭和48年)

12月20日    バスク分離主義者が政府によって処刑されたことに対する

                   報復として、マドリードで首相のルイス・カレロ・ブランコ

                   を暗殺。

 

1974年(昭和49年)

1月15日  西沙諸島の戦い

4月25日  カーネーション革命ポルトガルの独裁体制が崩壊。

 

2014年(平成26年)

2月21日   ウクライナ騒乱 

      中華人民共和国雲南省昆明市昆明駅前で無差別殺傷事件発

                    生、翌2日までに少なくとも29人が死亡、140人以上が負傷。

3月18日      ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国の編入を表明

                (ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入

5月14日     ベトナム南沙諸島での石油採掘を巡り中国と衝突

5月22日     タイ軍がクーデターを宣言。憲法を停止。

                  タイ軍事クーデター (2014年)参照

 

 

私自身、共通事項を抽出していてその相似性に驚いている。

 

では、実際に2015年の世の中がどのような世の中になるのかを、次回に記して行きたいと思う。

 

 

【マヤ暦占い】 インターネット上にあふれるマヤ暦占いの選び方

 

【改訂版】マヤ暦を使った本場グアテマラの占いを紹介する【KINの算定】 - まどゐ。

 

【マヤ暦占い】超簡単なマヤ暦占いの方法をお教えします - まどゐ。

 

 

マヤ暦占いを検索サイトで検索すると無料から有料まで様々なサイトが表示されます。無料のサイトでしたら占いお遊びだとスルーできますが、有料だとその信頼性やら、どのサイトを選択すれば良いのかを迷うことと思います。

 

そこで、今回はマヤ暦占いの信頼性をはかる一つの選択基準を解説して行きます。 

 

 

私たちが日頃使っている暦は西暦です。

 

当たり前ですが、マヤ暦占いは西暦ではなくマヤ暦に基づいた占いです。従って、西暦をマヤ暦に正確に変換することが占いの信頼性を担保する最低の条件となります。

  

 

そこで、西暦を正確なマヤ暦(ツォルキン暦)に変換するツールをここで紹介します。

 

 


西暦からマヤ暦変換 - 高精度計算サイト

(グレゴリオ暦、AD,GMT(584283)選択)

 

 


Los Nahuales | Navegador de Fechas: 7 No'j - Sábado 17/01/2015 | losnahuales.org

 

 

マヤ暦のしくみと換算 - 数学自由研究

グレゴリオ暦の欄にADを選択して西暦の日付を入力すればマヤ暦260日暦が自動に表示されます。これが求めているマヤ暦です。

 

 

 

それぞれのツールを使って今日の日付(西暦2015年1月18日)をマヤ暦に変換すると、8白い鏡(Etz'nab/エツナブ・Tijax/ティハッシュ)と同一の結果が算出されます。

 

今日のマヤ暦(ツォルキン暦)は8白い鏡(Etz'nab/エツナブ・Tijax/ティハッシュ)です。

 

これ以外のマヤ暦など存在しません。

 

 

そこで、インターネット上のマヤ暦占いを行うときには、まず必ず自分の誕生日を上で紹介したツールでマヤ暦(ツォルキン暦)に変換してみて下さい。

 

そして、インターネットのマヤ暦の結果と照らし合わせてみて下さい。

 

誕生日のマヤ暦(ツォルキン暦)が一致したならば、少なくともその占い内容は正確なマヤ暦から導き出されていることが証明されます。

 

インターネット上のマヤ暦占いは、マヤ暦が日本人に馴染みが薄いことをいいことに玉石混淆のカオス状態です。

 

無料ならばお遊びだと笑ってスルー出来ますが、占いの方法を開示していない、いいかげんな有料の占いサイトまでもが蔓延っています。

 

変なマヤ暦占いと縁が出来ない為にも上の方法を一つの判断方法とすることを提案させていただきます。